【後漢】呂強|霊帝に諫言を重ね、黄巾の乱のさなかに自害した宦官

後漢の宦官 呂強 037.宦官

呂強(りょきょう、生年不詳~184年)は、
後漢の霊帝に仕えた宦官である。字は漢盛、河南郡成皋県の人。

若くして小黄門となり、のちに中常侍へ昇進した。
『後漢書』は呂強を「清忠奉公」と評しており、
張譲・趙忠らが大きな権力と財産を得た霊帝期の宦官の中で、
皇帝へ繰り返し諫言した人物として記録している。

呂強の諫言は黄巾の乱の際に突然始まったものではない。
宦官への封侯、後宮の膨張、宮殿造営、外戚や宦官一族の奢侈、蔡邕への処分、
霊帝の私的な財産蓄積、官吏選抜制度の形骸化など、霊帝政治の問題を広く批判していた。

中平元年(184)に黄巾の乱が起こると、腐敗した側近を処罰し、党人を赦免し、
地方官を能力によって選別するよう進言したが、その後、趙忠・夏惲らの讒言を受けて自害した。

河南成皋の出身と中常侍への昇進

呂強は河南郡成皋県の出身で、字を漢盛という。
生年や家族、宦官となった事情については史料に記録がなく、
若くして宦官として小黄門となったことから、その経歴が始まる。

その後、二度の昇進を経て中常侍となった。
中常侍は皇帝の近くに仕える高位の宦官職であり、
霊帝期には曹節・王甫・張譲・趙忠らがこの地位を利用して大きな政治的影響力を持っていた。

しかし『後漢書』は呂強について、彼らと同じような蓄財や権力拡大を記していない。
人物評としてわざわざ「清忠奉公」、
すなわち清廉で忠義があり、公務に尽くした人物だったと記している。


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都郷侯への封爵を辞退する

霊帝の時代、有力な宦官を侯に封じることが行われ、呂強も都郷侯に封じられることになった。

ところが呂強は強く辞退した。
『後漢書』は、その辞退ぶりを「辞讓懇惻」と記し、
呂強がどうしても爵位を受けようとしなかったため、霊帝も最終的に認めたとしている。

呂強は単に自分だけ爵位を断ったのではなく、
そのまま霊帝へ上疏し、宦官を列侯に封じる政策そのものを批判した。

漢の高祖劉邦以来、諸侯の爵位は功績のある者へ与えることが原則であるのに、
曹節・王甫・張譲らの中常侍や侍中の許相が列侯となり、
その家族まで金印紫綬を帯びて地方の要職へ進出していると指摘した。

呂強は曹節らについて、皇帝に媚びて寵愛を求め、忠良な者を妬み、
朝廷の判断を曇らせて私党を形成していると厳しく非難している。

秦の趙高まで引き合いに出しており、
同じ宦官でありながら当時の有力宦官勢力を正面から批判したことになる。

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霊帝へ繰り返した諫言

呂強の最初の長い上疏は、宦官への封爵だけを問題にしたものではなかった。
霊帝の政治全体にわたって複数の問題を取り上げている。

数千人に膨れ上がった後宮を批判する

呂強はまず、後宮に数千人もの采女が抱えられ、
その衣食だけで毎日多額の費用が必要になっていることを問題にした。

穀物価格が安くても民の顔には飢えが見え、本来なら物価が高くなるはずの状況で穀物が安いのは、
度重なる徴発に応じるため民衆が穀物を売らざるを得ないからだと指摘している。

民衆が寒くても衣服を着られず、飢えても食べられない一方で、
後宮には不要な女性が多数集められている。

天下の民がどれほど耕作や養蚕に励んでも、
このような支出を支え続けることはできないというのが呂強の主張だった。

河間での館建設にも反対する

霊帝はもともと河間王家の出身で、即位前には解瀆亭侯だった。
そのため霊帝は、河間の旧地に解瀆の館を建設しようとしていた。
呂強はこれにも反対した。

すでに皇帝として天下の頂点に立った以上、かつての封地に執着する必要はなく、
遠方である河間に建物を造るため民力を疲弊させる利益もないと述べている。

霊帝自身の故郷に関わる事業であっても、呂強は民への負担を基準に不要と判断した。

外戚・宦官一族の豪邸と奢侈を批判する

呂強は外戚四姓の貴族や宦官一族の奢侈にも言及した。

彼らが功績もないまま豪壮な邸宅を建て、楼閣を連ね、彩色や彫刻を施し、
葬儀まで制度を越えて豪華にしていると批判している。

上に立つ者が倹約しないため、下の者も競って贅沢を真似する。
家畜に民衆が食べるべき食物を与え、建物に民衆が着るべき布を使うような状態だとして、
霊帝自身の姿勢も問題にした。

蔡邕を呼び戻すよう求める

呂強の上疏には、蔡邕に関する具体的な要求も含まれている。

蔡邕は霊帝から災異について意見を求められ、曹節・王甫ら宦官を含む政治の問題を率直に答えた。
しかしその内容が漏洩し、宦官側から攻撃を受け、罪に問われて朔方へ流された。

呂強は、皇帝自ら意見を求めておきながら、その率直な回答を秘密にせず、
忠臣をかえって罪に陥れたことを批判した。

蔡邕を見せしめにすれば、群臣は処罰や暗殺を恐れ、今後は誰も本当のことを言わなくなる。
そこで蔡邕を召還して再び任用し、同じく処罰された段熲の家族も帰還させるよう求めた。

段熲は西方異民族との戦いで功績を挙げた名将だったが、
陽球による王甫らへの追及に巻き込まれ、自殺していた。
呂強は、長年国家に功績を立てた人物の家族まで処分することが、
功臣や忠臣を失望させると考えていた。

『後漢書』は、この長い上疏について「帝、其の忠を知るも用うる能わず」と記している。
霊帝は呂強の忠義そのものは理解していたが、その提案を政治へ十分に反映させなかった。

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霊帝の私財蓄積と人事制度を批判する

呂強はその後も諫言を続けた。

霊帝は私的な財産を多く蓄え、天下から献上される珍品を宮中の蔵へ集めていた。
郡国から皇帝への献上品が運ばれる際には、
「導行費」と呼ばれる追加の財貨まで納めさせていたという。

呂強は、天下の財産は本来すべて皇帝の統治下にあるのに、
なぜ公と私を分け、さらに私財を積み上げる必要があるのかと批判した。

中尚方には諸郡の宝物、中御府には天下の絹、西園には大司農の財貨、中厩には太僕の馬を集め、
そのうえ献上のたびに追加負担を要求するため、地方では徴税が増え、
奸吏がそれを利用して利益を得て、最終的には民衆が負担を背負うと指摘している。

三公を無視した人事にも異議を唱える

呂強は官吏の選抜制度にも問題を見ていた。

従来は三公府が候補者の人物や能力を調査し、その結果を踏まえて任官し、
任用後の成果について責任を負う仕組みだった。

ところが霊帝期には尚書だけで人事を決めたり、
皇帝の命令によって直接任用したりすることが増えた。
これでは三公は選任の責任を負わず、尚書も結果について処分されず、
任用した人物が成功しても失敗しても責任の所在がなくなると呂強は批判した。

また、皇帝が率直な意見によって自分の過ちを指摘されることを嫌うなら、
それは鏡に映った自分の欠点を見たくないから
鏡そのものを責めるようなものだという趣旨で諫めている。

この上疏も霊帝には採用されなかった。

黄巾の乱と党人赦免

中平元年(184)、張角率いる黄巾の乱が各地で勃発した。

大規模な反乱を前にした霊帝は、呂強にどのような政策を取るべきか尋ねた。
呂強が答えた内容は三つに整理できる。

まず皇帝の側近にいる貪欲で腐敗した者を処刑すること。
次に党錮の禁によって禁錮されていた党人を大赦すること。
そして刺史や二千石級の地方長官について、その能力の有無を調べ、適任者を選び直すことだった。

単に黄巾軍を軍事的に討伐するのではなく、
反乱が拡大した背景にある朝廷側の腐敗と地方統治の問題を先に改めるべきだという提案だった。

霊帝はこのとき呂強の意見を受け入れた。

党人に対する赦免が行われ、流刑となっていた者も帰還を認められた。
ただし張角ら黄巾の指導者は赦免の対象ではなかった。

党錮の禁によって長く政治から排除されていた士人たちが復帰できるようになった背景には、
黄巾の乱という非常事態と呂強の進言があった。

張譲ら有力宦官にも動揺が広がる

この頃、張譲・趙忠・夏惲・郭勝・段珪・宋典らの有力宦官は侯に封じられ、
霊帝から大きな寵愛を受けていた。

さらに黄巾との内通が発覚した封諝・徐奉の事件によって、霊帝は有力宦官たちを叱責した。

霊帝は、これまで宦官たちが党人を反乱を企てる者として攻撃してきたのに、
実際には党人が国家のために働き、宦官側から張角と通じる者が出たではないかと責めた。

その結果、常侍たちは相次いで辞任を申し出、州郡にいた自分たちの親族や子弟を呼び戻した。

呂強が主張した改革が実施されれば、
有力宦官とその一族が築いていた権力や利権が直接影響を受ける状況になっていた。

趙忠・夏惲の讒言と呂強の死

中常侍の趙忠・夏惲らは、呂強を霊帝に告発した。

彼らは、呂強が党人と相談して朝廷をどうするか議論していること、
しばしば『霍光伝』を読んでいること、
呂強の兄弟も赴任先で貪欲な行為をしていることなどを訴えた。

霍光は前漢で昭帝を補佐した大臣であり、後には昌邑王劉賀を廃位した人物でもある。
その『伝』を繰り返し読んでいるという告発には、
呂強が皇帝の廃立を考えているのではないかという疑いを抱かせる意図があった。

霊帝は不快に思い、中黄門に武器を持たせて呂強を召し出させた。

「吾死なば、乱起こらん」

皇帝から召喚されたと知った呂強は、自分が取り調べを受ければ無事では済まないと判断した。

『後漢書』と『資治通鑑』は、このとき呂強が
「吾死なば、乱起こらん。丈夫、国家に忠を尽くさんと欲するに、豈に獄吏に対するを能くせんや」
という趣旨の言葉を残したと伝える。

国家へ忠義を尽くそうとしてきた自分が、獄吏の取り調べを受けることなどできないとして、
そのまま自殺した。中平元年(184)のことである。

呂強が自害すると、趙忠・夏惲らはなお攻撃を続けた。
まだ何を尋ねられるかも知らないうちに自殺したこと自体が、
後ろ暗い事情があった証拠だと霊帝へ訴えたのである。
その結果、呂強の一族は逮捕され、財産も没収された。

呂強本人だけでなく、宗族まで処罰されたことになる。

呂強の人物像

呂強について『後漢書』が残した記録で一貫しているのは、
同じ宦官勢力の利益よりも朝廷の制度と民衆への負担を重視した姿勢である。

都郷侯への封爵を辞退しただけでなく、曹節・王甫・張譲らへの封侯を批判し、
後宮の縮小、宮殿造営の抑制、外戚・宦官一族の奢侈の是正、蔡邕の復帰、
功臣の家族への処置の見直し、皇帝の私財蓄積の停止、人事制度の正常化まで要求している。

黄巾の乱に際しても、単に軍を増やすのではなく、
腐敗した側近を処罰し、党人を赦免し、地方官を選び直すことを優先した。

ただし、後世的な意味で「十常侍に対抗した改革派の指導者」とまで位置づける必要はない。
呂強が独自の政治集団を率いた記録はなく、
その活動の中心は皇帝に直接意見を述べる中常侍としての諫言だった。

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【後漢】十常侍|霊帝に仕えた宦官勢力と後漢末の政変
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呂強の死後

呂強が自害した後、その名誉が回復された、官爵を追贈された、
あるいは一族への処分が取り消されたという記録は『後漢書』には見えない。

一方、「宦者列伝」は呂強の記事に続いて、
丁粛・徐衍・郭耽・李巡・趙祐ら五人の宦官を「清忠」と評している。

彼らは権勢を争わず、李巡は五経の文字を石に刻んで標準化するよう上奏し、
趙祐は学問と校書で評価された。
さらに小黄門の呉伉も、公に尽くす人物として名声があったと記される。

そのため、後漢末の宦官をすべて張譲や趙忠のような権勢家として扱うことはできない。
呂強はその中でも特に詳しい伝記を与えられ、
霊帝へ政治・財政・人事・地方統治にわたる具体的な諫言を続けた人物として記録された。

まとめ

呂強の特徴は、黄巾の乱の際に一度だけ正論を述べたことではなく、
霊帝の治世を通じて繰り返し制度上の問題を指摘した点にある。

宦官への封侯を自ら辞退し、同僚宦官の権勢を批判するだけでなく、
後宮の維持費、宮殿造営、外戚・宦官一族の奢侈、忠臣への処罰、皇帝の私財、
人事制度にまで踏み込んだ。
黄巾の乱ではその延長として、党人の赦免と地方官の選別を求め、実際に党人赦免へつながっている。

最終的には趙忠・夏惲らの讒言によって追及され、自ら命を絶った。
『後漢書』が呂強を「清忠奉公」と評したのは、同じ宦官という立場にありながら、
そこから得られる爵位や私益よりも、皇帝への諫言を優先した生涯を記録したためと考えられる。

史書・参考文献

・『後漢書』巻78「宦者列伝(呂強伝)」
・『後漢書』巻8「霊帝紀」
・司馬光『資治通鑑』巻58

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