南陽公主は、隋の第2代皇帝・煬帝楊広の長女である。
隋の皇女のなかでは珍しく、『隋書』と『北史』に独立した伝が立てられており、
その生涯を比較的詳しく知ることができる。
14歳で隋の重臣・宇文述の子である宇文士及に嫁ぎ、
舅が病に倒れると自ら食事を調えて看病したことで知られた。
しかし隋末に反乱が相次ぐなか、
夫の兄・宇文化及が江都で煬帝を殺害すると、彼女の立場は一変する。
父を殺した一族の嫁となり、やがて宇文化及を滅ぼした竇建徳のもとでは、
一人息子の宇文禅師まで処刑された。
その後、南陽公主は出家して尼となった。
唐に帰順した宇文士及と洛陽で再会した際には、復縁を求める夫に対し、
自分と彼はもはや「仇家」であると言い放ち、最後まで夫婦に戻ることを拒んでいる。
『隋書』が南陽公主を列女伝に収めたのは、単に煬帝の娘だったからではない。
父を殺された皇女、反逆者一族の嫁、息子を処刑された母という相反する立場のなかで、
当時重視された「礼」と「義」を貫いた女性として評価されたためである。
煬帝楊広の長女として生まれる
『隋書』は南陽公主について、冒頭で「煬帝之長女也」と記す。
煬帝楊広の長女であったことは明確だが、生年について正史に直接の記載はなく、
母が誰であったかも『隋書』『北史』には記されていない。
後世には生年を586年とする記述も見られるが、
これは14歳で宇文士及に嫁いだという記事と婚姻時期から推定されたものとみられ、
確定した生年として扱うことはできない。
同様に、南陽公主を蕭皇后の娘とする紹介もあるものの、
元徳太子楊昭や斉王楊暕とは異なり、正史本文には母を蕭皇后とする記録がない。
南陽公主が生まれたころ、父の楊広はまだ皇帝ではなく、
隋文帝楊堅の第二皇子として晋王に封じられていた。
楊広が兄の楊勇に代わって皇太子となるのは開皇20年(600)、
煬帝として即位するのは仁寿4年(604)のことである。
『隋書』は幼少期の南陽公主について具体的な逸話を残していないが、
人物評として「美風儀、有志節、造次必以礼」と記す。
容姿や立ち居振る舞いが美しく、志と節操を備え、
とっさの場合であっても必ず礼に従ったという意味である。
この「礼を失わない」という評価は、
後に父を殺した一族と向き合う彼女の行動を説明する軸として、
列女伝全体を通して繰り返し意識されている。
↓↓煬帝の皇后・蕭皇后についての個別記事は、こちら

14歳で宇文士及に嫁ぐ
南陽公主は14歳で宇文士及に嫁いだ。
宇文士及は京兆長安の人で、字を仁人という。
父の宇文述は隋の有力武将であり、楊広が晋王だったころから側近として仕え、
後には許国公に封じられた。兄には、後に煬帝を殺害する宇文化及がいる。
『旧唐書』『新唐書』宇文士及伝によれば、
宇文士及は開皇末、父宇文述の功績によって新城県公に封じられた。
隋文帝は宇文士及を宮中の奥へ招いて直接話をし、その人物を高く評価して、
当時まだ皇太子ではなかった楊広の娘・南陽公主との婚姻を命じたという。
この婚姻を決定したのは父の楊広ではなく、祖父にあたる隋文帝だったことになる。
宇文述は楊広の有力な支持者であり、その子と楊広の長女を結婚させたことは、
隋皇室と宇文氏との政治的な結びつきを一段と強める意味も持っていた。
宇文士及は公主との婚姻後、尚輦奉御となった。
これは皇帝の乗輿などを担当する殿中省系統の官職で、皇帝の近くに仕える職である。
煬帝即位後には巡幸にも従い、宇文氏一族と皇帝との関係はさらに深まっていった。
↓↓夫の兄・宇文化及についての個別記事は、こちら

舅・宇文述を自ら看病する
結婚後の南陽公主について、『隋書』が特に取り上げているのが舅の宇文述に対する孝養である。
公主は嫁いだ後、「謹粛を以て聞こゆ」と評判になった。
皇帝の娘でありながら婚家で驕ることなく、慎み深く厳正な態度を保っていたとされる。
宇文述が病に倒れ、死期が近づくと、南陽公主は自ら飲食を調え、手ずから舅に差し出した。
『隋書』は「世以此称之」と記し、この行為によって世間から称賛されたとする。
宇文述が死去したのは大業12年(616)である。
宇文士及は父の喪に服すため一時官職を離れたが、その後ほどなく鴻臚少卿として復帰した。
南陽公主もこのころまでには長く宇文家の一員として生活していたことになる。
この逸話が列女伝に採録された背景には、
皇女であっても婚家では媳婦として舅姑に仕えるべきだという当時の倫理観がある。
後に宇文氏が隋を滅ぼす側へ回ったことを考えると、
南陽公主自身と宇文家との関係が当初から険悪だったわけではないことも分かる。
隋末の混乱と江都への移動
煬帝の治世後半になると、各地で反乱が相次ぎ、隋の支配は急速に崩れていった。
大業12年(616)、煬帝は江都へ移り、その後は長安や洛陽へ戻ることなく江南に留まった。
宇文士及も煬帝に従って江都へ向かっており、南陽公主も夫とともに江都にいたとみられる。
『新唐書』は宇文士及について「従幸江都」と記している。
江都には皇帝とその家族だけでなく、多数の官僚や近衛軍が滞在していた。
しかし故郷の関中へ帰ることを望む兵士たちの不満は強く、
隋朝が各地で支配地域を失うにつれて、皇帝を取り巻く状況も悪化していった。
そのなかで宇文士及の兄・宇文化及らが、煬帝を倒す計画を進める。
宇文化及は弟・宇文士及に計画を知らせなかった
大業14年(618)3月、宇文化及・宇文智及らは江都で反乱を起こした。
ここで重要なのが、
宇文士及がこの計画を事前に知らされていなかったと『旧唐書』『新唐書』が伝えていることである。
『旧唐書』によれば、宇文化及は密かに反乱を計画した際、
弟の宇文士及が「主婿」、すなわち南陽公主の夫であることを警戒し、計画を知らせなかった。
『新唐書』も同様に、宇文化及は公主の婿である弟を疑い、弑逆の計画を告げなかったとしている。
この記録は、後に南陽公主が宇文士及との復縁を拒みながらも、
彼自身を直接殺そうとはしなかった理由につながる。
南陽公主は後年、
「謀逆の日、君があらかじめ知らなかったことは分かっている」と宇文士及に述べている。
宇文士及が煬帝殺害の計画そのものには加わっていなかったという認識は、
『隋書』と唐代の宇文士及伝で一致している。
父・煬帝を宇文化及に殺される
反乱軍は江都宮へ侵入し、煬帝を拘束した。
煬帝は最終的に縊殺され、隋王朝は事実上の崩壊へ向かう。
南陽公主にとって父を殺した中心人物が、夫の実兄・宇文化及だった。
宇文化及は煬帝を殺した後、秦王楊浩を皇帝として擁立し、自ら大権を握った。
宇文士及も兄に従わざるを得ず、政権内で地位を与えられた。
『旧唐書』では内史令、『新唐書』では蜀王に封じられたことが記されている。
南陽公主本人が江都の政変の際にどこにいたのか、
父の死をどのように知らされたのかについて、正史は何も記していない。
ただし、その後は宇文化及の一行とともに北上しており、最終的に聊城へ至っている。
皇帝の娘でありながら、
自分の父を殺した一族と行動をともにせざるを得ないという異常な状況だったが、
この時期の南陽公主が宇文化及らに対して具体的に何を語ったかは史料に残っていない。
宇文士及は兄から離れて唐へ向かう
宇文化及は煬帝を殺害したものの、強固な政権を築くことはできなかった。
北上する途中で李密らと戦い、兵力を消耗しながら魏県方面へ進み、
やがて自ら皇帝を称して国号を許とした。
一方、宇文士及は次第に兄と距離を置くようになる。
宇文士及は隋代から李淵と面識があり、李淵がまだ殿内少監だったころから親しく交わっていた。
李淵が長安で唐を建国すると、宇文士及は密かに使者を送り、
自分の帰順意思を伝え、金環を献じている。
さらに宇文化及の勢力が衰えると、宇文士及は兄に唐へ帰順するよう勧めたが、
宇文化及は従わなかった。
そこで宇文士及は封倫とともに軍糧調達を名目として済北へ出て、兄のもとから離れた。
やがて宇文化及が竇建徳に敗れると、宇文士及は唐へ帰順する。
このとき南陽公主は夫と行動をともにしていない。
彼女は宇文化及の一行に残され、そのまま竇建徳の支配下へ入ることになった。
聊城で竇建徳に捕らえられる
武徳2年(619)、河北を支配していた夏王竇建徳は聊城を攻め、宇文化及を破った。
宇文化及の政権には、南陽公主をはじめ、隋朝に仕えていた旧官僚やその家族が多数残っていた。
竇建徳は宇文化及を捕らえた後、こうした隋の旧臣たちを引見した。
『隋書』によれば、
竇建徳の前へ引き出された隋朝の衣冠の士たちは、みな恐怖のあまり平静を失っていた。
しかし南陽公主だけは「神色自若」、顔色も態度も平然としていたという。
竇建徳はその様子を見て、公主と言葉を交わした。
「国は破れ、家は亡びた」
竇建徳に話を求められた南陽公主は、自分の境遇を語った。
『隋書』は、公主が「国破れ家亡び、怨みに報い恥を雪ぐこと能わず」と述べたと記している。
隋という国家を失い、父を殺されながら、その仇を討つこともできないという意味である。
南陽公主は涙で衣を濡らしながらも言葉を止めず、その訴えは情にも理にも迫るものだった。
竇建徳だけでなく、その場で聞いていた人々も心を動かされ、涙を流したという。
公主を見た者たちは姿勢を正し、その態度を敬い、並外れた人物として扱った。
ここで南陽公主が非難しているのは、自分を捕らえた竇建徳ではない。
父を殺した宇文化及に対して仇を討てない自らの境遇を嘆いている。
竇建徳自身も隋に反乱を起こした人物ではあったが、
宇文化及による煬帝殺害を「弑逆」として非難する立場を取っていた。
南陽公主の言葉は、宇文化及を処断しようとしていた竇建徳にとっても受け入れやすいものだった。
宇文化及一族の処刑
竇建徳は捕らえた宇文化及を処刑した。
『資治通鑑』によれば、宇文化及のほか、宇文智及らも処刑され、
江都で煬帝を殺した一族とその関係者への処分が進められた。
ところが、ここで南陽公主自身にも重大な問題が生じた。
彼女には宇文士及との間に、宇文禅師という一人息子がいた。
『隋書』『北史』によれば、このとき禅師は「年且十歳」、およそ10歳だった。
宇文禅師は宇文化及の甥にあたる。
竇建徳は宇文化及一族を族滅する方針を取り、幼い禅師も連座の対象とした。
息子・宇文禅師の助命を問われる
竇建徳は武賁郎将の于士澄を南陽公主のもとへ遣わした。
于士澄は公主に、宇文化及は自ら主君を殺した逆臣であり、
人にも神にも許されないため、その一族を滅ぼすことになったと説明した。
そのうえで、公主の子である禅師も法によれば連座しなければならないが、
「もし情を断ち切ることができないのであれば、残してもよい」と伝えた。
つまり竇建徳は、母である南陽公主が望むなら、宇文禅師を助命する余地を与えたのである。
これに対する南陽公主の返答は、『隋書』に残された彼女の逸話のなかでも最も有名なものとなった。
公主は泣きながら、「武賁既是隋室貴臣、此事何須見問」と答えた。
「あなたはもともと隋室の重臣だった。このことを、なぜ私に尋ねる必要があるのか」
という意味である。
なぜ自分の息子を救わなかったのか
南陽公主の言葉は、単純に「息子を殺してよい」と述べたものではない。実際、彼女は泣いている。
しかし父煬帝を殺した宇文化及の一族が反逆罪によって処断される以上、
その甥である自分の息子だけを、公主である母の立場を利用して助けることはできない
という判断だった。
『隋書』が彼女を「有志節」「造次必以礼」と評価したことも、この場面と深く結びついている。
母としては子を救いたいが、隋皇帝の娘としては父を殺した反逆者一族への処罰を否定できない。
この二つが衝突したとき、南陽公主は私情ではなく公的な「義」を優先した女性として描かれている。
一方で、この逸話は『隋書』列女伝の価値観に沿って構成されていることにも注意が必要である。
南陽公主本人が内心で何を考えていたのかまでは知ることができず、
後世の読者がその選択を当然視する必要もない。
竇建徳は最終的に宇文禅師を処刑した。南陽公主は父だけでなく、一人息子も失ったことになる。
出家して尼となる
宇文禅師が処刑された後、南陽公主は竇建徳に願い出て髪を剃り、尼となった。
『隋書』は「主尋請建徳削髪為尼」と簡潔に記しており、
どこの寺院に入ったのか、法名を何としたのかについては何も伝えていない。
出家の理由も史料には明記されていない。
ただし、この時点までに父煬帝を殺され、隋王朝は崩壊し、婚家の宇文氏も滅亡し、
夫とは離別し、一人息子まで処刑されている。
俗世の家族関係をほとんど失った直後に出家したという時系列は明確である。
以後、南陽公主は隋の皇女でありながら、尼として生きる道を選ぶことになる。
竇建徳の敗北
武徳4年(621)、竇建徳は洛陽の王世充を救援するため唐軍と戦い、
虎牢の戦いで秦王李世民に敗れて捕虜となった。
竇建徳の政権もこれによって崩壊する。
南陽公主は竇建徳の支配下から離れ、「西京」、すなわち長安へ帰ろうとした。
隋はすでに存在せず、長安では父の従兄弟にあたる李淵が唐の皇帝となっていた。
その途中、東都洛陽でかつての夫・宇文士及と再会する。
洛陽で宇文士及と再会
宇文士及はすでに唐へ帰順していた。
李淵は当初、宇文化及の弟である宇文士及に厳しい言葉を投げかけたものの、
以前からの個人的な交友と、宇文士及が密かに帰順の意思を示していたことなどを考慮し、
最終的に唐臣として受け入れた。
南陽公主が洛陽へ到着したころには、宇文士及も唐の側にいた。
しかし公主は、彼と会うことさえ拒否した。
宇文士及は公主のいる場所まで出向いたものの、中へ入れてもらえず、
戸外に立ったまま復縁を求めた。
「私はあなたと仇同士だ」
宇文士及は、南陽公主に再び夫婦となることを求めた。
これに対して公主は、「我与君讎家」と答えた。
「私はあなたと仇同士である」という意味である。
宇文士及自身が煬帝殺害を計画したわけではない。
しかし宇文士及は、父煬帝を殺した宇文化及の弟であり、
南陽公主にとって宇文氏は父を殺した仇の家となっていた。
さらに公主は、自分が今も宇文士及を自らの手で斬っていない理由について、
「ただ謀逆の日に、あなたが事前に計画を知らなかったことを察しているからだ」と述べた。
これは宇文士及を完全に無罪と認めた言葉でもなければ、夫婦として受け入れた言葉でもない。
煬帝殺害への直接参加だけは否定しつつ、
宇文氏の一員である以上、自分と再び夫婦になることはできないという線を引いたのである。
公主はその場で宇文士及との関係を絶つことを告げ、すぐに立ち去るよう叱責した。
なおも復縁を求めた宇文士及
宇文士及は一度拒まれても諦めなかった。
『隋書』によれば、なおも強く復縁を求め続けた。
それに対して南陽公主は怒り、「必欲就死、可相見也」と言い放った。
「どうしても死にたいのであれば、会ってやってもよい」というほどの意味である。
つまり、公主にとって宇文士及との面会は、もはや夫婦の再会ではなかった。
なお会おうとするなら仇として向き合う、という強烈な拒絶だった。
宇文士及も、公主の言葉が本気であることを悟った。
これ以上説得することはできないと判断し、礼拝して別れ、その場を去った。
これが『隋書』『北史』に記された南陽公主最後の逸話である。
その後の南陽公主
洛陽で宇文士及と別れた後の南陽公主について、確実な史料はほとんど残っていない。
『隋書』と『北史』の伝は、宇文士及が復縁を断念して去ったところで終わっている。
南陽公主が予定通り長安へ戻ったのか、その後どこの寺院で暮らしたのか、
いつ死去したのか、どこに葬られたのかも記されていない。
したがって、南陽公主の没年は不詳である。
武徳4年(621)の竇建徳敗北後にも生存していたことは確実なので、
少なくともこの年までは生きていたことになる。
生年についても確定できないため、享年を算出することはできない。
また、出家後に還俗したことや別の男性と再婚したことを示す記録もない。
現存史料の範囲では、宇文禅師を失った後に尼となり、
宇文士及との復縁を明確に拒絶したところまでしか分からない。
一人息子・宇文禅師
史料で確認できる南陽公主の子は、宇文禅師一人である。
父は宇文士及で、宇文化及にとって甥にあたる。
武徳2年(619)に竇建徳が宇文化及を滅ぼした際、「年且十歳」とされていることから、
610年前後の出生と考えられる。
宇文禅師本人の性格や生涯を伝える記事はなく、史料に現れるのは処刑時の記事のみである。
宇文士及のその後
南陽公主と別れた宇文士及は、唐で出世を続けた。
唐高祖李淵だけでなく、秦王李世民とも親しく、後には中書令を務め、郢国公に封じられた。
唐太宗即位後も重用され、貞観年間に死去している。
つまり、隋皇帝の娘だった南陽公主が出家して史料から姿を消した一方、
父を殺した宇文氏の一員である元夫は、新王朝の唐で高官として生涯を終えた。
宇文士及が後に南陽公主との復縁を再度試みたという記事はない。
洛陽での拒絶を最後に、二人の関係は史料上完全に断たれている。
『隋書』が南陽公主を列女伝に入れた理由
南陽公主の記事は、『隋書』巻80「列女伝」に収められている。
『隋書』が彼女について最初に掲げた評価は、「美風儀、有志節、造次必以礼」である。
美しい風姿を備えていただけでなく、志節があり、
突然の事態でも礼を失わなかったという人物像である。
その評価を具体的に示すものとして、三つの大きな行動が記されている。
最初は、皇女でありながら病床の舅・宇文述の食事を自ら調え、手ずから仕えたこと。
次が、息子宇文禅師の助命を認められながら、
隋皇帝を殺した一族への処罰という「義」を理由に特赦を求めなかったこと。
そして最後が、宇文士及自身は謀反を知らなかったと認めつつも、
父の仇の家に属する男性と再び夫婦になることを拒否したことである。
これらはすべて、唐初に編纂された正史が理想とした
女性の「礼」「孝」「義」「節」という価値観に沿って選ばれた逸話でもある。
したがって、史料が描く南陽公主像と、実際の彼女の感情を完全に同一視することはできない。
とりわけ幼い息子の処刑を受け入れた場面には、列女伝特有の倫理的評価が強く働いている。
それでも、南陽公主の発言として伝えられた言葉には一貫性がある。
父を殺した宇文化及を許さず、その一族に属する息子だけを特別扱いすることも求めず、
一方で反乱を事前に知らなかった宇文士及については直接の弑逆者とは区別している。
父への復讐心だけで行動する人物でも、夫や子への情だけで動く人物でもなく、
相反する立場のなかで自らの基準を崩さなかった女性として、『隋書』は南陽公主を描いている。
まとめ
南陽公主について史書が強く印象づけるのは、
王朝交替の混乱そのものより、そのなかで彼女が何を「義」とみなしたかという点である。
父を殺した宇文氏を憎みながらも、宇文士及が弑逆の計画を事前に知らなかったことは認める。
一方で、その事実を理由に夫婦へ戻ることは拒んだ。
また、一人息子の助命を求める機会を与えられても、
隋皇帝を殺した一族への処罰から自分の子だけを外すことは求めなかった。
そこには、情を持たなかった女性というより、
私情と公的な立場を厳しく切り分けようとした人物像がある。
『隋書』が南陽公主を「有志節」「造次必以礼」と評し、列女伝に一伝を設けた理由も、
この一貫した態度にあったのだろう。
ただし、その姿は唐初に編纂された正史が理想とした
「節義ある女性」として整えられていることも忘れてはならない。
とりわけ息子の死を受け入れた逸話には、当時の倫理観が強く反映されている。
南陽公主自身の晩年も死も分からない。
それでも、隋末の皇族女性のなかでこれほど本人の言葉と判断が具体的に残された人物は多くなく、
王朝の滅亡に巻き込まれた皇女というだけでは捉えきれない存在である。
史書・参考文献
・『隋書』巻80「列女伝・南陽公主伝」
・『旧唐書』巻63「宇文士及伝」
・『新唐書』巻100「宇文士及伝」
・『資治通鑑』巻185~189
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