【南朝陳】陳叔陵(始興王)|墓を暴き、兄・陳叔宝を襲った陳宣帝の皇子

陳叔陵(南朝陳・陳叔宝の異母弟) 031.皇族・王族

南朝陳の始興王・陳叔陵(ちんしゅくりょう)は、
宣帝・陳頊の第二皇子であり、後主・陳叔宝の異母弟にあたる。

陳叔陵の名は、父の宣帝が死去した直後、
皇太子だった陳叔宝を刃物で襲い、その後、東府で兵を集めて抵抗した事件によって知られる。
しかし『陳書』や『南史』に残された人物像を見ると、
この襲撃事件だけを取り上げて陳叔陵を語ることはできない。

十代で地方長官となった頃から独断的な統治を行い、
官吏を威圧し、管轄外の人間まで勝手に取り調べた。
湘州では住民を強制的に配下へ組み込み、逃亡者が出ればその妻子を殺したとされる。
都へ戻ってからは権勢を背景に官僚を脅し、墓を暴いて副葬品や人骨を収集し、
実母の墓を造るため東晋の名臣・謝安の墓まで掘り返した。

それにもかかわらず、父の宣帝は陳叔陵を寵愛し、決定的な処罰を加えなかった。

宣帝が死去すると、陳叔陵は皇太子陳叔宝を襲撃し、
失敗すると東府へ逃れて兵を集めたが、わずか数時間のうちに殺害され、その子供たちも処刑された。

陳宣帝の第二皇子として生まれる

陳叔陵、字は子嵩。
父はのちに南朝陳の第四代皇帝となる宣帝・陳頊で、母は彭氏である。
『南史』では彭氏を「彭貴人」と記している。
宣帝には多数の皇子がいたが、陳叔陵は第二皇子にあたり、第一皇子がのちの後主・陳叔宝だった。

陳叔陵が生まれたのはの承聖年間、父の陳頊が江陵で直閤将軍を務めていた時期である。

承聖三年(554年)、西魏軍が江陵を攻略するとの元帝は殺害され、江陵政権は崩壊した。
この混乱の中で陳頊は関中へ連行されたが、幼い陳叔陵は穰城に残された。

その後、陳頊が南へ帰還する際には、陳叔宝と陳叔陵が人質として残されたという。
兄弟が父とともにすぐ南朝へ帰還できたわけではなかった。

天嘉三年(562年)、陳叔陵は陳叔宝とともに南朝陳の都・建康へ戻り、
康楽侯に封じられ、五百戸を与えられた。

『陳書』は若い頃の陳叔陵について、
機転が利き弁舌に長け、名声を求める一方、「彊梁にして推屈する所なし」と記す。
他人に屈することを嫌う、強硬な性格だったとみられる。

↓↓異母兄・陳叔宝についての個別記事は、こちら

【南朝陳】陳叔宝|井戸に隠れて捕らえられた南朝最後の皇帝
陳叔宝(ちんしゅくほう)とは何者か。南朝陳最後の皇帝として即位後、寵臣と宴楽にふけり国政を崩壊させ、隋の侵攻により建康陥落、井戸に隠れて捕らえられた。詩人としての側面や「玉樹後庭花」、諡号「煬」の意味まで含め、その生涯と亡国の実態を解説。

地方長官として強権的な統治を行う

十代で江州を統治する

光大元年(567年)、陳叔陵は中書侍郎となり、
翌光大二年(568年)には持節・都督江州諸軍事・南中郎将・江州刺史として地方へ出た。
さらに父の陳頊が即位して宣帝となった後の太建元年(569年)には始興郡王に封じられ、
昭烈王の祭祀を継承するとともに、使持節・都督江・郢・晋三州諸軍事・軍師将軍に任じられ、
引き続き江州刺史を務めた。

この時、陳叔陵はまだ十六歳だったが、名目だけの地方長官ではなかった。
『陳書』は「政自己出、僚佐莫預焉」と記しており、
政務はすべて陳叔陵自身の判断で処理され、補佐官たちはほとんど関与できなかったという。
性格も厳しく、部下たちは陳叔陵を恐れていた

陳叔陵は貴族の子弟や任期を終えた県令・県長まで強制的に自分の府へ仕えさせており、
その一例として豫章内史・銭法成の事件が伝わる。

銭法成が陳叔陵のもとを訪れて挨拶すると、
陳叔陵はその息子の銭季卿を、自分の馬や武器を扱う役に付けた。
しかし季卿はそれを恥じ、すぐには出仕しなかったため、陳叔陵は怒って父の銭法成を辱めた。
屈辱を受けた銭法成は憤慨し、ついには自ら縊死したという。

陳叔陵の権力行使は、自分の管轄する江州の内部だけに収まらなかった。
他州・他県の人間まで勝手に呼び出して取り調べ、
朝廷の貴族や下級官吏であっても自分の意向に逆らえば罪状を作って奏上し、
重罪に陥れたと『陳書』は記している。


それでも中央での評価や地位が低下した形跡はなく、
雲麾将軍・散騎常侍へ進み、太建三年(571年)には侍中も加えられた。

湘州で強権的な統治を行う

太建四年(572年)、陳叔陵は都督湘・衡・桂・武四州諸軍事・平南将軍・湘州刺史へ転任した。
この頃にはすでにその苛烈な振る舞いが広く知られていたらしく、
陳叔陵が赴任すると聞いただけで周辺の州鎮が震え上がったと史書は記している。

湘州に入った陳叔陵は、夷・獠と呼ばれた南方の諸集団を討伐したが、
そこで得た財物をほとんど自分のものとし、従軍した兵士への恩賞には十分に回さなかった。
また、住民に対する物資の徴発や労役も際限なく課したとされ、
地方統治は次第に苛酷なものとなっていった。

陳叔陵の生活ぶりも常人とはかなり異なっていた。
夜になっても眠らず、蝋燭を朝まで灯して賓客を集め、
民間の細かな噂話などを語りながら戯れに興じたという。
酒は飲まなかったものの、料理や肉類を大量に用意させ、昼夜を問わず食べ続けていた。
こうして朝まで起きているため、眠りにつくのは正午頃であり、
役所の文書も陳叔陵自身が呼び出さない限り担当者から提出することが許されなかった。

そのため政務の停滞も少なくなかった。
軽い鞭打ち程度で済む罪を犯した者であっても、いったん牢獄へ入れられると、
そのまま数年間にわたって放置されることがあったという。
陳叔陵の気分や生活時間そのものが行政を左右し、
通常の手続きが機能しにくい状態になっていたことがうかがえる。

さらに陳叔陵は、瀟水・湘水以南の住民を大規模に自分の従者として取り込み、
町や村に人がほとんど残らなくなるほどだったと『陳書』は記している。
強制的に連れ出された者の中から逃亡者が出ると、その妻子を殺害することさえあったとされるが、
地方官たちは陳叔陵の報復を恐れ、こうした実態を朝廷へ報告できなかった。
そのため宣帝は湘州で何が起きているのか、十分には把握していなかったという。

それでも陳叔陵の官位は下がることなく、
やがて鎮南将軍に進み、鼓吹一部を与えられた後、中衛将軍にも任じられた。

湘州での統治には多くの問題があったにもかかわらず、
中央における皇子としての地位と待遇はむしろ高まり続けていた。

揚州刺史となり、朝廷内部にまで影響力を広げる

太建九年(577年)、陳叔陵は使持節・都督揚・徐・東揚・南豫四州諸軍事・揚州刺史となった。
翌太建十年(578年)には都へ戻り、扶を加えられ、油幢車を与えられるなど、
皇子として高い待遇を受けた。
揚州の治所は建康の東府に置かれており、
首都を含む重要地域の軍政を掌握する立場となった陳叔陵は、
地方行政だけでなく中央官庁の政務にも頻繁に干渉するようになった。

官僚に対する態度は江州や湘州を統治していた頃と変わらず、
自分の意向に従う者については宣帝に働きかけて昇進させる一方、
少しでも逆らう者がいれば罪に陥れ、重い場合には死刑に至らせたという。

皇帝の実子という立場に加えて、首都周辺の軍政を握る揚州刺史としての権限を持ったことで、
その影響力は朝廷内部にまで及ぶようになっていた。

こうした振る舞いから、
『陳書』は当時、陳叔陵に「非常の志」があるとの噂が流れていたと記している。
これは通常の立場に収まらない大きな野心を抱いていた、という意味に解される。

奇行と宣帝の寵愛

人前では読書家を装い、屋敷では奇行を繰り返す

陳叔陵には、自分の名声を演出する一面もあった。
朝廷へ向かう際には、車中や馬上で書物を手に持ち、大声で朗読した。
周囲に学問へ励む姿を見せるためだったと『陳書』は捉え、「虚名を修飾す」と表現している。

ところが屋敷へ戻ると、自ら斧などを手にして「沐猴百戯」を行ったという。
「沐猴」は猿を意味し、史書の記述だけでは具体的にどのような遊びだったのかは明確ではないが、
陳叔陵が奇矯な遊戯を好んでいたことを伝える逸話として残されている。

より異様なのが、墓に対する執着だった。
陳叔陵は墓地を歩き回ることを好み、
墓碑などから埋葬者の身元が分かる墓を見つけると、配下に命じて掘り返した。
そして墓誌や古い副葬品だけでなく、遺体の腕や脛などの骨まで持ち帰り、
玩具のように扱って府庫へ収蔵したという。

また民間の若い既婚女性や未婚女性で容貌の整った者を見つけると、
強引に自分のもとへ入れたとも記録される。

これらは敵対者による後世の噂話ではなく、
『陳書』の陳叔陵本伝そのものにまとめて記録されている。

母・彭氏のために謝安の墓を暴く

太建十一年(579年)、陳叔陵の実母である彭氏が死去した。
陳叔陵はいったん服喪のため官職を離れたが、ほどなく元の官職へ復帰している。

当時、建康南方の梅嶺周辺には東晋以来の王公貴族の墓が数多く存在していた。
陳叔陵は母を梅嶺へ埋葬したいと宣帝に願い出た。
その場所には東晋の太傅・謝安の墓があったが、
陳叔陵は謝安の墓を掘り返し、その棺を捨てさせ、空いた墓所に母の彭氏を葬った。

謝安は淝水の戦いで前秦を破った東晋政権を支えた代表的政治家である。
その墓を皇子が意図的に破壊して母の墓へ転用したことは、
陳叔陵の死後にも朝廷から改めて問題とされた。

一方、彭氏が死んだ直後、陳叔陵は激しく悲しむ様子を見せ、
自分の血で『涅槃経』を書写したと称した。
しかし『陳書』によれば、十日も経たないうちに毎日美食を用意させるようになり、
さらに服喪中にもかかわらず、側近たちの妻や娘を密かに呼び寄せて関係を持ったという。

こうした行動はついに宣帝の耳にも入った。
宣帝は、陳叔陵を弾劾しなかった御史中丞・王政を罷免し、
陳叔陵付きの典籤や親事を降格させ、鞭打ちまで加えた。

ところが当の陳叔陵には厳罰を科さなかった。
『陳書』はその理由を明確に「高宗素より叔陵を愛す」と記す。
宣帝はもともと陳叔陵を寵愛していたため、法によって裁かず、叱責するだけにとどめたのである。

服喪を終えた陳叔陵は、侍中・中軍大将軍にまで昇進した。

宣帝の寵愛と陳叔陵

陳叔陵の生涯を通して特徴的なのは、
江州・湘州・揚州と任地を移しても強引な権力行使を繰り返しながら、
その地位をほとんど失わなかったことである。

江州では管轄外の人間まで取り調べ、湘州では住民を強制的に従者へ組み込み、
建康へ戻ってからは中央官庁の人事にまで介入したが、官位はむしろ上昇していった。

実母彭氏の喪中の行動が宣帝の耳に入った際にも、
処罰されたのは陳叔陵を弾劾しなかった御史中丞や周囲の役人であり、
本人には厳罰が科されなかった。

『陳書』はその理由について「高宗素より叔陵を愛す」と明記しており、
宣帝が以前から陳叔陵を寵愛していたため、法による処分を加えなかったとしている。
その後も陳叔陵は侍中・中軍大将軍に進んでおり、
宣帝の存命中にその権勢が大きく損なわれることはなかった。

宣帝の死と陳叔宝襲撃

宣帝の病中に刃物を研がせる

太建十四年(582年)正月、宣帝が病に伏すと、
皇太子の陳叔宝、始興王陳叔陵、長沙王陳叔堅ら皇子たちは宮中に入り、父の病床に侍した。

『南史』『資治通鑑』によれば、
この時、陳叔陵は薬を扱う役人に「薬を切る刀がひどく鈍い。研いでおけ」と命じており、
宣帝の死後に起こった事件から見れば、すでに何らかの行動を企てていたことがうかがえる。

正月甲寅、宣帝が宣福殿で死去すると、陳叔陵は側近に剣を持ってくるよう命じた。
ところが側近はその意図を理解せず、
朝服の際に佩びる木剣を持ってきたため、陳叔陵は怒ったという。

この一連の様子をそばで見ていた長沙王陳叔堅は異変を察し、陳叔陵の行動を警戒するようになった。

陳叔宝を薬刀で襲撃する

翌乙卯、宣帝の小斂が行われ、皇太子陳叔宝は父の死を悲しんで泣きながら床に俯伏していた。
陳叔陵はその隙を狙い、あらかじめ研がせていた薬刀を抜いて陳叔宝に斬りつけた。
刃は首筋に命中し、陳叔宝は意識を失って倒れたが、母の柳皇后が駆け寄って救おうとすると、
陳叔陵は柳皇后にも数回斬りつけた。

さらに陳叔宝の乳母である呉氏が背後から陳叔陵の肘をつかんだため、
陳叔宝は起き上がることができた。
陳叔陵はなおもその衣服をつかんで離さなかったが、陳叔宝はこれを振りほどいて逃れ、
そこへ長沙王陳叔堅が飛びかかって陳叔陵の首を腕で締め上げた。
陳叔堅は薬刀を奪うと陳叔陵を柱まで引きずり、自分の衣の袖を使って縛りつけた。

『南史』によれば、陳叔堅は陳叔陵を池へ投げ込んで殺そうとし、
陳叔宝に今すぐ殺してよいか判断を求めようとしたが、
呉氏はすでに負傷した陳叔宝を安全な場所へ連れ出していた。

そこで陳叔堅が陳叔宝を探しに離れると、
もともと力の強かった陳叔陵は袖の拘束を振りほどき、そのまま宮中から脱出した。

東府での挙兵と陳叔陵の最期

東府へ逃げ、兵を集める

陳叔陵は雲龍門から宮城を飛び出すと、車を飛ばして自らの拠点である東府へ戻り、
武装兵を集めて青溪の道を遮断した。
『南史』『資治通鑑』によれば、さらに東城の囚人を釈放して兵士に仕立て、
新林に駐屯していた自軍にも使者を送り、東府へ合流するよう命じている。

陳叔陵自身も甲冑を身につけ、白い布帽子をかぶって東府の西門に立ち、
金銀や財帛を配りながら兵を募った。
また諸王や将軍にも呼びかけたが、これに応じた有力者は新安王陳伯固くらいで、
集まった兵力は千人ほどにとどまった。

当時、陳の主力部隊の多くは長江沿岸の防衛に出ており、
建康の守備は手薄になっていたが、陳叔陵はその状況を利用できるだけの支持を集められなかった。

一方、長沙王陳叔堅は柳皇后に働きかけ、
太子舎人司馬申を通じて右衛将軍・蕭摩訶を急ぎ呼び戻した。
蕭摩訶が兵を率いて東府西門へ到着すると、陳叔陵は朝廷側の有力な軍事力と対峙することになった。

蕭摩訶の取り込みに失敗する

陳叔陵は蕭摩訶を味方につけようと考え、
記室の韋諒を使者として送り、自らの鼓吹を与えたうえで、
「事が成功すれば、必ずあなたを台鼎にする」と持ちかけた。
台鼎とは三公などの最高位を指す言葉であり、成功後の高位を約束して寝返りを求めたのである。

蕭摩訶はこれを正面から拒絶せず、
「王の腹心の武将が直接来るのでなければ、従うことはできない」と返答した。

陳叔陵はその言葉を信じて戴温と譚騏驎を派遣したが、
蕭摩訶は二人をただちに捕らえて台城へ送り、斬首させた。
『南史』によれば、その首は東城で示された後に朱雀門へ掲げられており、
陳叔陵はここに至って形勢を覆すことが難しいと悟った。

妃と側室を井戸へ沈めて逃走する

敗北を悟った陳叔陵は屋敷に戻り、妃の張氏と寵愛していた側室七人を井戸へ沈めると、
新林に残る自軍との合流を目指して数百人を率い、東府を脱出した。
小航から渡って新林へ向かい、船を確保して北へ逃れようとしたが、
白楊路まで進んだところで朝廷軍に阻まれた。

同行していた陳伯固は朝廷軍を見ると一度は路地へ逃げ込んだため、
陳叔陵は刀を抜いてその後を追った。
陳伯固は引き返したものの、この頃には配下の多くが甲冑を捨てて逃亡し、
陳叔陵の部隊は崩壊していた。

そこへ蕭摩訶配下の騎兵・陳智深が進み出て陳叔陵を刺し、
倒れたところを宦官の王飛禽がさらに刀で斬りつけ、最後に騎兵の陳仲華が首を斬って朝廷へ届けた。

宣帝の小斂の場で陳叔宝を襲撃してから陳叔陵が殺害されるまで、
事件はきわめて短時間のうちに進んだ。
『陳書』は「寅より巳に至りて乃ち定まる」と記しており、
襲撃から東府での挙兵、逃走、討伐までが同日のうちに決着したことになる。

遺体は長江へ流され、邸宅も破壊される

陳叔陵の死後、尚書八座はその生前の行動を列挙し、
代の先例に従って遺体を長江へ流すとともに、
邸宅を破壊して跡地を水溜まりとし、実母彭氏の墓と廟も壊すよう奏上した。
さらに、かつて陳叔陵が彭氏を葬るために掘り返した謝安の墓についても、
元の状態に戻すことを求め、即位した陳叔宝はこれを認めた。

処罰は一族や側近にも及び、陳叔陵の子供たちはその日のうちに全員死を賜ったほか、
母方の叔父で元衡陽内史の彭暠、諮議参軍兼記室の鄭信、中録事参軍兼記室の韋諒、
典籤の兪公喜らも処刑された。
鄭信は文書作成の才を評価されて陳叔陵の寵愛を受け、謀議にも加わっていた人物であり、
韋諒も学問を評価されて取り立てられていた。

一方、陳叔陵の討伐に功績のあった者には恩賞が与えられた。
陳叔陵を刺した陳智深は巴陵内史となって游安県子に封じられ、
首を取った陳仲華は下嶲太守となって新夷県子に封じられたほか、
王飛禽も伏波将軍に任じられ、それぞれ金を与えられた。

陳叔陵の人物像とクーデター未遂

陳叔陵の襲撃は計画的だったのか

『陳書』は揚州刺史時代の陳叔陵について、
世間で「非常の志」があるとの噂が流れていたと記している。
宣帝が危篤になると薬刀をあらかじめ研がせ、死去直後には剣を要求していることから、
少なくとも陳叔宝への襲撃は、その場で突然思いついた行動とは考えにくい。

また、襲撃に失敗した後の行動も早かった。
陳叔陵は東府へ戻ると道路を遮断し、囚人を解放して兵士とし、新林の部隊を呼び戻す一方、
諸王や将軍に参加を求め、金銀を配って兵を募り、
蕭摩訶には高位を約束して寝返りを働きかけている。

ただし、事前に大規模な反乱組織を作っていたことを示す記録はなく、
呼びかけに応じた有力者も陳伯固くらいで、集めた兵力は千人ほどだった。

したがって、陳叔陵がどこまで具体的な計画を事前に整えていたのかは史料から断定できない
宣帝の死を機に陳叔宝を排除しようとしていたことは一連の行動からうかがえるものの、
その後の挙兵については、襲撃に失敗したため急遽行われた部分も大きかったと考えられる。

陳叔陵の人物像

『陳書』巻三十六「始興王叔陵伝」や『南史』巻六十五に残された記録を見ると、
陳叔陵は宣帝の死後に突然反乱を起こした皇子としてだけでは捉えにくい。

十代で江州の軍政を任された頃から自ら政務を裁決して補佐官を介入させず、
その後も湘州・揚州で強引な統治や官僚への圧力を繰り返しており、
自らの権限に他者が介入することを嫌う姿勢は一貫していた。

一方では、車中や馬上で書物を朗読して学問に励む姿を人々に見せながら、
私生活では奇矯な遊びを好み、墓を暴いて副葬品や人骨を集め、
母を葬るため謝安の墓まで掘り返したと伝えられる。

こうした数々の行動を重ねても父の宣帝から決定的な処罰を受けることなく高位を保ち続け、
宣帝が死去した直後、ついに陳叔宝への襲撃に及んだ。

陳叔陵の最期の事件は、それ以前の経歴から切り離されたものではなく、
長年にわたる強引な権力行使の延長上に位置づけられる。

まとめ

陳叔陵は、南朝陳の宣帝・陳頊の第二皇子として生まれ、
兄の陳叔宝とともに幼少期を人質として過ごした後、
若くして江州・湘州・揚州などの軍政を任された皇族だった。

十六歳ですでに自ら政務を裁決した一方、部下や官吏を強圧的に扱い、湘州では過酷な徴発を行った。建康へ戻った後も朝廷の人事に介入し、自分に逆らう官吏を重罪に陥れたとされる。

墓を暴いて副葬品や人骨を集め、
母・彭氏を葬るため謝安の墓を掘り返した逸話も『陳書』『南史』双方に残る。

こうした行動が問題となっても、父の宣帝は寵愛する陳叔陵本人を法によって裁かなかった。

太建十四年(582年)、宣帝が死去すると、陳叔陵は小斂の席で皇太子陳叔宝を薬刀で襲撃した。
しかし陳叔宝は生き延び、長沙王陳叔堅によって陳叔陵は取り押さえられた。

脱出した陳叔陵は東府で兵を集めて抵抗したものの、諸王や将軍の支持を得ることができず、
蕭摩訶の軍に追い詰められて殺害された。

その死後、子供たちは全員処刑され、側近も処罰された。
遺体は長江へ流され、邸宅は破壊され、母のために奪った謝安の墓も元へ戻すことが命じられた。

陳叔陵の反乱は短時間で終わったが、
その背景には十年以上にわたって積み重ねられた権力の私物化と、
父帝の寵愛によって抑えられなかった行動があった。

史書・参考文献

・『陳書』巻六「後主紀」
・『陳書』巻三十六「始興王叔陵伝」
・『南史』巻六十五「陳宗室諸王伝」
・『資治通鑑』巻一七五

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