【北斉】胡皇后|武成帝高湛の皇后で後主高緯の母、放縦と権力の象徴

胡皇后(北斉・武成帝の皇后) 01.皇后

胡皇后(ここうごう)は、南北朝時代の北斉第4代皇帝・武成帝高湛の皇后であり、
第5代皇帝・後主高緯の母である。

北斉の皇后の中でも特に多くの醜聞を正史に残した女性で、
夫の存命中から寵臣・和士開と密通し、武成帝の死後には僧侶の曇献と関係を持った。
曇献を仏教界の最高位に近い昭玄統へ引き上げ、
宮中に百人もの僧侶を置いたことまで『北斉書』『北史』に記録されている。

しかし胡皇后の生涯は、男女関係だけでは説明できない。
幼い高緯が皇帝となると皇太后として和士開や陸令萱らと結び付き、
北斉後期の宮廷政治にも関与した。
やがて息子に醜聞を知られて幽閉され、577年に北斉が滅亡すると北周へ連行され、
隋の開皇年間まで生きている。

後世には「淫后」の典型として語られ、
「皇后になるより娼婦になる方が楽しい」とまで語ったとされる胡皇后だが、
そこには正史に記録された事実と後世に付け加えられた伝承が混在している。

胡皇后とはどのような女性だったのか。
正史に残された記録を中心に、その生涯と北斉宮廷における立場、
「淫后」と呼ばれるようになった背景をたどる。

胡皇后の出自|安定胡氏から長広王妃へ

胡皇后の本名と生年は伝わっておらず、正史では「胡氏」「武成皇后胡氏」などと記される。

父は安定郡の胡延之、母は范陽の盧道約の娘だった。
北魏末から東魏・北斉にかけて、鮮卑系の支配層と漢人系有力氏族との婚姻は
政権を支える重要な結び付きとなっており、胡氏もそうした北朝社会の有力家門の一つだった。

胡皇后の出生について、『北斉書』には早くも後世の人物像を予告するような逸話が残る。
母が胡氏を身ごもったとき、一人の胡僧が家を訪れ、
「この家の瓠蘆(ひょうたん)の中に月がある」と語ったという。
その後に胡氏が誕生したため、後世には皇后となることを予言した瑞兆として解釈された。

幼少期についてはほとんど記録がないが、
文宣帝高洋の天保年間初期、胡氏は長広王であった高湛の妃に選ばれた。

↓↓夫 武成帝高湛についての個別記事は、こちら

【北斉】高湛(武成帝)|北斉を傾けた美貌の皇帝と退廃の時代
高湛(こうたん)は北斉第四代皇帝・武成帝。兄・高演と楊愔らを排除する政変に加わり、高殷の廃位を経て即位した。高百年殺害、胡皇后と和士開を中心とする宮廷政治、太上皇となった後も握り続けた実権、北周との攻防まで、北斉衰退へつながる治世と生涯を詳しく解説する。

高緯と高儼を産む

556年、胡氏は後の後主高緯を産んだ。

『北斉書』は高緯誕生について、
胡氏が「海上で玉盆に座り、太陽が裙の中へ入る夢」を見て妊娠したと伝える。
一方、『北史』には、高緯が生まれた日に産帳の上で梟が鳴いたという不吉な逸話も残されている。

胡氏はさらに琅邪王高儼を産んだ。
『北史』は武成帝の十三人の男子のうち、胡皇后が後主高緯と琅邪王高儼を産んだと明記している。

561年、高湛が兄の孝昭帝高演の死後に即位して武成帝となると、胡氏も皇后となった。

高湛自身も女性関係の激しい皇帝として知られる。
とりわけ兄・文宣帝高洋の皇后だった李祖娥との関係は有名で、
北斉皇室の後宮は皇族・寵臣・宦官が複雑に入り込む環境となっていた。

↓↓息子・後主高緯についての個別記事は、こちら

【北斉】高緯|北斉滅亡を招いた「無愁天子」の生涯
後主・高緯(こうい)は、9歳で即位した北斉第五代皇帝。和士開・陸令萱らを重用し、名将・斛律光を誅殺、蘭陵王・高長恭にも死を命じた。馮小憐を寵愛するなか北周の宇文邕が侵攻。平陽・晋陽で敗れ、鄴を捨てて逃亡した「無愁天子」高緯の生涯と北斉滅亡を史書から詳しく解説する。

武成帝の皇后時代|和士開との密通

胡皇后の「淫后」という後世の人物像を考えるうえで、
最初に確認すべきなのが和士開との関係である。

和士開は武成帝が皇帝となる以前から側近として仕えた人物で、
弁舌や遊戯に長け、高湛から異常なほどの寵愛を受けていた。

『北斉書』は、武成帝の時代に胡皇后が宦官たちと親しく戯れていたと記す。
さらに武成帝が和士開を寵愛していたため、
和士開は胡皇后と「握槊」と呼ばれる盤上遊戯をするようになり、
それをきっかけとして二人が姦通したと明記している。

つまり、胡皇后と和士開の関係は武成帝の死後に始まったものではない。
正史の記述に従えば、夫である武成帝が存命中から続いていたことになる。

一方で、武成帝は和士開を遠ざけなかった。
和士開は皇帝の強い寵愛を背景に宮廷で地位を高め、胡皇后とも密接な関係を築いていった。

高緯への譲位と皇太后への道

564年、高緯は皇太子となった。
翌565年、武成帝はまだ若かったにもかかわらず高緯へ帝位を譲り、自ら太上皇となった。
高緯は幼少であったため、譲位後も実権は太上皇・武成帝が握り続けた。
胡氏もこれによって太上皇后となる。

568年に武成帝が死去すると、高緯は名実ともに北斉皇帝となり、
胡氏は皇太后として後宮の最高位に立った。
ここから胡太后と和士開の結び付きは、単なる男女関係だけではなく、
後主政権の権力構造にも関わるものとなっていく。

皇太后となった胡氏|和士開・陸令萱と宮廷政治

武成帝の死後、幼い高緯を中心とする北斉朝廷では、
皇帝の周囲にいた側近や後宮勢力が急速に力を伸ばした。
その中心にいたのが和士開と、後主の乳母であった陸令萱である。

『北斉書』は、陸令萱と和士開が趙郡王高叡の殺害を密謀し、
婁定遠・高文遙を地方の刺史として朝廷から追い出したと記している。
和士開と陸令萱は胡太后に徹底して取り入り、
皇太后との結び付きを自らの政治的基盤として利用した。

趙郡王高叡は高氏皇族の重鎮であり、和士開の専横を批判していた。
こうした皇族を排除したことで、後主政権では和士開ら側近勢力の権力がさらに強まった。

胡太后は単に後宮で愛人との生活を楽しんでいただけではない。
皇帝の母という立場を通じて、和士開らが権力を握る宮廷政治の一角に位置していた。

和士開の殺害

しかし和士開の専横は、高氏皇族から強い反発を招いた。

571年、胡太后の次男で後主の弟にあたる琅邪王高儼が和士開を殺害した。
高儼は和士開ら側近勢力を排除しようとしたが、最終的には高緯によって殺害される。

和士開を失っても、後主政権では陸令萱とその子・穆提婆らがさらに権勢を強めていった。
陸令萱はもともと宮女出身だったが、高緯の乳母として絶大な信任を得て、
後宮と朝廷の双方に強い影響力を持つようになった。

胡太后も陸令萱母子と結び付いたが、両者の利害が常に一致していたわけではない。
後主の後宮をめぐっては胡太后と陸令萱の思惑が衝突することもあり、
皇帝の寵愛と后妃の地位がそのまま政治的な勢力争いへつながっていった。

この時期、後主高緯の寵愛を受けた女性の一人が馮小怜である。
北周との戦争が続く中でも高緯は馮小怜との遊興にふけり、
その行動は後世に北斉末期の混乱を象徴するものとして語られた。

↓↓後主高緯の寵妃 馮小怜についての個別記事は、こちら

【北斉】馮小怜|北斉を滅亡へ導いた「妖妃」と呼ばれた傾国の美女の生涯
馮小怜(ふうしょうれん)は、北斉後主・高緯の寵愛を独占した淑妃。平陽陥落の急報より狩猟を優先させた逸話や、戦場へ同行して軍事判断にも影響したと史書に描かれる。北斉滅亡後は北周へ連行され、宇文達の側室となった後、楊麗華の母・独孤伽羅との因縁から死を命じられた。その生涯と「亡国の妖妃」像の実像を詳しく解説する。

僧侶・曇献との密通|息子に発覚して幽閉される

胡太后の醜聞として和士開以上に有名なのが、僧侶・曇献との関係である。

武成帝の死後、胡太后はたびたび仏寺へ出かけるようになり、
その中で僧侶の曇献と男女の関係を持つようになった。

宮中に百人の僧侶を入れる

胡太后と曇献の関係は、密かに続けられたものではなかった。

『北斉書』によれば、胡太后は曇献の席の下に金銭を敷き詰め、
武成帝が生前に使用していた宝飾付きの胡床を曇献の部屋の壁に掛けたという。

さらに宮中の内殿に百人の僧侶を置き、表向きは仏教の講義を聞くためとしながら、
実際には昼夜を問わず曇献と寝起きをともにしたと記されている。

胡太后は曇献を「昭玄統」に任命した。
昭玄統は僧尼を統轄する高位の僧官であり、
曇献は皇太后との関係によって宗教界でも大きな地位を得たことになる。

二人の関係は僧侶たちにも知られていた。
『北斉書』には、僧侶たちが胡太后を指して曇献をからかい、
ついには曇献を「太上」と呼ぶ者までいたと記されている。

「尼僧」の正体は男だった

後主高緯も母の素行について噂を聞いていたが、当初は信じなかった。
ところがあるとき胡太后を訪ねると、そこに二人の若い尼僧がいた。
高緯が気に入って呼び寄せてみると、二人は女性ではなく男だった。

これをきっかけとして曇献との関係も発覚した。
曇献らは処刑され、胡太后と親しかった元氏・山氏・王氏の三郡君も殺害された。


正史がここまで具体的に記している以上、
胡太后と曇献の関係そのものを単なる後世の創作として処理することはできない。

高緯に北宮へ幽閉される

事件後、高緯と胡太后の母子関係は決定的に悪化した。

高緯が晋陽から胡太后を連れて鄴へ戻る途中、紫陌で突然強風が吹いた。
風角を占うことのできた魏僧伽が「ただちに暴逆の事件が起こる」と奏上すると、
高緯は鄴で緊急事態が起きたと偽り、弓と槊を手に急いで南城へ入った。

そして鄧長顒に命じ、胡太后を北宮へ幽閉した。
さらに内外の親族が胡太后と面会することも全面的に禁止した。

しばらくすると高緯は母を再び迎え入れたが、胡太后は使者が来たと聞いただけで、
自分が殺されるのではないかと恐れたという。
一方の高緯も、胡太后が用意した食事を口にしようとしなかった。

母は息子に殺されることを恐れ、息子は母から毒を盛られることを警戒する。
北斉末期の皇室内部で、母子間の信頼が完全に失われていたことを示す記録である。

北周から使者として元偉が訪れた際には、『述行賦』を作り、
春秋時代の鄭荘公が母・武姜を城潁へ移した故事を記した。
母を幽閉した高緯の行為を暗に重ねたものと受け取られ、北斉の人々は大いに恥じたという。

北斉滅亡|胡太后のその後

576年、北周の武帝宇文邕が北斉への本格的な侵攻を開始した。

北斉軍は各地で敗れ、後主高緯は平陽・晋陽から逃走する。
577年には首都鄴も陥落し、高緯も捕らえられ、北斉は建国から28年で滅亡した。
胡太后も亡国の皇族として北周へ移された。

『北斉書』『北史』は、その後の胡太后について「斉亡びて周に入り、恣に姦穢を行う」と記す。
北斉皇太后という地位を失った後も、
性的に奔放な生活を送ったと正史の編者が認識していたことは確認できる。

一方、具体的にどのような生活をしていたのかについて、正史は詳しく記していない。

胡太后は北周滅亡後も生き続け、581年に楊堅が隋を建国した後、
開皇年間(581~600年)に死去した。正確な没年は分かっていない。

「皇后より娼婦の方が楽しい」は史実なのか

胡皇后について非常に有名なのが、
北斉滅亡後に長安で妓女となり、
「皇后になるより娼婦になる方が楽しい」と語ったという逸話である。

しかし、この話を『北斉書』や『北史』の記録として扱うことはできない。
正史が記しているのは、北斉滅亡後に北周へ入り「恣行姦穢」、
すなわち放縦な男女関係を続けたというところまでである。
胡太后が妓女になったことや、「皇后より娼婦の方が楽しい」と発言したことまでは記されていない。

現在広く知られる具体的な形の逸話は、後世の歴史演義などで膨らんだものである。
たとえば清末から民国初期の蔡東藩『南北史演義』では、
胡太后と高緯の皇后・穆氏が長安で妓女となり、
胡氏が「為后不如為娼」と語ったという物語が描かれている。

したがって、「北斉滅亡後も放縦な男女関係を続けた」という部分には正史の根拠がある一方、
「妓女になった」「皇后より娼婦の方が楽しいと語った」という部分は
後世の伝承として区別する必要がある。

胡皇后はなぜ「淫后」と呼ばれたのか

胡皇后の男性関係は、皇后・皇太后という地位と結び付いていた。

和士開はもともと武成帝の寵臣として権力を得た人物だったが、
胡皇后とも関係を持ったことで皇帝夫妻の双方と結び付いた。
武成帝の死後も和士開が失脚せず、幼い高緯のもとで政権中枢に残った背景には、
皇太后となった胡氏との関係があった。

当時の北斉では、皇帝との私的な関係がそのまま政治的な力につながっていた。
高緯の乳母である陸令萱が強大な権力を握ったように、
皇帝や皇太后の近くに出入りできること自体が権力の源泉となった。
和士開と胡太后の関係も、後宮だけで完結する男女関係ではなく、
北斉後期の宮廷政治と重なっていた。

曇献の場合は、さらに宗教界へ影響が及んだ。
胡太后が曇献を任じた昭玄統は、単なる高僧への尊称ではない。
北朝では国家が僧尼を管理する僧官制度が整備されており、昭玄統はその頂点に位置する僧官だった。
胡太后は愛人となった僧侶を個人的に厚遇しただけではなく、
北斉の仏教教団を統轄する地位にまで引き上げたのである。

北斉は仏教が盛んな王朝であり、皇帝や皇族による造寺・造像も盛んに行われた。
多数の寺院や僧尼を抱える仏教界を統轄する昭玄統への任命は、後宮内だけの問題ではなかった。
胡太后の私的な寵愛が、朝廷の僧官人事にまで入り込んでいたことになる。

一方、男女関係の乱れは胡皇后だけに見られたものではない。
北斉の高氏皇族には、儒教的な家族秩序を破る行為が繰り返し記録されている。
夫の武成帝自身も、兄・文宣帝高洋の皇后だった李祖娥と関係を持った。
胡皇后の醜聞も、こうした高氏皇族の乱脈な男女関係が続いた北斉宮廷の中で起きている。

その中でも胡皇后は、夫の寵臣との関係が政治権力と結び付き、
夫の死後には僧侶への寵愛が僧官人事にまで及んだ。
さらに北斉滅亡後まで男女関係について記録されたことで、
後世には北斉を代表する「淫后」として強烈な人物像が残ることになった。

まとめ

胡皇后は、北斉後期の宮廷において、
皇后・太上皇后・皇太后という三つの立場を経験した女性である。

武成帝の皇后時代には和士開との関係を持ち、
皇太后となってからは和士開や陸令萱ら側近勢力と結び付いた。
こうした後宮と側近の人的関係がそのまま朝廷政治へつながっていた点に、
北斉後期の権力構造の特徴が表れている。

同時に、胡皇后をめぐる記録は、
正史による女性の評価が後世の人物像へどのようにつながったのかを見る材料でもある。
和士開や曇献との関係、曇献を昭玄統へ引き上げたこと、高緯による幽閉、
北斉滅亡後も放縦な生活を送ったことは正史に記録されている。

一方、「妓女になった」「皇后より娼婦の方が楽しいと語った」という強烈な逸話は、
正史からそのまま導けるものではない。
胡皇后の「淫后」という評価は、正史に残る複数の醜聞を核としながら、
後世の演義や伝承によってさらに強調されて形成されたものと位置づけられる。

お薦め商品

【お薦め】中国史がテーマのマンガ・小説・書籍
中国史をテーマにしたおすすめのマンガ・小説・書籍を紹介。『キングダム』や『三国志』だけでなく、歴代王朝の興亡や英雄たちの活躍、宮廷の権力争いを描いた作品など、中国史の魅力を楽しめる一冊を探せる。

史書・参考文献

・『北斉書』巻九「列伝第一・後宮」
・『北斉書』巻八「帝紀第八・後主 幼主」
・『北史』巻十四「列伝第二・后妃下」
・『北史』巻五十二「列伝第四十・斉宗室諸王下」
・『資治通鑑』陳紀
・蔡東藩『南北史演義』第七十九回
・川本芳昭『中国の歴史05 中華の崩壊と拡大 魏晋南北朝』
・氣賀澤保規『絢爛たる世界帝国 隋唐時代』

関連リンク

中国史の皇族・王族一覧|皇子・親王・諸侯王など歴代王朝の人物を紹介 | 趣味の中国
中国史の軍師・策士一覧|知略で天下を動かした有名な軍師たち | 趣味の中国
中国史の政治家・文官一覧|宰相・名臣・奸臣など歴代王朝の人物 | 趣味の中国
中国史の権臣一覧|皇帝を凌ぐ権力を握った有名な実力者たち | 趣味の中国
中国史の皇后一覧|中国王朝を動かした有名な皇后たち | 趣味の中国
中国史の妃嬪一覧|歴代皇帝の有名な妃・貴妃・皇貴妃を時代別に紹介 | 趣味の中国
中国史の公主一覧|歴史に名を残した王女たちをわかりやすく紹介 | 趣味の中国
中国史の美女一覧|時代別まとめ(四大美女・傾国・亡国・悲劇の美人) | 趣味の中国
中国史の美男一覧|中国四大美男と歴史に残るイケメン人物 | 趣味の中国
中国史の武将一覧|歴史に名を残した猛将・知将・名将たち | 趣味の中国
中国史の女傑一覧|戦場・反乱で活躍した女性たちを時代別に紹介 | 趣味の中国
中国史の文人・学者一覧|有名な詩人・思想家・歴史家・書家 | 趣味の中国
中国史の才女一覧|才や徳で有名な女性たちの生涯と特徴を解説 | 趣味の中国
中国の宦官とは?有名な宦官、王朝ごとの役職・階級、宦官による機関など | 趣味の中国