隋王朝の皇帝家系図と一覧|楊堅から楊侑まで

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隋:略家系図

隋王朝皇帝一覧と家系図

隋(581–618):皇帝一覧

 廟号  諡号  名前(諱)生年-没年
(没年齢)
 在位ー退位
(年齢)
在位期間
高祖 文帝楊堅ようけん541-604
(63歳)
581ー604
(40歳)ー(63歳)
23年
 煬帝楊広ようこう569-618
(49歳)
604ー618
(35歳)ー(49歳)
14年
 恭帝楊侑ようゆう605ー619
(14歳)
617ー618
(12歳)ー(13歳)
1年

※補足

・隋の滅亡年は、長安の③恭帝(楊侑)がの李淵へ禅譲し、
 が建国された618年とするのが一般的である。
 ただし洛陽では、同じ隋皇族の楊侗を皇帝とする政権が619年まで存続していた。
 そのため618年の建国によって隋の皇帝を称する勢力がただちに完全消滅したわけではなく、
 洛陽の楊侗政権は隋王朝最後の残存政権として位置づけられる。

①文帝(楊堅)|建国者

・魏晋南北朝以来の長い分裂を終わらせ、中国を再統一した隋の初代皇帝。
・父・楊忠は北周の重臣で「随国公」。娘の楊麗華北周宣帝・宇文贇皇后となった
・楊堅は580年に北周宣帝・宇文贇が急死すると、幼い静帝を補佐する立場から実権を掌握した。
 これに対して、北周の重臣で相州総管だった尉遅迥をはじめ、
 王謙・司馬消難らが各地で挙兵したが、楊堅は韋孝寛・高熲らを派遣してこれを鎮圧した。
581年、静帝から禅譲を受けて隋を建国し、文帝として即位。都を大興城(長安)に置いた。
・588年、文帝(楊堅)は次男の晋王楊広(のちの煬帝)を中心に、
 楊俊・楊素らを各方面の行軍元帥として51万8000の大軍を南下させ、への総攻撃を開始。
589年、建康(南京)が陥落して南朝陳が滅亡し、南北朝時代は終焉
 西晋滅亡以来、約270年にわたって続いた南北分裂は解消され、中国は再び統一された。
文帝(楊堅)によって整備された中央官制・地方行政・法制・土地制度・租税制度・軍事制度
 などの多くは、後のに継承・発展した。
・統一後の人口増加や国家財政の充実を背景に比較的安定した政治が続き、
 文帝(楊堅)の治世は元号を取って「開皇の治」と呼ばれる。

■治世の特徴
 ・開皇律令:刑罰と法体系を整理し、梟首・車裂などの酷刑を廃止。
  後の律にも大きな影響を与えた。
 ・三省六部制の整備:中央官制を再編し、後の代に完成する三省六部制の基礎を築いた。
 ・州・県の二級制:地方行政を簡素化し、地方豪族の影響力を抑えて中央集権化を進めた。
 ・選官制度の改革:九品中正制を廃止し、地方から人材を推薦させ、
  試験によって官僚を選抜する制度を整備。後の代に発展する科挙制度の基礎となった。
 ・均田制と租庸調制:農民に土地を給付するとともに租税・労役制度を整備し、
  国家の財政基盤を安定させた。
 ・大索貌閲・輸籍法:戸籍上の年齢や身分を実態と照合し、
  豪族のもとに隠れていた戸口を国家の戸籍に登録。租税・労役を負担する民戸の把握を進めた。
 ・義倉の設置:穀物を備蓄し、凶作や飢饉に備える制度を整えた。
 ・貨幣・度量衡の統一:南北朝の分裂によって混乱していた貨幣や度量衡を整理し、
  統一国家としての経済制度を整備した。
 ・府兵制の整備:軍人を一般の戸籍に組み込み、兵農一致を進めて軍事制度を再編した。
 ・大興城の建設:旧長安の南東に新たな都城を建設し、後のの長安城の基礎となった。
 ・倹約政治:宮廷の支出を抑え、自らも質素な生活を心がけて国家財政の安定を図った。
 ・突厥政策:長城を修築するとともに突厥内部の対立を利用して勢力を分断し、
  東西突厥への分裂を促した。
 ・西域政策:西域諸国との交流や朝貢関係を広げ、隋の対外関係を拡大した。

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②煬帝(楊広)|大土木事業と隋の崩壊

・①文帝(楊堅)皇后独孤伽羅の次男。
・はじめ晋王に封じられ、588~589年の南朝陳征服では遠征軍全体を統轄する立場に置かれた。
 その後、兄の皇太子・楊勇が父母の信頼を失う一方、
 楊広は倹約や夫婦仲の良さを装って両親の信任を獲得し、
 重臣の楊素らとも結んで皇太子の座を奪った
・604年に①文帝(楊堅)が死去すると即位し、弟の漢王楊諒が反乱を起こしたが鎮圧した。
 ①文帝(楊堅)の死については、
 楊広が父を殺害して帝位を奪ったという説が後世の史書に伝えられているが、
 史料上の問題もあり、事実と断定することはできない。
大運河・洛陽・長城などの巨大事業と高句麗遠征を短期間に相次いで実施したため、
 兵役・労役・物資徴発が民衆に重くのしかかった。

 とくに高句麗遠征の準備では全国から兵士や民夫を集め、大量の軍需物資を北方へ輸送させたため、
 社会の疲弊が深刻化した。
 『資治通鑑』にも、船舶建造や軍需輸送によって多数の死者が出たことが記されている。
各地では反乱が相次ぎ、李密・竇建徳・杜伏威・劉武周らが勢力を拡大。
 北方では突厥の脅威も強まり、隋の地方支配は次第に崩れていった。
・煬帝は616年に江都(揚州)へ移り、その後も洛陽や長安へ戻らなかった。
 反乱によって交通路が寸断され、隋の中央政府が各地を統制することは困難となり、
 江都に従った近衛軍の間にも故郷へ帰れないことへの不満が高まった。
618年、近衛軍の反乱によって宇文化及らがクーデターを起こし、煬帝は江都宮で殺害された。
・煬帝の治世は大規模な土木工事と対外遠征によって隋の国力を急速に消耗させ、
 各地の反乱を招いた一方、大運河・洛陽の整備や西域経営など、
 後世にも大きな影響を残した事業を行った時代でもあった。

■治世の特徴
 ・大運河の大規模整備:通済渠・永済渠・江南河などを開削・整備し、
  黄河・淮河・長江流域を結ぶ巨大な水運網を形成。
  大規模な労役を必要とした一方、南北間の物流・軍事輸送を大きく発展させ、
  後の王朝を含む歴代王朝の経済・交通を支える重要な基盤となった。
 ・東都・洛陽の建設:605年から大規模な東都建設を進め、洛陽を政治・交通の重要拠点とした。
  大運河と結びついた洛陽は、中国東西・南北を結ぶ交通・経済の中心として発展した。
 ・科挙制度の発展:①文帝(楊堅)期に進められた試験による官僚選抜を発展させ、
  煬帝期には進士科が設置されたとされる。後ので本格的に発展する科挙制度につながった。
 ・長城の大規模修築:北方防衛のため大規模な長城工事を実施。
  大業4年(608年)には『隋書』が100万人余りを動員したと記すほどの大工事となり、
  民衆に重い負担を与えた。
 ・吐谷渾への遠征と西域経営:吐谷渾を攻撃してその領域の一部を隋の支配下に置き、
  西域への交通路を確保。西域諸国との交易・朝貢関係を拡大し、
  609年には自ら河西方面を巡行した。
 ・度重なる行幸:洛陽・江都・北方・河西など各地へ大規模な巡幸を繰り返した。
  多数の官僚・護衛・物資を伴う行幸は皇帝権力を示す一方、
  輸送や供給を担う民衆に大きな負担を課した。
 ・高句麗遠征:612年から614年にかけて3度にわたり高句麗へ遠征。
  第1次遠征では『隋書』が戦闘部隊だけで113万余と記すほどの大軍を動員し、
  さらに輸送などを担う多数の民衆を徴発した。
  しかし平壌攻略には失敗して大きな損害を出し、その後も遠征を繰り返したため、
  兵役・労役・物資輸送による負担が国内の疲弊を深めた。
 ・楊玄感の反乱:613年、第2次高句麗遠征中に重臣・楊素の子である楊玄感が反乱。
  反乱そのものは鎮圧されたが、隋王朝内部の動揺が表面化し、
  その後は各地で反乱が急速に拡大した。
 ・雁門の変:615年、北巡中の煬帝が雁門で東突厥の始畢可汗に包囲された。
  各地から援軍が集まり危機を脱したものの、北方情勢の悪化を象徴する事件となった。

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③恭帝(楊侑)|李淵に擁立された長安の皇帝

・②煬帝(楊広)の孫で、父は皇太子となる前に死去した元徳太子・楊昭。
 はじめ陳王、のち代王に封じられ、煬帝が高句麗遠征を行った際には長安の留守を任されるなど、
 若年ながら皇族として重要な立場に置かれていた。
617年、太原で挙兵した李淵(のちのの高祖)が長安を占領すると、
 江都にいた②煬帝(楊広)を太上皇とし、当時13歳の楊侑を皇帝として擁立した。

 しかし実権は大丞相・唐王となった李淵が握っており、
 軍事・政治上の重要事項は李淵のもとで処理されたため、楊侑は事実上の“傀儡皇帝”だった。
618年、江都で煬帝が宇文化及らによって殺害されると、同年5月、楊侑は李淵へ禅譲。
 李淵が皇帝として即位してを建国し、長安を中心とする隋政権は終焉した。
・禅譲後、楊侑は「酅国公」に封じられた。
・619年8月に死去し、から「恭皇帝」と諡された。
 『隋書』などの主要史料は死因を明記しておらず、
 14~15歳ほどの若さで死去したことから暗殺の可能性を指摘する見方もあるが、
 李淵が政権安定のために殺害したと断定できる史料的根拠はない。

楊侗|洛陽で擁立されたもう一人の隋皇帝

・②煬帝(楊広)の孫で、父は元徳太子・楊昭。
 ③恭帝(楊侑)とは兄弟にあたり、越王に封じられていた。
・②煬帝(楊広)が各地へ巡幸する際にはたびたび東都・洛陽の留守を任され、
 613年に楊玄感が反乱を起こして洛陽へ迫った際にも、樊子蓋らとともに東都を守った。
 617年に煬帝が江都へ移った際にも洛陽に残され、
 段達・元文都・皇甫無逸らと留守政府を統轄した。
618年、江都で②煬帝(楊広)が宇文化及らに殺害されると、
 元文都・段達ら洛陽の群臣によって皇帝に擁立された。

 「皇泰」と改元し、②煬帝(楊広)に「明皇帝」の諡号と「世祖」の廟号を贈り、
 父の元徳太子・楊昭を「孝成皇帝」として追尊。洛陽を中心に隋の政権を維持した。
・当初は段達・王世充・元文都・盧楚・皇甫無逸・郭文懿・趙長文ら、
 いわゆる「七貴」が政務を担ったが、内部対立が激化。王世充が元文都・盧楚らを排除すると、
 楊侗は次第に政治へ関与できなくなり、実権を王世充に握られた
・王世充が李密を破るとその権力はさらに強まり、
 自ら鄭王となって九錫を受けるなど、皇帝即位への準備を進めた。
・楊侗は王世充の排除を企てたものの失敗。
 619年、王世充の意を受けた段達らから禅譲を迫られ、これを拒もうとしたが、
 最終的には退位を余儀なくされた。
 王世充が「鄭」を建国すると、楊侗は潞国公に封じられ、含涼殿に幽閉された。
・その後、宇文儒童・裴仁基らが王世充を殺害して楊侗を復位させようとした計画が発覚すると、
 王世充の兄・王世惲は、楊侗が反王世充勢力の旗印となることを警戒して殺害を勧めた。
 王世充は甥の王行本を遣わして楊侗に毒を飲ませたが、すぐには絶命しなかったため、
 最後は絞殺された。
 『隋書』によれば、死を悟った楊侗は母との面会を願ったものの許されず、
 仏に祈ったのち毒を飲んだという。王世充は死後、楊侗に「恭皇帝」の諡号を贈った。

王朝らしさ:

「超効率国家 → オーバーワークで自滅」

キーワード

  • 大運河
  • 高麗遠征失敗
  • 科挙制度整備
  • 重税・強制労役

空気感

  • 文帝:有能な再統一者
  • 煬帝:巨大事業+暴走

物語性

  • 天下再統一の達成
  • 楊広の豪華遠征
  • 反乱多発

崩壊パターン

「過剰国家プロジェクト → 民衆反乱」

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