隋の煬帝楊広の皇后・蕭氏は、南朝梁の皇族に生まれ、
幼少期には貧しい親族の家で育ったという異色の経歴を持つ女性である。
やがて晋王楊広の妃に選ばれ、夫が皇帝となると皇后に冊立された。
『隋書』は蕭皇后を、温順でありながら知識があり、
学問を好み、文章や占候にも通じた人物として描いている。
煬帝の失政を認識しながらも、直接の諫言が受け入れられないことを悟り、
『述志賦』に自らの思いを託したことでも知られる。
その生涯を大きく変えたのが、618年の江都の変だった。
煬帝が宇文化及らに殺害されると、蕭皇后は宇文化及の軍に連れられて北上し、
その敗北後は竇建徳のもとへ移り、さらに突厥へ渡った。
孫の楊政道が「隋王」として擁立されるなか、蕭皇后は十年以上にわたって北方で暮らし、
630年に東突厥が唐に敗れたことでようやく長安へ戻った。
後世には、宇文化及や竇建徳、突厥の可汗、
さらには唐太宗からも愛された「六帝に仕えた美女」といった物語が広まった。
しかし正史が伝える蕭皇后像は、それとは大きく異なる。
史料に見えるのは、煬帝の皇后として隋の繁栄と崩壊を経験し、
亡国後には各勢力の間を移されながら生き延びた女性の姿である。
出自――南朝梁皇室の血を引く皇女
蕭皇后は、南朝梁の皇族である西梁明帝・蕭巋の娘として生まれた。
西梁は、南朝梁が滅亡へ向かう過程で江陵を中心に成立した政権で、
北朝の西魏、のち北周の強い影響下に置かれていた。
蕭巋はその第二代皇帝にあたり、蕭皇后は梁の昭明太子・蕭統の曾孫にあたる。
つまり蕭氏は、後に北朝系の隋皇室へ入る以前から、
南朝を代表する皇族の血統を引いていたことになる。
母の姓名は『隋書』の蕭皇后伝には記されていない。
ただし後に母方の叔父である張軻の家で育てられたことから、母が張氏であったことは分かる。
蕭皇后の生年も正史には明記されていない。
一般には567年頃とされることが多いが、これは後世の推定であり、
史書から直接確認できる数字ではない。
死亡した647年の年齢についても同様で、
後述するように「80歳前後」とする場合には推定であることを踏まえる必要がある。
二月生まれを忌まれ、貧しい家で育つ
『隋書』によれば、蕭氏は旧暦二月に生まれた。
当時の江南には「二月に生まれた子は育てない」という風習があったとされ、
蕭氏も父母のもとでは育てられず、父・蕭巋の弟にあたる蕭岌に引き取られた。
ところが、その蕭岌夫妻もほどなく死去する。
蕭氏はさらに母方の叔父・張軻の家へ移されることになった。
張軻の家は非常に貧しく、『隋書』は「后躬親勞苦」と記している。
皇帝の娘でありながら、自ら労苦を担って生活していたというのである。
後に皇后となったことを知る史家にとって、この幼少期は印象的な逸話だったのだろう。
南朝皇族の血を引きながら、宮廷で華やかに育てられたわけではなく、
親族の死と貧困を経験して成長した女性として記録されている。
晋王楊広の妃に選ばれる
その蕭氏の人生を変えたのが、隋の皇子・楊広との婚姻だった。
隋 文帝楊堅は、次男で晋王に封じられていた楊広の妃を、西梁皇室から迎えようとした。
隋と西梁の関係を安定させるためにも、皇族同士の婚姻は政治的な意味を持っていた。
『隋書』には、この妃選びに占いが用いられたという逸話が残る。
蕭巋の娘たちを次々に占わせたものの、いずれも結果は「不吉」だった。
そこで蕭巋は、張軻の家で暮らしていた蕭氏を呼び戻して使者に占わせたところ、
今度は「吉」と出た。こうして蕭氏は楊広の妃に選ばれ、晋王妃となった。
この逸話が実際の婚姻決定過程をどこまで正確に伝えているかは判断しがたい。
ただ、蕭氏が当初から父の宮廷で育てられていたわけではなく、
妃選びの際に改めて呼び戻されたという点は、『隋書』『北史』の双方に記されている。
↓↓義父・文帝楊堅、義母・独孤皇后についての個別記事は、こちら


温順で、学問と文章を好んだ晋王妃
『隋書』は晋王妃となった蕭氏について、「性婉順、有智識、好学解属文、頗知占候」と評している。
性格は穏やかで従順でありながら、知識と判断力を備え、学問を好み、文章を作ることができ、
さらに占候、すなわち天文現象などから吉凶を判断する知識もある程度持っていたという意味になる。
単に「貞淑な皇后」と評価されているだけではない点が特徴的である。
隋文帝楊堅も蕭氏を高く評価し、『隋書』は「高祖大善之」と記す。
夫の楊広からも非常に寵愛されると同時に敬われ、「帝甚寵敬焉」と評された。
後世には蕭皇后の美貌を強調する物語が多く作られたが、
正史の蕭皇后伝は容貌を具体的に描写していない。
史書が重点的に記しているのは、むしろ温順さ、知識、学問、文章能力である。
楊昭と楊暕を生む
蕭氏と楊広の間には、少なくとも二人の男子が生まれたことが正史から確認できる。
長男が楊昭、次男が楊暕である。
『隋書』の煬帝諸子伝は、楊昭と楊暕を蕭皇后の子と明記している。
楊昭は祖父の文帝からもかわいがられ、楊広が皇太子となった後には皇太孫に近い立場となり、
煬帝即位後には皇太子に冊立された。
しかし楊昭は606年に若くして死去する。諡は「元徳太子」であった。
楊暕は斉王となったが、後には父・煬帝から警戒されるようになる。
楊暕が後継者の座を望んでいるとの疑いもあり、煬帝との関係は悪化した。
煬帝には蕭嬪との間に趙王楊杲もいたが、蕭皇后所生ではない。
皇女については事情が複雑である。
『隋書』には煬帝の長女として南陽公主が登場し、宇文化及に嫁いだことが記されている。
しかし南陽公主の母が蕭皇后だったとは明記されていない。
他の皇女についても同様で、蕭皇后の娘と断定できない人物が含まれるため、
男子二人ほど明確には系譜を確定できない。
↓↓煬帝の長女・南陽公主についての個別記事は、こちら

楊広の皇太子擁立と蕭氏
楊広は当初、皇位継承者ではなかった。文帝の皇太子は兄の楊勇だったからである。
しかし楊勇は次第に父・文帝と母・独孤皇后の不興を買い、
楊広は反対に質素で慎重な人物であるかのように振る舞った。
特に一夫一婦的な姿勢を重んじた独孤皇后に対し、
楊広が蕭氏だけを大切にしているように見せたことは、皇太子争いで有利に働いたとされる。
600年、楊勇は廃され、楊広が皇太子となった。
蕭氏もこれに伴って皇太子妃となったと考えられる。
ただし、蕭氏自身が楊勇失脚の陰謀を積極的に立案したとする確かな記録はない。
楊広の奪嫡工作には楊素ら多くの人物が関わっているが、
正史の蕭皇后伝はこの過程で蕭氏が政治工作を主導したとは記していない。
後世に煬帝夫妻を一体の謀略家として描く場合があるものの、
史料上確認できることと推測は分ける必要がある。
煬帝即位と皇后冊立
604年、文帝が死去し、楊広が皇帝に即位した。煬帝である。
翌大業元年(605年)正月、蕭氏は正式に皇后に冊立された。
冊立の詔では、蕭氏について「夙稟成訓、婦道克脩」と称え、
早くから正しい教えを身につけ、婦人としての道をよく修めてきたと評価している。
さらに皇后として宮中の女性を導くにふさわしいとして、正位につけることが宣言された。
皇后となった蕭氏は、煬帝が各地を巡幸するたびに同行した。
『隋書』は「帝毎遊幸、后未嘗不随従」といい、
煬帝の遊幸には蕭皇后が常に随行していたとする。
煬帝は洛陽、江都など各地へ頻繁に移動したため、
蕭皇后も皇帝とともに帝国各地を行き来したことになる。
一方で、煬帝時代の後宮には多数の妃嬪が置かれた。
『北史』は煬帝の後宮制度について、
三夫人、九嬪、婕妤、美人、才人、宝林、御女、采女など
細かな位階が整備されていたことを伝えている。
それでも正史は、煬帝が蕭氏を「寵敬」したという評価を崩していない。
煬帝の失政と『述志賦』
大業年間が進むにつれ、煬帝の政治は急速に民衆への負担を増していった。
大運河の建設、東都洛陽の造営、大規模な巡幸、高句麗遠征などに大量の人員と物資が動員され、
各地で反乱が頻発するようになる。
蕭皇后も煬帝が「徳を失った」ことを認識していた。
しかし『隋書』によれば、蕭皇后は情勢を理解しながら、直接言葉にすることができなかった。
「心知不可、不敢厝言」と記されており、
煬帝に正面から諫言しても受け入れられる状況ではないと考えていたことがうかがえる。
そこで蕭皇后が自らの思いを託したとされるのが『述志賦』である。
現在の『隋書』には『述志賦』の長文が収録されている。
その内容は、皇后として受けている厚い恩寵への畏れ、自らの名誉を損なわないよう慎む姿勢、
栄華に溺れず「恭倹」を守ろうとする決意などを中心としている。
とりわけ、「居高而必危、慮処満而防溢」と、高い地位にあれば危険が伴い、
満ちればあふれることを警戒しなければならないと述べている点は、
煬帝時代の状況を考えるうえで重要である。
また、珠の簾や玉の装飾、金の屋敷や瑶台のような豪華なものを、
世俗では尊ぶとしても自分は軽んじると語り、
経書や史書を学び、古代の賢婦を模範とする姿勢を示している。
『述志賦』をそのまま煬帝への公開の諫書とみなすことはできない。
文面の中心は蕭皇后自身の生き方を述べることにある。
しかし『隋書』が、煬帝の失徳を知りながら言葉にできなかったためにこの賦を作った、
と説明している以上、史家はここに間接的な戒めの意味を読み取っていたことになる。
江都で迫る反乱
隋末になると各地で反乱が拡大し、煬帝の支配は急速に崩れていった。
煬帝は江都へ移ったが、そこでも近衛軍である驍果の間に不満が広がり、反乱の動きが進んでいた。
この頃の蕭皇后について、『隋書』と『北史』は二つの逸話を伝えている。
ある宮人が蕭皇后のもとを訪れ、「外では皆が反乱しようとしていると聞きます」と告げると、
蕭皇后は煬帝へ直接奏上するよう命じた。
ところが報告を受けた煬帝は激怒し、
「お前が口にすべきことではない」として、その宮人を処刑してしまった。
その後、別の宮人が蕭皇后に、皇帝を警護する宿衛の者たちが各所で集まり、
反乱について相談していると知らせた。
しかし蕭皇后は、今度は煬帝への報告を求めなかった。
『隋書』によれば、
蕭皇后は「天下のことが一朝にしてここまで至った以上、
もはや形勢は決しており、救うことはできない。
今さら知らせても、ただ帝を憂え煩わせるだけである」という趣旨の言葉を述べたという。
それ以降、反乱の動きを蕭皇后へ報告する者はいなくなった。
この逸話からは、蕭皇后が煬帝の置かれた状況を理解していなかったのではなく、
むしろ政権がすでに立て直せない段階に達していることを認識していた様子がうかがえる。
最初の報告では煬帝への奏上を促したものの、その結果として宮人が処刑されたため、
二度目には報告しても事態を変えられないと判断したのである。
江都の変と煬帝の最期
大業14年(618年)、ついに江都で宇文化及・宇文智及らが反乱を起こした。江都の変である。
反乱軍が迫った際、
煬帝は一時、反乱の首謀者が自分と不仲になっていた斉王楊暕ではないかと疑った。
『隋書』には、煬帝が蕭皇后を振り返って、「阿孩ではないか」と尋ねたことが記録されている。
しかし反乱を起こしたのは楊暕ではなかった。
宇文化及らは煬帝を捕らえて殺害し、楊暕もまた反乱軍によって殺された。
楊暕は自分を捕らえに来た者を父帝の使者だと思い、
「自分は国家に背いていない」と訴えたまま殺されたという。二人の息子も殺害された。
蕭皇后自身は殺されず、生き残った。
煬帝の遺体は反乱後、十分な葬儀を受けられなかった。
後世の史料には蕭皇后や宮人が寝台の板などを用いて臨時の棺を用意したとする記録もあり、
かつて天下を支配した皇帝の最期としてはきわめて粗末なものだった。
その後、煬帝の遺体は改葬を重ねることになる。
↓↓煬帝を殺害した宇文化及についての個別記事は、こちら

宇文化及とともに北上する
煬帝を殺した宇文化及は、江都にとどまることなく軍を率いて北上した。
蕭皇后をはじめとする隋の皇族・宮人も、その軍に同行させられた。
煬帝の長女・南陽公主もこの一団の中にいた。
宇文化及は一時、自ら皇帝を称して許を建国したが、勢力を維持することはできなかった。
やがて聊城に追い込まれ、619年、竇建徳の攻撃を受けて敗北する。
宇文化及は捕らえられて殺され、蕭皇后たちは今度は竇建徳の支配下に入ることになった。
後世には、蕭皇后が宇文化及の妃となったという物語が語られることがある。
しかし『隋書』『北史』などは、そのような男女関係を記録していない。
正史に書かれているのは、宇文化及の反乱後にその軍とともに聊城へ移動したという事実である。
竇建徳のもとで武強県へ
宇文化及を破った竇建徳は、隋の旧臣や皇族に比較的寛大な態度を取った。
『北史』によれば、竇建徳の妻・曹氏は嫉妬深く気性が激しかったため、
宇文化及から得た煬帝の妃嬪や美人たちを出家させた。
蕭皇后自身は武強県に置かれたという。
『資治通鑑』系の記録では、竇建徳が宇文化及を破った後、
捕らえた多くの隋の宮人を解放し、隋の旧臣にも能力に応じて官職を与えている。
また竇建徳は、煬帝に「閔帝」と追諡した。
これは竇建徳が煬帝の政策を支持していたという意味ではなく、
隋に代わる政権を築こうとするなかで、
弑逆によって殺された前王朝の皇帝に一定の礼を示したものと考えられる。
ここでも、蕭皇后が竇建徳の妃になったことを示す正史の記事は存在しない。
義成公主から迎えが届く
蕭皇后の運命を再び変えたのが、東突厥にいた義成公主だった。
義成公主は隋の宗室女性として突厥へ嫁いだ和親公主で、
啓民可汗以後、突厥の可汗家に身を置き続けていた。
隋が滅亡しても唐に従わず、旧隋勢力とのつながりを保っていた人物である。
竇建徳が蕭皇后を保護していた頃、東突厥では処羅可汗が勢力を振るっていた。
義成公主はその可賀敦、すなわち可汗の妻の地位にあった。
義成公主は使者を送り、蕭皇后を突厥へ迎えることを求めた。
『北史』は、竇建徳が突厥の勢力を恐れて蕭皇后を引き留めることができず、
蕭皇后が孫の楊政道や皇族女性たちを連れて突厥へ入ったと記す。
『資治通鑑』系史料では、義成公主が蕭皇后と南陽公主を迎える使者を送り、
竇建徳が千余騎を付けて送り出したうえ、宇文化及の首も義成公主へ届けたとされる。
宇文化及は義成公主にとっても、隋の皇帝を殺害した弑逆者だった。
その首が突厥の隋公主のもとへ送られたことは、
当時もなお突厥に旧隋勢力の政治的拠点が存在していたことを示している。
↓↓突厥で大きな影響力を持った義成公主についての個別記事は、こちら

孫・楊政道が「隋王」となる
蕭皇后が突厥へ伴った楊政道は、斉王楊暕の遺腹の子だった。
楊暕は江都の変で二人の息子とともに殺されたが、
その時点で妊娠中だった女性から後に楊政道が生まれたとされる。
処羅可汗はこの楊政道を「隋王」として擁立した。
さらに、戦乱などによって北方へ流入していた中国人を楊政道の支配下にまとめ、定襄に居住させた。その人数は『資治通鑑』で一万人に及んだとされ、隋と同じ制度にならって百官まで置かれた。
単に亡命した皇族を保護しただけではない。
楊政道を旧隋皇族の象徴として立て、隋の制度を模した政権を突厥領内に作ったのである。
後には義成公主の従弟・楊善経らが頡利可汗に対し、
楊政道を奉じて唐を攻撃し、かつて隋 文帝が突厥を助けた恩に報いるべきだと進言している。
ただし、蕭皇后本人がこの復隋運動を主導したことを示す史料はない。
蕭皇后は楊政道の祖母としてその身近にいたと考えられるが、
外交や軍事方針を決定した人物として正史に登場するわけではない。
十年以上に及んだ突厥生活
蕭皇后はこの後、長期間にわたって東突厥に滞在した。
処羅可汗が死ぬと、その弟の頡利可汗が即位する。
義成公主も引き続き可汗家の有力な女性として存在し、唐への対抗姿勢を強めていった。
頡利可汗はしばしば唐へ侵入し、一時は長安を脅かすほどの勢力を持った。
蕭皇后がその間どのような生活を送っていたかについて、正史はほとんど何も伝えていない。
後世の説話では、蕭皇后が処羅可汗や頡利可汗の妃になったとする話がある。
しかし『隋書』『北史』『旧唐書』『資治通鑑』などに、それを裏付ける記録は見当たらない。
『北史』が記すのは、処羅可汗が「使者を遣わして皇后を迎えた」ことと、
蕭皇后が孫たちとともに突厥の牙庭へ入ったことだけである。
義成公主と異なり、蕭皇后が可汗の「可賀敦」となったとは記されていない。
唐による東突厥攻略
やがて唐国内の政情が安定すると、唐太宗李世民は東突厥に対する反攻を開始した。
貞観4年(630年)、李靖ら唐軍は東突厥へ大規模な攻撃を行い、頡利可汗の勢力を崩壊させた。
この戦いによって、蕭皇后の長い北方生活も終わる。
『旧唐書』太宗紀は、
このとき唐軍が、「隋皇后蕭氏及煬帝之孫正道」を得て京師へ送ったと記している。
『北史』も、貞観4年に唐が突厥を破り、蕭皇后らを礼をもって長安へ迎えたとする。
蕭皇后が隋滅亡後に宇文化及のもとへ移されたのが618年であるため、
およそ十二年を経て再び中原へ戻ったことになる。
長安へ帰還し、興道里に住む
唐は蕭皇后を前王朝の皇后として扱った。
『北史』には、長安の興道里に邸宅を賜ったことが記されている。
唐にとって蕭皇后は、かつて敵対した隋皇室の中心人物ではあったものの、
すでに政治的な脅威となる存在ではなかった。
孫の楊政道も唐に仕え、員外散騎侍郎となったと記録されている。
長安帰還後の蕭皇后について、政治に積極的に関与したという記録はほとんど残っていない。
長い流転を経た前隋皇后として、唐の保護のもとで余生を送ったとみられる。
旧隋勢力と蕭皇后
蕭皇后が唐へ戻ったことで問題になり得たのが、突厥滞在中の旧隋勢力との連絡だった。
隋が滅亡した直後は、唐の支配が中国全土に及んでいたわけではなく、
旧隋皇室への忠誠を維持する者や、楊氏復興を望む者も残っていた。
蕭皇后や楊政道が突厥にいる以上、そこへ密かに連絡を取る者がいても不思議ではない。
唐代史料には、そうした旧隋勢力との往来について追及を求める意見が出た際、
唐太宗が、天下がまだ完全に統一されていなかった時期に隋を慕う者がいたとしても、
それをことさらに罪に問う必要はないという趣旨で処理した話も伝えられる。
蕭皇后の帰還後、唐が大規模な旧隋派摘発を行った形跡はない。
太宗にとっては、旧王朝の皇后を寛大に扱うこと自体が、
新王朝の安定と正統性を示す意味を持っていたと考えられる。
貞観21年に死去
蕭皇后は貞観21年(647年)に死去した。『北史』は「二十一年殂」と記している。
一般に生年を567年頃とする説に従えば、80歳前後の長寿だったことになる。
ただし、生年そのものが正史に明記されていないため、死亡時の年齢も確定できない。
唐太宗は蕭皇后を単なる亡国の皇族として葬らなかった。
皇后の礼をもって葬るよう命じ、遺体を揚州へ送って煬帝陵に合葬させ、「愍」と諡した。
そのため史書では「煬帝愍皇后蕭氏」と呼ばれる。
「愍」は、災難に遭い苦難の生涯を送った人物などに用いられる諡である。
国が滅び、夫を殺され、自らも各地を流転した蕭皇后の生涯を象徴する諡号となった。
煬帝との合葬
蕭皇后が死去した時点で、煬帝の死からすでに約29年が経過していた。
それでも唐朝は蕭皇后を正式な煬帝の皇后として扱い、煬帝陵への合葬を行った。
隋を倒した唐が、前王朝の皇帝夫妻に一定の礼を認めたことは注目される。
隋の滅亡後、蕭皇后は煬帝の妻としての地位を失ったわけではなかった。
宇文化及、竇建徳、突厥のもとを転々としながらも、
最終的に唐によって「隋煬帝皇后」として処遇され、その身分のまま生涯を終えたのである。
『隋書』が伝える蕭皇后の人物像
『隋書』の史臣は、蕭皇后について比較的同情的な評価を下している。
蕭皇后伝は文帝の独孤皇后と同じ巻に収められているが、両者に対する論評は大きく異なる。
独孤皇后については、嫉妬や後継者問題への介入が隋の政治を乱した一因として厳しく批判する。
一方、蕭皇后については、晋王妃となった当初には、
「輔佐君子之心」すなわち夫を助けようとする志があったと評価している。
煬帝が正しい道を行わず、人を信用できなくなり、父子の間にさえ猜疑を抱くようになった以上、
夫婦の関係でも蕭皇后の意見が生かされる余地はなかったというのが史臣の見方だった。
そして最後には、「国破家亡、竄身無地、飄流異域、良足悲矣」と評する。
国は破れ、家は滅び、身を置く場所さえなくなり、異域を流浪したことはまことに悲しむべきだ、
という意味である。
煬帝の失政について蕭皇后に責任を負わせる論評ではない。
むしろ夫の失徳を認識していながら、それを止めることができず、
最終的には亡国の運命に巻き込まれた皇后として描かれている。
「六人の皇帝に愛された美女」は史実か
現在の蕭皇后について特に広く流布しているのが、
「六人の帝王に愛された絶世の美女」という物語である。
そこでは、楊広、宇文化及、竇建徳、処羅可汗、頡利可汗、唐太宗李世民と
次々に関係を持った女性として描かれることがある。
しかし正史と照らし合わせると、この構図は成立しない。
蕭氏と正式な夫婦関係にあったことが確認できるのは煬帝楊広である。
宇文化及について正史が記すのは、
江都の変後に蕭皇后がその軍とともに聊城まで連行されたことだけである。
竇建徳についても、宇文化及を破った結果として蕭皇后を保護下に置いたのであり、
妃としたという記録はない。
処羅可汗は義成公主の要請を受けて蕭皇后を迎えたが、蕭皇后自身を妻としたとは記されない。
頡利可汗との男女関係を示す記録もない。
唐太宗についても同様である。
630年に蕭皇后を長安へ迎えて邸宅を与え、647年には皇后の礼で葬らせたことは確認できるが、
寵妃としたという話は正史には存在しない。
したがって、「六帝に愛された蕭皇后」は史実上の人物像ではなく、
隋末唐初という激動期に複数の勢力のもとを渡り歩いた事実が、
後世の小説や説話によって恋愛関係へ置き換えられたものとみるべきである。
また、蕭皇后が「絶世の美女」であったという表現も注意が必要である。
『隋書』は蕭皇后の性格、知識、学問、文章能力については具体的に記しているが、
その容貌を「絶世の美女」と形容してはいない。
2013年に確認された煬帝と蕭皇后の墓
蕭皇后の人物像には、現代の考古学によって新たな情報も加わった。
2012年末から2013年にかけて、江蘇省揚州市の曹荘で隋唐時代の二基の墓が発見された。
一号墓からは「隋故煬帝墓誌」などの文字を残す墓誌が出土し、
被葬者が煬帝であることを示す重要な証拠となった。
また帝王級の十三環蹀躞帯なども出土している。
隣接する二号墓には墓主の名を直接示す墓誌は残っていなかったが、
女性の人骨と高い格式の副葬品が発見された。
人骨は56歳以上の女性と推定され、文献上の蕭皇后と矛盾しなかった。
また墓の配置や築造時期、文献に残る蕭皇后の合葬記事などを総合し、
この二号墓は蕭皇后の墓と判断された。
煬帝の墓が先に造られ、その後、蕭皇后を合葬するため隣接する形で墓が追加された状況も、
647年に唐太宗が蕭皇后を煬帝陵へ合葬させたという『北史』の記事と整合する。
墓から出土した皇后の礼冠
蕭皇后墓で特に注目を集めた遺物の一つが、皇后の礼冠に関係する装飾品だった。
墓内からは精巧な金属製の花樹など、冠を構成していた多数の部材が出土した。
長期間土中にあったため冠そのものの形は失われていたが、出土品の調査と復元作業によって、
隋唐時代の最高位女性が用いた礼冠の具体的な姿を考える重要な資料となった。
文献には皇后の冠服制度に関する記録が残っているものの、
実物資料がまとまった形で確認される例は少ない。
幼少期には貧しい張軻の家で自ら労働したと記された女性が、
最終的には皇后としての礼制に従って煬帝とともに葬られ、
その墓から皇后の身分を示す装飾品が出土したことになる。
人物評・評価
『隋書』は蕭皇后を「婉順」「有智識」「好学解属文」と評し、
温順さだけでなく、知識や文章能力を備えた女性として描いている。
また史臣は、晋王妃となった当初には夫を補佐しようとする志があったとしながら、
煬帝が道を失ったため、その力を生かすことができなかったとみている。
煬帝の失政を認識し、『述志賦』に自らの戒めを託したことや、
江都末期に政権の崩壊を見抜いていた逸話からも、状況を判断する力はあったと考えられる。
一方、独孤皇后のように朝政や皇位継承へ強く介入した形跡はなく、
正史も隋滅亡の責任を蕭皇后に負わせてはいない。
むしろ史臣は、国と家を失い異域を流転したその後半生を「良足悲矣」と結び、
亡国に巻き込まれた皇后として同情的に評価している。
まとめ
蕭皇后は西梁皇族に生まれ、晋王楊広の妃を経て隋の皇后となった。
学問や文章を好み、煬帝の失政も認識していたが、政治を動かす立場にはなく、
618年の江都の変で隋が崩壊すると、その後は宇文化及、竇建徳、突厥のもとを流転した。
630年に唐へ帰還した後は前朝の皇后として礼遇され、647年に死去すると煬帝陵へ合葬された。
後世には「六帝に愛された美女」とする説話が広まったが、正史に確認できる夫は煬帝のみであり、
史料から浮かぶのは、隋の盛衰と亡国後の混乱を生き抜いた皇后の姿である。
史書・参考文献
・『隋書』巻36「后妃伝・煬帝蕭皇后」
・『北史』巻14「后妃伝下・煬帝蕭皇后」
・『旧唐書』巻194上「突厥上」
・『新唐書』巻215上「突厥上」
・『資治通鑑』隋紀・唐紀(大業末~貞観4年)
・揚州市文物考古研究所による曹荘隋唐墓(煬帝・蕭皇后墓)の発掘資料
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