曹昂は、後漢末の群雄曹操の長男である。字は子脩。
曹操の子としては曹丕、曹彰、曹植、曹沖らが広く知られているが、
男子のうち最年長だったのは曹昂であった。
曹昂は若くして孝廉に推挙され、建安二年(197)、曹操の南征に随行した。
南陽郡の宛で張繡が反乱すると、曹昂は窮地に陥った父へ自らの馬を譲り、
曹操を脱出させた一方、自身は張繡軍に殺害された。
曹昂の生前の事績を伝える正史本文はきわめて短い。
しかし、『三国志』の曹昂伝、武帝紀、典韋伝、張繡伝、曹沖伝、
武宣卞皇后伝に付された裴松之注を合わせることで、
その出自、養母丁夫人との関係、宛での最期、曹操と曹丕が曹昂について残した言葉、
魏成立後の追封と祭祀継承までをたどることができる。
出自
曹昂は、沛国譙県を本貫とする曹操の長男として生まれた。名は昂、字は子脩である。
生年は不明である。建安二年に死亡したことと、弱冠で孝廉に推挙されたという記事から、
二十歳前後で死去したと推測されることが多い。
ただし、弱冠は必ずしも満二十歳を厳密に示す語ではなく、孝廉に推挙された年も分からないため、
177年前後の生まれ、享年二十または二十一といった数字を確定的に扱うことはできない。
『三国志』巻二十「武文世王公伝」は、曹操の男子二十五人を母ごとに列挙し、
その冒頭で、卞皇后が曹丕・曹彰・曹植・曹熊を生み、劉夫人が曹昂と曹鑠を生んだと記している。
曹昂の生母である劉夫人の名、字、出身地、家柄は伝わっておらず、
曹操の最初の正妻だったとする確実な記録もない。
曹昂も一般には庶長子と呼ばれるが、史料が直接「庶子」「庶長子」と記しているわけではない。
↓↓異母弟の曹丕・曹彰・曹植・曹沖についての個別記事は、こちら




生母を失い、丁夫人に育てられる
劉夫人が早世し、曹操の正妻である丁夫人が曹昂を養育した。
丁夫人には、曹操との間に実子が確認されていない。
曹昂は、実母の死後、丁夫人のもとで実子同然に育てられた。
曹昂の幼少期については、性格、学問、武芸、父母との会話などを伝える記事がない。
温厚、聡明、弟思いだったといった人物像は、正史の直接的な評語ではない。
それでも、曹昂が曹操の長男であり、正妻丁夫人のもとで育てられたことは、
曹家における立場を考えるうえで重要である。
正妻の実子ではなかったものの、家内では嫡長子に近い位置を占めていたとみられる。
ただし、曹昂が正式な後継者に指名されたという記録はない。
曹昂の生前、曹操は後漢の司空であり、献帝を奉じて政権を掌握しつつあったが、
のちの魏王家のような世子制度が整えられていたわけではない。
曹家の兄弟姉妹
同母兄弟姉妹
同母弟の曹鑠も早世した。
『三国志』は曹鑠を相殤王と記し、曹叡の太和三年(229)に追封されたとしている。
曹鑠の子 曹潜も早くに死亡し、曹潜の子 曹偃が継いだが、曹偃も子を残さずに亡くなった。
のちに別の宗室から後継者が迎えられている。
劉夫人から続く男子の血統は、曹鑠の孫曹偃の死によって断絶したことになる。
清河長公主は曹昂の同母姉妹である。
後に夏侯惇の子、夏侯楙へ嫁いだ。曹昂より年長か年少かは分からず、
曹昂との交流を示す逸話も残されていない。
異母兄弟
卞夫人が生んだ曹丕、曹彰、曹植、曹熊は曹昂の異母弟だった。
このうち曹丕は中平四年(187)の生まれとされ、曹昂より年少である。
曹昂が建安二年に死亡した時、曹丕は十歳前後だった。
『魏略』には、張繡の反乱の際、当時十歳だった曹丕が馬に乗って逃れたという記事がある。
曹昂と曹丕は同じ戦場にいたことになるが、二人がともに行動したという記述はない。
曹彰は字を子文といい、武勇を好んだ。
曹操から「黄鬚児」と呼ばれたことでも知られ、
代郡の烏桓反乱を鎮圧するなど軍事面で実績を挙げた。
曹昂の生前、曹彰はまだ幼少であり、二人の関係を伝える記録はない。
曹植は字を子建といい、建安文学を代表する詩人となった。
幼くして文才を曹操に愛され、一時は曹丕と後継者の座を争った。
しかし、曹昂が生きていた時期の曹植は幼児であり、兄弟としての交流は史料に残されていない。
曹熊は字も事績もほとんど伝わらず、若くして死去した。
曹丕の即位後、蕭懐公、のちに蕭懐王と追封された。
曹操には、環夫人の子曹沖、曹拠、曹宇をはじめ、このほかにも多くの男子がいた。
曹昂はそのなかで最年長だったが、兄弟との具体的な交流を伝える記事はほとんどない。
曹昂の死後、曹操が後継者として特に期待した可能性のある異母弟が曹沖である。
曹沖は字を倉舒といい、幼少時から優れた知恵と仁愛を示し、曹操に深く愛された。
しかし建安十三年(208)、十三歳で病死した。
弱冠で孝廉に推挙
曹昂について、『三国志』巻二十「武文世王公伝」は、「弱冠、孝廉に挙げらる」と記している。
「弱冠」とは、男子が成人の冠礼を行う二十歳前後を指す。
曹昂は若くして孝廉に推挙され、官途へ進む資格を得ていた。
孝廉は官職名ではない。
漢代の察挙制度における推薦科目であり、
郡太守や国相などの地方長官が、孝行と廉潔で知られる人物を朝廷へ推薦した。
推挙された者は、郎官などを経て官僚として任用されることが多かった。
曹昂が孝廉に推挙された年、推挙した人物、所属していた郡国は不明である。
曹氏の本貫である沛国から推挙された可能性はあるが、史料からは確認できない。
推挙後にどの官職へ就いたかも記録されていない。
郎、郎中、県令、軍司馬などの官職や軍号は伝わらず、
曹操軍の将軍として部隊を率いたという記事もない。
曹操の南征に随行
『三国志』曹昂伝は、曹昂が「太祖の南征に随った」と記している。
曹昂が軍事行動に参加したことを示す確実な記事は、この南征だけである。
曹昂が一軍を率いていたのか、幕僚として従っていたのか、
曹操の近侍として本営にいたのかは不明である。
軍職や指揮権を持っていた記録もないため、
「若き武将として活躍した」「将軍として出陣した」とすることはできない。
曹昂とともに、曹操の甥曹安民も軍中にいた。
曹安民の官職、年齢、父の名は記されておらず、
曹昂と同様、曹操に近い一族として随行していたことだけが分かる。
張繡の降伏
張繡は武威郡の出身で、張済の族子だった。
張済は董卓の死後、李傕、郭汜らと行動し、のちに軍勢を率いて荊州方面へ移った。
張済は食糧に窮して南陽郡の穰を攻め、流れ矢によって死亡した。
張繡がその軍勢を引き継ぎ、荊州牧劉表と結んで宛を拠点とした。
宛は許の南西に位置し、荊州と中原を結ぶ要地だった。
張繡が劉表と連携して宛に軍を置くことは、
献帝を許へ迎えた曹操にとって南方の脅威となっていた。
張繡のもとには賈詡がいた。
賈詡は張繡から厚く遇され、劉表との連携などを進言したが、
建安二年の降伏と反乱をどこまで主導したかは正史本文に明記されていない。
曹操が宛へ到着すると、張繡は戦わずに降伏した。
『三国志』武帝紀には、「公、宛に到る。張繡降る」とある。
曹操は張繡とその配下の将たちを招き、酒宴を開いた。
典韋伝によれば、曹操が一人ずつに酒を勧めて回る間、
典韋は大きな斧を持って背後に立ち、張繡らを威圧した。
宴席に曹昂が出席したかどうかは分からない。
張済の妻をめぐる曹操と張繡の対立
張繡が反乱に至った理由について、武帝紀の裴松之注に引かれた『魏書』は、
曹操が張済の妻を自らのもとへ入れたため、張繡が恨みを抱いたと記している。
張済は張繡の族父、一般には叔父に当たる人物と説明される。
張繡にとって叔父の妻に当たるが、正史には姓名が記されていない。
この女性との関係だけが反乱の原因だったとは限らない。
降伏した張繡軍が曹操の支配下でどのように扱われるかという
政治的・軍事的な不安も存在したはずだが、
史料が具体的に記す発端は張済の妻をめぐる怨恨である。
張繡暗殺計画の露見
張繡が恨んでいることを知った曹操は、密かに張繡を殺そうとした。
しかし計画が漏れ、張繡は先手を打って反乱を起こした。
張繡伝の裴松之注に引かれた『傅子』は、別の事情も伝えている。
張繡の配下に胡車児という勇士がおり、曹操はその武勇を愛して金を与えた。
張繡は、曹操が胡車児を買収して自分を殺そうとしているのではないかと疑ったという。
張繡伝の裴松之注所引『呉書』には、張繡が軍の移動を理由に、
兵士へ武器を携帯させたまま曹操の陣営近くを通る許可を求め、
曹操がこれを認めたため、武装兵を近づけることができたという異説も残されている。
ただし、裴松之注に収められた記事は、武帝紀本文にはない経緯を補う異説である。
曹操が張繡の申し出を疑わず許可したことまで含め、どの程度事実を反映しているかは判断できない。
典韋の武器を盗んだ話は演義の脚色
『三国志演義』では、張繡方は典韋の武勇を恐れ、
胡車児に命じて典韋を酒に酔わせ、愛用の双鉄戟を盗ませる。
武器を失った典韋は襲撃時に刀を奪って戦い、最後には敵兵の遺体を武器として奮戦する。
胡車児は史料上の人物だが、この展開は正史にない。
正史の典韋伝には、典韋が左右に一戟ずつ、重さ八十斤にもなる武器を使ったという別の記事がある。
また宛での最期には長戟で敵を撃ったと記される。
しかし、張繡の反乱前に胡車児がその武器を盗んだとは書かれていない。
張繡の急襲と曹操の危機
降伏から十日余り後の反乱
典韋伝によれば、張繡が反乱を起こしたのは、降伏から十日余り後だった。
張繡軍は曹操の陣営を襲撃した。
曹操は迎撃したものの戦況は不利となり、少数の騎兵を率いて退却した。
典韋が武装して宴席を護衛していたことからも、曹操は張繡方を一定程度警戒していた。
しかし、張繡軍の急襲に対して態勢を整えられず、
曹操自身が軽騎で逃げる状況に陥ったことは確かである。
張繡がどのような作戦で曹操軍を襲ったのかは、正史に詳しく記されていない。
夜襲だったのか、どこから陣内へ入ったのか、賈詡が具体的な戦術を立案したのかも不明である。
『三国志演義』では張繡が軍を移動させると偽って曹操の陣営へ接近し、夜間に一斉攻撃を行うが、
この詳細をそのまま史実として扱うことはできない。
曹操の乗馬 絶影と曹昂の献馬
張繡軍の急襲によって、曹操自身も危機に陥った。
裴松之注所引『魏書』によれば、曹操は流れ矢を受けて右腕を負傷した。
乗っていた愛馬「絶影」も、頬や脚などに矢を受け、
さらに胸または腹部にも矢が当たり、ついに倒れた。
絶影を失った曹操は、敵中で移動手段を失った。
曹昂は自分の馬を父に差し出し、曹操はその馬に乗って脱出した。
『魏書』には、「昂、騎する能わず、馬を公に進む。公、乃ち免る」とある。
曹昂は騎乗できない状態で、自分の馬を曹操へ譲り、曹操はそれによって難を免れた。
曹昂が曹操に対して何か言葉を残したという記事はない。
曹操を逃がすために自ら戦場へ残ると宣言した、
天下のために父へ生きるよう求めたといった台詞は、後世の創作である。
宛での戦死
曹昂の死
曹操を逃がした曹昂は、張繡軍の攻撃によって死亡した。
『三国志』曹昂伝は、「張繡の害するところとなる」と記す。
武帝紀本文は、「張繡が反し、公の軍は敗れ、長子の昂と弟の子の安民が害された」と記す。
曹操軍が敗れ、曹昂と曹安民が死亡したことは正史本文で明確に確認できる。
曹昂がどのように死亡したかは分からない。
戦闘中に討たれたのか、逃走中に追いつかれたのか、
すでに負傷していたところを殺されたのかも記録されていない。
曹昂が「宛城で戦死した」とされることが多いが、城内のどの地点で死亡したかは不明である。
史料上は、宛または淯水付近で起きた張繡の反乱によって死亡したとするのが確実である。
曹昂の遺体が回収されたかどうかは分からない。
曹昂の葬儀、墓所、埋葬地は正史に残されていない。
享年も不明である。
弱冠で孝廉に推挙された記事から若くして死亡したことは分かるが、
二十歳、二十一歳、二十三歳などの数字は推定にすぎない。
曹昂が若くして死亡したことは、後に与えられた「悼」「愍」という諡号からも示される。
「悼」は若くして世を去った者への哀悼、「愍」は不幸な最期を遂げた者への憐憫を含む諡である。
曹安民の死
同じ襲撃で曹安民も死亡した。曹安民は曹操の弟の子だが、父が誰だったかは明らかではない。
『三国志演義』では、曹安民が張済の未亡人を曹操へ紹介し、反乱の原因を作ったとされる。
しかし、正史には曹安民が女性を取り次いだという記事はない。
曹操が張済の妻を納れた経緯に曹安民が関与したとするのは演義の脚色である。
曹安民の遺体については、回収、葬送、埋葬地のいずれも正史に明確な記事がない。
典韋の奮戦
曹操の護衛を務めていた典韋も戦死した。
典韋伝によれば、曹操は戦況が不利になると軽騎で退いた。
典韋は陣門のなかで戦い、張繡軍を防いだため、敵兵は正面の門から入ることができなかった。
張繡軍は別の門から分散して陣内へ入った。
典韋の配下には十数人が残っており、全員が決死の戦いを続け、
一人で十人を相手にするほど奮戦した。
敵兵が次第に増えると、典韋は長戟を左右に振るい、
一度突き出すたびに十本余りの矛を折ったという。
周囲の兵がほぼ死傷した後、典韋自身も数十か所に傷を負った。
近接戦となり、敵兵が典韋へ組みつこうとすると、典韋は二人を両脇に抱えて撃ち殺した。
他の兵は恐れて近づけなくなった。
典韋はさらに前へ進んで数人を殺したが、重傷が開き、目を怒らせて大声で罵りながら死亡した。
典韋が死んだ後も、敵兵はしばらく近づけなかった。
やがて張繡軍は典韋の首を取り、互いに回して見たうえで、その遺体を見物したと記される。
曹操は舞陰まで退いた後、典韋の死を聞いて涙を流した。
遺体を取り戻す者を募り、自ら臨んで哭し、襄邑へ送り返して葬らせた。
典韋の子の典満を郎中に任じ、のちには司馬として側近に置いた。
曹操の撤退と敗戦処理
曹操は少数の騎兵とともに舞陰へ退却した。
舞陰は南陽郡に属する県で、宛の南東に位置する。
張繡軍は追撃したが、曹操は舞陰でこれを迎撃し、撃破した。
張繡は穰へ逃れ、再び劉表と結んだ。
曹操は最初の急襲では大敗したものの、舞陰で追撃軍を退け、軍勢の全面崩壊を防いだ。
ただし、張繡を捕らえることも南陽郡を制圧することもできず、南征は失敗に終わった。
于禁の退却
武帝紀によれば、曹操軍が混乱するなか、于禁の部隊は隊列を維持して退却した。
于禁は数百人を率い、戦いながら後退したため、死傷者は出たものの隊列を崩さなかった。
途中、曹操配下の青州兵が略奪を行っているのを見つけると、于禁はこれを討った。
青州兵は曹操のもとへ逃げ込み、于禁が反乱したと訴えた。
于禁は弁明を急がず、先に陣営を築いて敵への備えを整えた後、曹操へ事情を説明した。
曹操は于禁の行動を高く評価し、益寿亭侯に封じた。
曹操が敗因を語る
この敗戦は曹昂、曹安民、典韋を失っただけでなく、曹操軍全体が崩壊しかねない危機だった。
曹操が軽騎で逃れ、各部隊が混乱し、青州兵が略奪に走ったことからも、
張繡の急襲が曹操軍へ大きな打撃を与えたことが分かる。
曹操はこの敗北について、自らの判断の誤りを認めている。
張繡らが降伏した際、人質を取らなかったため反乱を防げなかったという趣旨を諸将へ語り、
今後は同じ失敗を繰り返さないと述べた。
降伏した張繡の兵力を解体せず、近親者や主要人物を人質として確保しなかったため、
張繡は短期間で軍を動かすことができた。
曹操が張済の未亡人を納れて張繡の恨みを招き、
張繡殺害を企てながら計画を漏らしたことも、敗北へつながった。
曹操は自らの行動で反乱の原因を作りながら、それを抑止する措置を取っていなかった。
張繡との再戦と再降伏
曹操は曹昂の死後、直ちに張繡への攻撃をやめたわけではない。
建安二年十一月には再び南征し、宛、湖陽、舞陰方面で張繡・劉表軍と戦った。
建安三年(198)には穰の張繡を包囲した。
劉表は救援軍を送り、曹操軍の退路を脅かした。
曹操が撤退すると、張繡は賈詡の制止を聞かずに追撃し、曹操の反撃を受けて敗れた。
張繡が戻ると、賈詡は今度こそ追えば勝てると進言した。
張繡が再び追撃すると、曹操軍の後衛を破った。
賈詡は、一度目は曹操自身が殿軍を務めていたため勝てず、
二度目は曹操が先に進み、別の将が後衛を率いると判断したと説明している。
建安四年(199)、袁紹と曹操の対立が本格化すると、袁紹は張繡を味方へ引き入れようとした。
張繡は袁紹へ従おうとしたが、賈詡はこれを退け、曹操へ帰順するよう勧めた。
賈詡は、曹操が献帝を奉じていること、
袁紹はすでに強大であり張繡の少数の兵を重んじないが、曹操は兵力が少ないため歓迎すること、
天下を目指す曹操なら私怨を捨てて徳を示すはずだという理由を挙げた。
張繡は曹操へ降伏した。
曹操は張繡の手を取り、宴を開いて歓迎した。
さらに自分の子曹均と張繡の娘を婚姻させ、張繡を揚武将軍に任じた。
張繡は曹昂、曹安民、典韋を死なせ、曹操自身を負傷させた相手である。
それでも曹操は張繡を処刑せず、軍事力として取り込んだ。
袁紹との決戦を控えた曹操にとって、南方の張繡を敵のまま残すことは危険だった。
張繡の帰順は背後の脅威を減らし、
その軍勢を袁紹との戦いへ利用できるという政治的・軍事的利益をもたらした。
曹操の内心の感情は記されていないため、曹昂の仇を完全に許したと断定することはできない。
史料から確認できるのは、曹操が私的な復讐を実行せず、
張繡の帰順を受け入れて厚遇したという事実である。
丁夫人の悲嘆と曹操への非難
丁夫人の悲嘆
曹昂の死に最も激しく反応したのは、養母の丁夫人だった。
『魏略』によれば、曹昂が死亡すると、丁夫人は曹操に対して繰り返しこう述べた。
「我が子を殺しておきながら、まったく思い出そうともしない」
原文は「将我児殺之、都不復念」である。
「将我児殺之」は、曹操の行動と判断によって曹昂を死なせたと責める言葉である。
曹操が張済の未亡人を納れて張繡の恨みを買い、暗殺を企てながら反乱を防げず、
曹昂は父を救うために自分の馬を譲り、父曹操を逃がした後に死亡したためである。
「都不復念」という非難が、曹操のどのような態度に向けられたものかは記されていない。
丁夫人にとって、曹操の態度が、曹昂の死を十分に悲しんでいないように見えたのかもしれない。
丁夫人は曹昂を「我児(我が子)」と呼んだ。
二人に血縁はなかったが、丁夫人が曹昂を実子として育てていたことが、この言葉から分かる。
『魏略』は「遂哭泣無節」と記す。
丁夫人は曹操を責めるだけでなく、悲しみを抑えることができず、節度を失うほど泣き続けた。
丁夫人の非難を受け続けた曹操は、ついに怒り、彼女を実家へ帰した。
ただし、この時点では完全な決別を意図していたわけではなく、
一時的に距離を置き、悲しみと怒りが収まれば戻ってくると考えた。
『魏略』の原文は「欲其意折」である。
曹操と丁夫人の決別
後日、曹操は自ら丁夫人の実家を訪ねた。
丁夫人は機に向かって布を織っていた。
曹操が到着しても、丁夫人は席を立たず、振り返りもせず、機織りを続けた。
曹操は丁夫人の背を撫で、一緒に車へ乗って帰らないかと呼びかけた。
しかし丁夫人は答えなかった。
曹操は戸口まで出た後、もう一度、まだ関係を修復できないのかという趣旨で問いかけた。
丁夫人はこの問いにも答えなかった。
曹操は「本当に決別なのだな」と述べて去った。
その後、曹操は丁夫人が望むなら再婚してよいと丁氏の家へ伝えた。
しかし丁家は曹操を恐れ、別の男性へ嫁がせようとはしなかった。
『魏略』には、曹操が丁夫人との関係を絶ち、再婚を許したと記されている。
夫婦関係が完全に終わったことは確かである。
丁夫人はその後も曹操のもとへ戻らず、別居したまま生涯を終えた。
丁夫人と卞夫人
丁夫人が曹操と別れた後、卞夫人が継室となった。
卞夫人は曹丕、曹彰、曹植、曹熊の生母である。
生母が正妻となったことで、曹丕らの家内における地位も上昇した。
ただし、曹昂の死によって曹丕が直ちに後継者へ決まったわけではない。
曹丕が魏王太子となるのは建安二十二年(217)であり、曹昂の死から二十年後だった。
丁夫人が正妻だったころ、
丁夫人は卞夫人とその子供たちを厚く遇していなかったと『魏略』は記している。
しかし卞夫人は、自分が継室となった後も丁夫人を冷遇しなかった。
曹操が不在の時には丁夫人を私的に招き、四季ごとに使者を送り、衣食や贈り物を届けた。
丁夫人が訪れると、かつての正妻として上座に座らせ、自分は下座に着いた。
丁夫人を迎える時も送り出す時も、卞夫人はかつてと同じ礼を尽くした。
丁夫人は、自分は廃されて追い出された者なのに、
なぜいつもこのように遇してくれるのかと卞夫人へ感謝した。
丁夫人が亡くなると、卞夫人は曹操へ願い出て、丁夫人を許城の南へ葬らせた。
丁夫人の没年、墓の正確な位置は分からない。
丁夫人と曹昂が合葬されたという記事もない。曹昂の埋葬地自体が不明である。
↓↓賢后と語られることが多い卞夫人についての個別記事は、こちら

曹昂をめぐる曹操の後悔
その後、曹操が病に苦しみ、自分は助からないかもしれないと考えた時、
『魏略』によれば、次のように嘆いた。
「我前後行意、於心未曾有所負也。假令死而有靈、子脩若問『我母所在』、我將何辭以答」
自分はこれまで、自らの行いについて心に負い目を感じたことはなかった。
しかし、もし死後にも霊があり、子脩が「私の母はどこにいるのですか」と尋ねたならば、
自分は何と答えればよいのか、という意味である。
ここで曹昂が尋ねる「母」は、生母の劉夫人ではなく、養母の丁夫人を指すと解釈される。
曹操は、自らの判断で曹昂を死なせたことだけでなく、その死によって丁夫人との関係を壊し、
曹昂が母と仰いだ女性を曹家から離れさせたことにも負い目を感じていたとみられる。
曹操が曹昂のために祭文を作った、墓を築いた、廟を設けた、官爵を追贈したという記事は、
曹操存命中の史料には確認できない。
曹昂伝は追封と継嗣を中心とする宗室伝であり、生前の記事そのものがきわめて短い。
曹昂への曹操の感情は、曹昂伝ではなく、丁夫人と卞夫人をめぐる『魏略』の記事に残された。
曹操にとって曹昂の死は、戦場で長男を失った出来事であると同時に、
丁夫人との関係を永遠に失った原因でもあった。
曹丕が語った曹昂と曹沖
曹丕が曹昂について語った言葉は、曹沖伝の裴松之注所引『魏略』に残されている。
「家兄孝廉、自其分也。若使倉舒在、我亦無天下」
「家兄孝廉」は曹昂を指す。
「自其分也」は、「兄の曹昂であれば、生きていても限界があった」という意味ではない。
「分」は、その者に当然帰すべき身分や立場を意味する。
長兄である曹昂が家を継ぐなら、それは兄として当然の分であるという趣旨に読むのが妥当である。
「倉舒」は曹沖の字である。
曹沖は正妻の子でも長男でもなかったが、
幼少時から優れた知恵と仁愛を示し、曹操に特に愛された。
曹操は群臣の前で曹沖をたびたび称賛し、
後継者とする意向を見せたと『三国志』曹沖伝は記している。
曹沖は建安十三年(208)、十三歳で死亡した。
曹操は深く悲しみ、曹丕らが慰めると、
「これは私にとっては不幸だが、お前たちにとっては幸いである」と語った。
曹沖の死によって、他の男子が後継者となる可能性が高まったという意味である。
「若使倉舒在、我亦無天下」という言葉は、
曹丕は、曹沖が生きていれば自分は曹操の後を継げなかったという意味である。
曹丕の発言から見える認識
曹昂が生きていれば、長兄として継承することは当然だった。
曹昂が死亡した建安二年(197)、曹丕は十歳だった。
曹昂と政治的に競争した経験はなく、曹丕が曹昂の能力をどの程度知っていたかは不明である。
曹沖が生きていれば、長幼の序列を越えて、
その卓越した才能と父の寵愛・意向によって、後継者になり得た存在だった。
両者への言及は、それぞれ異なる継承可能性を示している。
したがって、この発言は曹昂を低く評価し、曹沖だけを恐れたという単純な比較ではない。
曹操の後継者になり得たのか
曹昂は曹操の男子のなかで最年長であり、
正妻丁夫人のもとで実子同然にに育てられ、弱冠で孝廉に推挙されていた。
この条件から、曹操の後継者となり得る有力な立場にあったことは確かである。
しかし、曹昂が正式な後継者に指名されたという記録はない。
曹昂が死亡した建安二年(197)、曹操は司空となったばかりだった。
魏公となるのは建安十八年(213)、魏王となるのは建安二十一年(216)であり、
魏王世子を選ぶ問題が生じるのは、曹昂の死から十数年以上後である。
曹昂に特定の官職、所領、軍権が与えられた記事もない。
政治能力や軍事能力を示す事績も残されていない。
後漢末から三国時代の継承では、長男であることは重要だったが、
それだけで後継者が決まるわけではなかった。
母の地位、本人の能力、父の寵愛、家臣団の支持なども影響した。
曹操は曹昂の死後、曹丕より年少の曹沖を後継者として意識し、
曹沖の死後には曹丕と曹植の間で選択を迷った。
曹丕自身も、長男になったという理由だけで後継者の地位を保証されたわけではない。
曹昂が生きていれば必ず曹操の後を継いだ、
曹丕と曹植の争いも起きなかったと断定することはできない。
曹昂が死亡したことで、曹操の最年長の男子は曹丕となり、
丁夫人の離別と、曹丕の生母である卞夫人の継室就任を招いたという点で、
後の継承に影響を与えた。
ただし、曹丕が魏王太子となったのは、建安二十二年(217)である。
曹昂の死がそのまま曹丕の即位へ直結したわけではない。
曹丕による追封
黄初二年、豊悼公に追封
建安二十五年(220)正月、曹操は洛陽で死亡した。
曹丕が魏王と丞相の地位を継承し、同年十月、献帝から禅譲を受けて皇帝となった。
黄初二年(221)、曹丕は曹昂を追封し、「豊悼公」の諡号を与えた。
曹昂は生前、孝廉に推挙されたものの、爵位を与えられた記録はない。
曹操が魏公・魏王となる前に死亡しており、魏王の子として封爵を受ける機会がなかったためである。
「追封」は、死亡した人物へ死後に爵位を与えることをいう。
「悼」は、若くして死亡した者、早世を哀れまれる者に用いられる諡である。
『三国志』曹昂伝は、「無子」と明記している。
曹昂には、爵位や祭祀を直接継承できる実子がいなかった。
婚姻していたかどうかは、史料から確認することはできない。
「子がいなかった」ことから「妻や婚約者がいなかった」と断定することはできない。
曹琬による祭祀継承
黄初三年(222)、曹丕は曹均の子曹琬を、曹昂の後継者とした。
曹均は曹操と周姫の間に生まれた男子であり、曹昂の異母弟に当たる。
曹琬は曹昂から見れば甥である。
『三国志』は、「曹琬をもって曹昂の後を奉じさせた」と記す。
「奉後」とは、子のない死者の後継者を立て、その家系と祭祀を継承させることを意味する。
曹琬は曹昂の実子ではなく、曹昂本人に育てられた養子でもない。
曹昂の死後二十五年を経て、宗廟祭祀と爵位を継承するために立てられた後継者である。
曹琬の生年は不明であり、黄初三年当時の年齢、曹昂との面識の有無は記されていない。
曹琬は曹昂の後を奉じると同時に、中都公に封じられ、同年、長子公へ移封された。
「中都」「長子」は、地名である。
ただし、曹魏の宗室諸王・諸公は封国を与えられても、
行政の実務は中央から派遣された官吏が担い、
宗室本人の権限は制限されていたため、実際に統治したわけではない。
豊悼王への追進
黄初五年(224)、曹昂は「豊悼公」から「豊悼王」へ追進された。
公爵から王爵へ格上げされ、魏の宗室王として位置づけられたことになる。
曹丕の時代には宗室の封爵制度が整備され、
曹操の早世した男子たちも段階的に侯、公、王へ追封された。
曹昂の王号追加も、その一環と考えられる。
曹昂だけが兄として特別に王へ進められたとはいえないが、
曹操の長男として死後も宗室の一系統を構成することになった。
曹叡による「豊愍王」への改諡
黄初七年(226)、曹丕が死亡し、子の曹叡が魏の第二代皇帝となった。
曹叡から見れば、曹昂は父曹丕の異母兄、すなわち伯父に当たる。
太和三年(229)、曹叡は曹昂の諡を「悼」から「愍」へ改めた。
これにより、曹昂は「豊愍王」と呼ばれるようになった。
「愍」は、不幸や災難に遭い、非業の死を遂げた者を哀れむ意味を持つ諡である。
ただし、曹叡がなぜ「悼」から「愍」へ改めたのかを説明する詔書は残されていない。
太和三年には、曹操の早世した他の男子についても追封や諡号の整備が行われている。
曹昂の改諡だけを、個人的な再評価による特別措置とみなすことはできない。
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豊王家の継承
嘉平六年(254)、曹琬は曹昂の爵位を継ぎ、豊王となった。
曹琬が曹昂の後継者に立てられたのは黄初三年(222)だったが、
その時に与えられた爵位は中都公、のち長子公である。
曹昂が黄初五年(224)に豊悼王へ追進された後も、曹琬は直ちに豊王となったわけではない。
曹琬が正式に豊王を襲ったのは、それから三十年後の嘉平六年である。
曹昂が死亡した建安二年から数えれば、五十七年後に当たる。
なぜ長期間を経てから曹琬に豊王を継がせたのかは記録されていない。
豊王家の封邑
正元・景元年間には、曹琬の封邑が繰り返し加増された。
正元は曹髦の治世、景元は曹奐の治世に用いられた元号である。
いずれも司馬氏が魏の実権を握っていた時期に当たる。
以前の分と合わせて二千七百戸となった。
これは曹昂が生前に与えられた所領ではなく、
曹琬が二千七百戸の住民を直接支配したという意味でもない。
曹昂の祭祀と爵位を継ぐ豊王家に与えられた封邑である。
曹琬が死亡すると、恭王と諡された。曹琬の子曹廉が爵位を継いだ。
曹廉は血統上は曹均の孫だが、宗法上は曹昂の祭祀を継ぐ系統に属した。
曹昂には実子がなかったものの、曹琬と曹廉によって名目的な家系が維持された。
曹廉の生年、官歴、人物像、没年は記されていない。
咸熙二年(265)、司馬炎が魏から禅譲を受けて西晋を建てた後、
曹廉や豊王家がどのような処遇を受けたかも、曹昂伝には記録されていない。
西晋でも豊王を継いだ、曹廉の代で断絶したといった断定はできない。
後世の曹昂像
記録の少ない人物
曹昂の生前の記事は、正史本文ではほぼこの数行に尽きている。
「豊愍王昂、字子脩。弱冠挙孝廉。随太祖南征、為張繡所害。無子。」
すなわち、曹昂は字を子脩といい、弱冠で孝廉に推挙され、
曹操の南征に従って張繡に殺害され、実子を残さなかったという。
また、死後の追封と継嗣が記されるだけである。
曹昂自身の言葉は一つも残されていない。
曹丕には文才や政治的判断、曹彰には武勇、曹植には詩才、
曹沖には幼少時の知恵を示す多くの逸話が残されている。
これに対して曹昂は早くに死亡したため、性格や才能を直接評価する記事もなく、
学問、詩文、弁舌、政治、軍事などにおける能力を示す事績もない。
それにもかかわらず、曹昂は曹操の子供たちのなかでも比較的よく知られた存在となった。
曹操の長男だったこと、正妻丁夫人に育てられたこと、弱冠で孝廉に推挙されたこと、
張繡の反乱で父へ馬を譲って自らは戦場で死亡したこと、丁夫人から実子同然に愛されていたこと、
曹操が晩年まで負い目を感じていたことが、孝行で悲劇的な長男像として印象づけた。
孝行の象徴
特に献馬は、後世に孝行の象徴として理解された。
孝廉に推挙された人物が、最後には父を救って死亡したという経歴が、一貫した孝子像を生み出した。
ただし、曹昂が温厚、聡明、勇敢、弟思いだったという直接的な史料はない。
曹操が最も愛した息子、理想の長男、最も信頼した後継者だったとする表現にも根拠はない。
曹操が才能を明確に称賛し、後継者とする意向を示したことが記されているのは曹沖である。
曹植も文才によって寵愛を受けた。曹昂には、それらに相当する記事がない。
曹操が晩年まで曹昂の死を気に掛けていたことは、『魏略』の発言からうかがえる。
しかし、その発言の中心には丁夫人への負い目があり、
曹昂を最も愛していた、最も高く評価していたとまではいえない。
悲劇の長男としての定着
曹昂について確認できるのは、後継者になり得る有力な立場にありながら、
能力を示す機会を得る前に死亡したということろまでである。
実現しなかった可能性が大きいほど、後世には「曹昂が生きていれば曹丕は皇帝にならなかった」
「曹丕と曹植の争いも起こらなかった」「曹魏の歴史は変わった」といった想像が生まれた。
曹丕自身の「家兄孝廉、自其分也」という言葉は、こうした見方を支える史料ではある。
しかし、曹昂の生存後の行動や能力は分からず、
二十年以上後の王朝創設を、建安二年の死亡時点から確定的に予測することはできない。
曹昂は「皇帝になれたはずの人物」というより、
将来を判断できるだけの事績を残す前に死亡した人物である。
その空白が、後世にさまざまな可能性を想像させることになった。
『三国志演義』における曹昂
小説『三国志演義』でも、曹昂は宛で曹操へ馬を譲り、戦死する。
大筋は正史本文と裴松之注所引史料に基づいている。
曹操が張繡を降伏させたこと、張済の妻を自らのもとへ置いたこと、張繡が反乱したこと、
絶影が倒れたこと、曹昂が馬を譲ったこと、曹昂、曹安民、典韋が死亡したことには、
それぞれ史料上の根拠がある。
一方、張済の妻を鄒氏と呼ぶこと、曹安民が女性を曹操へ紹介したこと、
賈詡が夜襲の詳細を立案したこと、胡車児が典韋の双戟を盗んだこと、
曹昂が父へ語った具体的な台詞は小説上の脚色である。
演義では、胡車児が典韋を酒に酔わせ、双鉄戟を盗み出す。
武器を失った典韋は敵兵の刀や遺体を使って奮戦し、死亡する。
正史には胡車児が張繡配下の勇士だったこと、典韋が重い戟を使ったことは記される。
しかし、胡車児が典韋の武器を盗んだという記事はない。
また、演義では曹昂が馬を譲った後の戦闘や死が具体的に描かれるが、
正史は曹昂が張繡軍に殺害されたことしか伝えていない。
史料上の曹昂も父へ馬を譲って死亡したが、その時の心情や言葉は残されていない。
後世に定着した孝行で自己犠牲的な長男像は、史料に残された行動を核として、
小説や人物評によって肉付けされたものだった。
史書・参考文献
『三国志』巻一「武帝紀」
『三国志』巻五「后妃伝・武宣卞皇后伝」裴松之注所引『魏略』
『三国志』巻十八「二李臧文呂許典二龐閻伝・典韋伝」
『三国志』巻二十「武文世王公伝・豊愍王曹昂伝」
『三国志』巻二十「武文世王公伝・鄧哀王曹沖伝」裴松之注所引『魏略』
『三国志』巻二十三「和常楊杜趙裴伝・于禁伝」
『三国志』巻十「荀彧荀攸賈詡伝・賈詡伝」
『三国志』巻八「二公孫陶四張伝・張繡伝」裴松之注所引『傅子』
『資治通鑑』巻六十二「漢紀五十四」
羅貫中『三国志演義』

