楊麗華(ようれいか)は、隋の初代皇帝・楊堅(文帝)と皇后独孤伽羅の長女である。
彼女は北周の皇帝・宣帝の皇后となり、若くして皇后の地位に上った。
しかし夫の宣帝は暴君として知られ、宮廷では異常な政策や残酷な処刑が続き、
楊麗華の人生は大きく翻弄されることになる。
やがて宣帝が急死すると、父の楊堅が北周の実権を握り、ついには隋王朝を建国する。
その結果、楊麗華は
という異例の地位を経験した女性となった。
彼女の人生は、中国史における王朝交代の激動を象徴するものとして知られている。
楊堅と独孤伽羅の娘
楊麗華は北周の有力貴族であった楊堅と、その妻独孤伽羅の長女として生まれた。
父の楊堅は後に隋の初代皇帝となる人物であり、
母の独孤伽羅も中国史でも有名な皇后の一人である。
独孤皇后は夫の政治を強く支えた女性として知られ、隋王朝成立にも大きな影響を与えた。
楊麗華はこうした名門夫婦の娘として育った。
北周皇后となる
楊麗華は北周の皇太子であった宇文贇と結婚する。
宇文贇は後に北周皇帝となり、宣帝として即位した。
この時、楊麗華は皇后となる。
若くして皇后となった彼女は、北周宮廷で最高位の女性となった。
暴君・宣帝
宣帝は中国史でも奇行の多い皇帝として知られている。
彼は
・突然の制度変更
・家臣の処刑
・豪奢な生活
などを繰り返し、宮廷は混乱した。
また彼は多くの女性を皇后にし、皇后制度を乱すなど異例の行動を取った。
宣帝の行動は宮廷に不安を与え、楊麗華の立場も安定したものではなかった。
宣帝は怒りやすく残酷な性格であり、
皇后である楊麗華でさえ危険な立場に置かれることがあったと伝えられている。
楊麗華と宣帝の衝突
楊麗華は穏やかな性格で知られ、嫉妬心を持たない人物であった。
そのため宣帝が次々と皇后や嬪御を増やしても争うことはなく、
宮廷の女性たちからも敬愛されていたという。
しかし宣帝は晩年になると精神状態が不安定となり、怒りや喜びが極端になるようになった。
ある時、宣帝は突然楊麗華を責め、罰を与えようとした。
楊麗華は皇后として冷静に応対したが、それがかえって宣帝の怒りを買い、
ついには皇后に死を賜るとまで言い出したという。
この知らせを聞いた楊麗華の母、独孤伽羅は急いで宮殿へ向かった。
独孤伽羅は宣帝の前で何度も叩頭して謝罪し、額から血が流れるほどであったと伝えられる。
この必死の嘆願によって、楊麗華はようやく処罰を免れることができた。
北周の滅亡
579年、宣帝は急死する。
皇帝の死後、幼い皇子・宇文闡が即位して皇帝となったが、
実際の政治は楊麗華の父である楊堅が握ることになる。
楊堅は北周の実権を握り、やがて皇帝の位を奪う。
581年、楊堅は隋王朝を建国した。これは事実上、北周の皇位を奪う簒奪であった。
この時、楊麗華は父の行動を強く非難したと言われている。
楊麗華にとって北周は、自分が皇后として仕えた夫の王朝であり、
その王朝を父が滅ぼしたことは受け入れ難い出来事だった。
そのため彼女は父に対して
「どうして宇文氏の天下を奪うのですか」
と激しく責めたという。
しかし楊堅は娘を処罰することはなく、むしろ彼女を深く気遣ったと伝えられている。
楊麗華はその後、隋王朝では楽平公主の称号を与えられ、皇族女性として厚遇された。
楊麗華の晩年
楊麗華は隋王朝の皇族女性として生涯を過ごした。
彼女の人生は
・北周皇后
・皇太后
・隋の公主
という珍しい地位を経験したものであった。
北周から隋へと続く中国史の大きな転換期を生きた女性として、
中国史でも特異な存在である。
史書・参考文献
・『周書』列伝
・『隋書』列伝
・『資治通鑑』北周紀・隋紀
・北周・隋代史関連史料

