曹宇(そうう)は曹操の子で、字を彭祖という。
同母兄弟には、
幼くして優れた知恵を示しながら十三歳で早世した曹沖と、彭城王となった曹拠がいた。
曹操の二十五人の男子の一人であり、父の時代から侯に封じられ、曹丕の時代には王となったが、
その前半生について史書が伝える事績は多くない。
曹宇が歴史の表舞台に現れるのは、甥の明帝曹叡の時代である。
曹叡は若いころから曹宇と親しく、即位後も他の諸王とは異なる待遇を与えた。
曹叡が晩年に病が重くなると、曹宇を大将軍に任じ、幼い後継者を託そうとしている。
しかし曹宇は大将軍就任を固辞し、その間に劉放・孫資らが輔政人事へ介入した。
曹宇を中心とする当初の構想は取り消され、
最終的には曹爽と司馬懿が幼帝曹芳を補佐することになる。
この経緯については『三国志』だけでなく、
裴松之注にが引用された『漢晋春秋』『魏略』などにも異なる記録が残されている。
その後の曹宇は中央政界から離れたが、
息子の曹奐が魏最後の皇帝となったことで、再び皇統と深く関わることになった。
曹魏が滅亡した後も西晋まで生き、
死後には曹奐が実父である曹宇のために服喪できるかという礼制上の問題まで生じている。
曹宇は、自ら帝位を争った人物でも、軍功を立てた人物でもない。
それでも曹操の子として生まれ、曹叡から後事を託され、魏最後の皇帝の父となり、
さらに魏の滅亡後まで生きたその生涯は、
曹氏の興隆から衰退までをほぼ一貫して見届けたものだった。
↓↓魏の第2代皇帝・曹叡についての個別記事は、こちら

曹操と環夫人の子として生まれる
曹宇の生年は分かっていない。
『三国志』武文世王公伝によれば、
曹操には二十五人の男子がおり、曹宇は環夫人との間に生まれた。
同母兄に曹沖・曹拠がいる。
兄弟のうち曹沖は、象の重量を測る方法を考えた逸話などで知られ、
曹操から後継者候補として期待されていたとも伝えられるが、
建安十三年(208)に十三歳で病死した。
曹拠はのちに彭城王となり、曹宇と同じく魏の宗室諸王として長く存続した。
曹宇自身の幼少時代については、曹沖のような逸話は残されていない。
学問、武芸、容貌などについて具体的に記した史料もなく、
最初に確認できる経歴は爵位を与えられた建安十六年(211)からとなる。
↓↓同母兄の曹沖についての個別記事は、こちら

都郷侯から魯陽侯へ
建安十六年(211)、曹宇は都郷侯に封じられた。
曹操はこの時期、曹丕以外の諸子にも爵位を与えており、
同年には曹宇の兄曹拠も范陽侯に封じられている。
建安二十二年(217)には、都郷侯から魯陽侯へ改封された。
このころ曹操は魏王となり、曹丕を正式に魏の太子としていた。
曹宇をはじめとする他の男子たちは、
魏王家を構成する宗室としてそれぞれ封爵を受ける立場となっていた。
↓↓魏の初代皇帝・曹丕についての個別記事は、こちら

張魯の娘を妻に迎える
曹宇の妻については、曹宇本伝ではなく『三国志』張魯伝に記録が残されている。
建安二十年(215)、曹操は漢中を支配していた張魯を降伏させた。
張魯は鎮南将軍となり、閬中侯に封じられ、その五人の子も列侯となるなど厚遇を受けた。
その記事に続いて、『三国志』は曹操が「子の彭祖のために張魯の娘を娶った」と記している。
彭祖は曹宇の字であるため、曹宇が張魯の娘を妻としたことが分かる。
張魯の娘の実名は正史には記されない。
後世には「張琪瑛」などの名で語られることがあるが、これは『三国志』で確認できる名前ではない。
この婚姻は張魯降伏後に行われており、
曹操が漢中の有力者であった張氏を自らの一族へ取り込む意味を持つものだったと考えられる。
曹丕の時代に王となる
延康元年(220)、曹操が死去し、曹丕が魏王を継いだ。
同年、曹丕は後漢の献帝から禅譲を受け、魏の初代皇帝となる。
黄初二年(221)、曹宇は侯から公へ進爵した。
翌黄初三年(222)には下邳王に封じられ、皇帝の弟として王爵を与えられた。
黄初五年(224)、曹丕は諸王の封国制度を改め、郡を領する王から県を領する王へ規模を縮小した。これに伴い曹宇も下邳王から単父県王へ改封された。
曹丕は宗室諸王が中央政治へ介入することを強く警戒しており、
諸王の行動や人員との交流にも厳しい制限を設けていた。
曹宇についても、曹丕の治世に政治や軍事へ関与したという記録は残されていない。
曹叡と若いころから親しく過ごす
曹宇の生涯を考えるうえで重要なのが、甥の曹叡との関係である。
『三国志』曹宇伝によれば、曹叡は若いころ曹宇とともに暮らし、曹宇を特に親愛していた。
曹叡がどの時期に、どのような事情で曹宇とともに暮らしていたのかについて詳しい説明はないが、
二人の間には曹叡即位以前から親密な関係があった。
曹宇は曹叡にとって叔父にあたる。
しかし曹操には晩年に生まれた男子も多く、
曹宇と曹叡の年齢差がそれほど大きくなかった可能性もある。
曹叡は即位後も曹宇を特に厚遇した。
『三国志』は、曹宇に対する寵愛や賜与が「諸王と殊なり」、
すなわち他の宗室諸王とは異なっていたと記している。
太和六年(232)、諸王の封国が再び郡を単位とする制度に改められると、曹宇は燕王となった。
以後、史書では主に「燕王曹宇」として現れる。
洛陽へ召される
青龍三年(235)、曹宇は朝廷へ召された。
曹丕以来、魏では宗室諸王が自由に都へ出入りすることは認められていなかった。
実際、他の曹氏諸王には都で禁令を犯し、封邑を削られた例もある。
そのなかで曹宇が皇帝の命によって入朝していることは、曹叡との関係の深さを示す。
景初元年(237)、曹宇はいったん鄴へ戻った。
ところが翌景初二年(238)夏には、再び京都へ召されている。
この年、曹叡はまだ三十代だったが、すでに健康を損ねており、年末には病状が急速に悪化した。
曹叡の後継者問題
曹叡には実子の男子が育たず、曹芳と曹詢を養子としていた。
曹芳の出自については正史にも明確な記載がなく、曹叡が死去した時点ではまだ幼少だった。
そのため曹叡の死後には、幼帝を誰が補佐するのかが重要な問題となった。
景初二年(238)十二月、病状が重くなった曹叡は、
当初、曹氏宗室を中心とする輔政体制を構想した。
『三国志』劉放伝によれば、曹叡が後事を任せようとしたのは、
大将軍となる燕王曹宇を中心に、
領軍将軍夏侯献、武衛将軍曹爽、屯騎校尉曹肇、驍騎将軍秦朗を加えた五人だった。
曹肇は曹休の子で、曹氏一門に連なる人物である。
曹爽は曹真の子であり、夏侯献も曹氏と深い関係を持つ夏侯氏の人物だった。
秦朗は曹操の養子的な立場で育ち、曹叡から近臣として重用されていた。
つまり曹叡が最初に考えていたのは、司馬懿を中心とする体制ではなく、
自らが信頼する曹氏・夏侯氏と近臣によって幼帝を支える体制だった。
その中心に置かれたのが曹宇だった。
↓↓三国時代の終焉を決定づけた司馬懿についての個別記事は、こちら



大将軍となり、後事を託される
景初二年(238)十二月、曹叡は曹宇を大将軍に任命し、
幼い曹芳の補佐をはじめとする死後の政務を託そうとした。
『三国志』曹宇伝はこの出来事を「宇を大将軍となし、属するに後事を以てす」と記している。
大将軍は魏の軍事を統轄する最高位の一つであり、
まして幼帝の後見を兼ねるとなれば、その権限は極めて大きい。
しかし曹宇は就任を受けようとせず、四日にわたって辞退を続けた。
『三国志』劉放伝は曹宇を「性恭良」、すなわち慎み深く穏やかな性格だったと記している。
曹宇が大将軍を辞退した理由について、史書に具体的な説明はない。
この間に劉放・孫資が輔政人事に介入し、曹叡が当初考えていた体制は変更されていった。
劉放と孫資の介入
当時、曹叡の側近として大きな影響力を持っていたのが、中書監の劉放と中書令の孫資だった。
中書は皇帝の詔勅や機密を扱う部署で、二人は長く曹叡の近くで政務に携わっていた。
一方、曹宇とともに輔政を担う予定だった夏侯献・曹肇・秦朗らと、
劉放・孫資との関係は良くなかった。
曹宇を中心とする新たな体制が成立すれば、劉放と孫資が政権から外される可能性もあった。
曹宇が大将軍への就任を辞退していると、
曹叡は劉放と孫資を寝室へ呼び、曹宇がなぜ辞退するのか尋ねた。
二人は、曹宇自身が大任に堪えられないことを分かっているからだと答えた。
そこで曹叡が、曹爽を曹宇に代えることができるかと尋ねると、
二人は賛成し、さらに太尉司馬懿を呼び戻して幼帝を補佐させるよう進言した。
曹叡はいったんこれを受け入れ、司馬懿を召還する詔を作らせたものの、その後に撤回している。
しかし曹叡は再び劉放と孫資を呼び、
「太尉を召そうとしたところ、曹肇らに止められ、危うく事を誤るところだった」と語った。
病床の曹叡は、短期間のうちに輔政人事について判断を変えていた。
最終的に曹叡は曹爽と司馬懿に後事を託すことを決め、
曹宇・夏侯献・曹肇・秦朗を輔政から外した。
これにより、曹宇を中心として曹氏・夏侯氏の一族や近臣が幼帝を支えるという
当初の構想は撤回された。
『漢晋春秋』が伝える病床での人事変更
曹宇らが輔政から外された経緯について、
裴松之注に引用された『漢晋春秋』は、『三国志』本文よりも詳しい逸話を伝えている。
それによれば、曹宇は病床の曹叡に付き添っていたため、
劉放・孫資は輔政人事に口を挟むことができなかった。
ところが曹宇が曹肇と相談するため席を外し、曹爽だけが残ったところで、
二人は曹叡に後事を誰へ託すつもりなのか尋ねた。
曹叡が曹宇の名を挙げると、劉放はこれに反対した。
先帝曹丕が藩王に政治を任せない方針を定めていたことを持ち出し、
曹肇や秦朗らも厳しく批判したうえで、曹爽と司馬懿に後事を託すよう進言したという。
曹叡はいったんこれを受け入れたが、
曹肇が涙を流して翻意を求めると、人事変更を取りやめようとした。
これに対して劉放・孫資が再び説得し、最終的には曹宇らを退ける決定が下された。
『漢晋春秋』は、この決定が行われた際の様子も伝えている。
病のため自ら詔を書くことができないとする曹叡に対し、劉放はその手を取って詔を書かせ、
曹宇・曹肇・夏侯献・秦朗を免官して宮中に留めないことを宣言した。
曹宇らは涙を流して退出し、それぞれの邸宅へ戻ったという。
劉放が病床の皇帝の手を取って詔を書かせたという記述まで含むため、
『漢晋春秋』の記事をそのまま事実として扱うことには注意が必要となる。
ただし、『三国志』本文では簡潔に記された輔政人事の変更について、
曹叡の判断が揺れ、その周囲で激しい働きかけが行われていたとする異伝として重要である。
『世語』が伝える劉放・孫資との対立
裴松之注に引用された『世語』は、
劉放・孫資が曹宇らを輔政から外そうとした背景について、一つの逸話を伝えている。
夏侯献と曹肇は、長く朝廷で権力を握っていた劉放・孫資を快く思っていなかった。
ある時、宮中の木に鶏がとまっているのを見て、
「これもずいぶん長く居座っているが、いつまで続くのだろう」と語ったという。
長く権勢を保つ劉放・孫資を、木に居座る鶏になぞらえた言葉だった。
これを知った劉放・孫資は、
曹宇を中心とする輔政体制が成立すれば自分たちが排除されると警戒し、
その人事を阻止するために動いたとされる。
ただし、この逸話で劉放・孫資への反感を示しているのは夏侯献と曹肇であり、
曹宇自身が二人と対立していたとは記されていない。
また裴松之は、『世語』の記事には
『三国志』本文と時系列が一致しない部分があることも指摘している。
司馬懿を関中へ向かわせようとする
曹宇と司馬懿との関係についても、注意が必要となる。
後世の展開を知っていると、
曹宇を中心とする曹氏宗室と司馬懿が最初から対立していたように見えやすい。
しかし、少なくとも現存史料から、
曹宇が司馬懿を政治的な敵として排除しようとしていたとまでは断定できない。
『三国志』明帝紀の裴松之注に引用された『魏略』によれば、
曹宇は当時、関中方面の情勢を重視し、
遼東遠征から戻ってきた司馬懿を河内からそのまま西へ向かわせる案を立てていた。
この命令はいったん実施に移された。
ところが間もなく、曹叡自身が司馬懿を都へ召す詔を出した。
司馬懿は先の命令を受けた直後に正反対の詔が届いたため、
京師で何らかの異変が起きたのではないかと疑い、急いで洛陽へ向かったとされる。
曹宇の案だけを見れば、司馬懿を中央から遠ざけようとしたと解釈する余地はある。
しかし史料には「司馬懿を排除するため」とは書かれておらず、
理由として示されているのは関中の軍事的重要性である。
曹叡の死と曹宇の帰国
景初三年(239)正月、司馬懿が洛陽へ到着すると、
曹叡は寝室へ呼び入れてその手を取り、曹芳を託した。
曹爽とともに幼い皇太子を補佐するよう命じたのち、曹叡はその日のうちに嘉福殿で死去した。
曹芳の即位後は曹爽と司馬懿が輔政を担い、
すでに大将軍を免じられていた曹宇が新政権に加わることはなかった。
同年夏には鄴へ戻り、これ以後、曹芳政権の中央政治に関与した記録はほとんど見られない。
曹爽と司馬懿の争いには関与せず
曹爽と司馬懿の共同輔政は、やがて両者の権力争いへ変化した。
曹爽は弟たちや何晏、鄧颺、丁謐らを登用して政権を掌握し、司馬懿を事実上政界から遠ざけた。
正始十年(249)、司馬懿は高平陵の変を起こし、曹爽一派を排除した。
曹爽らは処刑され、司馬氏が魏の実権を握ることになる。
曹宇はもともと曹爽に代わられる形で輔政から外された人物だったが、
高平陵の変の際に司馬懿へ協力したという記録も、曹爽を支援したという記録もない。
曹爽が滅ぼされた後、曹宇が大将軍などへ復帰した形跡も見られない。
景初・正元・景元年間にはたびたび封邑を加増され、最終的な食邑は五千五百戸となったため、
宗室としての待遇そのものは維持されていた。
↓↓曹爽派の一人、何晏についての個別記事は、こちら

息子の曹奐
曹宇の子には曹奐がいる。
曹奐は字を景明といい、もとは曹璜と名乗っていたとされる。
甘露三年(258)、常道郷公に封じられた。
この時点では魏皇帝になることを予定された人物ではなかったが、
甘露五年(260)、皇帝曹髦が司馬昭を討とうとして逆に殺害されたことで状況が変化する。
曹髦の死後、司馬昭らは新たな皇帝を選ぶ必要に迫られた。
そこで選ばれたのが、燕王曹宇の子である常道郷公曹璜だった。
曹璜は鄴にいたため、司馬炎が迎えに派遣され、洛陽へ入った。
名を曹奐と改めて皇帝に即位し、曹魏第五代にして最後の皇帝となった。
『三国志』曹宇伝も最後に、「常道郷公奐は宇の子で、大宗を継いだ」と記している。
↓↓司馬懿の息子・司馬昭についての個別記事は、こちら

皇帝の実父となる
曹奐が皇帝となったことで、曹宇は現皇帝の実父となった。
しかし曹奐は曹宇の家をそのまま継いで皇帝になったわけではない。
魏の皇統上では明帝曹叡の後継者として「大宗」を継いだため、
実父である曹宇との関係にも礼制上の調整が必要になった。
景元元年(260)十一月、曹宇は冬至を祝う上表を送り、
その中で皇帝である息子曹奐に対して「臣」と称した。
曹奐はこれを問題とし、古代には臣下として扱われない王もいたとして、
曹宇が表章で臣と称さなくてもよいのではないかと議論させた。
有司は、曹奐が大宗を継いだ以上、
曹宇との本来の父子関係をそのまま国家制度へ持ち込むことはできない一方、
皇帝の実父を一般の臣下と全く同じに扱うことも適当ではないとした。
その結果、曹宇の表章は従来の形式を認め、
皇帝から曹宇へ通常の臣下とは異なる敬意を示す表現を用いること、
宗廟の祭祀以外では曹宇の名を直接記すことを避けることなど、特別な礼遇が定められた。
曹宇は皇帝の父となったが、それによって政治的実権を持った記録はない。
当時の魏では司馬昭が実質的な権力を握っており、
曹奐自身にも政治的自由はほとんど残されていなかった。
司馬氏の台頭と曹魏の滅亡
景元四年(263)、魏は蜀漢を滅ぼした。
この功績を背景として司馬昭の地位はさらに上昇し、晋公、続いて晋王となった。
皇帝の実父である曹宇がなお燕王として存在していたにもかかわらず、
政治的な序列では司馬昭が圧倒的な位置を占めるようになった。
曹宇がこうした司馬氏の権力拡大に対して何らかの意見を述べた記録は残されていない。
咸熙二年(265)、司馬昭が死去すると、その子司馬炎が晋王を継いだ。
同年十二月、曹奐は司馬炎へ禅譲し、魏は滅亡した。
曹操が魏王となってから約半世紀、曹丕が皇帝となってから四十五年で、曹氏の王朝は終わった。
曹奐は殺害されず、陳留王に封じられた。
西晋成立後と曹宇の死
晋が成立すると、曹宇は魏の燕王から燕公となった。
曹操の子の多くがすでに世を去るなか、曹宇は西晋の時代まで生きており、
曹操の生前から曹丕による魏の建国、曹叡・曹芳・曹髦・曹奐の治世、司馬氏の台頭、
さらに魏から晋への禅譲までを経験した。
曹宇の生年は不明で、正確な享年も分からない。
ただし建安十六年(211)にはすでに都郷侯に封じられており、
それから六十年以上を生きたことになる。
『三国志』曹宇伝には曹宇の死について記載がなく、死因や諡号も伝わっていない。
一方、西晋の咸寧四年(278)には曹宇の死に伴う服喪が問題となっているため、
この年に死去したとみられる。
曹宇の死後に起きた服喪問題
曹宇が死去すると、息子の曹奐が実父のために喪に服すべきかが問題となった。
曹奐は曹宇の実子だが、魏の皇帝となった際に明帝曹叡の後継者として皇統を継いでいた。
そのため礼制上は曹宇の家を離れたことになり、
実父であっても通常の父子と同じように服喪できるのか、陳留国から西晋朝廷へ判断が求められた。
晋武帝司馬炎は、曹奐が魏の皇統を継ぎ、その祭祀を受け継いでいることを重視し、
曹宇を「私親」として通常の服喪を認めなかった。
『晋書』や『通典』に残るこの議論からは、
曹奐が曹宇の実子でありながら、皇統上は曹叡の後継者となったことで、
実父との関係にも礼制上の制約が生じていたことが分かる。
人物評・評価
曹宇について、『三国志』が伝える個人的な逸話は多くない。
兄曹沖には幼少期の知恵や仁愛を示す逸話が多数あり、
曹拠や他の諸王にも生活態度や禁令違反などの記事が残るが、
曹宇の前半生については封爵の推移が記される程度である。
その曹宇について比較的明確に示されている特徴が、
曹叡との関係と、大将軍任命時の態度である。
曹叡は若いころ曹宇とともに暮らし、即位後も他の諸王とは異なる恩賞を与えた。
最終的には自分の死後を託す大将軍に任じており、
曹宇への信頼が一時的なものではなかったことが分かる。
一方、曹宇はその大将軍職を固辞した。
劉放伝が「性恭良」、すなわち慎み深く穏やかな性格と評していることも合わせると、
少なくとも陳寿が採録した記録の中では、積極的に権力を求める宗室としては描かれていない。
もっとも、曹宇が輔政に適した政治能力を持っていたかどうかは別の問題となる。
曹宇には地方行政や軍事指揮で大きな実績を残した記録がなく、
大将軍に選ばれた最大の理由は、
曹叡からの個人的な信頼と曹操の実子という宗室内での立場にあったと考えられる。
景初二年末の政争についても、
史書で積極的に動いているのは曹肇、夏侯献、劉放、孫資らであり、
曹宇自身が権力獲得のために策を弄した記録はほとんどない。
輔政から外された後も、曹宇は曹爽に対抗して政治活動を始めることはなく、
高平陵の変の後にも復権を図った形跡はない。
さらに息子曹奐が皇帝となってからも、皇帝の父として実権を得ようとした記録は残らなかった。
結果として曹宇は、曹氏宗室の中でも政治的な争いへ深く踏み込まず、
魏の末期から西晋まで生き延びた人物となった。
まとめ
曹宇は曹操と環夫人の子で、曹沖・曹拠の同母弟にあたる。
曹操の時代に都郷侯に封じられ、曹丕の時代に王となったのち、曹叡の時代には燕王となった。
曹叡とは若いころから親しく、即位後も他の諸王とは異なる厚遇を受けた。
景初二年(238)に曹叡が重病となると大将軍に任じられ、
幼い後継者を補佐する役割を託されたが、
曹宇が就任を辞退するなかで輔政人事が変更され、
最終的には曹爽と司馬懿が曹芳を支えることになった。
その後は中央政治から離れたが、甘露五年(260)には息子の曹奐が魏最後の皇帝となった。
曹宇自身は魏が滅亡した後も生き、西晋では燕公となり、咸寧四年(278)ごろに死去した。
曹操の子として魏の成立以前から生き、曹叡から後事を託され、
のちに魏最後の皇帝の父となった曹宇は、
曹氏の繁栄から魏の滅亡、そして西晋の成立までを経験した宗室だった。
史書・参考文献
『三国志』魏書「武文世王公伝」
『三国志』魏書「明帝紀」
『三国志』魏書「三少帝紀」
『三国志』魏書「張魯伝」
『三国志』魏書「劉放伝」
裴松之注所引『魏略』
裴松之注所引『漢晋春秋』
裴松之注所引『世語』
『晋書』礼志
『通典』礼典

