【魏】張春華|司馬懿の正妻で司馬師・司馬昭の母、その実像を解説

張春華(司馬懿の妻) 01.皇后

張春華(ちょうしゅんか)は三国時代の魏における司馬懿の正妻であり、
司馬師司馬昭の母として西晋王朝成立の基礎を内側から支えた人物である。

後に西晋が成立すると宣穆皇后の諡号を贈られ、皇后として位置づけられたが、
その実像は単なる賢妻にとどまらない。

彼女は司馬懿の行動に深く関与し、ときに夫に譲歩を強いて、
ときに家の存亡を左右する決断を下した存在であった。

本稿では張春華を、女性史の一人物としてではなく、
司馬氏政権形成の内部構造を担った中核として捉える。

出自

張春華(ちょうしゅんか)は、河内郡平皋県(現在の河南省焦作市温県付近)の人である。
『晋書』宣穆張皇后伝によれば、父は張汪、母は山氏である。

一方で、張氏一族の詳細な系譜や官歴については史料が少なく、
後漢末から三国時代にかけて大きな政治的勢力を築いた一族であったことは確認できない。
そのため、張春華の家は司馬氏や河内の名門ほどの高い門閥ではなかったと考えられている。

もっとも、司馬氏との婚姻が成立していることから、
一定の家格を備えた地方有力者の家柄であったことは確かである。

また、張春華の出身地である河内郡は、司馬氏が本拠を置いた土地でもある。
司馬懿も同じ河内郡温県の出身であり、両家は地理的にも近い位置にあった。
この地域は後漢末には名士を数多く輩出した文化的中心地の一つであり、
司馬氏をはじめ裴氏・山氏・向氏など、後に西晋を支える名門が集まっていた。

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司馬懿との結婚

張春華は司馬懿の正妻となり、
司馬師司馬昭・司馬幹の三子と、一女(南陽公主)をもうけた。

司馬師と司馬昭は後に魏の実権を掌握し、司馬昭の子・司馬炎が西晋を建国したことから、
張春華は西晋皇室の祖母にあたる人物となる。

張春華が司馬懿と結婚した時期については史料に明確な記録はない。
しかし、司馬師が208年に生まれていることから、それ以前には婚姻が成立していたと考えられる。

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司馬懿の偽病事件

建安13年(208年)、曹操は司馬懿の才能を高く評価し、文学掾として出仕するよう命じた。

しかし司馬懿はこれに応じず、「風痺(ふうひ)」を患っているとして病を装い、
自宅で療養しているように見せかけた。

曹操は司馬懿の才能を惜しみながらも、その真意を疑っていたとされるため、
この偽病が露見すれば、一族に重大な災いが及ぶ可能性もあった。

ある日、司馬懿は虫干しのため庭に書物を広げていた。

ところが突然の豪雨に見舞われると、とっさに立ち上がって書物を取り込んでしまう。
本来、重い病で寝たきりのはずの人物が、自ら素早く動いたのである。

その様子を、一人の下女が目撃していた。

張春華は、秘密を守るため、その場で下女を殺害した。
そして以後は自ら台所に立ち、炊事まで引き受けることで、
下女がいなくなったことを周囲に悟られないようにしたという。

『晋書』宣穆張皇后伝は、この出来事を受けて
「帝由是重之(宣帝はこれによって張春華を重んじるようになった)」と記している。
つまり司馬懿は、張春華が冷静な判断力と強い覚悟をもって家を守ったことを高く評価したのである。

柏夫人への寵愛

司馬懿は後年、側室の柏夫人を寵愛するようになり、張春華を遠ざけるようになった。

ある時、張春華は病床の司馬懿を見舞おうとしたが、司馬懿はこれを快く思わず、
「老物可憎、何煩出也」(年老いた女は見苦しい。なぜわざわざ出てきたのだ)
という趣旨の言葉を口にしたと伝えられる。

この言葉を聞いた張春華は深く恥じ入り、自殺を図ろうとした。

さらに、嫡子である司馬師司馬昭も母に従って断食を始めたため、
事態は司馬氏の家中を揺るがす騒動へと発展する。

これを知った司馬懿は驚き、張春華に謝罪して慰めた。

しかし、周囲の者が「これで夫婦仲も元に戻るでしょう」と言うと、司馬懿
「老物不足惜、慮困我好兒耳。」(あの老婆など惜しくはない。ただ、かわいい息子たちが困るのが心配だっただけだ)と語ったという。

もっとも、司馬懿はその後も張春華を正妻として遇し、
司馬師司馬昭の嫡流としての地位が揺らぐことはなかった。

子女

張春華は司馬懿との間に三男一女をもうけた。

長男の司馬師(しばし)は魏の大将軍となり、
高平陵の変では父・司馬懿とともに曹爽を打倒して司馬氏政権を確立した。
司馬懿の死後はその地位を継承し、毌丘倹・文欽の乱を鎮圧するなど、司馬氏の権力基盤を維持した。

次男の司馬昭(しばしょう)は司馬師の死後に政権を引き継ぎ、魏朝の実権を掌握した。
景元4年(263年)には鍾会・鄧艾らを率いて蜀漢を滅ぼし、司馬氏の勢力をさらに拡大する。
その死後、子の司馬炎が魏から禅譲を受け、西晋を建国した。

三男の司馬幹(しばかん)は平原王に封じられ、西晋成立後も皇族として遇された。
二人の兄のように政治の中心に立つことはなかったが、西晋皇室の一員として生涯を送っている。

また、一女は南陽公主とされる。史料には名は伝わらないが、西晋成立後に公主として追封された。

張春華の子女のうち、司馬師司馬昭は魏から西晋への王朝交代を実現した中心人物であった。
そのため、西晋が成立すると、張春華もまた皇室の祖として高く位置づけられることになった。

晩年と追尊

張春華は正始8年(247年)に死去した。

この時点では司馬氏はまだ魏の臣下であり、司馬懿も皇帝ではなかった。
そのため、張春華は皇后ではなく、司馬氏の正妻として葬られている。

その後、高平陵の変を経て司馬氏は魏の実権を掌握し、
泰始元年(265年)、司馬炎が魏から禅譲を受けて西晋を建国した。

西晋成立後、司馬炎は祖父・司馬懿を宣帝と追尊するとともに、
祖母である張春華に宣穆皇后の諡号を贈った。

「宣」は宣帝司馬懿に対応し、「穆」は皇后の諡である。
これにより張春華は、西晋王朝の開祖を支えた皇后として歴史上に位置づけられた。

もっとも、張春華自身は皇后として宮廷政治に関わったわけではない。
皇后号は西晋成立後、司馬氏の祖先を顕彰するために追贈されたものである。

人物評・評価

張春華について記した『晋書』宣穆張皇后伝は長い伝記ではないが、
その冒頭で「少有徳行、聡識過人」と評している。
これは「若い頃から徳行を備え、判断力が人並み外れていた」という意味であり、
後世に語られる苛烈な人物像とは異なる評価である。

一方で、伝記に記される逸話は、秘密保持のために下女を殺害した事件や、
司馬懿との対立など、いずれも強い意志と果断な行動を示すものが多い。

ただし、これらは張春華に関する数少ない逸話であり、
その性格や生涯を断定的に評価することは難しい。

後世では「恐妻」や「烈婦」といった印象で語られることもあるが、
こうした評価は後世の受け止め方による部分も大きい。

現存する史料から確実に言えるのは、司馬氏が危機に直面した場面で果断な行動を取り、
司馬懿の正妻として司馬氏の嫡流を支え、
西晋成立後に宣穆皇后として追尊された人物であるという点である。

史書・参考文献

『三国志』魏書(裴松之注)
『晋書』宣穆皇后伝
『資治通鑑』魏紀

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