曹魏:略家系図

曹魏(220-265):皇帝一覧
| 代 | 廟号 | 諡号 | 名前(諱) | 生年-没年 (没年齢) | 在位ー退位 (年齢) | 在位期間 |
| — | — | 高皇帝 | 曹騰 | 100-159年 (59歳) | — | — |
| — | — | 太皇帝 | 曹嵩 | ?-193年 (不明) | — | — |
| — | 太祖 | 武皇帝 | 曹操 | 155-220年 (65歳) | — | — |
| ① | 高祖 | 文皇帝 | 曹丕 | 187-226年 (39歳) | 220-226年 (33-39歳) | 約6年 |
| ② | 烈祖 | 明皇帝 | 曹叡 | 204/206-239年 (33/35歳) | 226-239年 (20/22-33/35歳) | 約13年 |
| ③ | — | 厲公 | 曹芳 | 232-274年 (42歳) | 239-254年 (7-22歳) | 約15年 |
| ④ | — | — | 曹髦 | 241-260年 (19歳) | 254-260年 (13-19歳) | 約6年 |
| ⑤ | — | 元皇帝 | 曹奐 | 246-302年 (56歳) | 260-265年 (14-19歳) | 約5年 |
※補足
・曹騰・曹嵩・曹操は魏の皇帝として即位したわけではなく、曹丕の即位後に追尊。
・曹叡の生年は204年説と206年説があり、年齢計算もそれに応じて変わる。
・曹芳の「厲公」は皇帝としての諡号ではなく、廃位後の爵号。
・曹髦にも一般的な皇帝諡号はなし。
高皇帝・曹騰|曹魏皇室の礎となった宦官
・後漢に仕えた宦官で、安帝・順帝・沖帝・質帝・桓帝の時代を生きた。
特に順帝擁立に功績を挙げた宦官・孫程らと同時代に活動し、宮廷で長く仕えた人物である。
・順帝の皇太子・劉炳の教育係となり、のちに大長秋まで昇進。
桓帝の即位にも関与し、費亭侯に封じられた。
・宦官であったため実子はなく、曹嵩を養子とした。
曹嵩の子が曹操であり、曹騰は曹操の祖父にあたる。
・『後漢書』では、曹騰は長期間宮廷に仕えながら有能な人物を推薦し、
自分に批判的だった者に対しても報復しなかった人物として記されている。
・曹丕が魏を建国した後、曹嵩・曹操とともに皇帝として追尊された。
さらに曹叡の時代には「高皇帝」の諡号を贈られ、宦官出身者として異例の存在となった。
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太皇帝・曹嵩|曹操の父となった曹騰の養子
・後漢の宦官・曹騰の養子で、曹操の父。
『三国志』ではその出自について詳しく分からないとされ、
曹氏一族の血統をめぐって後世さまざまな説が生まれた。
・曹騰の爵位を継承し、後漢の官僚として司隷校尉・大司農・大鴻臚などを歴任。
最終的には最高官の一つである太尉にまで昇った。
・董卓の乱によって天下が混乱すると官職を離れ、徐州方面へ避難した。
・その後、曹操のもとへ向かう途中で殺害された。
曹嵩殺害をめぐる事情については史料によって記述が異なるが、
この事件を契機として曹操は徐州牧・陶謙を攻撃した。
・220年、曹丕が皇帝に即位すると「太皇帝」と追尊された。
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太祖・武帝(曹操)|曹魏の実質的な創業者
・後漢末の黄巾の乱や董卓討伐を経て勢力を拡大。
196年には献帝を迎えて許へ遷都し、皇帝を奉じる立場から諸侯に号令する政治的優位を確立した。
・200年の官渡の戦いで袁紹を破り、その後袁氏勢力を平定。
さらに烏桓を討つなどして、中国北部の大部分を支配下に置いた。
・208年には荊州へ進出したが、赤壁の戦いで孫権・劉備連合軍に敗北。
中国統一には至らず、以後は曹操・劉備・孫権の三勢力が争う形が次第に固まっていった。
・屯田制を進めて戦乱で荒廃した農地の再建と兵糧確保を図る一方、
荀彧・荀攸・郭嘉・程昱・賈詡・司馬懿ら多くの人材を登用し、
後の曹魏を支える政治・軍事体制を築いた。
・213年に魏公、216年には魏王となり、後漢の内部に事実上独立した「魏」の政権を形成した。
しかし自ら皇帝には即位せず、220年に死去した。
・同年、曹丕が献帝から禅譲を受けて魏を建国すると「武皇帝」と追尊され、
後に廟号を「太祖」とされた。曹魏そのものを建国したのは曹丕だが、
その領土・軍事力・官僚組織を築いた実質的な創業者は曹操だった。
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①文帝(曹丕)|後漢を終わらせ、曹魏を建国した皇帝
・曹操と卞夫人の子。兄の曹昂が宛城の戦いで戦死した後、
曹植らとの後継者争いを経て217年に魏王太子となった。
・220年に曹操が死去すると魏王を継承。
同年、後漢最後の皇帝・献帝から禅譲を受けて皇帝に即位し、国号を「魏」とした。
ここに約400年に及んだ漢王朝は終焉を迎えた。
・献帝を殺害せず山陽公に封じ、漢から魏への政権交代を「禅譲」という形式で行った。
この方式は後に司馬炎が曹魏から帝位を奪う際にも踏襲されることになる。
・陳群の提案による九品官人法を採用し、地方の人材を評価して官僚へ登用する制度を整備した。
この制度は魏晋南北朝時代の官僚制度に大きな影響を与えた。
・皇位継承争いで競った弟・曹植を警戒し、曹氏の諸王を政治・軍事の中枢から遠ざけた。
皇帝権力を守るための政策だったが、後に司馬氏が台頭した際、
曹氏宗室に対抗できる力が乏しくなる一因ともなった。
・文学にも優れ、「文章は経国の大業、不朽の盛事」と説いた『典論』「論文」で知られる。
父・曹操、弟・曹植とともに「三曹」と称された。
・226年、40歳で死去し、子の曹叡が即位した。
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②明帝(曹叡)|諸葛亮の北伐を防ぎ、魏の優位を維持した皇帝
・曹丕の子で、母は甄夫人。226年に父が死去すると皇帝に即位した。
・即位直後から蜀漢・孫呉との戦争に直面した。
蜀漢では諸葛亮が228年から北伐を開始したが、曹真・張郃・司馬懿らを用いてこれを防いだ。
・234年に諸葛亮が五丈原で死去した後も魏は三国最大の国力を維持し、
238年には司馬懿を遼東へ派遣。公孫淵を滅ぼして遼東を魏の支配下に組み込んだ。
・一方、洛陽・鄴などで宮殿の造営を進め、
多くの労働力と財政を投入したことは『三国志』でも批判的に記されている。
・実子の男子が相次いで早世したため曹芳らを養子とし、239年、死の直前に曹芳を皇太子とした。
・幼い曹芳の輔政を曹爽と司馬懿に託して36歳ほどで死去。
この人選が、後の曹爽と司馬懿の権力闘争、そして司馬氏による曹魏乗っ取りへつながっていく。
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③斉王(曹芳)|高平陵の変で司馬氏に実権を奪われた皇帝
・明帝・曹叡の養子。実父については確定しておらず、
『魏氏春秋』には任城王・曹楷の子とする説が伝えられている。
・239年、曹叡が死去すると幼くして皇帝に即位。大将軍・曹爽と太傅・司馬懿が輔政を担当した。
・やがて曹爽が政治の主導権を握り、司馬懿を名目的な地位へ追いやった。
しかし249年、曹芳が曹爽らとともに明帝の陵墓へ参拝して洛陽を離れた隙を突き、
司馬懿が「高平陵の変」を起こした。
・曹爽は司馬懿に降伏したものの、一族・側近とともに処刑された。
これによって曹氏側の有力な政治勢力は大きな打撃を受け、魏の実権は司馬懿一族へ移った。
・251年には王凌らが楚王・曹彪を新たな皇帝に擁立しようとする計画も発覚。
司馬懿は王凌を追討し、曹彪にも自決を命じた。
・司馬懿の死後は司馬師が実権を継承。
254年、曹芳側近の李豊・張緝らによる司馬師排除計画が発覚すると、司馬師は曹芳を廃位した。
・曹芳は斉王へ戻され、曹丕の孫にあたる曹髦が新たな皇帝として擁立された。
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④高貴郷公(曹髦)|「司馬昭の心は路人も知る」と決起した皇帝
・曹丕の孫で、東海定王・曹霖の子。
曹芳が司馬師によって廃位されると、 254年に皇帝として擁立された。
・即位時から実権は司馬師が握っており、
255年に司馬師が死去すると弟の司馬昭がその権力を引き継いだ。
・同時期には毌丘倹・文欽の反乱、諸葛誕の反乱など、
司馬氏の支配に反発する軍事行動が相次いだが、いずれも鎮圧された。
これによって司馬昭の権力はさらに強まった。
・曹髦は学問を好み、自ら儒学の経典について論じるなど聡明な皇帝だったと伝えられる。
しかし政治の実権を取り戻すことはできなかった。
・260年、司馬昭の専横に耐えかねた曹髦は側近たちに
「司馬昭の心は、路人も皆知っている」と語り、自ら兵を率いて司馬昭を討とうと決起した。
・しかし宮中を出たところで司馬昭側の軍勢と衝突し、賈充の指示を受けた成済によって殺害された。
皇帝自らが権臣討伐のため武器を取って殺されるという、曹魏末期を象徴する事件となった。
・死後は皇帝としてではなく「高貴郷公」の身分で葬られた。
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⑤元帝(曹奐)|蜀漢滅亡を見届け、司馬氏へ禅譲した最後の皇帝
・曹操の子・燕王曹宇の子で、曹操の孫。もとの名は曹璜といい、常道郷公に封じられていた。
・260年に曹髦が殺害されると、司馬昭によって新たな皇帝として擁立され、名を曹奐と改めた。
皇帝となったものの、実際の政治・軍事権力は司馬昭が握っていた。
・263年、司馬昭の主導によって鍾会・鄧艾らが蜀漢へ侵攻。
鄧艾が成都へ迫ると後主・劉禅が降伏し、蜀漢は滅亡した。
・蜀漢征服後、司馬昭は晋公から晋王へと地位を高め、皇帝即位への準備を進めた。
しかし265年、皇帝になる前に死去し、子の司馬炎が晋王を継承した。
・同年、曹奐は司馬炎へ帝位を禅譲。曹丕が献帝から禅譲を受けて魏を建ててから45年後、
曹魏もまた同じ禅譲という形式によって滅亡した。
・退位した曹奐は殺害されず陳留王に封じられ、西晋のもとで生き続けた。
302年に死去し、魏の皇帝としての礼をもって葬られた。
・曹魏の皇統はここで終わったが、陳留王の爵位はその後も曹氏の子孫へ継承された。
曹奐は曹魏最後の皇帝であると同時に、王朝滅亡後も長く生きた人物だった。
王朝らしさ:
三国最大の国力を誇るも、司馬氏に実権を奪われた王朝。
キーワード
三国鼎立・九品官人法・司馬氏の台頭
空気感
曹操が築いた基盤を曹丕が王朝にし、三国最大の国力を誇ったが、
後半は司馬氏に実権を奪われていく。
物語性
曹操・曹丕・曹植の後継者争い、高平陵の変、曹髦の決起など、
曹氏と司馬氏をめぐる権力闘争が中心。
崩壊パターン
幼帝即位 → 高平陵の変 → 司馬氏専権 → 曹奐の禅譲 → 西晋成立。
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