義成公主は、隋から東突厥へ嫁いだ宗室女性である。
599年に啓民可汗の妻となって以来、始畢可汗、処羅可汗、頡利可汗へと収継され、
およそ三十年にわたって東突厥の可賀敦の地位にあった。
彼女の生涯で特に知られるのが、615年の雁門の変である。
始畢可汗が煬帝を包囲すると、義成公主は隋側からの要請を受け、
「北方に急変が起きた」と始畢へ知らせて撤兵を促し、煬帝の危機を救ったと伝えられる。
隋が滅亡した後もその活動は続いた。
煬帝の皇后だった蕭氏や孫の楊政道を突厥へ迎え、
楊政道が「隋王」として旧隋人を統率する政権が定襄に置かれた。
処羅可汗の死後には後継者の選定にまで介入し、頡利可汗を立てている。
しかし唐が中原を統一して勢力を強める一方、東突厥は内紛や飢饉によって衰退した。
630年、李靖率いる唐軍が頡利可汗の牙帳を急襲すると、
義成公主は殺害され、約三十年に及んだ突厥での生涯を終えた。
義成公主には独立した本伝が存在せず、その足跡は『隋書』の突厥伝や煬帝紀、
『旧唐書』『新唐書』の突厥伝、『資治通鑑』などに断片的に残されている。
本人の言葉や心情はほとんど伝わらないものの、
和親のために送り出された一人の宗室女性が、
やがて東突厥の可汗継承や隋皇族の保護にまで関与する立場となったことは、
これらの記録から確認できる。
出自
義成公主は隋の宗室女性で、本姓は楊氏である。生年は分かっていない。
『新唐書』突厥伝は「義成、楊諧女也」と記し、父を楊諧としている。
弟には楊善経がおり、後に姉と同じく突厥へ身を寄せた。
ただし楊諧が隋文帝楊堅とどのような系譜関係にあったのかは正史の記事だけでは明確ではなく、
義成公主を文帝の実の娘とみなすことはできない。
隋では周辺諸国との婚姻に宗室女性を「公主」として送り出すことがあり、
義成公主もその一人だった。
後に煬帝の危機を救った記事などでは皇帝の娘に準じる存在として語られるものの、
実際には宗室女である。『新唐書』は父を楊諧と明記している。
啓民可汗と隋
義成公主が突厥へ嫁いだ背景には、隋文帝が進めた東突厥政策があった。
当時の突厥では複数の可汗が対立しており、
染干と呼ばれた突利可汗もその争いに巻き込まれていた。
染干は隋へ接近し、文帝は宗室女を安義公主として嫁がせた。
やがて敵対勢力に敗れた染干が隋へ逃れると、
文帝はこれを保護して啓民可汗に冊立し、軍事的に支援した。
啓民可汗は隋の援助によって勢力を回復し、その後は強い恭順姿勢を示した。
彼自身が後に煬帝へ提出した上表でも、自分が窮地に陥った際に文帝から救われ、
可汗として再建してもらった恩を繰り返し語っている。
安義公主が599年に死去すると、文帝は新たに宗室女を義成公主として啓民可汗へ嫁がせた。
単に一人の公主を交代させたのではなく、
隋の支援によって成立していた啓民政権との結びつきを婚姻によって維持する政策だった。
599年、突厥へ嫁ぐ
開皇19年(599)、義成公主は啓民可汗の妻となり、東突厥へ赴いた。
突厥では可汗の妻を「可賀敦」と呼ぶ。
可賀敦は単なる私的な妻ではなく、可汗の宮廷で独自の地位を持つ存在だった。
後の雁門の変で蕭瑀が「北方の習俗では可賀敦も兵馬の事を知る」と煬帝へ進言していることからも、
少なくとも中国側は可賀敦が政治・軍事に一定の影響を持つと認識していた。
義成公主はこのときから630年に死ぬまで、約三十年間をほぼ突厥で過ごすことになる。
突厥の収継婚
義成公主の生涯で特徴的なのが、
啓民可汗だけでなく、その死後に始畢可汗、処羅可汗、頡利可汗へと相次いで嫁いだことである。
後の三人はいずれも啓民可汗の子であり、
中国側の婚姻倫理から見れば、夫の死後にその息子たちと結婚したことになる。
『隋書』突厥伝には、
突厥では父や兄が死ぬと、その子や弟が残された妻を娶る習俗があったと記されている。
いわゆる収継婚であり、遊牧社会では家族・財産・政治的関係を次代へ引き継ぐ意味を持った。
義成公主が四代にわたって可汗の妻であり続けたことも、この制度のなかで理解する必要がある。
とりわけ隋から与えられた公主という外交的価値を持つ可賀敦を、
新可汗がそのまま継承することには、隋との関係や可汗権力の継承を示す意味もあったと考えられる。
607年、煬帝との会見
大業3年(607)、煬帝は大軍と華麗な行列を伴って北辺を巡幸し、榆林へ赴いた。
啓民可汗と義成公主は行宮へ出向き、前後して三千匹の馬を献上した。
煬帝はこれを大いに喜び、多量の絹などを与えている。
啓民可汗はこのとき、文帝によって救われた過去を語り、
自分はもはや辺境の突厥可汗ではなく煬帝の臣民であるとして、
突厥の服装を改めて華夏と同じ衣服を着たいとまで願い出た。
煬帝はこれを退け、習俗を無理に変える必要はないと答えている。
同年8月、煬帝はさらに啓民可汗の帳幕を訪れた。
啓民可汗は酒を献じて寿を祝い、非常に恭順な態度を示した。
煬帝は啓民可汗と義成公主に金甕を一つずつ与え、衣服、寝具、錦なども贈った。
このとき皇后蕭氏も義成公主の帳幕を訪れている。
後に隋が滅亡すると、義成公主はこの蕭皇后を突厥へ迎えることになる。
607年の記事は、両者が隋の宮廷と突厥の牙帳を結ぶ皇族女性として、
早い時期から直接接触していたことを示している。
啓民可汗の死と始畢可汗
大業5年(609)、啓民可汗が死去し、その子咄吉が即位して始畢可汗となった。
義成公主は突厥の収継婚に従い、始畢可汗の妻となった。
始畢可汗の時代になると、隋と東突厥の力関係は啓民時代から大きく変化した。
啓民可汗は隋の軍事援助によって政権を再建したため隋への依存が強かったが、
始畢可汗は父から受け継いだ勢力を拡大し、東突厥は周辺諸部へ広く影響力を及ぼすようになった。
一方、煬帝側は強大化する始畢可汗を警戒し、突厥内部を分裂させようとした。
始畢の弟を別の可汗として立てようとする工作が行われ、
さらに煬帝の側近裴矩は始畢の有力な臣下である史蜀胡悉を誘い出して殺害したとされる。
始畢はその事情を知ると隋への不信を強め、朝貢を停止した。
雁門の変
大業11年(615)、煬帝が北辺を巡幸すると、始畢可汗は大軍を率いて襲撃を企てた。
『隋書』煬帝紀によれば、義成公主は始畢の動きを知ると、
あらかじめ使者を送って煬帝へ「変」があることを知らせた。
煬帝は急いで雁門へ入り、そこを始畢可汗の軍に包囲された。
始畢軍は数十万騎とも伝えられ、雁門郡の多くの城が攻撃を受けた。
煬帝は城内に閉じ込められ、各地へ援軍を求めることになった。
義成公主は、夫である始畢可汗の軍事行動を自らの出身国である隋へ知らせたことになる。
615年の時点で、彼女が突厥の可賀敦でありながら、隋との連絡経路を保持していたことが分かる。
蕭瑀の策と義成公主
包囲が続くなか、煬帝の側近蕭瑀が義成公主を利用する策を提案した。
蕭瑀は、突厥では可賀敦も兵馬の事に関与すること、義成公主は隋から嫁いだ女性であることを挙げ、
彼女へ使者を送って助力を求めるよう進言した。
さらに漢の高祖劉邦が白登山で匈奴に包囲された際、
冒頓単于の閼氏への働きかけによって危機を脱した故事を引き合いに出した。
煬帝はこの提案を受け入れ、密かに義成公主へ使者を送った。
義成公主は始畢可汗に対し、北方で急変が起きたと知らせた。
『太平御覧』が引用する唐書系の記事では、
後に捕らえられた突厥の間諜から、義成公主が「北方有警」と始畢へ伝えたことが分かったとされる。
始畢可汗はやがて雁門の包囲を解いて撤退した。
ただし、義成公主の偽報だけで始畢軍が撤退したと考えるのは単純すぎる。
隋では各地から救援軍が雁門へ向かっており、突厥側にも長期包囲を続ける危険が高まっていた。
義成公主の工作は撤兵を促す重要な要因の一つだったと見るのが適切である。
夫と隋の間で
雁門の変では、義成公主は始畢可汗の妻でありながら隋を助けた。
この行動について、後世には「祖国への忠誠」「煬帝への忠義」などと説明されることがある。
しかし本人が動機を語った記録は残っておらず、その心情まで断定することはできない。
一方、後の行動を見ると、義成公主が隋王朝との関係を滅亡後まで維持したことは確かである。
彼女にとって隋は単なる出生地ではなく、
自分を「公主」として突厥へ送り、可賀敦という地位の政治的正統性を与えた王朝でもあった。
啓民可汗の政権自体も隋の援助で成立しており、
隋と啓民家との関係は個人的な婚姻だけではなく、東突厥の政権形成に関わるものだった。
隋末の大乱
雁門の変のころから隋国内では反乱が急速に拡大し、煬帝の支配力は衰えていった。
一方、東突厥は北方最大の軍事勢力となり、中国各地の群雄が援助を求める相手となった。
劉武周、梁師都、薛挙らが突厥と結び、
617年に太原で挙兵した李淵もまた始畢可汗へ使者を送り、支援を求めている。
突厥は特定の中国政権だけを支持したわけではなく、
複数の勢力へ兵馬を与えながら中原の分裂を利用した。
義成公主がこの時期の一つ一つの外交判断にどこまで関与したのかは分からない。
史書に本人の具体的行動が再び現れるのは、隋王朝が滅亡した後である。
煬帝の死
大業14年(618)、江都で宇文化及らが反乱を起こし、煬帝を殺害した。
同じ年、李淵は長安で皇帝に即位し、唐を建国した。
隋は各地に残存勢力を残しながらも、統一王朝としては崩壊した。
義成公主は突厥にいたため、この政変に巻き込まれることはなかった。
しかし煬帝の死によって、彼女の立場は「隋と東突厥を結ぶ和親公主」から、
滅亡した隋王朝の血統や遺臣を突厥側から支える人物へと変化していった。
↓↓煬帝を殺害した宇文化及についての個別記事は、こちら

始畢可汗の死と処羅可汗
武徳2年(619)2月、始畢可汗が死去した。
始畢には什鉢苾という子がいたが、
まだ幼く大可汗を継ぐことが難しいとされ、東方の泥歩設とされた。
代わって始畢の弟俟利弗設が即位し、処羅可汗となった。
義成公主は再び収継婚に従い、処羅可汗の妻となった。
これで義成公主が嫁いだ可汗は、啓民、始畢、処羅の三人となった。
宇文化及の首と蕭皇后
煬帝を殺した宇文化及はその後北上したが、竇建徳に敗れて殺された。
当時、煬帝の皇后蕭氏や隋皇族の一部も宇文化及の軍に連行されており、
宇文化及が滅ぼされると竇建徳のもとに置かれた。
義成公主は使者を送り、蕭皇后らを自分のもとへ引き渡すよう求めた。
竇建徳はこの要求を受け入れ、蕭皇后や隋の皇族を護送して突厥へ送った。
『資治通鑑』では南陽公主らもこれに同行したとされ、宇文化及の首級も義成公主へ送られた。
煬帝を殺害した人物の首が、遠く突厥にいる隋の公主へ届けられたことは、
義成公主が隋皇室に関わる人物として依然無視できない立場にあったことを示している。
↓↓隋の煬帝の皇后蕭氏についての個別記事は、こちら

楊政道を隋王に立てる
義成公主のもとへ迎えられた人物の中に、煬帝の孫にあたる楊政道がいた。
楊政道は煬帝の子・斉王楊暕の子である。
処羅可汗は楊政道を「隋王」に立て、突厥領内にいた隋の旧民をその支配下へ集めた。
彼らは隋の正朔を用い、百官を置き、定襄に居住した。
『旧唐書』は、その人数を一万人ほどと記している。
これは隋王朝そのものが復活したわけではないが、
突厥領内に隋の皇族を頂点とし、隋の暦と官制を維持する亡命政権に近い集団が成立したことになる。
義成公主本人を楊政道擁立の直接の主導者とする記事はない。
『旧唐書』『新唐書』では処羅可汗が楊政道を立てたと記されるため、この点は区別する必要がある。
一方で、蕭皇后らを突厥へ迎えた背景に義成公主がいたこと、
弟楊善経も後に突厥へ入り旧隋復興を主張したことから、
義成公主の周囲に旧隋皇族・遺臣の集団が形成されていたことは確かである。
唐とも協力した処羅可汗
処羅可汗の外交は、単純な反唐一辺倒ではなかった。
処羅は王世充とも密かに通じる一方で、唐へ使者を送り朝貢している。
また李世民が劉武周を討った際には、弟の歩利設に二千騎を率いさせ、唐軍に協力させた。
東突厥にとって唐は数ある中原勢力の一つであり、
その時々の軍事情勢に応じて援助・圧力・同盟を使い分けていた。
したがって、義成公主が旧隋皇族を保護していたからといって、
この時点の東突厥全体を「復隋・反唐勢力」とだけ捉えることはできない。
処羅可汗と隋への恩
処羅可汗はやがて并州を奪い、そこへ楊政道を置くことを計画したと『新唐書』は伝えている。
占いを行うと結果は不吉で、周囲の者も出兵を止めるよう諫めた。
しかし処羅は、自分たちの先祖が国を失った際に隋の援助によって存続できたのだから、
その恩を忘れることこそ不祥であるという趣旨で反論した。
これは啓民可汗が隋文帝に救われた故事を指している。
隋がすでに滅亡した後になっても、「啓民家は隋に国を再建してもらった」
という記憶が東突厥側の政治論理として利用されていたことが分かる。
「五石」と処羅可汗の死
処羅可汗が并州出兵を計画していたころ、『新唐書』は奇怪な出来事が相次いだと記している。
天から三日間血が降り、夜になると国内で多数の犬が鳴き騒いだにもかかわらず、
探してもその姿が見つからなかったという。
やがて処羅可汗は病に倒れた。
このとき義成公主が「五石」を服用させたところ、
ほどなく身体に疽が生じて死亡したと『新唐書』は記している。
五石とは鉱物性の薬物を配合したものを指すと考えられるが、
史料は義成公主が夫を毒殺したとは記していない。
「餌以五石」という一文から、義成公主による毒殺を断定することはできない。
血の雨や怪犬の記事と同じく、
可汗の急死を不吉な兆候と結びつけた史書上の叙述として扱う必要がある。
義成公主が次の可汗を選ぶ
処羅可汗の死後、義成公主は東突厥の後継者選定に直接関与した。
処羅には奥射設という子がいたが、
『旧唐書』は義成公主が彼を「醜弱」と判断し、可汗に立てなかったと記している。
代わって処羅の弟咄苾を立てた。この咄苾が頡利可汗である。
可汗の妻として外交に関わった雁門の変とは異なり、
ここでは義成公主自身が東突厥の最高権力者の継承に介入している。
後継者を単独で決定できるほどの絶対的権力を持っていたとまでは言えないが、
少なくとも可賀敦として後継者を退け、
別の王族を推すことのできる政治的影響力を持っていたことは明らかである。
頡利可汗との再婚
武徳3年(620)、頡利可汗は義成公主を妻とした。
頡利は啓民可汗の三男であり、義成公主にとって四人目の夫となる。
啓民の死後、その三人の息子である始畢、処羅、頡利に順次嫁いだことになる。
同時に頡利は、始畢可汗の子什鉢苾を突利可汗として東方に置いた。
四代の可汗政権を通じて義成公主が可賀敦であり続けたことは、
彼女の立場が個々の夫だけに依存するものではなく、
啓民家と隋との婚姻関係そのものに価値を持っていたことを示している。
弟・楊善経と旧隋復興論
頡利可汗の時代になると、義成公主の弟楊善経も突厥へ身を寄せた。
『新唐書』によれば、楊善経は王世充の使者王文素とともに頡利可汗を説得し、
かつて啓民可汗が兄弟間の争いで国を失いかけた際、
隋の援助によって復位し、その子孫が今日まで国を保つことができたと説いた。
さらに、現在の唐皇帝は隋文帝の子孫ではないのだから、
楊政道を立てて隋の厚恩に報いるべきだと主張した。
頡利はこれを受け入れたと『新唐書』は記し、その後、毎年のように唐領へ侵入したという。
ここで注意が必要なのは、この発言を義成公主本人の言葉として扱わないことである。
史料上、頡利へ直接この議論を説いたのは弟の楊善経と王文素である。
義成公主も同じ政治構想を共有していた可能性は高いものの、
「義成公主が頡利をそそのかして唐を攻めさせた」と単純化することはできない。
頡利可汗と唐
頡利可汗は父や兄の時代から受け継いだ強力な兵馬を背景に、唐へ大きな圧力を加えた。
一方の唐高祖李淵はまだ中原統一の途上にあり、
王世充、竇建徳、劉黒闥、梁師都など各地の勢力と戦わなければならなかったため、
突厥との全面衝突を避けて贈物や外交によって関係を維持した。
頡利は代州、原州、延州、河東などへたびたび侵入し、多数の人々や家畜を略奪した。
『新唐書』は楊善経らの進言を侵攻の一因として挙げる一方、
頡利自身についても父兄の遺産を頼み、兵も馬も強大だったため非常に驕慢となったと記している。
唐への攻撃は旧隋勢力だけで説明できるものではなく、
最盛期の東突厥が中原へ軍事的優位を行使した結果でもあった。
渭水の盟
武徳9年(626)、李世民が玄武門の変を経て唐太宗として即位すると、
その直後に頡利可汗と突利可汗の大軍が長安近郊へ迫った。
唐の都が直接脅かされ、太宗は自ら渭水へ出て頡利と対峙した。
最終的には便橋付近で盟約が結ばれ、突厥軍は撤退した。
この事件について義成公主本人の行動を記した史料はない。
そのため渭水の盟を公主の策謀として扱うことはできないが、
彼女が頡利の可賀敦だった時期に東突厥の対唐圧力が頂点に達した事件として位置づけられる。
東突厥の衰退
渭水の盟のころを境に、東突厥の情勢は急速に悪化した。
頡利可汗と東方を支配する突利可汗との関係が悪化し、
鉄勒諸部では薛延陀や回紇などが反乱を起こした。
さらに大雪によって多数の家畜が死に、飢饉も発生した。
頡利は失われた収入を補うため諸部への徴税を強め、これがさらに離反を招いた。
かつて契丹・室韋から西域方面にまで影響力を及ぼした東突厥は、内部から急速に崩れ始めた。
義成公主が可賀敦として四代にわたって維持してきた啓民家の政権も、
唐との力関係が逆転するなかで存亡の危機を迎えた。
唐の東突厥征討
貞観3年(629)、唐太宗は東突厥を本格的に討つことを決めた。
李靖を定襄道行軍総管とし、李勣、柴紹、薛万徹らが複数方面から進撃した。
翌630年正月、李靖はわずかな精鋭を率いて定襄を急襲し、頡利可汗を破った。
突厥側の有力者康蘇密は、突厥に滞在していた蕭皇后と楊政道を連れて唐へ降伏した。
義成公主が迎え入れ、処羅可汗のもとで「隋王」とされた楊政道の政権も、
この時点で事実上消滅した。
蕭皇后は十年以上に及んだ流転の末に唐へ戻り、長安で暮らすことになる。
李靖の陰山急襲
敗れた頡利可汗は鉄山方面へ逃れたが、なお数万の兵を保持していた。
頡利は唐へ使者を送り、国を挙げて帰順し、自ら入朝する意思があると伝えた。
しかし実際には時間を稼ぎ、春になって草が生え馬が肥えれば漠北へ逃れようとしていた
と『資治通鑑』は記す。
太宗は鴻臚卿唐倹らを慰撫使として送り、李靖にも頡利を迎えるよう命じた。
李靖は、唐の使者が来れば頡利が安心して警戒を緩めると判断し、
李勣と相談して精鋭騎兵による奇襲を決めた。
張公謹は、すでに降伏を認める詔が出され唐倹らも敵中にいるとして反対したが、
李靖は機会を逃すべきではないとして軍を進めた。
蘇定方が二百騎を率いて前鋒となり、
霧の中を進んで頡利の牙帳からわずか七里ほどの地点まで接近した。
頡利側が唐軍に気づいたときには、すでに陣形を整える余裕がなかった。
頡利は千里馬に乗って逃亡し、突厥軍は崩壊した。
唐軍は一万人余りを斬り、男女十万人余りを捕虜としたと『資治通鑑』は記している。
義成公主の死
この戦いで義成公主も命を落とした。
『資治通鑑』は李靖軍の戦果を記すなかで「殺隋義成公主」と明記する。
唐代の李靖伝にも、頡利の妻である隋の義成公主を殺したと記されている。
具体的に誰が義成公主を殺したのか、戦闘中に殺害されたのか、
捕らえられた後に処刑されたのかは記されていない。
そのため「李靖が自ら斬った」といった表現は避け、
李靖軍によって殺害されたとするのが史料に即している。
義成公主は599年に東突厥へ嫁いでから約三十一年、四代の可汗の政権を生きた末、
唐による東突厥征服の過程で死んだ。
頡利可汗の捕縛と東突厥の滅亡
牙帳から逃れた頡利可汗は漠北へ向かおうとしたが、
李勣が磧口を押さえて退路を断っていたため突破できなかった。
周囲の有力者が次々に唐へ降伏し、頡利自身も最終的に捕らえられて長安へ送られた。
これによって第一可汗国期の東突厥は唐に屈服し、唐は陰山から大漠に及ぶ地域へ勢力を広げた。
義成公主の死は、一人の隋宗室女性の最期であるだけでなく、
啓民可汗以来続いてきた隋と東突厥との婚姻関係が完全に消滅した瞬間でもあった。
義成公主に子はいたのか
義成公主の子女については注意が必要である。
『資治通鑑』の630年の記事では、義成公主を殺害した直後に「擒其子疊羅施」と続くため、
一見すると「義成公主の子・畳羅施を捕らえた」と読むこともできる。
しかし同じ事件を記す唐代の李靖伝では、
頡利の妻である義成公主を殺し、その子畳羅施を捕らえたという文脈になっている。
ここでの「其」は頡利可汗を受けると理解するのが自然であり、
畳羅施が義成公主の実子だったことを示すものではない。
そもそも義成公主が四人の可汗との間に子を産んだかどうかを
明確に記した正史の記事は確認できない。
したがって「義成公主には子がいなかった」とも「畳羅施が義成公主の子だった」とも
断定しない方がよい。
四代の可汗との婚姻
義成公主が妻となった可汗は、啓民可汗、始畢可汗、処羅可汗、頡利可汗の四人である。
啓民可汗の死後に嫁いだ三人はいずれも啓民の子だった。
この婚姻歴だけを取り上げれば、中国王朝の婚姻観から見て非常に異例に映る。
しかし突厥社会には父や兄の妻を子弟が引き継ぐ収継婚が存在していたため、
義成公主の再婚はその慣習に従ったものだった。
むしろ重要なのは、可汗が三度交代しても義成公主自身が可賀敦の地位から退かなかったことである。
啓民と隋の婚姻関係を体現する女性が次代の可汗へ継承された結果、
義成公主は東突厥の政治中枢に長期間とどまった。
処羅可汗の死後に後継者を退けて頡利を立てることができたのも、
三代にわたり可賀敦であり続けたことによって蓄積された
地位や人脈と無関係ではなかったと考えられる。
安義公主・大義公主との違い
義成公主は、同時期に突厥へ嫁いだ別の公主と混同されることがある。
安義公主は義成公主より前に啓民可汗へ嫁いだ隋の宗室女で、599年に死去した。
義成公主はその後妻として送られた人物である。
また大義公主も別人である。
大義公主はもともと北周の趙王宇文招の娘で、千金公主として突厥へ嫁いだ。
隋文帝が北周から皇位を奪った後に楊姓を与え、「大義公主」と改封した女性であり、
後に反隋的な行動を取ったとして殺害された。
大義公主と義成公主はいずれも突厥に嫁ぎ、
旧王朝との関係を保持した女性であるため混同されやすいが、時代も出自も婚姻相手も異なる。
唐側史料が描いた義成公主
義成公主の後半生を伝える『旧唐書』『新唐書』『資治通鑑』はいずれも、
最終的な勝者である唐側の史料体系に属する。
とくに『新唐書』は、義成公主の弟楊善経らが頡利を説得した後、
「頡利然之、故歳入寇」と記し、旧隋勢力の進言と突厥の侵攻を直接結びつけている。
しかし頡利可汗には東突厥の勢力拡大や唐との覇権争いという独自の政治目的があり、
唐領への侵攻を義成公主や隋遺臣の策謀だけで説明することはできない。
一方、義成公主自身が唐と和解した、あるいは唐へ帰順しようとしたという記事も残っていない。
630年、義成公主は李靖率いる唐軍によって殺害された。
史書はその理由を記していないため、戦闘のなかで殺されたのか、
意図的に排除されたのかは分からない。
死後
義成公主が死んだ630年、東突厥は唐に降伏した。
蕭皇后と楊政道はすでに唐へ帰順し、頡利可汗も捕らえられたため、
義成公主の周囲に存在した旧隋系の政治勢力も消滅した。
唐はその後、降伏した突厥諸部を北辺に配置して羈縻統治を行った。
のちに突厥は再び独立して第二可汗国を築くが、
それは義成公主が約三十年間身を置いた啓民・始畢・処羅・頡利の政権とは異なる時代である。
『新唐書』には、後に雲中の地を説明する際、
「義成公主所居也」と、そこが義成公主の居所であったことを記す記事も残る。
彼女の死後も、北方の一地域が隋から来た可賀敦の居所として記憶されていた。
人物評・評価
義成公主について、正史はその容貌や性格を評していない。
本人の言葉もほとんど残されていないため、
「聡明」「野心的」「隋への忠義が厚い」といった人物評を史料上の事実として示すことは難しい。
一方、彼女が約三十年間にわたって東突厥の最高位女性であり続け、
少なくとも処羅可汗の死後には、可汗継承へ直接介入できるほどの影響力を持っていたことは
史料から確認できる。
また、雁門の変では隋と突厥の双方へ通じる立場を利用し、
隋滅亡後には旧皇族を突厥へ集める側に回った。
和親によって送り出された女性が、送り先の王朝で長期間生き残るだけでなく、
その政権の継承や対外関係にまで関与した例として、義成公主は隋唐交替期でも特異な位置を占める。
四人の可汗に嫁いだという婚姻歴は目を引くが、
義成公主の生涯でより重要なのは、四度の可汗交代を越えて可賀敦の地位を保ち続けたことである。
まとめ
義成公主は、和親のため東突厥へ送り出された宗室女でありながら、
三十年余りにわたりその政治中枢にとどまった。
彼女の立場は隋と突厥の関係によって成立したものであり、
隋が滅亡してもその結びつきは消えなかった。
蕭皇后や楊政道を突厥へ迎えた動きには、啓民可汗の政権を再建した隋と、
その恩を記憶する突厥王統との関係が表れている。
一方で義成公主は、単に隋の利益を代弁するだけの存在でもなかった。
三代の可汗に収継され、処羅可汗の死後には次の可汗を選ぶ側に立っており、
長い年月のなかで東突厥内部にも独自の政治的基盤を築いていたと考えられる。
630年、唐が東突厥を滅ぼす過程で義成公主も殺された。
隋の公主として始まったその生涯は、隋王朝の滅亡を越え、
東突厥第一可汗国の終焉とともに終わった。
史書・参考文献
『隋書』巻3「煬帝紀上」
『隋書』巻4「煬帝紀下」
『隋書』巻84「北狄・突厥伝」
『旧唐書』巻63「蕭瑀伝」
『旧唐書』巻194上「突厥上」
『新唐書』巻215上「突厥上」
『資治通鑑』巻182・巻187~193
『太平御覧』巻154「皇親部・公主下」
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