高緯(こうい)は北朝時代の北斉第五代皇帝である。
父は武成帝高湛、母は胡皇后であり、高氏皇族の嫡流として生まれた。
後世には後主とも呼ばれ、一般には北斉を滅亡へ導いた暗君として知られている。
実際に高緯の治世には和士開・陸令萱・穆提婆・高阿那肱ら側近が権勢を振るい、
斛律光や蘭陵王高長恭といった国家を支えた名将たちが失われた結果、
北周による征服を許すことになった。
しかし高緯一人の失政だけで北斉が滅んだわけではない。
彼が即位した時点で北斉は皇族同士の権力闘争、後宮政治、側近政治という深刻な問題を抱えており、
高緯の治世はそれらの矛盾が一気に噴き出した時代でもあった。
北斉皇室に生まれた嫡出皇子
高緯が生まれた頃の北斉は、建国者である文宣帝高洋の時代を経て北朝有数の強国となっていた。
祖先である高歓は東魏政権を事実上支配した実力者であり、
その子孫たちは北中国の広大な地域を統治していた。
しかし一方で高氏皇族には暴力的な気風が強く、皇位継承のたびに流血事件が繰り返されていた。
高緯の父である高湛もまた、そのような権力闘争を勝ち抜いて皇帝となった人物である。
高湛は側近や寵臣を重用する傾向が強く、
後の北斉政治に大きな影響を与える人物たちもこの時代に台頭している。
高緯はその嫡出長男として育てられ、早くから皇位継承者として扱われていた。
幼帝として即位
565年、高湛はまだ幼い高緯へ皇位を譲った。
これは高湛が完全に引退したことを意味するものではなく、
自らは太上皇として権力を保持し続けていた。
実際の政治は依然として高湛とその側近たちによって運営されており、
幼い高緯が独自の政治を行う余地はほとんどなかった。
しかしこの時期に形成された人間関係は後の治世を決定づけることになる。
その中心にいたのが和士開であった。
和士開と側近政治
和士開はもともと高湛に仕えた近臣であり、
巧みな弁舌と人心掌握術によって主君の信頼を獲得した人物である。
後世の史書では典型的な奸臣として描かれることが多いが、
少なくとも宮廷内部で極めて有能な政治家であったことは否定できない。
和士開は高緯にも接近し、若い皇帝の信頼を得ることに成功した。
やがて高緯は有力貴族や功臣たちよりも、自分に近い側近たちを重視するようになる。
これは北斉政治に大きな変化をもたらした。
従来の北斉は軍事貴族たちが国家を支える体制であったが、
高緯の時代になると近臣や後宮関係者が政治へ深く介入するようになったのである。
親政開始と文林館
568年、高湛が死去すると高緯は親政を開始した。
それまで実権を握っていた太上皇がいなくなったことで、
名実ともに北斉の最高権力者となったのである。
当時の高緯はまだ若年であったが、文化事業には一定の関心を示し、
文林館を設立して学者や文人を集めている。
文林館は北斉文化史の上では一定の意義を持つ施設であり、
高緯が完全に文化へ無関心だったわけではないことを示している。
しかし国家運営は文化事業だけでは成り立たない。
当時の北斉は西方の北周と長年対立しており、常に軍事的緊張状態に置かれていた。
さらに国内では皇族や貴族の権力争いも続いていたため、
本来ならば強力な政治指導力が必要とされる時代だった。
しかし高緯は政務よりも遊興や後宮生活に関心を向けるようになり、
その結果として側近たちの発言力がますます強くなっていった。
陸令萱と穆提婆の台頭
高緯政権を語る上で和士開と並んで重要なのが陸令萱である。
陸令萱は高緯の乳母として宮廷で大きな影響力を持った女性であり、
皇帝から深い信頼を受けていた。
さらにその息子である穆提婆も出世を重ね、政治の中枢へ入り込む。
後に高阿那肱も加わり、高緯の周囲には近臣集団が形成された。
彼らは皇帝の信任を背景に権力を拡大していくが、
一方で伝統的な軍事貴族や功臣たちとの対立も深めていった。
後世の史書は彼らを北斉滅亡の元凶として描いているが、
少なくとも国家の重要決定に大きな影響を与える存在であったことは間違いない。
北斉を支えた名将・斛律光
高緯が即位した頃の北斉には依然として優れた将軍たちが存在していた。
その代表が斛律光である。
斛律光は北斉屈指の名将として知られ、
長年にわたって北周との国境防衛を担っていた。
北周側でもその名声は高く、「斛律光がいる限り北斉攻略は難しい」とまで言われていたという。
実際、彼は幾度も北周軍を撃退し、北斉の軍事的優位を支え続けた。
しかし巨大な名声と軍事力を持つ人物は、ときに皇帝や側近たちから警戒される存在でもあった。
和士開ら近臣たちは斛律光を危険視し、その影響力を削ごうと考えるようになる。
斛律光粛清
北周は北斉攻略の障害となる斛律光を排除するため離間策を用いたと伝えられる。
これに北斉宮廷内部の権力闘争が重なり、斛律光への疑念は次第に強まっていった。
やがて高緯は側近たちの讒言を信じ、572年に斛律光を処刑する。
これは北斉にとって取り返しのつかない失策だった。
北斉軍の中核を担っていた将軍を自ら失ったのである。
北周ではこの報を聞いて大いに喜んだと伝えられ、
後世の史家もこの事件を北斉衰退の大きな転換点として位置付けている。
蘭陵王高長恭の最期
斛律光の死に続いて起こったのが蘭陵王 高長恭の悲劇である。
高長恭は高歓の孫にあたり、北斉を代表する名将として知られていた。
勇猛さだけでなく容姿にも優れていたと伝えられ、その人気は絶大だった。
特に邙山の戦いでの活躍によって軍や民衆から強い支持を集めていた。
しかしその人気こそが危険視される原因となる。
高緯や側近たちは、高長恭が反乱を起こす可能性を疑うようになったのである。
573年、高緯は高長恭に毒酒を送り、自害を命じた。
高長恭は命令に従って自ら命を絶った。
こうして北斉は再び有能な将軍を失い、軍事力は大きく低下した。
斛律光と高長恭という二人の名将を失ったことは、
後に北周が北斉を征服する上で極めて大きな意味を持つことになる。
北周武帝の決意
斛律光と蘭陵王高長恭という二人の名将を失ったことで、北斉の軍事力は大きく低下した。
それまで北周にとって北斉は容易に攻め滅ぼせる相手ではなかったが、情勢は徐々に変化していく。
一方の北周では武帝宇文邕が着実に国力を整えていた。
宇文邕は北周建国以来の課題であった権臣宇文護を排除して親政を確立し、
軍制改革や財政整備を進めていた。
さらに突厥との関係改善にも成功し、北斉との決戦に備えていたのである。
宇文邕は高緯政権の混乱を注意深く観察していた。
功臣が讒言によって排除され、皇帝が側近たちに左右されている状況を見て、
ついに北斉征服を決意したとされる。
こうして575年、北周軍による本格的な侵攻が始まった。
平陽の戦いと馮淑妃
北周軍の攻勢を受けた北斉は防戦に追われたが、
この戦争で最も有名な逸話が平陽をめぐる戦いである。
北周軍は平陽を包囲し、北斉側は奪還を試みた。
当初、高緯軍は一定の戦果を挙げ、あと一歩で城を取り戻せる状況にまで迫ったという。
しかし『北史』や『資治通鑑』には、この時の高緯が寵愛する馮淑妃とともに戦況を見物しようとし、攻撃を中断させたと記されている。
さらに馮淑妃の化粧が終わるのを待っていたため機会を逸し、
その間に北周軍が体勢を立て直したというのである。
この話は後世において高緯の暗愚を象徴する逸話として語られることが多い。
ただし史書は滅亡した王朝の君主を過度に愚かに描く傾向もあるため、
そのまま事実と断定することには慎重であるべきだろう。
しかし少なくとも高緯が軍事指導者として優れた能力を発揮できなかったことは確かであり、
戦局は次第に北周有利へ傾いていった。
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無愁天子
高緯には「無愁天子」という異名がある。
これは彼が自ら琵琶を弾き、「無愁曲」を作ったことに由来するとされる。
近侍たちはこれに唱和し、宮廷は歌や遊興に満ちていたという。
国家の危機が迫る中でも憂いのない様子から、
民間では無愁天子と呼ばれるようになったと伝えられる。
もちろんこれは敵対的な史料による誇張も含まれているだろう。
しかし高緯が遊興を好み、政治や軍事を側近任せにする傾向があったことは
多くの史料に共通して見える。
また、陳が北斉領へ侵攻した際に臣下から
「たとえ黄河以南を失っても、なお亀茲国ほどの国力は残ります。一生遊び暮らすには十分でしょう」と言われ、高緯がそれに納得したという逸話も伝えられている。
この話も事実そのままかは別として、
高緯政権が危機感を欠いていたという印象を後世へ与えることになった。
晋陽陥落と高延宗の抵抗
576年、北周武帝宇文邕は再び大軍を率いて北斉へ侵攻した。
北周軍の攻勢は激しく、やがて高氏政権発祥の地であり、
北斉西部防衛の要でもあった晋陽が危機に陥る。
晋陽は高歓が勢力を築いた本拠地であり、
東魏・北斉時代を通じて軍事と政治の両面で重要な役割を担ってきた都市であった。
そのため晋陽を失うことは、一地方都市の喪失ではなく、
北斉の支配体制そのものが崩壊することを意味していた。
しかし高緯は晋陽に留まって指揮を執らず、安徳王 高延宗へ防衛を任せて退却した。
高延宗は神武帝高歓の孫にあたり、高氏皇族の中でも武勇で知られた人物である。
北周軍に包囲された晋陽では動揺が広がったが、高延宗は徹底抗戦を主張し、
自ら前線に立って兵士たちを鼓舞した。
高延宗の奮戦に将兵たちは強く心を動かされ、ついには彼を新たな君主として擁立した。
高延宗もこれを受け入れて皇帝を称し、北周軍との決戦に臨む。
しかし北周軍との戦力差は大きく、晋陽はついに陥落した。
高延宗は捕虜となり、ここに北斉最後の有力な抵抗拠点も失われることになる。
晋陽の陥落は北斉滅亡を決定づけた出来事であり、
高氏政権はもはや再起不能の状態へ追い込まれたのである。
高恒への譲位
577年、北周軍の侵攻によって北斉の滅亡が目前に迫る中、
高緯は幼い長男の高恒へ皇位を譲った。高恒は後に幼主と呼ばれる。
しかし北周軍の攻勢を前に情勢はすでに覆し難く、
この譲位によって状況が改善されることはなかった。
実権は依然として高緯が握っており、
国家を立て直すだけの時間も余力も残されていなかったのである。
北周軍は各地で勝利を重ね、北斉領内は急速に崩壊していった。
高緯は皇帝を退いた後も逃亡を続けたが、もはや情勢を逆転させる術は存在しなかった。
北斉滅亡
577年3月、高緯と高恒は青州で北周軍に捕らえられた。これによって北斉は正式に滅亡した。
550年に建国された北斉はわずか二十数年で歴史の幕を閉じたのである。
高歓以来の高氏政権は北中国に強大な勢力を築いたが、皇族同士の対立、
側近政治、後宮政治、そして軍事指導層の崩壊によって自ら弱体化していった。
高緯はその最後の皇帝として敗北の責任を負うことになった。
北周での最期
北周へ連行された高緯は温公に封じられた。
しかし同年、かつての側近であった穆提婆らと共謀して反乱を企てた疑いをかけられる。
真相については不明な点も多いが、宇文邕は高緯を危険視したと考えられている。
結果として高緯は処刑された。享年二十二。
父高湛から皇位を譲られてわずか十余年で国家を失い、自らも命を落としたのである。
高緯の人物像と逸話
高緯を象徴する逸話としては、異母兄弟の高綽との会話も有名である。
高緯が「任地にいた頃、何が一番面白かったか」と尋ねると、
高綽は「蠍を大量に入れた穴へ人を落として苦しむ様子を見ることです」と答えたという。
高緯は驚くどころか、自らも同じことを試した上で
「なぜこんな面白いことを今まで教えなかったのか」と言ったと伝えられる。
もちろん史書による誇張の可能性はあるが、
後世の人々が高緯をどのような君主として認識していたかを示す逸話である。
また無愁曲や馮淑妃との逸話も同様に、
高緯を「亡国の暗君」として描く象徴的な物語として広く知られている。
評価
高緯は中国史上でも有名な暗君の一人として扱われることが多い。
斛律光を処刑し、蘭陵王高長恭を死へ追いやり、和士開や穆提婆らを重用した結果、
国家を滅亡へ導いたという評価である。
しかし一方で、北斉の衰退は高緯一人の責任ではない。
高氏皇族の内紛、武成帝高湛時代から続く側近政治、軍事貴族と宮廷勢力の対立、
そして北周武帝宇文邕による国家改革など、多くの要因が重なっていた。
高緯はそうした問題を解決できなかった皇帝ではあったが、
すべての原因を一人に帰するのは単純化し過ぎであろう。
まとめ
高緯は武成帝高湛の嫡出長男として生まれ、幼くして北斉皇帝となった。
親政開始後は和士開や穆提婆、高阿那肱ら近臣を重用し、
斛律光や蘭陵王高長恭といった国家を支えた名将たちを失った。
その結果、北周武帝宇文邕による侵攻を防ぐことができず、晋陽陥落、高延宗の敗北、
高恒への譲位を経て577年に北斉は滅亡した。
後世には無愁天子と呼ばれ、中国史を代表する暗君の一人として語られている。
しかしその滅亡は高緯個人だけで説明できるものではなく、
北斉建国以来の構造的問題が一気に噴出した結果でもあった。
高緯の生涯は、強国が内部から崩壊していく過程を象徴する歴史として、現在も語り継がれている。
史書・参考文献
・『北斉書』巻八 後主紀
・『北斉書』巻二十二 斛律光伝
・『北斉書』巻十一 蘭陵王伝
・『北史』巻八 斉後主紀
・『北史』巻五十二 斛律光伝
・『資治通鑑』巻一七〇~巻一七三
・『周書』武帝紀
・『隋書』経籍志
・宮崎市定『中国史』
・川本芳昭『北朝史の研究』
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