楊貴妃(楊玉環)|盛唐を象徴した絶世の美女と「長恨」の伝説

楊貴妃(唐の四大美女) 04.美女

楊貴妃(ようきひ/ヤングイフェイ 本名:楊玉環〈よう ぎょくかん〉)は、
中国代の玄宗皇帝の寵姫として知られる人物であり、
中国史上もっとも著名な女性の一人である。
「貴妃」は後宮における高位の称号であり、名前ではない。

楊貴妃は西施貂蝉王昭君と並んで「中国四大美女」の一人とされ、
さらに後世には「傾国の美女」の代名詞として語られるようになった。

だが、楊貴妃は単なる絶世の美女としてだけではなく、
王朝最盛期の文化、そしてその崩壊を象徴する存在でもあった。

玄宗との愛、安史の乱、馬嵬駅での死、『長恨歌』による神話化、
さらに日本を含む東アジア文化への巨大な影響など、
彼女をめぐる物語は千年以上にわたり語り継がれている。

本記事では、『旧唐書』『新唐書』『資治通鑑』などの正史を基礎にしながら、
『長恨歌』『長恨歌伝』『楊太真外伝』『開元天宝遺事』などに見える逸話や伝承も整理し、
楊貴妃の実像と後世像を詳しく解説する。

出生と一族

楊貴妃は蜀州の出身で、本籍地は蒲州永楽県とされる。

一部史料では名門・弘農楊氏の出身とされるが、
この点については後世の附会である可能性が指摘されている。
研究者の竹村則行は、『太真外伝』に楊貴妃を「弘農華陰人」と記したのは、
当時の名門であった弘農楊氏と結び付けるための潤色ではないかと論じている。

父は蜀州司戸参軍の楊玄琰であり、
姉には後に韓国夫人・虢国夫人・秦国夫人となる女性たちがいた。
楊貴妃は幼少期に両親を失い、叔父の楊玄璬の家で育てられたという。
四川には、幼い楊貴妃が落ちたとされる「落妃池」の伝承も残っている。

楊貴妃の出生には古くから数多くの伝説が存在する。
生まれた時から玉環を握っていたため「玉環」と名付けられたという説、
生誕時に室内が芳香に満ちたという説、
あるいは庶民の家に生まれたが、美貌ゆえに楊玄琰に引き取られたという俗説まで存在する。

『定命録』には、蜀に住む隠士が幼い楊貴妃を見て、
「この娘は将来、皇后に匹敵するほどの尊貴を得る」と予言した話が記されている。
また同じく楊国忠に対しても、「後に長く朝廷の大権を握るだろう」と予言したという。

さらに『開元天宝遺事』では、
父・楊玄琰の刀が猛獣や盗賊が近づくと音を立てたという怪異譚まで伝えられており、
楊貴妃一族が運命に選ばれた存在として語られていたことがうかがえる。

寿王妃から女冠へ

735年、楊玉環は玄宗と武恵妃の子である寿王 李瑁の妃となった。
当時、李瑁は武恵妃と宰相李林甫の後押しによって皇太子候補とも目されていたが、
737年に武恵妃が死去すると状況は大きく変化し、
最終的には李璵、すなわち後の粛宗が皇太子に立てられることとなった。

その頃、玄宗はすでに高齢に差しかかり、政治への熱意を徐々に失いつつあった。
740年、玄宗は息子の妃であった楊玉環を見初める。

もっとも、皇帝が自分の息子の妃を奪うことには強い倫理的問題があったため、
楊玉環はいったん女道士となり、「太真」という道号を与えられた。
形式上、寿王との婚姻関係を解消した上で、玄宗の後宮へ迎えられたのである。

この頃から彼女は実質的に玄宗の寵姫となり、
宮中では「娘子」と呼ばれ、皇后に匹敵する待遇を受けるようになった。

楊貴妃の美貌と才能

楊貴妃は中国史上屈指の美女として知られるが、代の美人像は現代とは大きく異なる。

唐代では、痩身ではなく、ふくよかで豊満な体型が理想的な美とされていた。
そのため、楊貴妃も豊かな肉付きと柔らかな姿態を持った美女であったと考えられている。

後世、「楊肥趙痩」「環肥燕瘦」という成語が生まれたが、
これは豊満な楊貴妃と、痩身で知られた代の美女趙飛燕を対比した表現である。

また楊貴妃は、単に美貌に優れていただけではなく、極めて高い芸術的才能を持っていた。
音楽、舞踊、琵琶、歌唱に優れ、とりわけ天女の羽衣を思わせる幻想的な舞
「霓裳羽衣曲(げいしょうういきょく)」は玄宗を魅了したと伝えられる。

『長恨歌伝』では、楊貴妃の髪は艶やかで、肌は白く滑らか、
体型はほどよく豊かで、物腰は柔和であったと描写される。

彼女は磬の名手でもあり、宮廷楽人すら及ばなかったという説話まで存在する。

↓↓細身の美女趙飛燕についての個別記事は、こちら

趙飛燕・趙合徳|漢の二趙と呼ばれた絶世の美女姉妹
二趙とは前漢の成帝に寵愛された趙飛燕(ちょうひえん)と趙合徳(ちょうごうとく)の姉妹を指す。絶世の美貌で権力を握りながらも破滅へと向かった二人の生涯や逸話、時代背景をわかりやすく解説する。

楊貴妃の見た目・性格・雰囲気(後世の定番イメージ)

楊貴妃は後世「ふくよかな美人」として描かれることも多く、
「豊かな美」の象徴として語られる点も特徴である。

・花のように艶やかで香り立つ美貌
・肌は瑞々しく、柔らかな印象
・華やかで妖艶だが、どこか儚い
・音楽と舞を愛する宮廷の花
・贅沢と悲劇を同時に背負う存在

四大美人と「羞花」

後世、中国では、

西施  ― 沈魚
王昭君 ― 落雁
貂蝉  ― 閉月
・楊貴妃 ― 羞花

という四大美女伝説が成立した。

楊貴妃の美貌は「花のように麗しく、肌は瑞々しく、香り立つよう」と表現され、
「羞花」は、「その美しさに花さえ恥じてしぼんでしまう」という意味である。

もちろんこれは文学的誇張だが、
楊貴妃が「自然さえ魅了する美女」として理想化されていたことを示している。

↓↓他の四大美女についての個別記事は、こちら

西施|越王勾践と呉王夫差を巡る春秋時代の中国四大美女伝説
西施(せいし)とは春秋時代、越王勾践に仕え呉王夫差を惑わせた中国四大美女の一人である。呉を滅ぼしたとされる美貌と策略、臥薪嘗胆との関係やその生涯をわかりやすく解説する。
貂蝉|三国志で呂布と董卓を翻弄した中国四大美女
貂蝉(ちょうせん)とは三国志で董卓と呂布を離間させたとされる中国四大美女の一人。連環の計の真相や実在性の議論、生涯や逸話をわかりやすく解説。
王昭君|匈奴に嫁いだ中国四大美女の生涯と和親政策
王昭君(おうしょうくん)とは前漢の元帝の後宮から匈奴へ嫁いだ中国四大美女の一人でである。和親政策の象徴として知られるその生涯や逸話、歴史的背景をわかりやすく解説する。

貴妃冊立と楊一族の繁栄

745年、楊玉環は正式に「貴妃」となった。
玄宗は彼女を深く寵愛し、一族にも破格の恩典を与える。

父・楊玄琰には兵部尚書が追贈され、母にも国夫人号が与えられた。
叔父や従兄弟たちも次々と高官へ昇進し、
とりわけ従兄の楊国忠は後に宰相となって朝廷の実権を握ることになる。
姉たちも韓国夫人・虢国夫人・秦国夫人となり、
楊一族は王朝屈指の外戚勢力として巨大な権勢を振るった。

『旧唐書』などには、楊家への贈り物が門前に山積みとなり、
地方官たちが競って珍品を献上したと記されている。

楊貴妃の住居には700人もの織工がおり、装飾品を作る職人も数百人いたという。
玄宗が遊幸する際には必ず楊貴妃が同行し、
馬に乗る際には玄宗が最も信頼したの最側近宦官高力士が自ら手綱を取った。

こうした記録は、楊貴妃が単なる寵姫ではなく、
宮廷文化の中心にいた存在であったことを示している。

玄宗との愛と宮廷生活

楊貴妃と玄宗の関係は、単なる政治的結び付きではなく、極めて感情的なものであった。
後世の詩文では、玄宗の楊貴妃への愛は、「一笑で天下を傾ける」と表現されるほどである。

楊貴妃は何度か玄宗の怒りを買って宮中を追放されたことがあるが、
そのたびに玄宗は激しく動揺した。

ある時には、楊貴妃が楊銛の屋敷へ戻されたその日のうちに、
玄宗は機嫌を悪くし、側近を鞭打つほど荒れたという。
高力士が取り成し、贈り物を届けたことで楊貴妃は夜のうちに帰還した。
玄宗は彼女が涙ながらに謝罪する姿を見て大いに喜び、多くの芸人を呼んで宴を開いたという。

また別の時には、楊貴妃が自ら髪を切り、それを玄宗へ送って許しを請うた。
玄宗はその髪を見て驚き、ただちに高力士へ命じて楊貴妃を呼び戻させたという。
こうした逸話からも、玄宗が楊貴妃へ強い執着を抱いていたことがうかがえる。

玄宗は毎年冬になると華清宮へ移り、温泉で過ごした。
楊貴妃も同行し、「蓮花湯」と呼ばれる温泉に入った。

白居易『長恨歌』の「春寒賜浴華清池 温泉水滑洗凝脂」という一節はあまりにも有名である。
華清宮では、音楽、舞踊、宴会、詩会が繰り返され、盛唐文化の華やかさが凝縮されていた。

音楽・舞踊・李白との逸話

楊貴妃は芸術面でも極めて高い評価を受けていた。
琵琶の腕前は宮廷随一とされ、王侯貴族や郡主たちが彼女を師として仰いだという。

『楊太真外伝』には、彼女が「涼州」という曲を自ら作曲したとする説話まで記されている。
彼女の用いた琵琶は蜀から献上された名器であり、絃には西域産の生糸が使われていたという。
さらに磬は藍田産の緑玉で作られ、豪華絢爛な装飾が施されていた。

沈香亭の宴では、玄宗が李白に楊貴妃を称える詩を作らせた。
それが有名な「清平調詞」である。
しかし詩の中で楊貴妃を趙飛燕になぞらえた部分について、
高力士が「侮辱だ」と吹き込み、楊貴妃は不快感を抱いたという。
そのため李白の出世が妨げられたという逸話が後世に伝わった。

もっとも、これらは後世の脚色を含む可能性も高い。

ライチと数々の逸話

楊貴妃を象徴する逸話として特に有名なのが、ライチ(茘枝)である。
楊貴妃はライチを好み、嶺南から長安まで早馬で運ばせたと伝えられる。
杜牧の「一騎紅塵妃子笑 無人知是茘枝来」という詩句は、この話を後世に決定的に印象付けた。
「皇帝が一人の美女のために国家規模の贅沢を尽くした」という象徴として定着している。
ただし、どれほど頻繁に運ばれていたのかについては議論があり、
後世の誇張も含まれているとみられる。

また、『楊太真外伝』などには、楊貴妃に関する様々な伝説が残されている。
白い鸚鵡に「雪衣女」という名を付け、『般若心経』を覚えさせた話、
鷹に襲われた鸚鵡を塚に葬った話、玄宗とともに双生の蜜柑を食べ、
その姿を絵に描かせた話などは有名である。

さらに玄宗と酒宴を開いた際には、玄宗側が宦官百余人、楊貴妃側が宮女百余人を率いて、
後宮で「戦争ごっこ」を行ったという。
これを「風流陣」と呼び、敗者は巨大な酒杯で酒を飲んだという逸話も残る。

『開元天宝遺事』には、楊貴妃は夏になると汗を多くかき、肌が赤く染まったという奇譚も見える。
また龍脳香を愛用し、その香りは遠くまで漂ったという。
こうした話は、後世の人々が楊貴妃を「香気漂う幻想的美女」として
思い描いていたことを示している。

安禄山と楊国忠

楊貴妃と安禄山の関係は、古来さまざまな憶測を呼んできた。
安禄山は節度使として強大な軍事力を持ち、玄宗に重用されていた人物である。

彼は楊貴妃の養子となり、巨大なおしめに包まれて宮中へ運ばれ、
「洗児」の真似事をしたという逸話まで伝わる。
また夜遅くまで宮中に出入りしていたため、両者の関係をめぐる醜聞も流れた。
ただし、これらは敵対勢力による中傷や後世の潤色も多く含まれていると考えられている。

一方、楊国忠は李林甫の死後に朝廷の実権を握り、専横政治を行った。
外征失敗による大量死、賄賂政治、政敵排除などにより、朝廷内外の不満は急速に高まっていく。
そして最大の対立相手となったのが安禄山であった。

安史の乱と馬嵬駅の悲劇

755年、安禄山はついに反乱を起こした。これが「安史の乱」である。
王朝は壊滅的打撃を受け、盛時代はここで終焉へ向かうこととなった。

玄宗は当初、親征を考えたが、最終的には蜀への逃亡を決断する。
楊貴妃、楊国忠、高力士、皇太子李亨らも同行した。

756年、一行は馬嵬駅へ到着する。
しかし禁軍兵士たちは、「乱の原因は楊国忠一族にある」と激怒し、楊国忠を殺害した。
さらに兵士たちは、「賊の本は楊貴妃だ」と主張し、彼女の処刑を要求する。
玄宗は「楊貴妃は深宮にいて、乱には関係ない」と庇ったが、兵士たちの怒りは収まらなかった。
高力士は、「ここで決断しなければ軍は収まらない」と進言し、ついに玄宗は楊貴妃へ死を命じる。

『楊太真外伝』によれば、楊貴妃は「最後に仏を拝ませてほしい」と願い、
その後、高力士によって縊死させられたという。享年は三十代後半であったとみられる。

これが有名な 「馬嵬坡の悲劇」である。
この場面は中国史の中でも最も哀切な逸話として語られ、
楊貴妃を「悲恋の美女」として永遠の存在にした。

死後、遺体は簡素に埋葬された。
後に玄宗は改葬を望んだが正式には許されず、密かに宦官へ命じて遺品を回収させたと伝わる。
残された香袋を見て玄宗は涙し、さらに画工に肖像を描かせて朝夕眺めていたという。

『長恨歌』と楊貴妃神話

楊貴妃を永遠の存在へ押し上げた最大の作品が、白居易『長恨歌』である。
806年頃、白居易は玄宗と楊貴妃の悲恋を長編詩として描き、
さらに陳鴻が『長恨歌伝』を書いて物語性を補強した。

作中では、死後も楊貴妃を忘れられない玄宗が道士に命じて魂を探させる。
道士は海上仙山で「太真」という仙女と出会うが、それこそが楊貴妃であった。
彼女は簪を半分に割り、「比翼の鳥、連理の枝となりたい」と誓った思いを伝える。
ここから「比翼連理」という成語が生まれた。

『長恨歌』は中国文学史屈指の名作として東アジア世界へ広まり、日本にも巨大な影響を与えた。
楊貴妃はここで単なる亡国の美女ではなく、「永遠の愛」を象徴する女性へ変貌したのである。

死後の評価と後世像

楊貴妃に対する評価は時代によって大きく異なっている。

杜甫は『北征』で彼女を褒姒妲己になぞらえ、亡国の美女として厳しく批判した。
一方、白居易『長恨歌』では、悲恋の主人公として美化されている。
代には『楊太真外伝』が成立し、多数の逸話が体系化された。
さらに代には洪昇『長生殿』が成立し、
「傾国の美女」と「永遠の恋人」という二面性を持つ楊貴妃像が完成される。

もっとも、現代研究では、楊貴妃自身が積極的に政治へ介入した証拠は乏しいとされる。
武則天のように直接政治権力を握ったわけではなく、土木工事や后妃迫害を行った記録も少ない。
そのため、実際には玄宗の政治放棄、楊国忠の失政、節度使制度の暴走など複数の構造問題の中で、
象徴的責任を負わされた面が大きいと考えられている。

日本を含む後世への影響

楊貴妃は中国のみならず、日本文化にも巨大な影響を与えた。
白居易『長恨歌』を題材にした能「楊貴妃」は金春禅竹の作として知られる。
また音楽作品には山田検校『長恨歌』、光崎検校『秋風の曲』などが存在する。
井上靖は『楊貴妃伝』を執筆し、さらに2004年には宝塚歌劇団星組によって舞台化された。

中国では小説・漢詩・雑劇・戯曲の定番題材となり、日本でも古典文学や川柳にしばしば登場した。
末の笑話集『笑府』には、楊貴妃と張飛が登場する奇妙な説話が収録されている。

野ざらしの骸骨を供養した男のもとへ、
「妃(フェイ)」と名乗る美女が現れ、自らを楊貴妃だと明かす。
羨ましがった隣人も骸骨を供養したところ、現れたのは「飛(フェイ)」を名乗る張飛だった、
という落ちである。
この話は日本へ伝わり、後に落語『野ざらし』へ翻案された。

山口県長門市油谷町の二尊院には「楊貴妃の墓」とされる五輪塔が存在し、
楊貴妃が阿倍仲麻呂とともに日本へ逃れたという伝説まで残っている。

さらに京都・泉涌寺の、観音菩薩坐像は楊貴妃をモデルに作られたという伝承があり、
楊貴妃観音とも呼ばれている。日本人の楊貴妃像形成に影響を与えてきた。

まとめ

楊貴妃は、中国史上もっとも有名な女性の一人である。
彼女は絶世の美女として語られる一方で、
音楽・舞踊・詩・文化を愛した盛文化の象徴でもあった。

そして安史の乱によって「傾国の美女」として非難されながらも、
『長恨歌』によって「永遠の愛」の象徴へと変貌した。

楊貴妃自身の実像は、史料不足や後世の潤色によって判然としない部分も多い。
しかし、それゆえに人々は彼女へ無数の幻想を重ね続けたのである。

盛唐の栄華、玄宗との愛、馬嵬駅の死、そして死後も続く「長恨」の物語は、
千年以上を経た現在でもなお東アジア文化の中で生き続けている。

史書・参考文献

『旧唐書』
『新唐書』
『資治通鑑』
白居易『長恨歌』
陳鴻『長恨歌伝』
『楊太真外伝』
『開元天宝遺事』
『酉陽雑俎』
『明皇雑録』
『唐国史補』
杜甫『北征』『哀江頭』
洪昇『長生殿』
井上靖『楊貴妃伝』
竹村則行『楊貴妃』関連研究

関連リンク

中国王朝の家系図まとめ|皇帝の系譜を一覧で解説 | 趣味の中国
中国史の美女一覧|時代別まとめ(四大美女・傾国・亡国・悲劇の美人) | 趣味の中国
中国史の皇后一覧|中国王朝を動かした有名な皇后たち | 趣味の中国
中国史の公主一覧|歴史に名を残した王女たちをわかりやすく紹介 | 趣味の中国
中国史の才女一覧|才や徳で有名な女性たちの生涯と特徴を解説 | 趣味の中国
中国史の女傑一覧|戦場・反乱で活躍した女性たちを時代別に紹介 | 趣味の中国
中国史の美男一覧|中国四大美男と歴史に残るイケメン人物 | 趣味の中国
中国の宦官とは?有名な宦官、王朝ごとの役職・階級、宦官による機関など | 趣味の中国