【南朝宋】劉準(順帝)|「帝王の家に生まれたくない」と泣いた少年皇帝の結末

順帝・劉準 (南朝宋) 031.皇帝

順帝・劉準は、南朝宋最後の皇帝である。
477年、兄とされる後廃帝劉昱が殺害された後に擁立されたが、
その時点ですでに皇帝を選び、軍事力を動かす実権は蕭道成の手に移りつつあった。

順帝の在位中に起きた重要な事件の多くは、本人の意思とはほとんど関係がない。

司徒袁粲らによる蕭道成排除の計画、荊州刺史沈攸之の挙兵はいずれも蕭道成によって鎮圧され、
反対勢力が消えるたびに蕭道成の官位と権限は拡大した。
479年には相国・斉公から斉王へ進み、天子に準じる儀礼まで与えられる。
南朝宋の皇帝は存在していても、王朝の実権はすでに蕭氏へ移っていた。

そして479年4月、順帝は蕭道成への禅譲を迫られる。
宮中へ兵を率いて入った王敬則を見た順帝は、仏蓋の下へ逃げ込み、「自分を殺すのか」と尋ねた。
その後に残したとされるのが、「願後身世世勿復生天王家」
――生まれ変わっても、二度と帝王の家には生まれたくないという言葉である。

禅譲後は汝陰王となり、丹陽宮へ移された。
しかし約一か月後、順帝は数え13歳で死亡した。
『宋書』は死因を書かないが、『資治通鑑』は衛士によって殺害され、
病死として報告されたと記している。

劉裕が420年に建てた南朝宋は、約60年で終焉を迎えた。
最後の皇帝となった劉準の生涯には、前廃帝・明帝後廃帝と続いた皇族殺戮の末に、
皇帝であること自体が生命を脅かす立場となった劉宋皇室の末路が凝縮されている。

明帝の第三子として生まれる――実父をめぐる異説

劉準は467年、南朝宋第6代皇帝・明帝劉彧の第三子として生まれた。字は仲謀、小字は智観という。『宋書』巻10「順帝紀」は明確に「明帝第三子」と記しており、正式な皇統上は明帝の子である。

471年、安成王に封じられ、食邑三千戸を与えられた。
同時に撫軍将軍となり、後廃帝の即位後には揚州刺史、さらに車騎将軍、
都督揚南豫二州諸軍事へ進み、476年には驃騎大将軍・開府儀同三司となっている。

もちろん、これらの官職を幼い劉準自身が実際に指揮していたわけではない。
南朝では幼い皇族にも高位の官職や軍事称号が与えられており、
劉準も皇族として形式上高い地位に置かれていた。

一方、劉準の血統については正史内部に異なる記録が存在する。

『宋書』巻41「后妃伝」は、明帝が晩年には性的不能となり、弟たちの妊娠した姫妾を宮中へ入れて、
生まれた男子を自らの皇子として育てたという異常な記事を載せている。
その中で劉準については、明帝の弟である桂陽王劉休範の子であり、陳法容に養育させたと記す。

これが事実なら、劉準は明帝の実子ではなく甥だったことになる。
ただし、この記録をそのまま事実とみなすことはできない。
『宋書』本紀は劉準を明帝の第三子としており、
明帝の皇子たちの父親をめぐる記事そのものが南朝宋末の皇室を否定的に描く伝承と結びついている。

さらに『宋書』を編纂した沈約は、南朝宋を滅ぼした南斉に仕え、
その後は梁に仕えた人物であるため、劉宋末期の皇帝に関する醜聞には史料批判が必要となる。

したがって、劉準については「正式には明帝の第三子だが、
『宋書』后妃伝には桂陽王劉休範の実子とする異説もある」
とするのが妥当である。

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後廃帝の殺害と順帝擁立

477年7月、後廃帝劉昱が宮中で殺害された。

後廃帝は幼くして即位した後、成長するにつれて市中を徘徊して殺人を繰り返すなど、
異常な行動を見せるようになったと『宋書』は伝えている。
その暴力は、桂陽王劉休範や建平王劉景素の反乱を鎮圧して軍事的実力者となっていた
蕭道成にも向けられた。

身の危険を感じた蕭道成は王敬則らと結び、後廃帝の側近を取り込んだ。
477年7月7日、泥酔して眠っていた後廃帝は側近の楊玉夫らによって殺害された。

その後に迎えられたのが、当時安成王だった劉準である。
後廃帝が殺害された夜、劉準は朝堂へ迎えられ、数日後に皇帝として即位した。
改元して昇明元年とした。

順帝はまだ幼く、後廃帝殺害に関与したわけでもなければ、自ら皇位を求めた形跡もない。
皇帝として選ばれたのは、劉宋皇室の血統を残しながら、
蕭道成らが政権を運営するための存在として都合がよかったからである。

ただし、即位直後から蕭道成が「相国・斉王」としてすべてを掌握していたわけではない。

477年7月の段階では、蕭道成は鎮軍将軍・斉王から司空・録尚書事・驃騎大将軍などへ進み、
政権の中心に立った。
しかし朝廷には司徒袁粲、褚淵、尚書令劉秉ら有力者も残っており、
地方には荊州刺史沈攸之が強大な軍事力を保持していた。

順帝の即位時点では、蕭道成の王朝簒奪がすでに完成していたのではなく、
ここから反対勢力を排除しながら皇帝権力を奪っていく過程が始まった
のである。

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順帝名義で出された政策

順帝期にも、皇帝名義の詔勅は多数出されている。

即位直後には、長年の戦争によって国庫が疲弊しているとして、
車服や装飾の奢侈を抑え、御府二署を廃止し、華美な彫刻などを禁止する詔が出された。
雍州の水害では使者を派遣して救済を行い、
税を免除し、過去の滞納分を免除する措置も取られている。
また地方から人材を推薦させる詔も出された。

しかし当時の劉準は幼く、これらを本人の政治思想や政策とみなすことはできない。
実際の政策決定は蕭道成をはじめとする重臣たちによって行われていたと考えるべきである。

重要なのは、順帝の治世が単に何も行われなかった空白期間ではないという点にある。
表面上は劉宋皇帝の名義で国家運営が続けられながら、
その国家を動かす権限が次第に蕭道成へ集中していった。


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袁粲と沈攸之――蕭道成への最後の抵抗

順帝即位後も、蕭道成の権力掌握に抵抗する勢力は残っていた。

その中心となったのが司徒袁粲と荊州刺史沈攸之である。
477年12月、沈攸之が荊州で挙兵した。
沈攸之は明帝期から軍功を重ねた有力将軍で、荊州という大軍事拠点を握っていた。
後廃帝の死後に蕭道成が中央政権を掌握したことを認めず、軍を率いて東へ進んだ。

これと呼応するように、建康では袁粲、劉秉らが蕭道成排除を計画した。
袁粲は石頭城を拠点とし、劉秉・劉述・王蘊らが集結した。
黄回、孫曇瓘らも密かに呼応する予定だった。

しかし蕭道成側は先手を取り、宮中にいた反対派を処刑したうえで石頭城を攻撃する。
袁粲は城内で殺され、劉秉らも捕らえられて処刑された。

沈攸之の軍も思うように進めなかった。

郢城攻略に失敗すると兵士の離反が相次ぎ、478年正月には軍が崩壊した。
沈攸之は逃亡したが、華容県の住民によって殺害され、その首は建康へ送られた。

これによって蕭道成へ軍事的に対抗できる大勢力はほぼ消滅した。

袁粲と沈攸之を単純に「順帝を守る忠臣」とだけ評価することには注意が必要である。
それぞれに独自の政治的立場や利害があり、沈攸之自身も強大な地方軍閥だった。
しかし結果として、
彼らの敗北によって蕭道成の権力を抑えられる勢力がなくなったことは確かである。

順帝はこうした争いの中心に名目上は位置していたが、
誰を処罰し、誰に軍を与えるかを自ら決められる立場にはなかった。

蕭道成が「皇帝」へ近づいていく

反対勢力を排除した蕭道成は、478年から479年にかけて段階的に皇帝に近い地位を獲得していった。

478年2月には太尉となり、9月には黄鉞・都督中外諸軍事・太傅・揚州牧を加えられた。
さらに「剣履上殿」「入朝不趨」「賛拝不名」といった特権が与えられる。
これは宮中で剣を帯びたまま昇殿でき、皇帝の前でも小走りせず、
拝礼の際にも姓名を呼ばれないという、最高権力者に与えられる特別待遇だった。

479年3月には相国となって百官を統轄し、十郡を封地として斉公に封じられ、九錫を与えられた。
4月には斉王へ進み、さらに十二旒の冕、天子の旗、金根車、六頭立ての馬、八佾の舞など、
本来皇帝に属する儀礼まで許された。

この時点では形式上まだ順帝が皇帝だったが、
蕭道成は儀礼上もほとんど皇帝と変わらない存在となっていた。

こうした流れは偶然ではない。
から西晋への禅譲、東晋から劉宋への禅譲など、
前代の王朝交代でも、実力者が公・王へ進み、九錫を受け、
皇帝に準じる待遇を得た後に禅譲を受けるという手順が繰り返されていた。

蕭道成も同じ形式を踏襲し、
武力による政権掌握を「皇帝から自発的に天下を譲られた」という形へ整えていったのである。

479年、禅譲を迫られた少年皇帝

479年4月、ついに順帝名義で蕭道成へ帝位を譲る詔が出された。

形式上は「禅譲」である。
しかし順帝自身が自発的に皇位を譲ろうとしたわけではないことは、
その直後の行動から明らかである。

禅譲の儀式のため順帝が殿上へ出ることになったが、本人はこれを拒んだ。
そして王敬則が兵を率いて宮廷へ入ると、順帝は逃げて仏蓋の下に身を隠した。

皇太后は自ら宦官を率いて順帝を探し出し、王敬則は順帝を説得して板輿へ乗せた。
順帝は涙をこらえながら「自分を殺すのか」と、王敬則に尋ねた。
王敬則は、殺すのではなく別宮へ移るだけだと答え、
かつて劉宋が東晋から天下を奪った時も同じだったという趣旨の説明をした。

順帝は泣きながら指を弾き、「願後身世世勿復生天王家」と言ったと『資治通鑑』は伝える。
「願わくば、これから何度生まれ変わっても、二度と帝王の家には生まれませんように」
という意味である。

「殺さないなら十万銭を与える」

順帝はさらに王敬則の手を叩き、心配するようなことが本当にないのなら、
輔国将軍である王敬則に十万銭を与えるという趣旨の言葉を口にした。

皇帝が臣下に対し、自分を殺さないのであれば褒美を与えると持ちかけたことになる。
この逸話が事実なら、順帝は自分の周囲で何が起きてきたのかを理解していた。

祖父の文帝は実子劉劭に殺され、劉劭は孝武帝に殺された。
前廃帝は叔父の明帝側によるクーデターで殺され、
明帝孝武帝の子供たちや自らの兄弟を大量に粛清した。
そして後廃帝も側近によって殺害された。

順帝にとって皇帝の座は、安全や栄華を保証するものではなかった。

「帝王の家に生まれたくない」という言葉は、
後世から南朝宋皇室の悲劇を説明するために作られた抽象的な評言ではない。
『資治通鑑』では、兵に囲まれ、自分も殺されるのではないかと恐れた少年が
王敬則に直接語った言葉として記録されている。

南朝宋の滅亡と汝陰王への降封

禅譲の儀式では、侍中謝朏が皇帝の璽綬を解いて蕭道成へ渡す役目を拒んだという逸話も残る。

謝朏は何の用事なのか知らないふりをし、禅譲のため璽綬を解くよう命じられると、
「斉には斉の侍中がいるだろう」という趣旨の言葉を残して宮中から退出した。
そのため王倹が代わって璽綬を解いた。

儀式を終えた順帝は画輪車に乗せられて東邸へ移された。
その途中、順帝は「今日はなぜ鼓吹を奏でないのか」と尋ねたが、誰も答えなかったという。
長年官界にいた王琨は車に取りすがって号泣し、百官も涙を流したと『資治通鑑』は記している。

その後、褚淵らが璽綬を蕭道成へ届け、蕭道成は南郊で皇帝として即位した。
これが南朝斉の高帝である。

420年に武帝劉裕が東晋の恭帝から禅譲を受けて建国した南朝宋は、
479年、ほぼ同じ形式によって南朝斉へ帝位を譲り、約60年で滅亡した。

順帝は汝陰王へ降封された。
形式上は厚遇され、「不臣の礼」が認められた。
つまり蕭道成の臣下として扱わず、劉宋の暦をそのまま使用し、
蕭道成へ文書を送る場合も臣下の「表」とせず、
蕭道成からの返答も皇帝が臣下へ出す「詔」としないという特別待遇だった。

しかし実際には丹陽宮へ移され、兵士による厳重な監視下に置かれた。
南朝斉政権にとって、前王朝最後の皇帝である劉準が生きていること自体が、
反対勢力に担ぎ出される危険を意味していた。

禅譲から約一か月後――順帝の死

479年5月、順帝は丹陽宮で死去した。
『宋書』巻10「順帝紀」は、「建元元年五月己未、丹陽宮に殂す。時に年十三」と記すだけで、
死因については何も説明していない。
数え13歳、現在の満年齢では11歳だった。

しかし『資治通鑑』には、より具体的な経緯が記されている。

ある人物が馬に乗って汝陰王の門前を通過した。
これを見た衛士たちは、反乱を起こして順帝を奪い返そうとする者ではないかと恐れ、
宮中へ駆け込んで順帝を殺害し、「病死した」と報告した。

さらに重要なのは、その後である。
蕭道成は順帝を殺した衛士を処罰せず、逆に褒賞したと『資治通鑑』は記している。

このため、順帝の死を単なる偶発的な衛士の暴走とみることは難しい。
一方で、現存するこの記事だけから
蕭道成が事前に順帝殺害を命令していた」と断定することもできない。

したがって、史料上もっとも正確なのは、
『宋書』は丹陽宮での死のみを記し、
『資治通鑑』は衛士によって殺害され、病死と偽装されたと伝える。
蕭道成は衛士を処罰せず褒賞した、というところまでである。

順帝の死後、さらに劉宋宗室への粛清が行われた。
『資治通鑑』は、陰安公劉燮ら劉氏宗室が年齢を問わず殺害されたと記している。

順帝の死は、一人の廃帝の死だけではなく、
劉氏皇族を新王朝の政治的脅威として排除していく過程の一部だった。

劉準には「順帝」の諡が贈られ、479年6月、遂寧陵へ葬られた。

順帝の生涯が示す劉宋皇室の末路

順帝自身について、政治家として評価できる材料はほとんど存在しない。
それは無能だったからではない。
政治を自ら行える年齢になる前に皇帝へ擁立され、
実権を持たないまま退位させられ、殺害されたためである。

在位中には倹約、災害救済、人材登用などの詔が出されているが、
それを劉準本人の政治的実績とみなすことはできない。

一方で、袁粲・沈攸之の敗北、蕭道成の太尉・太傅就任、九錫、斉公、斉王への昇格という出来事は、
すべて順帝の名の下で進められた。

皇帝の名義は存在しているのに、皇帝本人にはそれを止める力がない。
順帝期の南朝宋を特徴づけるのは、この皇帝権力の空洞化だった。

しかし、それを蕭道成一人の簒奪だけで説明することもできない。

南朝宋では文帝が皇太子劉劭に殺され、その劉劭を孝武帝が倒した。
孝武帝の死後には前廃帝が皇族や重臣を殺し続け、その前廃帝明帝側が殺害した。
明帝は即位後に孝武帝の子供たちと自らの兄弟を大量に排除し、後廃帝もまた殺害された。

皇位を守るために皇族を殺す政治を続けた結果、
王朝末期には劉氏内部から皇帝を支える有力者がほとんどいなくなった。
その空白を軍事力によって埋めたのが蕭道成だった。

順帝が「帝王の家に生まれたくない」と語ったとされる場面が強く印象に残るのは、
この言葉が単なる少年の嘆きではなく、
劉宋皇室が約60年間繰り返してきた皇族同士の殺害の結末と重なるからである。

順帝は自ら暴政を行った皇帝でも、皇位をめぐって戦った皇帝でもない。
後廃帝が殺されたために皇帝へ擁立され、蕭道成が天下を奪うために皇帝の座から降ろされ、
その直後に命まで失った。

南朝宋最後の皇帝の生涯は、皇帝という地位が最高権力の象徴でありながら、
権力を失った瞬間には本人を最も危険な存在に変えてしまうという、
南朝の王朝交代の現実を端的に示している。

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史書・参考文献

・沈約『宋書』巻十「順帝紀」
・沈約『宋書』巻四十一「后妃伝」
・李延寿『南史』「宋本紀」
・蕭子顕『南斉書』「高帝紀」
・司馬光『資治通鑑』巻134~135
・『建康実録』

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