曹嵩(そうすう)は、後漢末の武将曹操の父であり、魏の初代皇帝曹丕の祖父にあたる人物である。
曹操の父として名前を知られているものの、その生涯について残された記録は決して多くない。
むしろ曹嵩という人物を特徴づけているのは、
正史でさえ実父が誰だったのか分からないと記されている不可解な出自、
宦官 曹騰の養子となった経歴、巨額の金銭を背景に三公の太尉まで昇った官歴、
そして陶謙の支配地域を通過する途中で一族とともに殺害された壮絶な最期である。
しかも曹嵩殺害については、『三国志』本文、『後漢書』、
裴松之注に引用された『世語』『呉書』で内容が一致していない。
陶謙が曹嵩を殺害させたとするもの、陶謙配下の兵士が財宝を狙ったとするもの、
護衛を命じられた張闓が財物を奪って逃亡したとするものまであり、
誰が、どのような経緯で曹嵩を殺したのかについては、現在も史料によって説明が分かれている。
生前は後漢の太尉にすぎなかった曹嵩だが、孫の曹丕が魏を建国すると「太皇帝」と追尊された。
さらに魏明帝曹叡の時代には養父曹騰まで「高皇帝」とされ、
宦官の養子から始まった曹嵩の家系は王朝の皇統そのものへと変わっていった。
曹嵩の出自――実父が誰なのか正史にも分からない
曹嵩の生年は分かっていない。字は巨高という。
司馬彪の『続漢書』は曹嵩を「質性敦慎、所在忠孝」と記し、
敦厚で慎み深く、忠孝を尽くした人物と評価している。
曹嵩は後漢の宦官 曹騰の養子だった。
曹騰は順帝から桓帝まで四帝に仕え、桓帝擁立の功によって費亭侯となり、
大長秋・特進まで昇った人物である。
曹嵩はその家を継いだが、実際にどの家から養子に入ったのかは分かっていない。
『三国志』武帝紀は「養子嵩嗣、官至太尉、莫能審其生出本末」と記し、
曹嵩が曹騰を継いで太尉まで昇った一方、
「その出生の本末を詳らかにすることができない」としている。
これに対し、裴松之注に引かれた『曹瞞伝』と郭頒の『世語』は、
曹嵩を夏侯氏の子で、夏侯惇の叔父だったと伝える。
この説に従えば、曹操と夏侯惇は血縁上の従兄弟だったことになる。
ただし、これは『三国志』本文ではなく、後世の異説である。
陳寿自身は曹嵩の出自を不明としており、夏侯氏出身説を事実として採用してはいない。
そのため、曹嵩の実家については不明とするのが妥当であり、
夏侯氏説は史料に残る一説として扱う必要がある。
↓↓宦官 曹騰についての個別記事は、こちら

曹騰の養子となり費亭侯を継ぐ
曹騰は桓帝の時代、費亭侯に封じられていた。
延熹二年(159)に曹騰が死去すると、養子の曹嵩がその爵位を継いだ。
曹嵩は曹騰の養子となったことで、後漢の列侯である曹氏の家を継承した。
のちに司隷校尉や大司農、大鴻臚などを歴任し、中央官界で昇進していくことになる。
なお、曹騰は宦官だったが、養子の曹嵩は宦官ではない。
曹嵩は曹騰の家と爵位を継ぎ、通常の官僚として後漢朝廷に仕えた。
曹操が後に宦官の家系であることを政敵から非難されたのは、
祖父にあたる曹騰が宦官だったためである。
司隷校尉から大司農・大鴻臚へ
『続漢書』によれば、桓帝の時代に司隷校尉となった。
司隷校尉は首都洛陽とその周辺を監察し、官僚の不正を取り締まる権限を持つ重要な官職だった。
その後、霊帝の時代には大司農となった。
大司農は九卿の一つで、国家の租税や財政、穀物などを担当する高官である。
さらに大鴻臚へ移った。
大鴻臚も九卿の一つで、諸侯や外国使節の接待、朝廷の儀礼などを担当した。
このように曹嵩は司隷校尉から九卿へと進み、後漢中央政界で官職を歴任した。
なお、曹嵩は後に巨額の金銭を納めて太尉まで昇ったことが『後漢書』に記されているが、
司隷校尉・大司農・大鴻臚については、金銭によって官職を得たとする記録は残されていない。
巨額の銭を納めて太尉となる
霊帝の時代、後漢朝廷では財政収入を得るため官職の売買が行われ、
官位に応じた金額を納めて官職を得ることがあった。
曹嵩も金銭を利用して昇進したことが史書に記されている。
『後漢書』曹騰伝は、「嵩、霊帝時、貨賂中官、及輸西園銭一億万、故位至太尉」と記す。
曹嵩は霊帝の時代に中官、すなわち宦官へ賄賂を送り、
さらに西園へ「一億万」の銭を納めたため、太尉まで昇ったという。
この金額については伝本や解釈上の問題があるものの、
曹嵩の太尉就任に巨額の金銭と宦官への働きかけが関係していたことを、
『後漢書』は明確に伝えている。
中平四年(187)十一月、太尉崔烈が病によって退くと、
大司農だった曹嵩が後任の太尉となった。
『後漢紀』にも「大司農曹嵩為太尉」とあり、
司徒・司空と並ぶ三公の一つにまで昇ったことが確認できる。
ただし曹嵩は、官歴のない状態から突然太尉になったわけではない。
それ以前に司隷校尉、大司農、大鴻臚を歴任しており、すでに九卿にまで昇っていた。
そのうえで巨額の金銭と宮中への働きかけを利用し、
三公の太尉にまで昇ったと見るのが史料に沿った経歴である。
曹操の父となる
永寿元年(155)、曹嵩の子として曹操が生まれた。
曹嵩自身の出自は不明だが、曹操は曹騰から曹嵩へと継承された曹氏の家に生まれ、
祖父曹騰が得た費亭侯の爵位をはじめ、後漢中央政界と関わりの深い家系の中で成長した。
曹操は二十歳になると孝廉に推挙されて官界に入り、郎を経て洛陽北部尉となった。
やがて後漢末の争乱の中で勢力を拡大していくことになるが、
若いころから品行の整った人物だったわけではなく、
その素行をめぐって父曹嵩との間に起きた出来事が『曹瞞伝』に残されている。
曹操が中風を装って父を欺いた逸話
裴松之注に引用された『曹瞞伝』によると、
若いころの曹操は放蕩を好み、その素行を叔父から曹嵩へたびたび告げられていた。
曹嵩はそのたびに息子を叱責していたため、曹操は叔父の言葉を信用させないよう一計を案じた。
ある日、叔父と出会った曹操は、突然顔や口を歪ませ、中風を患ったような姿を見せた。
驚いた叔父が曹嵩に知らせると、曹嵩は曹操を呼び出したが、現れた息子には何の異常もなかった。
曹嵩が「叔父はお前が中風になったと言っていたが、もう治ったのか」と尋ねると、曹操は、
自分はもともと中風ではなく、叔父に好かれていないためそのようなことを言われたのだと答えた。
曹嵩はこの言葉を信じ、それ以後は叔父が曹操の素行を訴えても信用しなくなった。
そのため曹操は、以前にも増して自由に振る舞うようになったという。
この逸話は、曹操の機知と狡猾さを強調する『曹瞞伝』に収められたものであり、
そのまま史実と断定することはできない。
ただし、曹嵩と若い曹操の関係を具体的に伝える数少ない逸話でもある。
曹嵩の妻と子供たち
曹嵩の妻として史料に名が見えるのが丁氏である。
曹丕が魏を建国した後、曹嵩が太皇帝と追尊された際には、丁氏も太王后とされた。
子として最もよく知られているのは曹操だが、
曹嵩が殺害された際の記事には曹操の弟も登場する。
ただし、その名は史料によって異なっている。
裴松之注に引用された『世語』や『後漢書』応劭伝では「徳」とされ、
曹嵩とともに殺害された曹操の弟を曹徳としている。
一方、『後漢書』曹騰伝では、
曹嵩が董卓の乱を避けて「少子疾」とともに琅邪へ逃れたと記されており、曹疾という名が見える。
曹徳と曹疾が同一人物なのか、それとも別の息子なのかは史料から明確にできない。
曹操以外の曹嵩の子については記録が乏しく、詳しい事績もほとんど伝わっていない。
↓↓魏の初代皇帝・曹丕についての個別記事は、こちら

董卓の乱――琅邪へ避難する
中平六年(189)、霊帝が死去すると、外戚の何進と宦官勢力の対立が激化し、
何進は宦官によって殺害された。
混乱の中で董卓が洛陽へ入り、少帝を廃して献帝を擁立すると、
後漢の中央政界は大きく揺れることになった。
曹嵩はこのころすでに太尉を退いていた。
『三国志』武帝紀によれば、官を去った後は故郷の譙へ戻っていたが、
董卓の乱が起こると徐州方面へ移り、琅邪へ避難した。
一方、曹操は董卓政権から離脱して陳留で挙兵し、
初平元年(190)には袁紹ら関東諸侯による董卓討伐に加わった。
しかし曹嵩は息子に同行せず、『後漢書』曹騰伝は「及子操起兵、不肯相随」と記している。
曹嵩は曹操とは別行動を取り、少子の疾とともに琅邪へ避難した。
その後しばらく徐州に身を置くことになる。
琅邪で暮らす曹嵩
曹嵩が避難した琅邪国は徐州の北東部に位置していた。
この時期、曹嵩がどこでどのような生活を送っていたのか、詳しい記録は残されていない。
ただし、後の殺害事件に関する史料から、
官界を退いた後も多くの財産を保持していたことがうかがえる。
その間、曹操は兗州へ進出して勢力を拡大した。
初平三年(192)、青州黄巾の大軍が兗州へ侵入すると、曹操は兗州牧に推され、
これを破って多数を降伏させた。
兗州に拠点を築いた曹操は、琅邪にいた父を自らのもとへ迎えることになり、
曹嵩は家族や家財を伴って琅邪を離れた。
琅邪から兗州へ向かう曹嵩
曹操が兗州に勢力基盤を築いたころ、
琅邪に避難していた曹嵩は兗州方面へ移動することになった。
『後漢書』応劭伝によると、
曹嵩とその子曹徳が琅邪から泰山郡へ入ると、泰山太守の応劭が兵を派遣して迎えようとした。
一方、『世語』では、曹操が応劭に命じ、父の家族を兗州へ送り届けさせようとしたと伝えている。
また、裴松之注に引用された『呉書』によれば、曹嵩の一行は「輜重百余両」を伴っていた。
「両」はここでは車両を意味し、百両を超える車列を連ねていたことになる。
積荷のすべてが財宝だったとは限らないが、
曹嵩が多くの家財を伴って移動していたことがうかがえる。
曹嵩殺害――史料によって異なる最期
曹嵩は曹操のもとへたどり着くことができず、泰山郡周辺で殺害された。
しかし、誰が曹嵩を殺したのか、なぜ殺したのかについて、史料の内容は一致していない。
『三国志』本文は陶謙の責任とし、
『後漢書』陶謙伝は陶謙配下の兵士による財宝目当ての犯行とする。
さらに裴松之注に引用された『世語』では陶謙が意図的に兵を差し向けたことになり、
韋曜の『呉書』では陶謙から護衛を命じられた張闓が財物を奪うため曹嵩を殺したことになっている。
同じ事件でありながら、
陶謙の立場は「曹嵩を殺害させた人物」から「配下の独断によって事件が起きた人物」まで、
史料によって大きく異なっている。
『三国志』――「陶謙に害された」
陳寿の『三国志』武帝紀は、
曹嵩の死について「為陶謙所害」、すなわち陶謙によって害されたと記し、
曹操は父の仇を討つため東へ向かい、陶謙を攻撃したとしている。
『三国志』本文では曹嵩殺害の責任は陶謙にあるとされているが、
陶謙自身が殺害を命じたのか、それとも配下の兵士が独断で殺害したのかまでは説明されていない。
『後漢書』陶謙伝――財宝を狙った兵士が殺害
『後漢書』陶謙伝は、曹嵩が琅邪へ避難していたころ、陶謙の別将が陰平に駐屯しており、
その配下の兵士たちが曹嵩の財宝に目をつけたと記している。
「士卒利嵩財宝、遂襲殺之」、
すなわち兵士たちは曹嵩の財宝を奪おうとして一行を襲撃し、曹嵩を殺害したという。
この記述では陶謙自身が殺害を命じたとはされておらず、
曹嵩は陶謙配下の兵士によって財宝を目的に殺害されたことになっている。
『世語』――陶謙が数千騎を差し向ける
裴松之注に引用された『世語』では、陶謙が曹嵩の殺害に直接関与したと伝えている。
曹嵩は当時、泰山郡華県におり、曹操は泰山太守応劭に命じて父の家族を兗州へ迎えようとしていた。
ところが応劭の兵が到着する前に、陶謙が密かに数千騎を送り込んだという。
曹嵩たちはやってきた騎兵を応劭が差し向けた迎えの兵だと思い、警戒していなかった。
そこを襲撃され、最初に曹操の弟曹徳が門の中で殺害された。
曹嵩は屋敷の裏の垣根を壊して逃げようとし、まず一緒にいた妾を外へ出そうとした。
しかし妾は太っていたため、すぐに穴を抜けることができなかった。
逃げ遅れた曹嵩は厠へ身を隠したものの、やがて発見され、妾とともに殺害された。
『世語』は最後に「闔門皆死」と記しており、曹嵩の一門は皆殺しになったという。
曹嵩が妾を逃がそうとしたことや、厠へ隠れて殺害されたという具体的な最期は
『世語』に伝えられたものであり、『三国志』本文には記されていない。
そのため、曹嵩の最期を伝える逸話の一つとして扱う必要がある。
『呉書』――護衛の張闓が財宝を奪う
裴松之注に引用された韋曜の『呉書』は、曹嵩殺害について別の経緯を伝えている。
曹操が父を迎えようとしたとき、曹嵩の一行は百両を超える輜重を伴っていた。
徐州牧陶謙は都尉の張闓に二百騎を与え、曹嵩一行の護衛にあたらせたという。
ところが張闓は曹嵩の財物に目をつけ、泰山郡の華県・費県の間で曹嵩を殺害した。
『呉書』は「闓於泰山華、費間殺嵩、取財物、因奔淮南」と記しており、
張闓は財物を奪った後、そのまま淮南へ逃亡したとされる。
この記述では、陶謙は曹嵩の殺害を命じたのではなく、
むしろ張闓に護衛を命じたことになっている。
しかし配下の張闓が独断で曹嵩を殺害したため、
曹操はその責任を陶謙に帰し、徐州へ攻め込んだと『呉書』は伝えている。
曹嵩殺害を伝える諸史料の中では、陶謙自身の関与を最も小さく描いている説である。
『後漢書』応劭伝――陶謙が曹嵩と曹徳を追わせた
『後漢書』応劭伝にも、曹嵩殺害について独自の記録が残されている。
興平元年(194)、前太尉の曹嵩とその子曹徳が琅邪から泰山へ入ると、
泰山太守応劭は兵を派遣して迎えようとした。
しかし迎えの兵が到着する前に、徐州牧陶謙が軽騎を送り、曹嵩と曹徳を追わせ、
郡境で二人を殺害したという。
応劭伝では、陶謙は曹操からたびたび攻撃を受けていたため、これを恨んで曹嵩を襲わせたとされる。
曹嵩が殺害されると、応劭は曹操から責任を問われて殺されることを恐れ、
官職を捨てて冀州牧袁紹のもとへ逃亡した。
『世語』にも応劭が曹操を恐れて袁紹のもとへ逃れたとする記述があり、
この点では両史料が一致している。
曹嵩は193年に死んだのか、194年に死んだのか
曹嵩の死亡年についても史料は一致しておらず、
初平四年(193)と興平元年(194)の二つの年代が考えられる。
『後漢書』陶謙伝では、曹嵩が陶謙配下の兵士に殺害されたことを記した後、
「初平四年、曹操撃謙」と続けている。
文脈上は、曹嵩の死を受けて初平四年(193)に曹操が陶謙を攻撃した形になっており、
曹嵩の死亡を193年以前または同年と見ることができる。
一方、『後漢書』応劭伝は「興平元年(194)」と明記し、
この年に曹嵩と曹徳が琅邪から泰山へ入り、陶謙の兵に殺害されたとしている。
『三国志』武帝紀では、
初平四年(193)の秋に曹操が陶謙を攻撃したことを記し、翌興平元年(194)の条で、
曹嵩が陶謙に殺害されたため曹操が復讐を志して東征したという事情を説明している。
この記述からは曹嵩の死を193年の徐州攻撃以前と見ることもできるが、
応劭伝のように194年と明記する史料もあるため、死亡年を一方に断定することは難しい。
そのため曹嵩の死亡年については、
初平四年(193)とする説と興平元年(194)とする説があり、
史料によって年代が異なっている。
父の死と曹操の徐州侵攻
『三国志』武帝紀は、父曹嵩を陶謙に殺された曹操が復讐を志し、徐州へ侵攻したと記している。
初平四年(193)、曹操は陶謙を攻め、十余城を攻略した。
『後漢書』陶謙伝によると、曹操は彭城・傅陽で陶謙軍を破り、
郯まで進んだものの陥落させることはできず、撤退の途中で取慮・雎陵・夏丘などを攻略した。
この際には大規模な殺戮が行われ、男女数十万人が殺され、鶏や犬まで残らず、
死体によって泗水の流れが止まったと伝えられている。
数字をそのまま実数として受け取れるかは別として、
曹操軍による徐州での殺戮が史書に記録されていることは確かである。
興平元年(194)、曹操は再び徐州へ侵攻し、五城を攻略して東海まで進出した。
帰路には郯の東で陶謙配下の曹豹と劉備を破り、襄賁を攻略している。
『三国志』は曹操軍が通過した土地について「多く残戮する所あり」と記し、
裴松之注に引用された孫盛も、罪のある陶謙を討つことと、
その支配下の民衆を殺害することは別であるとして曹操を批判している。
曹嵩の死は、曹操が陶謙を攻撃する理由の一つとして史書に記されている。
ただし、前述したように曹嵩の死亡年には193年説と194年説があり、
曹嵩殺害と二度の徐州侵攻の前後関係については史料間に食い違いがある。
曹嵩の墓と曹氏一族の墓域
曹嵩の遺体が殺害後どのように回収され、いつ埋葬あるいは改葬されたのかについて、
正史には詳しい記録が残されていない。
曹氏の本拠だった沛国譙県、現在の安徽省亳州市周辺には、
後漢末から魏にかけての曹氏一族の墓群があり、曹嵩の墓と伝えられる墓も存在する。
ただし、伝承によって曹嵩墓とされているものと、
出土した文字資料などから被葬者を特定できる墓は区別して考える必要がある。
亳州の曹氏宗族墓群からは、後漢末の曹氏一族を知るうえで重要な文字資料などが出土している。
また近年には、曹氏一族の墓から得られた資料を利用し、
曹操一族の系統を遺伝学的に検討する研究も行われている。
ただし、これらの研究によって曹嵩本人の実父や出自が直接確認されたわけではなく、
史料に残る夏侯氏出身説を確定できる段階には至っていない。
曹操が魏王となる
曹嵩の死後、曹操は後漢末の争乱の中で勢力を拡大した。
建安元年(196)には献帝を迎えて許へ都を移し、
建安五年(200)の官渡の戦いで袁紹を破ると、その後は河北の袁氏勢力を平定していった。
建安十八年(213)には魏公に封じられ、冀州十郡を領する魏公国を立てた。
さらに建安二十一年(216)には魏王となり、
後漢の臣下でありながら王号を持つまでに地位を高めた。
曹操自身は皇帝に即位しないまま建安二十五年(220)に死去したが、
その子曹丕が同年に献帝から禅譲を受けて魏を建国したことで、
すでに亡くなっていた曹嵩も魏皇帝の祖父として王朝の祖先に位置づけられることになった。
曹丕が魏を建国――曹嵩を「太皇帝」と追尊
建安二十五年(220)正月、曹操が洛陽で死去すると、曹丕が魏王・丞相の地位を継承した。
同年十月には後漢の献帝から禅譲を受けて皇帝に即位し、魏を建国した。
曹丕は父曹操を武皇帝と追尊し、廟号を太祖とした。
さらに祖父曹嵩にも「太皇帝」の尊号を贈っており、
『続漢書』には「黄初元年、追尊嵩曰太皇帝」と記されている。
曹嵩は生前に皇帝となった人物ではなく、後漢に仕えて太尉まで昇った官僚だったが、
死後二十年以上を経て孫の曹丕が魏を建国したことで、皇帝の祖父として「太皇帝」と追尊された。
また、曹嵩の夫人丁氏も「太王后」とされている。
曹騰まで皇帝となる――曹叡による高皇帝追尊
曹丕の死後、その子曹叡が魏の明帝として即位すると、
魏の皇統はさらに一世代さかのぼることになった。
太和三年(229)六月、曹叡は曾祖父にあたる曹騰を「高皇帝」、
その夫人呉氏を「高皇后」と追尊し、鄴の廟で祭祀した。
曹騰は後漢に仕えた宦官であり、生前に皇帝となった人物でも皇族だった人物でもない。
しかし曹嵩を養子として家を継がせ、その系譜から曹操・曹丕・曹叡が出たため、
魏王朝成立後には皇室の祖先として皇帝号を与えられた。
これによって、曹騰は高皇帝、曹嵩は太皇帝、曹操は武皇帝、曹丕は文皇帝とされ、
その後に明皇帝曹叡へと続く魏の皇統が形成された。
ここで注目されるのは、曹嵩が曹騰の養子だったという関係が、
魏の皇統にそのまま組み込まれたことである。
曹嵩の実父が誰だったのかは正史でも不明とされているが、
曹騰の養子として曹氏を継いだことは正式な系譜として扱われた。
その結果、後漢の宦官だった曹騰も魏皇室の祖先となり、「高皇帝」として祭祀されることになった。
↓↓魏の第二代皇帝・曹叡についての個別記事は、こちら

曹嵩の人物像・評価
曹嵩は曹操の父という重要な立場にありながら、本人の言行を伝える史料は少ない。
司馬彪の『続漢書』は「質性敦慎、所在忠孝」と評価しており、
敦厚で慎み深く、忠孝を尽くした人物として描いている。
一方、『後漢書』は霊帝の時代に宦官へ賄賂を送り、
西園へ莫大な金銭を納めたため太尉まで昇ったと記している。
この二つの記録は必ずしも矛盾するものではない。
人柄については慎み深く忠孝な人物と評価される一方、
官界では金銭や宦官との関係を利用して三公の太尉にまで昇った人物だったことになる。
ただし、曹嵩の官歴を太尉就任時の金銭だけで説明することもできない。
太尉となる以前から司隷校尉・大司農・大鴻臚を歴任しており、すでに中央官界で高い地位にあった。
その一方で、政治家や軍人として特筆されるような功績は史料に残されていない。
曹嵩の死は曹操と陶謙の抗争とも深く結びついている。
曹操は父を陶謙に殺されたとして徐州へ侵攻し、
その過程では多数の住民が殺害されたことが『三国志』『後漢書』に記されている。
ただし、曹嵩殺害の経緯そのものが史料によって異なるため、
陶謙がどこまで直接関与していたのかは明確ではない。
また、曹嵩の出自は最後まで明らかにならなかった。
『三国志』はその出生の本末を詳らかにできないとし、
裴松之注に引かれた『曹瞞伝』『世語』には夏侯氏出身説が残されているものの、確証はない。
曹嵩自身について残された記録は多くないが、
宦官 曹騰の養子としてその家を継ぎ、後漢の三公にまで昇り、
その子曹操から魏の皇室へと続く曹氏の系譜をつないだ人物である。
孫の曹丕が魏を建国すると「太皇帝」と追尊され、曹嵩は死後、魏王朝の祖先として位置づけられた。
まとめ
曹嵩は曹操の父として知られるが、
本人について残された記録は意外なほど少なく、その出自さえ正史では不明とされている。
宦官 曹騰の養子として曹氏を継ぎ、後漢では三公の太尉にまで昇った。
一方、その昇進には巨額の金銭が関わっていたことも史書に記されており、
後漢末の政治と売官の実態を示す人物でもある。
その最期についてはさらに不明な点が多い。
曹操のもとへ向かう途中で殺害されたことは共通しているものの、
陶謙が命じたのか、配下の兵士や張闓が財宝を狙ったのかについて史料は一致せず、
死亡年にも193年と194年の二説が残る。
生前の曹嵩は後漢の官僚だったが、孫の曹丕が魏を建国すると「太皇帝」と追尊された。
実父さえ明らかでなかった曹嵩が曹騰の家を継ぎ、
その系譜から曹操、曹丕が現れたことで、曹氏は後漢の一官僚家から魏の皇室へとつながっていった。
史書・参考文献
『三国志』魏書「武帝紀」
裴松之注所引『続漢書』
裴松之注所引『曹瞞伝』
裴松之注所引『世語』
裴松之注所引 韋曜『呉書』
『後漢書』「宦者列伝・曹騰伝」
『後漢書』「劉虞公孫瓚陶謙列伝・陶謙伝」
『後漢書』「楊李翟応霍爰徐列伝・応劭伝」
袁宏『後漢紀』
司馬光『資治通鑑』

