【南朝斉】蕭宝巻(東昏侯)|「悪童天子」「殺戮王」と呼ばれた廃帝の実像

蕭宝巻・東昏侯(南朝斉) 031.皇帝

蕭宝巻(しょう ほうかん、483年-501年)は、南朝斉の第6代皇帝である。
字は智蔵。本名は明賢で、父の明帝 蕭鸞が政権を握った後に宝巻と改名した。

498年、明帝の死によって15歳で即位したが、
その治世では先帝から政権を託された重臣が相次いで排除され、
始安王蕭遙光、陳顕達、崔慧景らの反乱が続発した。
宮廷では茹法珍・梅虫児ら近臣が権力を持ち、
蕭宝巻自身も宮殿や苑囿の造営、外出や遊戯に熱中したと史書は伝える。

寵愛した潘玉児との「歩歩生蓮華」や市場遊びも有名だが、
蕭宝巻の治世でより重要なのは、皇帝を支える重臣や軍人を自ら排除し続けた結果、
反乱を鎮圧するたびに政権の基盤が弱くなっていったことである。

ついには崔慧景の乱を鎮圧した蕭懿まで殺害し、その弟蕭衍の挙兵を招いた。
501年、蕭衍軍が建康へ迫るなか、蕭宝巻は宮中で王珍国・張稷らによって殺害される。

死後に「東昏侯」へ落とされた蕭宝巻は、後世に南朝を代表する暴君として記憶された。
しかし、その実像を見るには奇行や逸話だけではなく、
わずか3年余りで南斉の中央政権が崩れていった過程そのものを見る必要がある。

明帝の皇太子から15歳の皇帝へ

明帝の第二子として生まれる

蕭宝巻は483年、のちの明帝 蕭鸞と劉恵端の子として生まれた。

明帝 蕭鸞の長男には蕭宝義がいたが、障害があったため皇位継承者とはならず、
494年に明帝 蕭鸞が即位すると第二子の蕭宝巻が皇太子に立てられた。

蕭宝巻について『南斉書』は、
幼少時から口数が少なく、人と接することを好まなかったと記している。
皇太子となってからも東宮の臣下と親しく交わらず、
講義の席でもほとんど言葉を発しなかったという。

一方で外出や遊戯を好み、身軽な格好で走り回ることを楽しんだとも記される。

ただし、後に廃された皇帝について史書が幼少期から暗君の兆候を探すことは珍しくない。
即位以前の逸話だけから、後の暴政が最初から決まっていたと見ることはできない。

父の明帝 蕭鸞は、簒奪によって皇位を得た後、
高帝 蕭道成武帝 蕭賾系の皇族を大量に粛清して自らの皇統を固めていた。

蕭宝巻が継承したのは、表面的には皇帝権力が強化されながら、
その一方で王朝を支える宗室が大幅に減少した政権だった。

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明帝の死と即位

永泰元年(498年)7月、明帝 蕭鸞が死去すると蕭宝巻が即位した。15歳だった。

『南史』には、明帝 蕭鸞の葬儀で太中大夫の羊闡が激しく慟哭して帽子を落とし、
禿頭があらわになったのを見ると、蕭宝巻が大笑いしたという逸話が残る。

この話の真偽を確定することはできないが、後世の史書が蕭宝巻を、
父帝の葬儀という厳粛な場でも礼を守れない人物として描いていたことは分かる。

ただし、即位直後から政治が完全に停止していたわけではない。
北魏との戦いで死亡した雍州の将士の家族に租税・徭役の免除を与え、人材登用の見直しを命じ、
同年10月には法令の整理を命じた。
翌499年には大赦を行って永元と改元し、
官僚の考課や高齢の父母・祖父母を持つ一定の官人への給付なども命じている。

問題は、こうした通常の行政が続く一方で、
皇帝と政権中枢の関係が急速に壊れていったことにあった。

明帝が残した重臣体制の崩壊

徐孝嗣・江祏らと皇帝の対立

明帝 蕭鸞は若い蕭宝巻を補佐するため、
徐孝嗣、江祏、江祀、蕭坦之、劉暄、沈文季ら重臣に後事を託した。
しかし蕭宝巻は、重臣たちと直接向き合って政務を処理することを好まなかった。

一方、江祏らは若い皇帝の行動を抑えようとし、皇帝との距離は次第に広がった。
江祏らの側でも蕭宝巻を廃して別の皇族を擁立する動きが生じ、
始安王蕭遙光の名が後継候補として浮上する。

計画は露見し、499年に江祏・江祀が殺害された。
蕭坦之も処刑され、明帝 蕭鸞が残した補佐体制は急速に崩れていった。
その後、徐孝嗣と沈文季も殺害される。

こうして蕭宝巻の周囲から、先帝以来の経験を持つ重臣が相次いで姿を消した。
代わって皇帝に接近したのが茹法珍、梅虫児ら近臣だった。
彼らは宮廷内部で強い影響力を持つようになり、
官僚機構と皇帝をつなぐ役割まで左右するようになった。

始安王蕭遙光の乱

江祏らの事件に続いて、始安王蕭遙光が挙兵した。

蕭遙光は明帝 蕭鸞の甥で、明帝 蕭鸞時代には皇族粛清にも関与した有力宗室だった。
ところが蕭宝巻の即位後、自らも処刑されることを恐れるようになる。

499年、蕭遙光は東府で兵を挙げた。
しかし朝廷軍の攻撃を受けて敗れ、蕭遙光は殺害された。

明帝 蕭鸞の治世には皇帝側に立って政敵を排除していた人物が、
次の皇帝のもとでは反乱者となったことになる。

蕭遙光の乱は鎮圧されたものの、その後も反乱は終わらなかった。
蕭宝巻政権では、重臣を警戒して排除すると別の有力者が危機感を抱き、
反乱を起こすという循環が続いていく。

反乱が連鎖する南斉

陳顕達・裴叔業・崔慧景

499年、太尉陳顕達が尋陽で挙兵した。

陳顕達は南斉建国以来の宿将であり、北魏との戦争でも軍を率った人物だったが、
蕭宝巻政権から疑われることを恐れて反乱に踏み切った。
軍を率いて建康方面へ進んだものの敗北し、殺害された。

翌500年には寿陽を守っていた裴叔業が、朝廷からの粛清を恐れて北魏へ降伏する。
これによって南朝斉は重要拠点の寿陽を失った。

さらに平西将軍崔慧景が広陵で挙兵し、建康へ進撃した。
崔慧景軍は建康周辺まで迫り、一時は宮城が重大な危機に陥る。
蕭宝巻の弟である江夏王蕭宝玄も崔慧景に加わった。
しかし崔慧景軍は最終的に敗れ、崔慧景も逃亡中に殺害された。蕭宝玄も後に処刑される。

このほか張欣泰らによる政変計画も起こり、
蕭宝巻の治世では反乱と粛清がほとんど途切れることなく続いた。
個々の反乱にはそれぞれ異なる事情があったが、共通していたのは、
朝廷の有力者が「次に自分が殺されるかもしれない」と考える状況が生まれていたことである。

閉ざされた宮廷と蕭宝巻の逸話

外出のために民衆を追い払う

蕭宝巻は臣下との接触を嫌う一方、宮外へ出ることを好んだ

外出の日時は事前に知らせず、突然出発することがあったため、
担当者はいつでも対応できるよう準備しなければならなかった。

皇帝が通る際には人々を道路から追い払い、逃げ遅れた者が被害を受けたと史書は記している。
蕭宝巻の残虐逸話として「通行人を馬で踏ませた」「妊婦まで犠牲になった」
といった話が伝えられるのも、この外出をめぐる記述と結びついている。

これらの細部には暗君伝説として誇張された可能性を考える必要があるが、
皇帝の遊行によって市民生活が大きく制約されたこと自体は史書が繰り返し批判している。

潘玉児と「歩歩生蓮華」

蕭宝巻の寵愛を受けた女性として最も有名なのが潘玉児である。

『南史』には、蕭宝巻が金で蓮華を作って地面に貼り、
その上を潘妃に歩かせ、「此れ歩歩蓮華を生ずるなり」と言ったことが記されている。
これが後世に「歩歩生蓮」「金蓮歩」と呼ばれる逸話となった。

ただし、史書には潘玉児の足が小さかったとも、裸足で歩いたとも書かれていない。
後世の纏足文化と結びつけて説明するのは避ける必要がある。

黄金の蓮華の逸話が示しているのは、潘玉児の身体的特徴ではなく、
蕭宝巻が寵妃のために豪華な装飾を施したという宮廷生活の一面である。

↓↓蕭宝巻の寵妃・潘玉児についての個別記事は、こちら

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潘玉児との「市場ごっこ」

蕭宝巻と潘玉児には、宮苑で市場を再現して遊んだという逸話も残る。

苑内に店を並べ、潘玉児を「市令」、蕭宝巻自身を「市吏録事」とし、
宮人や宦官らに商人役をさせて売買を行わせた。
争いが起きると潘玉児が裁き、蕭宝巻に落ち度があれば杖で打つことさえあったという。

さらに運河や堰を作って蕭宝巻が舟を引き、肉を扱い、潘玉児が酒を売ったという歌まで残された。
皇帝と寵妃が庶民の市場を宮苑内に再現して役割を演じるという遊びであり、
蕭宝巻の宮廷が政務の場であると同時に巨大な遊戯空間となっていたことを示す逸話である。

蔣侯神と明帝の形代

蕭宝巻は巫覡や祈禱にも傾倒したと伝えられる。

蔣侯神を宮中へ迎えて「霊帝」と号し、皇帝に準じるような待遇を与えた。
朱光尚らが神意を利用して皇帝に影響を与えることもあったという。

『南史』には、先帝である明帝 蕭鸞が怒っているという託宣を聞いた蕭宝巻が、
父の形代を作らせて首を斬り、その首を苑門に掲げたという異様な逸話も残されている。

史書に記された怪異・巫覡関係の記事はそのまま事実認定できるものばかりではないが、
蕭宝巻の宮廷で神託や祈禱が大きな位置を占めていたという暴君像を形成する重要な材料となった。

宮殿・苑囿の造営

蕭宝巻は宮殿や苑囿の造営にも力を注いだ。

閲武堂を芳楽苑へ改め、樹木を移植し、石や建物を華美に装飾した。
宮廷内には遊興のための施設が次々と設けられた。
造営のために民間から物資を集め、富裕層へ金を供出させたことも史書に記されている。

ただし、こうした事実から直ちに「蕭宝巻の浪費だけで国家財政が破綻した」
と断定するのは避けた方がよい。

この時期の南斉は北魏との戦争、相次ぐ国内反乱、軍事動員も抱えていた。
宮廷造営と収奪は確かに負担を増加させたが、
財政悪化は複数の要因が重なった結果として見る必要がある。

自らを守った功臣・蕭懿を殺す

崔慧景の乱を救った蕭懿

崔慧景が建康へ迫った際、南斉政権を救ううえで重要な役割を果たしたのが豫州刺史蕭懿だった。
蕭懿は蕭衍の兄である。
崔慧景の反乱によって建康が危機に陥ると、
蕭懿は軍を率いて救援に向かい、崔慧景軍の崩壊に大きく貢献した。

蕭宝巻にとっては、自らの皇位を守った功臣だった。
ところが反乱鎮圧後、蕭懿の軍事的名声と実力がかえって警戒されるようになる。

茹法珍ら側近も蕭懿を危険視し、皇帝へ讒言した。

500年、蕭宝巻は蕭懿に死を命じた。
蕭懿は反乱を起こすことなく命令を受け入れ、殺害された。

政権を救った有力武将を、その軍事力を恐れて自ら排除したことは、
蕭宝巻の治世における大きな転換点となった。
なぜなら蕭懿の弟が、雍州刺史として襄陽にいた蕭衍だったからである。

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蕭衍の挙兵から蕭宝巻の死へ

南康王蕭宝融を奉じて挙兵

兄の蕭懿が殺されると、蕭衍は蕭宝巻政権との対決へ動いた。
同じ頃、荊州では蕭穎冑が蕭宝巻政権から離反する。

蕭衍と蕭穎冑は、蕭宝巻の弟で荊州刺史だった南康王蕭宝融を擁立した。
501年、蕭宝融は江陵で皇帝に即位する。これが南朝斉最後の皇帝となる和帝である。
これによって南朝斉には、建康の蕭宝巻政権と江陵の蕭宝融政権が並立することになった。

蕭衍は東へ軍を進め、郢城などを攻略しながら建康を目指した。

蕭宝巻側でも軍を派遣して抵抗したが、すでに各地で反乱と粛清を繰り返した後であり、
朝廷が動員できる人材と信頼関係は大きく損なわれていた。

建康包囲のなかでも続いた遊興

蕭衍軍が建康へ迫ると、蕭宝巻自身も軍事的な装いを強めた。

『南史』には、文官の冠と武官の衣服を組み合わせた格好をし、
宮中で馬を走らせ、金銀や宝石で飾った武具を作らせたことなどが記されている。
夜になると自ら警備を見回り、軍事行動をまねるような振る舞いを続けたともいう。

しかし兵士への十分な賞賜には消極的で、戦意をつなぎ止めることができなかった。

建康の防衛が現実の問題となっているにもかかわらず、
皇帝の行動が実際の軍事指揮と結びつかない状態に陥っていた。

王珍国・張稷らに殺される

501年12月、蕭衍軍が建康を包囲するなか、宮廷内部で蕭宝巻を排除する動きが起こった。
王珍国や張稷らは蕭衍側と連絡を取り、皇帝を見限った。

蕭宝巻は宮中で音楽を奏でさせていたところを襲撃され、
逃げようとして負傷し、最後は張斉によって斬られた。18歳だった。
首は蕭衍のもとへ送られた。

蕭宝巻は外敵との戦場で敗死したのではない。
皇帝を守る立場にあった宮廷内部の将兵によって殺害された。

この最期は、蕭宝巻政権が軍事的に敗れただけではなく、
皇帝と臣下を結びつける関係そのものを失っていたことを示している。

「東昏侯」と南斉滅亡

蕭宝巻の死後、皇帝としての地位は否定され、「東昏侯」とされた。
この名称は前漢の廃帝劉賀が海昏侯とされた故事を意識したものとされる。
蕭宝巻は建康を中心とする東方で昏乱した君主だったという意味を込めて「東昏侯」と呼ばれた。
そのため、現在一般に使われる「東昏侯」は生前の称号ではない。

蕭宝巻の死によって南朝斉がその場で滅亡したわけでもない。
江陵ではすでに弟の蕭宝融が和帝として即位しており、
蕭宝巻の死後はその政権が南朝斉の皇統を継承した。

しかし実際の軍事力を握っていたのは蕭衍だった。
502年、蕭宝融は蕭衍へ帝位を禅譲し、南朝斉は滅亡する。蕭衍南朝梁を建国し、武帝となった。

したがって「蕭宝巻が南朝斉を滅ぼした」という表現は、
厳密には一人で王朝を滅亡させたという意味ではない。

明帝による皇族粛清ですでに南朝斉の宗室基盤は弱体化していたうえ、北魏との戦争も続いていた。
そこへ蕭宝巻が重臣の粛清を重ね、陳顕達・崔慧景らの反乱を招き、
裴叔業の北魏降伏によって領土を失い、最後には自らを救った蕭懿まで殺害した。

その結果として蕭衍の挙兵を招き、建康の軍人からも見放されたのである。

一方、蕭宝巻の人物像には注意も必要である。
『南斉書』『南史』はいずれも、最終的に廃されて殺された皇帝を記述している。
さらに南朝斉を倒した梁の時代に編纂された『南斉書』では、
南朝梁の建国者蕭衍と対立した蕭宝巻が強く否定的に描かれる政治的背景も考慮する必要がある。

だからといって、その治世そのものを後世の創作とすることはできない。
江祏ら重臣の処刑、蕭遙光・陳顕達・崔慧景らの反乱、裴叔業の北魏への離反、
蕭懿の殺害、蕭衍の挙兵、王珍国らによる皇帝殺害という政治史上の流れは明確である。

逸話の一つ一つを無批判に事実として受け取るのではなく、こうした政治的事実と分けて見ることで、蕭宝巻の治世がなぜ南朝斉最後の大崩壊へつながったのかが見えてくる。

まとめ

蕭宝巻の悪名を支えているのは、
「歩歩生蓮華」や市場遊び、奇抜な外出、宮殿造営といった華美な逸話だけではない。

より重大だったのは、父の明帝 蕭鸞が残した重臣体制を維持できず、
政権を支える人物を次々と敵に回したことである。
反乱を鎮圧しても、そのたびに新たな粛清と離反が起こり、
最後には自らの皇位を守った蕭懿まで殺害した。

その蕭懿の死が蕭衍の挙兵につながり、蕭宝巻自身も宮廷内部の将軍に殺された。

蕭宝巻の治世は、暴君一人の奇行を並べるだけでは理解できない。
皇帝が臣下への信頼を失い、臣下も皇帝への忠誠を失った結果、
王朝の中央政権そのものが機能しなくなっていく過程だった。

蕭宝巻の死から数か月後、南朝斉は滅亡する。
「東昏侯」という名が後世に残ったのは、単に彼が享楽的な皇帝だったからではなく、
その短い治世のうちに南朝斉が王朝として立て直す余地をほとんど失ったからである。

史書・参考文献

・『南斉書』巻七「東昏侯紀」
・『南斉書』巻四十五「宗室伝」
・『南斉書』巻五十一「裴叔業・崔慧景・張欣泰伝」
・『南斉書』巻五十六「倖臣伝」
・『南史』巻五「斉本紀下」
・『資治通鑑』巻一四一~一四四
・王仲犖『魏晋南北朝史』
・川勝義雄『六朝貴族制社会の研究』

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