孫程(そんてい、?-132年)は、
後漢の安帝から順帝の時代に活動した宦官で、字は稚卿、涿郡新城県の出身。
安帝の晩年、皇太子劉保は宦官の江京らの讒言によって廃され、
安帝の死後にも皇位を継ぐことができなかった。
ところが新たに即位した北郷侯劉懿がわずか数か月で死去すると、
孫程は王康・王国らと密かに決起し、宮中で江京らを斬って劉保を擁立した。
これが後漢第8代皇帝の順帝である。
順帝擁立の中心人物となった孫程は浮陽侯に封じられ、
決起に参加した十九人もそろって列侯となった。
しかしその後は皇帝に迎合して権勢を保ったわけではなく、
司隷校尉虞詡を救うために殿上で抗議して順帝の怒りを買い、
封国へ移されると印綬を返上して京師へ戻るなど、激しい行動を繰り返している。
『後漢書』宦者列伝に独立した伝を持ち、
後漢中期に宦官が皇位継承や宮廷政変へ深く関与していく過程を考えるうえでも重要な人物である。
孫程の出自と安帝晩年の宮廷
孫程は字を稚卿といい、涿郡新城県の出身だった。
生年や家族、宦官となった時期や事情について『後漢書』は記していない。
安帝の時代には中黄門となり、長楽宮に仕えていた。
当時の後漢では、和帝の皇后だった鄧綏が皇太后として長く朝政を掌握していた。
安帝は成人後も政治の実権を十分に握ることができず、
宮中では鄧氏と安帝の周囲にいる宦官・乳母との対立が生じていた。
小黄門の李閏と安帝の乳母・王聖は、鄧太后の兄弟である鄧悝らが
安帝を廃して平原王劉翼を皇帝に立てようとしていると訴え、安帝の不安を煽った。
建光元年(121)に鄧太后が死去すると、安帝は鄧氏一族を粛清し、平原王劉翼も廃した。
このとき李閏は功績を認められて雍郷侯に封じられた。
また江京も安帝を邸宅から迎えた功績などによって都郷侯となり、李閏とともに中常侍へ昇進した。
江京はさらに大長秋を兼任し、中常侍の樊豊、黄門令の劉安、鈎盾令の陳達、
乳母の王聖、その娘の伯栄らとともに宮廷で勢力を広げた。
外朝では安帝の舅にあたる大将軍耿宝や、閻皇后の兄である閻顕らがこれに結びつき、
安帝晩年の朝廷では宦官・乳母・外戚が複雑に結合した権力集団が形成された。
この時期には太尉楊震も彼らと対立して失脚し、最終的に自殺へ追い込まれている。
孫程が後に敵対する江京らは、単独で権力を握った宦官ではなく、
安帝の側近や外戚を含む宮廷勢力の一角を占めていた。
↓↓殤帝・安帝の二代にわたって臨朝した鄧太后についての個別記事は、こちら

皇太子劉保が廃される
安帝には宮人李氏との間に劉保という男子があり、永寧元年(120)に皇太子となっていた。
しかし生母の李氏は閻皇后によって毒殺され、劉保自身も安定した立場にはなかった。
やがて劉保の乳母である王男や厨監の邴吉らが罪を得ると、
江京・樊豊らはこれを利用して皇太子を讒言し、
延光3年(124)、劉保は皇太子を廃されて済陰王に落とされた。
孫程は後に劉保について、嫡統にあり、もともと失徳がなかったにもかかわらず、
先帝が讒言を信用したため廃されたという趣旨を語っている。
したがって孫程らによる後の擁立には、単に自分たちに都合のよい皇帝を立てるというだけでなく、
不当に廃された皇位継承者を復位させるという論理があった。
↓↓安帝の皇太子・劉保の廃位に直接関与した宦官・江京についての個別記事は、こちら

安帝の死と北郷侯劉懿の即位
延光4年(125)、安帝が死去すると、閻皇后が皇太后となり、閻氏が朝廷の実権を掌握した。
しかし安帝の実子である劉保が皇位へ戻されることはなく、
済北恵王劉寿の子である北郷侯劉懿が皇帝に迎えられた。
劉保を廃太子へ追い込んだ側から見れば、
劉保が皇帝となれば自分たちの責任を問われる危険があり、その即位を避ける必要があった。
一方、安帝のもとで形成されていた権力集団も、安帝の死後には分裂した。
閻顕らは主導権を握ると樊豊を誅殺し、耿宝や王聖を失脚させ、その一派にも処刑や流罪を加えた。
安帝のもとで結びついていた宦官・乳母・外戚がそのまま一つの勢力として存続したわけではなく、
皇帝の死を契機に新たな権力争いが始まったのである。
北郷侯の重病と孫程の密議
即位した北郷侯劉懿は同年10月に重病となった。
ここで孫程は、済陰王劉保に仕えていた謁者の長興渠に接触する。
孫程は、劉保は正統な皇位継承者であり、
もともと失徳もなかったのに讒言によって廃されたのであるから、
北郷侯が回復しなければ江京・閻顕らを排除して劉保を皇帝に立てることができると説いた。
長興渠らはこの計画に賛同した。
さらに中黄門の王康も加わった。
王康はかつて皇太子府の史を務めており、劉保が廃されてからその境遇を嘆いていた人物だった。
長楽太官丞の王国も孫程らに同調し、宮中で密かに劉保擁立の計画が進められた。
10月27日、北郷侯劉懿が死去した。
ところが閻顕は劉保を迎えるのではなく、諸王の子から新たな皇帝を選ぶため候補者を召そうとした。
別の皇族が到着して即位すれば、劉保復位の機会は失われる。孫程らに残された時間は少なかった。
孫程ら十九人の決起
11月2日、孫程は王康ら十八人と西鐘の下に集まり、決起の計画を固めた。
参加したのは孫程、王康、王国、黄龍、彭愷、孟叔、李建、王成、張賢、史汎、馬国、王道、李元、
楊佗、陳予、趙封、李剛、魏猛、苗光の十九人である。
『後漢書』は、彼らが単衣を頭にかぶって誓いを立てたと記している。
宮中で要人を殺害して皇帝を擁立する計画であり、失敗すれば自分たちも処刑を免れない決起だった。
李賢注に引かれる『東観漢記』には、この計画に関連して棗と干し肉を用いた逸話も残されている。
孫程が馬国らと盛化門外で会った際、皇帝から賜ったという形で棗と干し肉を示し、
「棗(zǎo)」と「早(zǎo)」を掛けて早く行動するよう促したとされる。
また苗光にもこれを分け、決起の合図としたという。
正史本文とは別系統の逸話ではあるが、
孫程らが宮中で秘密裏に連絡を取り合っていた様子を伝える記事である。
江京らを斬殺する
11月4日の夜、孫程らは崇徳殿に集まり、章台門から宮中へ入った。
このとき江京、黄門令劉安、李閏、鈎盾令陳達らが省門の下にいたため、
孫程と王康は江京・劉安・陳達を斬殺した。
しかし李閏については殺さなかった。
李閏は長く宮中で権勢を持ち、省内の者たちから重んじられていたため、
孫程らは殺すよりも味方に引き入れる方が有利だと判断した。
孫程は刃を突きつけ、これから済陰王を皇帝に立てるので動揺してはならないという趣旨を告げ、
李閏もこれを受け入れた。
孫程らは李閏を伴って西鐘の下へ向かい、劉保を迎える準備を整えた。
劉保を順帝として擁立
孫程らは済陰王劉保を迎え、その場で皇帝として擁立した。これが後漢第8代皇帝の順帝である。
さらに尚書令・尚書僕射以下の官僚を召集し、順帝の輦に従わせて南宮の雲台へ移動させた。
一方、孫程らは省門に残って宮中と外部との交通を遮断し、閻氏側の動きを封じようとした。
ただし劉保を確保して皇帝と宣言しただけで政変が決着したわけではない。
閻顕らはなお宮中におり、兵力を動員して反撃することができた。
閻氏の反撃と郭鎮・馮詩
閻顕は孫程らの決起を知ると対応に窮したが、小黄門の樊登は兵を動員して対抗するよう進言した。
閻太后の詔として越騎校尉馮詩と虎賁中郎将閻崇を召し、朔平門に兵を置こうとしたほか、
馮詩には済陰王を捕らえれば万戸侯、李閏を捕らえれば五千戸侯にするという褒賞まで提示した。
ところが馮詩は閻氏側には従わなかった。
樊登とともに兵士を集めに出ると樊登を殺し、自らの陣営へ戻って守りを固めた。
さらに閻顕の弟で衛尉だった閻景も兵を集めて盛徳門へ向かったため、
孫程は尚書たちに命じてこれを捕らえさせようとした。
このとき尚書郭鎮は病床にあったが、事態を知ると宿直していた羽林兵を率いて出動した。
郭鎮と閻景が遭遇すると、閻景は郭鎮を斬ろうとしたものの命中せず、
郭鎮は剣で反撃して閻景を車から落とした。
周囲の兵士が閻景を取り押さえて廷尉の獄へ送り、閻景はその夜に死亡した。
翌朝には侍御史が閻顕らを捕らえて獄へ送り、閻氏の抵抗は崩壊した。
孫程らの政変は、十九人だけで完結したものではない。
宮中での奇襲と劉保擁立を孫程らが実行し、
それに馮詩や郭鎮らの行動が加わって閻氏側の反撃を阻止したことで、
ようやく順帝の皇位が確定した。
順帝擁立の功臣「十九侯」
順帝は即位すると、政変に参加した孫程らを大規模に論功行賞した。
詔では江京・劉安・陳達・閻顕兄弟らを朝廷を乱した者とし、
孫程らについては忠憤を抱いて協力し、元凶を排除して王室を安定させたと評価している。
なかでも孫程は「謀首」、すなわち計画の中心人物と位置づけられた。
孫程は浮陽侯に封じられて食邑一万戸を与えられ、さらに騎都尉となった。
王康は華容侯、王国は酈侯となり、決起に加わった十九人全員が侯に封じられたため、
彼らは「十九侯」と呼ばれる。
一方、李閏は実際の政変では孫程らに協力したものの、
最初から計画に参加していたわけではなかったため十九侯には含まれなかった。
長興渠も最初に孫程の計画へ賛同した重要人物だったが十九侯には入らず、
後に功績を認められて高望亭侯に封じられている。
苗光は本当に決起に参加したのか
十九侯の一人である苗光については、李賢注所引の『東観漢記』に興味深い逸話がある。
決起の際、苗光はいったん章台門から外へ出て剣を取りに行ったが、
その間に門が閉ざされてしまい、実際には孫程らとともに宮中へ突入できなかったという。
ところが論功行賞の際、王康は苗光も章台門へ入った者として名簿に記載した。
苗光は東阿侯に封じられることになったものの、
虚偽が発覚することを恐れて黄門令のもとへ行き、自ら事情を告白した。
王康と苗光による虚偽が明らかになったが、順帝は罪を問わず、
苗光をそのまま東阿侯として食邑千戸で封じた。
順帝擁立の功臣として知られる十九侯も、
実際の参加状況が十九人すべて同じだったわけではなかったことが分かる。
虞詡を救おうとして順帝と対立
順帝擁立の最大の功臣となった孫程だったが、皇帝の寵愛に依存して権勢を保ち続けたわけではない。
永建元年(126)、司隷校尉の虞詡は、
権勢を振るって請託や収賄を重ねていた中常侍張防を弾劾したものの、
その訴えはたびたび退けられ、逆に罪に問われて左校へ送られた。
張防はなお虞詡を害そうとし、わずか二日のうちに四つの獄を転々とさせて取り調べを受けさせた。
これを知った孫程は張賢らとともに虞詡が忠義のために罪を受けているとして訴え、
その結果、虞詡は釈放された。
その後、孫程らは上表文を懐に入れて殿上へ入り、左右の者を叱責するなど強硬な態度を取ったため、
順帝の怒りを買った。孫程は免官され、十九侯もそれぞれ封国へ赴くよう命じられた。
封国で印綬を返上する
その後、孫程は宜城侯へ転封されたが、この処遇にも従順には従わなかった。
封国へ到着すると激しく憤り、侯の印綬と封爵を証明する符策を封じて朝廷へ返し、
そのまま封国を離れて京師へ逃げ帰った。
李賢注所引の『続漢書』によれば、このとき孫程は瓦を刻んで印を作り、
それを使って本物の印綬を封じて返却したという。
孫程はその後、山中を往来していたため、朝廷は詔を出して捜索した。
しかし最終的には罪に問われることなく旧来の爵位と封土を回復され、
車馬や衣服を与えられて封国へ帰された。
自ら擁立した順帝に対しても公然と抗議し、処遇に不満を抱けば侯の印綬まで返上する孫程の行動は、
皇帝への近侍を利用して私的な利益を追求するという後世の典型的な宦官像とはかなり異なる。
再び朝廷へ召される
永建3年(128)、順帝は孫程らが自らを擁立した功績を改めて思い起こし、十九侯を京師へ召還した。
孫程・王道・李元は騎都尉となり、その他の者も奉朝請として朝廷に列することを許された。
一度は皇帝の怒りを買って追放された孫程だったが、
順帝にとって自らの皇位を実現した功臣であることに変わりはなかった。
陽嘉元年(132)、孫程は病が重くなると奉車都尉に任じられ、特進の位を与えられた。
やがて死去すると、順帝は五官中郎将を遣わして車騎将軍の印綬を追贈し、「剛侯」と諡した。
さらに侍御史に節を持たせて葬儀を監督させ、
自らも北部尉の伝舎へ行幸して孫程の葬列を望んだという。
一度は孫程の激しい抗議に怒って免官した順帝だったが、最後まで擁立の功績を忘れてはいなかった。
弟の孫美と養子孫寿
孫程は死を前にして、自らの封国を弟の孫美に継がせたいと遺言して上書した。
順帝はこれを許したが、封地の半分を分け、孫程の養子である孫寿を浮陽侯に封じた。
この相続は後漢における宦官の家の継承とも関係している。
宦官には実子がないため、養子を迎えて家を継がせる例があり、
永建4年(129)には、
宦官の養子が正式に後継者となって封爵を世襲することを認める制度も設けられた。
孫程の養子孫寿への分封は、
宦官が養子を通じて家と爵位を継承する仕組みが制度化されていった時期と重なっている。
孫程死後の十九侯
順帝を擁立した十九侯は、孫程の死後も同じ立場を保ち続けたわけではない。
王康・王国・彭愷・王成・趙封・魏猛の六人は早くに死去したが、
黄龍・楊佗・孟叔・李建・張賢・史汎・王道・李元・李剛の九人は、
後に山陽君宋娥と互いに賄賂を贈り、高官や食邑の増加を求めたほか、
中常侍曹騰・孟賁らを誣告したとされる。
永和2年(137)にこれらの行為が発覚すると、九人は封国へ送られ、食邑も削減された。
一方、馬国・陳予・苗光の三人は封邑を保った。
十九侯は順帝擁立という共通の功績によって一斉に列侯となった集団ではあるが、
その後の行動まで同一だったわけではなく、
孫程個人の行動と十九侯全体を一括して評価することはできない。
『後漢書』における孫程の評価
『後漢書』宦者列伝の論では、孫程らについて「忠謇」の心があり、
危機に際して皇統を支えた者として扱っている。
宦官の弊害を厳しく論じる同書の中では、孫程は必ずしも否定的な人物として位置づけられていない。
一方、列伝末の賛では「孫程之党、同時分職」と、孫程を十九侯の中心に置きながら、
その後に彼らが爵位を得て分かれて官職についたことにも触れている。
順帝擁立という功績と、その結果として宦官たちが列侯となったことの双方を記す構成になっている。
孫程自身には死後「剛侯」という諡が与えられた。
「剛」という諡は、順帝を擁立した後にも皇帝と衝突した孫程の強硬な行動を想起させるが、
これは後世の人物評ではなく、順帝の朝廷から正式に与えられた諡号である。
孫程は宦官政治の拡大を語る際に登場する人物であると同時に、
史書上では皇統を危機から救った功臣として記録された宦官でもあった。
まとめ
孫程は安帝の時代に中黄門として長楽宮に仕え、廃太子劉保が皇位から排除された後、
王康・王国らとその復位を計画した。
安帝の死後に即位した北郷侯劉懿が125年に死去すると、
孫程ら十九人は宮中で決起し、江京・劉安・陳達らを斬殺して劉保を順帝として擁立した。
閻氏側の反撃も馮詩や郭鎮らによって抑えられ、
孫程は計画の中心人物として浮陽侯・食邑一万戸に封じられ、
決起に加わった十九人全員が列侯となった。
しかし孫程は順帝即位後も皇帝に迎合せず、
126年には司隷校尉虞詡を救おうとして殿上で抗議し、免官された。
封国へ移された後には印綬を返上して京師へ戻るという行動に出たが、
のちに赦され、128年には再び朝廷へ召還された。
132年に死去すると車騎将軍を追贈され、剛侯と諡されている。
廃太子を武力で復位させながら、その皇帝にも公然と逆らった孫程の生涯は、
宦官を単なる皇帝の側近や専横する権臣として捉えるだけでは理解できない。
後漢中期に宦官が宮廷政変と皇位継承へ直接関与するようになった過程を示す人物である。
史書・参考文献
・范曄『後漢書』巻78「宦者列伝・孫程伝」
・范曄『後漢書』巻5「孝安帝紀」
・范曄『後漢書』巻6「孝順孝沖孝質帝紀」
・范曄『後漢書』巻58「虞傅蓋臧列伝・虞詡伝」
・劉珍ら『東観漢記』「孫程伝」
・司馬彪『続漢書』(『後漢書』李賢注所引)
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