【魏】曹節|曹操の娘として生まれ、後漢最後の皇后となった女性

曹節(魏・曹操の娘) 01.皇后

曹節は、後漢末の権力者曹操の娘であり、
後漢最後の皇帝・献帝劉協の皇后となった女性である。

姉妹の曹憲・曹華とともに献帝の後宮へ入り、建安二十年(215)に皇后となった。
父は後漢王朝の実権を握った曹操、兄弟にはのちに魏を建国する曹丕らがおり、
一方で夫は曹氏によって政治的権力を奪われていった献帝であった。

曹節について残された記録は多くない。
しかし『後漢書』には独立した皇后紀があり、
曹憲・曹華とともに入内した経緯、伏皇后に代わって皇后となったこと、
曹丕の禅譲に際して璽綬の引き渡しを拒んだこと、後漢滅亡後に山陽公夫人となったこと、
そして死後に献帝と合葬されたことまでが記されている。

とりわけ王朝交代時の逸話は、
曹操の娘でありながら皇后として振る舞った曹節の姿を伝えるものとして知られる。

本記事では曹節を中心に、同じく献帝の後宮へ入った姉妹の曹憲・曹華についても含め、
正史に確認できる記録を時系列に沿って整理する。

曹操の娘として生まれる

曹節の生年は分かっていない。

『後漢書』皇后紀下は曹節について「献穆曹皇后、諱は節、魏公曹操の中女なり」と記している。
「中女」は一般に曹操の娘たちのうち中ほどの娘、あるいは三姉妹の中の娘という意味に解されるが、
曹操の娘全体の出生順を確定できる史料は残っていない。

母についても正史には記載がなく、曹節・曹憲・曹華が同母姉妹であったかどうかも明らかではない。

父の曹操は沛国譙県の出身で、後漢末の群雄の一人として勢力を拡大した。
建安元年(196)に献帝を迎えて許へ都を移すと、朝廷の実権を掌握し、
袁紹をはじめとする諸勢力を破って華北の大部分を支配するようになった。

曹節が史書に初めて現れるのは建安十八年(213)である。
この年は曹操が魏公となった年でもあり、曹氏の政治的地位がさらに高まった時期に当たる。

曹操には多数の娘がいたが、そのうち曹憲・曹節・曹華の三人が、
そろって献帝の後宮へ入ることになった。

曹憲・曹節・曹華の三姉妹が献帝の後宮へ入る

建安十八年(213)、曹操は曹憲・曹節・曹華の三人の娘を献帝に差し出した。

『後漢書』皇后紀下には、
「操、三女憲・節・華を進めて夫人と為す」とあり、三人はまず「夫人」とされた。

この際、聘礼として玄纁などの絹五万匹が用意されたことも記されている。
玄纁とは黒色と赤色の絹で、古代中国の婚姻儀礼などに用いられたものである。

ただし三人が同時に実際の婚姻生活へ入ったわけではなかった。

『後漢書』には「小なる者は国に待年す」とあり、
年少の娘は婚姻に適した年齢になるまで曹氏のもとにとどまった。
三人のうち誰を指すのかについて本文では明記されていないため、
曹華と断定することは避ける必要がある。

翌建安十九年(214)、曹憲・曹節・曹華はそろって「貴人」に昇った。

貴人は後宮における高位の妃嬪であり、
曹操の三人の娘がそろって献帝の后妃となったことになる。

これは単なる曹家と皇室との婚姻ではない。
当時の献帝はすでに曹操の強い統制下にあり、
朝廷の軍事・人事を含む実権は曹操が握っていた。

皇帝の後宮に三人もの娘を入れることによって、
曹氏と皇帝家の関係は婚姻によっても結びつけられた。

しかしこの時点では、献帝にはすでに皇后がいた。伏皇后、名を伏寿という。

伏皇后事件と曹節の立后

曹節が貴人となった当時、献帝の皇后は伏寿だった。

伏皇后は建安元年(196)に皇后となったが、
曹操が朝廷の実権を強めるにつれて、その存在を強く警戒するようになる。

『後漢書』によれば、建安五年(200)、
董承らによる曹操排除の計画が発覚して関係者が処刑されると、
伏皇后は父の伏完に密書を送り、曹操を排除するよう求めた。

伏完は行動を起こさないまま死去したが、この密書の存在はのちに曹操の知るところとなった。
建安十九年(214)、曹操は献帝に迫って伏皇后を廃させた。

伏皇后は宮中の壁の中に隠れたものの、曹操が派遣した郗慮・華歆らによって連れ出された。
このとき伏皇后は髪を乱し、裸足のまま献帝に「陛下は私を救うことができますか」と訴えたという。

献帝は「自分がいつまで生きていられるかさえ分からない」という趣旨の言葉を返した。

伏皇后は幽閉されたのち死亡し、彼女が生んだ二人の皇子も殺害された。
伏氏一族にも処罰が及び、皇后の座は空位となった。

翌建安二十年(215)、曹節が皇后に冊立された。
『後漢書』は「節を立てて皇后と為す」と記すのみで、
三姉妹のうち曹節が選ばれた理由は伝えていない。

こうして曹節は、姉妹の曹憲・曹華に先んじて、後漢最後の皇后となった。

後漢最後の皇后となる

曹節が皇后となった建安二十年(215)、献帝は三十五歳前後であった。
一方、曹節の年齢は分からない。

この時点で後漢王朝の政治的実権はほぼ曹操の手にあった。

建安十八年(213)に魏公となった曹操は、
冀州十郡を中心とする魏国を与えられ、独自の官僚機構を整備していた。
建安二十一年(216)には魏王となり、
形式上は漢の臣下でありながら、実質的には皇帝に近い権力を持つようになる。

曹節は、その曹操の娘であると同時に献帝の皇后となった。
曹操にとっては、娘を皇后とすることで皇帝家との婚姻関係をさらに強化したことになる。

しかし曹節自身が父の政治活動に協力したことを示す記録は残されていない。
皇后としての曹節の日常や、献帝との夫婦関係についても史書は伝えていない。
子を生んだという記録もない。

曹節が皇后となった後も、曹操はさらに地位を高めていったが、
最後まで献帝から帝位そのものを奪うことはなかった。
建安二十五年(220)正月、曹操は洛陽で死去した。

後を継いだのが曹節の兄弟に当たる曹丕である。
曹丕は魏王・丞相の地位を継承し、同年中に後漢王朝そのものを終わらせることになる。

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曹丕による禅譲

建安二十五年(220)、曹操の死後、曹丕は魏王となった。

やがて献帝から曹丕への禅譲が進められる。
禅譲とは、皇帝が徳のある人物へ自発的に帝位を譲るという形式である。

実際には曹氏がすでに軍事・政治の実権を握っており、
献帝に禅譲を拒み続けられるだけの力はなかった。

延康元年(220)十月、献帝は曹丕へ帝位を譲った。
曹丕は皇帝として即位し、国号を魏とした。これによって約二百年続いた後漢は滅亡する。

曹節にとっては、父曹操が築いた政権を兄弟の曹丕が王朝へ変え、
その結果として自分が皇后を務めていた漢が消滅した
ことになる。

璽綬の引き渡しを拒否する

曹丕が献帝から禅譲を受けることになると、
魏側は皇帝の璽綬を引き渡すよう曹節のもとへ使者を送った。
璽は皇帝の印、綬はそれを帯びるための組紐であり、
ここでは皇帝の地位を示す璽綬が曹節のもとにあったことが分かる。

『後漢書』によれば、曹節は璽綬を求められると怒って引き渡しを拒み、
使者が何度訪れても応じなかった。
使者が数回にわたって往来したのち、曹節は使者を呼び入れて叱責し、
璽綬を軒下へ投げ出したという。

さらに曹節は涙を流しながら「天、爾を祚けず」と言った。
これは「天はお前たちに福を与えない」といった意味で、
『後漢書』は、その場にいた者たちが皆、顔を上げて曹節を見ることができなかったと伝えている。

この逸話は、曹節について『後漢書』が残した数少ない具体的な言動の一つである。
なお、後世には曹節が曹丕や曹氏一族を激しく罵倒したとする話や、
璽綬を受け取りに来た使者を華歆とする叙述も見られるが、
『後漢書』皇后紀では使者の個人名を記していない。

正史本文で確認できるのは、曹節が璽綬の引き渡しを数回拒み、
使者を叱責したうえで璽綬を投げ出し、「天不祚爾」と述べたところまでである。

曹操の娘でありながら漢の皇后だった曹節

曹節は曹操の娘として献帝の後宮に入り、伏皇后の死後に皇后となった。
『後漢書』はその在位期間を七年と記しており、
建安二十年(215)の立后から延康元年(220)の後漢滅亡まで、後漢最後の皇后の地位にあった。

父の曹操は後漢の実権を握り、兄弟の曹丕は最終的に献帝から禅譲を受けて魏を建国した。
そのため曹節は、後漢から魏への王朝交代を進めた曹氏の一員であると同時に、
帝位を譲る側となった献帝の皇后でもあった。

『後漢書』は曹節の政治的な考えや、父曹操や曹丕との関係について詳しく伝えていない。
そのため、曹節が曹氏と後漢のどちらに強い帰属意識を持っていたのかを
史料から判断することはできない。

献帝から山陽公へ

後漢の滅亡後、献帝劉協は曹丕によって山陽公に封じられ、食邑一万戸を与えられた。
これに伴い、曹節も皇后から山陽公夫人となった。
『後漢書』は「魏氏既に立ち、后を以て山陽公夫人と為す」と記している。

山陽公となった劉協には、魏の臣下とは異なる特別な待遇が認められた。
魏の詔書を受ける際に臣下として拝礼する必要がなく、
祭祀や儀礼では漢の制度を用いることが許され、
山陽公国内では漢の正朔や服色を引き続き用いることが認められた。

曹節も山陽公夫人として夫とともにその後の時代を過ごしたとみられるが、
山陽公国での生活について正史は具体的に伝えていない。
また、曹節と劉協の間に子がいたことを示す確実な記録もない。

劉協には子孫がおり、山陽公の爵位も継承されたが、
その子らを曹節の所生とする史料は確認できない。

曹憲と曹華はどうなったのか

曹節とともに献帝へ嫁いだ曹憲・曹華については、
建安十九年(214)に貴人となったところまでが『後漢書』皇后紀下に記されている。
その後の二人については、正史にまとまった伝記がない。

曹憲の生年・没年、曹華の生年・没年はいずれも不明である。
献帝との間に子をもうけたという確実な記録もない。
後漢滅亡後に二人が山陽公国へ同行したのか、魏から別の待遇を受けたのか、
いつ死亡したのかについても、現存する主要な正史からは確認できない。

したがって三姉妹を扱う場合、史料上の情報量には大きな差がある。

確認できる共通の経歴は、曹操の娘であること、
建安十八年に三人そろって献帝の夫人とされ、翌年に貴人となったことまでである。

その後、曹節だけが皇后となり、『後漢書』に「曹皇后紀」として記録を残した。

献帝の死

青龍二年(234)、山陽公となっていた劉協が死去した。享年五十四。

魏は劉協に「孝献皇帝」の諡号を贈り、漢の天子の礼を用いて葬った。陵墓は禅陵と呼ばれる。

曹節は夫の死後も生存していた。
この時点で父曹操はすでに亡く、曹丕も黄初七年(226)に死去しており、
魏では曹丕の子曹叡が皇帝となっていた。

曹節が献帝の死後どこで暮らし、どのような待遇を受けていたのかについて、
史書は詳しく伝えていない。曹節はその後も二十六年ほど生き、景元元年(260)に死去する。

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景元元年、曹節の死

曹節は魏の景元元年(260)に死去した。

『後漢書』の伝世本文には、版によって没年を「景初元年」とするものがある。
しかし同じ箇所には、魏が成立してから「四十一年」と記されており、
景初元年(237)では年代が一致しない。
「景元元年」とする本文もあり、曹節の没年は一般に景元元年(260)とされる。

曹節の生年は分からないため、享年も不明である。
ただし、建安十八年(213)に献帝の後宮へ入ったことが記録されており、
それから死去するまで四十七年を経ている。
また、後漢が滅亡した延康元年(220)から数えても、約四十年を魏の時代に生きたことになる。

曹節が死去した景元元年には、魏では司馬昭が実権を握っていた。
同年五月には皇帝曹髦が殺害され、その後、曹奐が新たな皇帝として即位している。

曹操の娘として後漢末に生まれた曹節は、父の死、後漢の滅亡、曹丕曹叡らの死を経て、
司馬氏が魏の実権を握る時代まで生きたことになる。

献帝の禅陵へ合葬される

曹節の死後、遺体は夫である献帝の禅陵へ合葬された。

『後漢書』は、「禅陵に合葬し、車服礼儀、皆漢制に依る」と記している。
葬送に用いられた車・服飾・礼儀はいずれも漢の制度に従った。

この記述は曹節の生涯の最後を考えるうえで重要である。

曹節は魏王朝を築いた曹氏の出身であったが、死後に魏の皇族女性として葬られたのではなく、
後漢最後の皇帝である献帝の妻として扱われた。

夫が皇帝の地位を失ってから約四十年を経ていたにもかかわらず、
葬儀には漢の制度が用いられたのである。
曹節は最終的に献帝と同じ禅陵に葬られ、後漢最後の皇后としてその生涯を終えた。

「献穆皇后」という呼称

曹節は一般に「献穆皇后」「献穆曹皇后」と呼ばれる。
『後漢書』皇后紀下も伝の冒頭で「献穆曹皇后、諱は節」と記している。

後漢皇后の呼称には、皇帝の諡号と皇后自身に関わる称号が組み合わされる場合があり、
曹節は献帝の皇后として後世に「献穆皇后」と呼ばれた。

『後漢書』皇后紀の論では、漢代の皇后の諡号制度そのものについても説明が加えられている。
後漢では明帝の馬皇后が「明徳皇后」と称されたのをはじめ、
皇帝の諡号に皇后の徳を表す文字を組み合わせる形式が用いられたことが述べられている。

曹節の場合の「穆」も、そのような後漢皇后の称号体系の中に位置づけられる。

『後漢書』が残した曹節の人物像

曹節について、范曄は詳細な人物評を残していない。
そのため、性格や政治思想を具体的に復元することは難しい。

史料から確認できる本人の行動として最も明瞭なのは、
曹丕への禅譲に際して璽綬の引き渡しを拒んだ一件である。

この逸話だけから曹節を「反曹氏の女性」「漢王朝への忠臣」とまで評価することはできない。
父曹操によって献帝の後宮へ入れられ、伏皇后の死後に皇后となったという事実も同時に存在する。

一方で、曹節が魏の成立を無条件に歓迎したと見ることも、『後漢書』の記録とは合わない。

使者を何度も退け、最後には璽綬を投げ出し、涙を流しながら「天不祚爾」と言ったという記述は、
少なくとも王朝交代の瞬間に曹節が皇后という立場から行動したことを示している。

曹節は、曹氏と漢王室という二つの家の間に位置した女性だった。

父は曹操、兄弟には魏の初代皇帝曹丕がいる。
しかし夫は後漢最後の皇帝であり、自身も後漢最後の皇后となった。

その立場の矛盾が最も明確に表れたのが、延康元年の璽綬をめぐる逸話だった。

曹節と曹操の三人の娘

曹憲・曹節・曹華の三人は、建安十八年(213)にそろって献帝の夫人とされ、
翌建安十九年(214)には貴人となった。
しかし、それ以降の三人について残された記録には大きな差がある。

曹節は伏皇后に代わって皇后となったため、
『後漢書』皇后紀に「献穆曹皇后」として記録が残された。

一方、曹憲と曹華について正史から確認できる事績はきわめて少なく、
貴人となった後の動静や没年なども明らかではない。
献帝との間に子があったことを示す確実な記録もなく、
後漢滅亡後にどのように暮らしたのかについても史書は伝えていない。

したがって、曹操の三人の娘のうち、
その後の生涯をある程度たどることができるのは曹節だけである。

曹憲と曹華については、曹節とともに献帝の後宮へ入ったことが確認できるものの、
それ以上の人物像を正史から復元することは難しい。

まとめ

曹節について正史に残された記録は決して多くないが、
曹操の娘でありながら後漢最後の皇后となったため、
後漢から魏への王朝交代と深く関わる人物となった。

なかでも『後漢書』が詳しく伝えるのが、
曹丕への禅譲に際して璽綬の引き渡しを拒んだ逸話である。
曹節がどのような考えからこの行動を取ったのかは記されておらず、
漢への忠誠などを理由として断定することはできない。

一方で、使者を何度も退け、最後には「天不祚爾」と言ったことまで記録されている点は、
曹節について残された数少ない具体的な言動として重要である。

後漢の滅亡後も曹節は山陽公夫人として生き、
死後は献帝と禅陵に合葬され、葬送には漢の制度が用いられた。

曹操の三人の娘のうち、曹憲と曹華は貴人となった後の記録がほとんど残されていないのに対し、
曹節は献帝の皇后となったことで、
その生涯の一部が後漢最後の皇后として史書に残されることになった。

史書・参考文献

『後漢書』皇后紀下・献穆曹皇后紀
『後漢書』皇后紀下・献帝伏皇后紀
『後漢書』孝献帝紀
『三国志』魏書・武帝紀
『三国志』魏書・文帝紀
『三国志』魏書・明帝紀
『資治通鑑』漢紀・魏紀

※『後漢書』曹皇后紀の曹節没年には、伝世本文によって「景初元年」と「景元元年」の異同がある。ただし同紀自身が魏成立後「四十一年」と記しているため、年代上は景元元年(260)とするのが整合する。本文では景元元年を採用した。