【秦】趙高とは何者か|胡亥を皇帝に立て、秦を揺るがした権臣の生涯

秦の宦官 趙高 037.宦官

趙高(ちょうこう)は、秦の始皇帝から二世皇帝・胡亥に仕え、
秦末の宮廷政治を支配した人物である。

始皇帝の死後、李斯・胡亥とともに皇位継承を操作して扶蘇を死に追いやり、
胡亥を二世皇帝として即位させた。
その後は蒙恬・蒙毅兄弟を排除し、皇族や旧臣の粛清を進め、
ついには共犯者だった李斯まで処刑して丞相となった。

「指鹿為馬」の故事でも知られるため、後世には真実を権力でねじ曲げる奸臣、
あるいは王朝を滅ぼした宦官の典型として語られることが多い。

しかし『史記』に残る趙高の経歴を見ると、
始皇帝の時代から反逆を企てていた人物として描かれているわけではない。
むしろ法律に通じた能力を認められて中車府令となり、
一度は死刑に相当する罪を犯しながら、始皇帝から能力を惜しまれて赦免された人物だった。

趙高が秦の皇位継承を動かし始めるのは、紀元前210年に始皇帝が巡幸先で死去してからである。

胡亥を皇帝にした趙高は、皇帝への接触と情報を独占することで権力を拡大し、
最後には自ら擁立した胡亥まで殺害した。
しかし、その直後に新たな秦王となった子嬰によって殺され、趙高の三族も処刑された。

出自――「諸趙の疏遠の属」

趙高の生年や出生地はわからない。
出自について最も詳しく記しているのは『史記』「蒙恬列伝」で、
趙高を「諸趙の疏遠の属」としている。

この一文から、後世には趙高を戦国時代の趙王室の遠縁とする説が広まった。
しかし「諸趙」が具体的に趙王家を指すのか、趙氏一族を広く指すのかは明確ではなく、
『史記』にも趙高を趙王室の子孫と断定する記述はない。

また、『史記』は趙高に兄弟が数人いたこと、その母が刑罰を受け、
一族が長く卑賤な身分に置かれていたことを記している。
「皆隠宮に生まる」という表現もあり、これが趙高の身分を考えるうえで大きな論点となっている。

後世には、「趙の王族の末裔だった趙高が秦への復讐を目的として内部から秦を滅ぼした」
という説も生まれた。

しかし趙高自身が趙への復讐を語った記録はなく、
秦を滅ぼすために仕官したことを示す史料も存在しない。
これは「諸趙の疏遠の属」という出自の記事と、
後に秦が急速に崩壊した事実を結びつけて生まれた解釈とみるべきだろう。

趙高は宦官だったのか

趙高は一般に「秦の宦官」と紹介される。しかし、実際には史料解釈上の問題がある。

『史記』「蒙恬列伝」本文は、趙高兄弟について「皆隠宮に生まる」と記す。
『史記集解』に引用された徐広はこれを「宦者となる」と解釈し、
『史記索隠』に引用された説では、趙高の父が宮刑を受け、妻子が官奴婢となったのち、
生まれた男子も宮刑に処されたという説明が加えられている。
こうした注釈が、後世の「宦官・趙高」という人物像の根拠となった。

一方、「隠宮」の意味自体には議論があり、
『史記』本文が趙高本人について明確に「宮刑を受けた」「去勢された」と記しているわけではない。

また趙高には「女婿」、すなわち娘婿として咸陽令・閻楽が登場する。
ただし、娘がいたことだけで趙高が去勢されていなかったと断定することもできない。

さらに、趙高が罪に問われた際の「除其宦籍」という表現も、
必ずしも「宦官名簿から除かれた」という意味ではなく、
官人としての籍を除かれたと読む余地がある。

したがって、趙高を宦官とする理解には古い伝統があるものの、
『史記』本文だけから去勢された人物だったと確定することには慎重であるべきである。

法律の知識によって始皇帝に抜擢される

趙高が秦王政、のちの始皇帝に登用された理由として、『史記』は家柄ではなく能力を挙げている。

秦王は趙高が「強力」で、さらに「獄法に通ず」、
すなわち刑獄や法律の実務に詳しいことを知り、中車府令に任命した。

中車府令は皇帝の車馬に関係する官職であり、趙高は宮廷内部で皇帝の近くに仕える立場を得た。

趙高はさらに公子・胡亥へ私的に仕え、「決獄」を教えたという。
決獄とは犯罪や訴訟を法に照らして裁断することであり、
趙高と胡亥の関係は単なる近侍と皇子の関係ではなく、
法律実務を教える師のような性格を持っていた。

後に趙高が秦の法制度を使って政敵を追い詰めていくことを考えると、
彼の出世の原点そのものが法律知識にあったことは重要である。

死刑判決を受け、始皇帝に救われる

始皇帝のもとで順調に出世した趙高だったが、
あるとき「大罪」を犯した。何をしたのかは『史記』にも記されていない。

始皇帝は蒙毅に命じ、法に従って趙高を裁かせた。
蒙毅は皇帝の側近だからといって手心を加えず、趙高を死刑に相当すると判断し、官籍から除いた。

ところが始皇帝は判決をそのまま執行しなかった。
趙高が仕事に熱心で有能であることを惜しみ、死刑を赦免したうえで官爵まで復旧させたのである。

この事件は、趙高の後半生を考えるうえで二つの意味を持つ。
一つは、死刑判決を覆してまで残したいと始皇帝に思わせるだけの実務能力を持っていたこと。
もう一つは、自分を死刑相当と判断した蒙毅に対する強い怨恨を趙高が抱いたことである。
『史記』は後の蒙氏粛清を記す際、この過去の因縁を明記している。

始皇帝最後の巡幸

始皇帝37年、紀元前210年、始皇帝は最後となる天下巡幸へ出発した。
会稽から海岸沿いを北上して琅邪へ向かう大規模な巡幸で、
丞相・李斯、公子・胡亥、中車府令・趙高らも同行した。

このとき趙高は中車府令であるとともに、符璽に関わる仕事を担当していた。
皇帝の命令を証明する印璽や文書に接することのできる立場だったことが、
まもなく起きる皇位継承操作を可能にする。

巡幸中、始皇帝は病に倒れた。
蒙毅は山川へ祈祷するため一行を離れており、そのまま皇帝の最期に立ち会うことはできなかった。

始皇帝は自らの死期が近いことを悟り、
北方で蒙恬とともに軍務に就いていた長子・扶蘇へ書を作らせた。
その内容は、軍を蒙恬へ任せ、咸陽へ戻って葬儀に参加するよう命じるものだった。

書には皇帝の璽が押されたが、使者へ渡される前に始皇帝は沙丘で死去した。

沙丘の政変――扶蘇への書を握りつぶす

始皇帝の死は直ちには公表されなかった。
皇帝が外地で死んだことによる政変を恐れた李斯らが死を秘し、巡幸を続けたためである。

このとき始皇帝の死を知っていたのは、李斯、胡亥、趙高と、ごく少数の側近だけだった。
そして扶蘇へ送られるはずだった璽書は、符璽を扱っていた趙高の手元に残っていた。

趙高はこれを利用して胡亥へ接近した。
扶蘇が咸陽へ帰れば皇帝となり、胡亥にはわずかな領地さえ残らないと説き、
皇位を奪うよう促した
のである。

胡亥は最初から賛成したわけではない。
兄を廃して弟が立つのは不義であり、父の命令に背くのは不孝であり、
自分には皇帝となるだけの能力もないとして拒んだ。

趙高はそれでも説得を続けた。

人を臣下とするのと、自分が人の臣下となるのではまったく違う。
人を支配するのと、人に支配されるのも同じではない。
湯王や武王の例まで持ち出し、大事を成す者は小さな節義に拘泥しないと論じた。

さらに、物事を決断せず後になって後悔する者は賢者ではなく、
決断して実行すれば鬼神さえ避けるという趣旨の言葉で胡亥を動かした。

ここには後年の趙高にも通じる権力観が表れている。
既存の秩序に従うかどうかより、権力を先に握ることそのものを重視する発想だった。

李斯を共謀者にする

胡亥を説得しただけでは皇位を奪えない。
始皇帝の側近であり、帝国行政の頂点にいた丞相・李斯を味方につける必要があった。

趙高は李斯のもとへ行き、
始皇帝が扶蘇へ送ろうとした書がまだ届けられていないことを明かしたうえで、
誰を太子とするかは「あなたと私の口にかかっている」と迫った。

李斯は当初、これを「亡国の言」だとして拒絶した。

趙高はそこで、理義ではなく李斯自身の利害を突いた。
扶蘇が皇帝になれば蒙恬が重用され、李斯は現在の地位を保てないかもしれない。
胡亥とは趙高の方が近く、政変を拒めば李斯自身の将来も危うくなるというのである。

李斯は最後まで苦悩したが、ついに泣きながら同意した。

こうして趙高・胡亥・李斯の三者による沙丘の政変が成立した。

偽詔によって扶蘇を死なせる

三人は始皇帝の命令を偽造し、胡亥を太子とすることにした。

さらに扶蘇と蒙恬には別の詔書が送られた。
扶蘇には父の命に背いて北方に長く留まり、
蒙恬とともに功績を挙げられなかったなどの罪を着せ、自殺を命じた。

偽詔を受け取った蒙恬は不審に思った。
皇帝の使者が突然来て皇子と将軍に死を命じるほど重大なことである以上、
もう一度確認すべきだと扶蘇を止めた。

しかし扶蘇は、父が子に死を命じた以上、どうして再確認する必要があるのかとして自殺した。
蒙恬は従わず、詔書の再確認を求めたため拘束された。

沙丘で皇位継承を操作した趙高の策によって、
本来は始皇帝から咸陽へ戻るよう命じられていた扶蘇が、
逆に父の命令を装った文書によって死ぬことになった。

蒙氏への復讐

扶蘇が死んだとの報告を受けた胡亥は、当初は蒙恬を釈放しようとした。
これを阻止したのが趙高だった。

趙高は、蒙氏が再び権力を握れば自分にとって危険になることを恐れていた。
とりわけ蒙毅は、かつて趙高を法律に従って死刑相当と判定した人物でもある。

趙高は胡亥に対し、始皇帝が胡亥を太子にしようとした際、蒙毅が反対したのだと讒言した。
優れた人物だと知りながら太子就任を妨げたのなら不忠であり、処刑するべきだというのである。

子嬰はこれに反対し、かつて趙・燕・斉の君主が忠臣を捨てて国を失った例を挙げ、
蒙氏のような重臣を軽々しく殺すべきではないと諫めた。

しかし胡亥は聞き入れなかった。
蒙毅は処刑され、続いて蒙恬にも死が命じられた。
蒙恬は長城建設や北方防衛で秦に大きな功績を立てたことを訴えたが、
使者は取り合わず、最終的に毒を飲んで自殺した。

趙高は沙丘の政変によって扶蘇を排除しただけでなく、
長く秦軍と宮廷を支えてきた蒙氏兄弟も取り除いた。

胡亥が二世皇帝となる

始皇帝の遺体を伴った巡幸団が咸陽へ戻り、胡亥は二世皇帝として即位した。

趙高は郎中令となり、皇帝に近い位置で政務へ関与するようになった。
始皇帝の時代には車府と法律実務を担う側近だったが、
二世即位後には政権そのものを動かす立場へ移っていく。

胡亥は即位すると趙高に、自分はすでに天下の主となったので、目や耳が楽しむものをすべて味わい、
心の望むままに生きながら長く天下を保つことはできないかと相談した。

趙高は、そうした生活を実現するにはまず反対勢力を消す必要があると答えた。

皇族と旧臣の粛清

趙高は胡亥に、沙丘で起きたことを皇族や大臣たちは疑っており、
先帝が任用した旧臣も新皇帝に心服していないと説いた。

そのうえで法をさらに厳しくし、罪を犯した者だけでなく連座によって一族まで処罰し、
先帝以来の大臣を排除し、皇族を遠ざけるよう勧めた。
代わって、これまで貧しかった者を富ませ、賤しかった者を高い地位につけ、
二世自身に忠実な人間へ官僚機構を入れ替えるという構想だった。

胡亥はこれを採用し、秦の皇族や大臣に対する大規模な粛清が始まった。

『史記』「秦始皇本紀」には、咸陽で公子十二人が処刑され、杜で公主十人が殺されるなど、
皇族が次々と犠牲になったことが記されている。
公子将閭兄弟も死を命じられ、無実を訴えながら自殺した。

公子高は逃亡も考えたが、自分が逃げれば一族まで皆殺しになると恐れ、
始皇帝に殉死して驪山へ葬ってほしいと自ら願い出た。
胡亥はこれを喜び、十万銭を与えて葬らせたという。

趙高は政治的な反対者だけでなく、
郎中令となってから私怨を晴らして殺した者も多かったと『史記』「李斯列伝」は記している。
秦の厳しい刑罰制度は、趙高にとって政敵と私敵の双方を排除する手段となった。

胡亥を大臣から隔離する

趙高が権力を拡大できた大きな理由の一つが、
皇帝と大臣の間に入り、両者を直接会わせなくしたことである。

趙高は胡亥に、天子が尊いのは臣下がその姿を簡単に見ることができないからだと説いた。
胡亥はまだ若く、政務にも十分通じていない。
もし朝廷で大臣の問いにうまく答えられなければ、
臣下に弱点を見せ、皇帝の威厳を損なうというのである。

そこで、朝廷へ頻繁に出るのをやめ、
宮中深くにいて趙高ら法に詳しい側近とともに政務を処理すればよいと勧めた。

胡亥はこれを受け入れた。
その結果、大臣が皇帝へ直接意見を伝える機会は減り、
皇帝が外部の状況を知るためには趙高を通さなければならなくなった。
『史記』が「事、皆趙高に決す」と表現する体制が形作られていった。

陳勝・呉広の乱

二世元年、紀元前209年、陳勝・呉広の反乱が始まった。

始皇帝以来の大規模な土木工事や徴発は二世の時代にも続き、阿房宮の建設も再開された。
重い負担と厳格な刑罰に苦しむ民衆の不満が噴き出し、
陳勝が楚を掲げて反乱を起こすと、各地で旧六国勢力が次々と復活した。

当初、秦朝廷は反乱を「盗賊」の活動として軽視したが、反乱軍は急速に広がった。

丞相・李斯にとっても、二世の政治をこのまま放置できない状況になった。
しかし皇帝は宮中に閉じこもり、大臣が自由に会える状態ではなかった。

趙高、李斯を陥れる

李斯が二世へ諫言したいと考えていることを知ると、
趙高は「陛下が暇な時を知らせよう」と申し出た。

しかし趙高が李斯を呼び出したのは、二世が後宮で女性たちとくつろいでいる時だった。

李斯が上奏に来ると、二世は遊びを中断されて不快になる。
李斯が帰れば、また同じような時を狙って趙高が呼び出す。
これを繰り返した結果、
二世は「自分が暇なときには来ず、楽しんでいるときばかり丞相が来る」と不満を抱くようになった。

趙高はそこで、李斯が皇帝を軽んじているという印象を強めていった。

さらに李斯の長男・李由が三川郡守を務めていたことも利用した。
三川方面は反乱軍の活動地域であり、
陳勝らが李斯の郷里に近い土地の出身だったことなどを材料として、
李由と反乱軍が通じているのではないかと二世に疑わせた。

李斯、趙高を告発する

追い詰められた李斯も反撃した。

李斯は二世へ上書し、
趙高を斉の田常や宋の子罕のように、主君の権力を奪った危険な臣下になぞらえた。
趙高はすでに皇帝と同じように賞罰を左右し、多くの者がその命令に従い、私財まで蓄えている。
このまま放置すれば必ず変事を起こすと警告した。

しかし胡亥は趙高を疑わなかった。

自分は若く、政治にも不慣れであり、李斯も老いている。
趙高は先帝以来、忠実で能力があるからこそ高い地位に昇ったのであり、
自分が最も頼りにできる臣下だと考えていた。

胡亥は李斯の告発内容を、そのまま趙高本人へ知らせた。

沙丘では趙高と李斯は胡亥を皇帝にするための共犯者だったが、
二世政権の内部で両者の関係は完全な権力闘争へ変わっていた。

李斯を逮捕し、拷問する

胡亥は李斯の取り調べを趙高に命じた。

告発された本人が告発者を裁くという状況になり、李斯とその一族は捕らえられた。
『史記』によれば、趙高は李斯を千余回も鞭打った。
李斯は拷問に耐えられず、ついに謀反を自白した。

それでも李斯は二世へ直接上書して無実を訴えようとした。
しかし趙高はその文書を皇帝へ届けず、「囚人が上書などできるものか」として握りつぶした。

胡亥を大臣から隔離した結果、趙高は裁判だけでなく、皇帝へ届く情報そのものを支配していた。

偽の取調官で李斯を欺く

趙高はさらに念を入れた。
自分の食客十数人を御史・謁者・侍中などの役人に変装させ、李斯のもとへ送り込んだのである。

偽の取調官がやって来るたび、李斯は自分は無実だと主張した。
すると再び激しい拷問が行われた。
この偽取調べを何度も繰り返すことで、
「無実を訴えればさらに苦しめられる」と李斯に覚え込ませた。

その後、胡亥が本物の使者を送って事実を確認させた。
ところが李斯は、その使者も趙高が送り込んだ偽物だと思い込み、これまでの自白を覆さなかった。

使者は「李斯は自ら罪を認めた」と皇帝へ報告した。

趙高は拷問だけで自白させたのではなく、
本物の再審さえ偽物と思わせるところまで李斯の判断を操作したのである。

李斯の処刑と趙高の権力掌握

二世2年、紀元前208年7月、李斯は処刑された。
五刑を加えられたうえで咸陽の市場へ引き出され、腰斬に処され、三族も誅殺された。

李斯は始皇帝の天下統一を支え、秦帝国の制度設計に深く関わった丞相だった。
そして沙丘では趙高とともに始皇帝の命令を改変し、胡亥を皇帝に立てた共犯者でもあった。

その李斯を排除したことで、趙高に対抗できる宮廷内の大物はほぼ姿を消した。

胡亥は趙高を「中丞相」に任じ、政務は大小を問わず趙高によって決められるようになった。
趙高の権力はここで頂点に達した。

巨鹿の敗北と章邯への圧力

しかし宮廷で趙高の権力が強まる一方、秦軍は各地で追い詰められていた。

紀元前207年、項羽が巨鹿の戦いで秦軍を破り、王離を捕虜とした。
章邯も反秦勢力との戦いで次第に苦境へ追い込まれていく。

章邯は長史・司馬欣を咸陽へ送り、朝廷の指示を求めた。

ところが趙高は司馬欣をなかなか面会させず、やがて使者そのものを疑い始めた。
危険を感じた司馬欣は逃亡して章邯のもとへ戻り、朝廷では趙高が権力を握っているため、
戦って勝っても讒言され、負ければ当然処刑されるとして、秦朝廷を見限るよう勧めた。

秦軍の将帥が「勝っても殺され、負けても殺される」と考えるようになったことは、
秦軍の統制に深刻な影響を与えた。章邯は最終的に項羽へ降伏することになる。

指鹿為馬――鹿を馬と言わせる

趙高を最も有名にした故事が「指鹿為馬」である。

李斯を排除して中丞相となった後、趙高は一頭の鹿を胡亥の前へ連れてきて、「馬です」と言った。
胡亥は驚き、「丞相は間違っている。鹿を馬と言っているではないか」と答えた。

『史記』「秦始皇本紀」によれば、趙高は左右の臣下へ本当に鹿なのか馬なのかを尋ねた。
臣下の中には黙る者もおり、趙高に迎合して「馬です」と答える者もいたが、
正直に「鹿です」と答える者もいた。
趙高は後になって、「鹿」と答えた者たちを法にかけて密かに処罰した。

『史記』が説明する趙高の目的は、単に胡亥をからかうことではない。
反乱を起こそうとしていたものの、群臣が自分に従うかどうかわからなかったため、
まず反応を試したというのである。

つまり指鹿為馬は、権力によって鹿を馬に変える奇妙な問答というより、
臣下を「趙高に従う者」と「事実を事実として答える者」に選別する政治的な試験だった。
後世には「明白な誤りを強権によって正しいと言わせる」という意味の故事成語となったが、
史料上では反対者を特定して粛清する行動まで含んでいる。

『李斯列伝』では全員が「馬」と答える

指鹿為馬には、『史記』内部でも異なる描写がある。

「李斯列伝」では、趙高が鹿を献じて馬だと言うと、
胡亥の周囲にいた者たちも全員が「馬です」と答えたことになっている。

自分だけが鹿に見えている状況に置かれた胡亥は、
「自分の頭がおかしくなったのではないか」と疑い始めた。

そこで太卜を呼び、占わせた。
太卜は、春秋の祭祀や宗廟への奉仕に際して斎戒が不十分だったため、
このようなことが起きたのだと答え、改めて斎戒するよう勧めた。

『秦始皇本紀』では「鹿」と答えた臣下を趙高が処罰する政治的粛清の話が中心であるのに対し、
「李斯列伝」では胡亥自身が自分の認識を疑うところまで趙高に追い込まれている。

上林苑での射殺事件

太卜の助言を受けた胡亥は、斎戒のため上林苑へ入った。
しかしそこで毎日のように狩猟を楽しみ、ある日、苑内へ入ってきた人物を自ら射殺した。

趙高はこの出来事も利用した。

娘婿である咸陽令・閻楽に命じ、何者かが上林苑で人を殺した事件として取り上げさせる。
そして胡亥には、天子が理由もなく無実の者を殺すことは天帝の禁忌に触れ、
鬼神も祭祀を受けず、天が災いを下すだろうと説いた。

災厄を避けるため、しばらく宮殿から遠ざかるべきだという趙高の勧めを胡亥は受け入れ、
望夷宮へ移った。

皇帝はますます政治の中枢から切り離されていった。

迫る反乱軍と情報隠蔽

そのころ、秦の外では状況が急速に悪化していた

項羽をはじめとする反秦軍が各地の秦軍を破り、劉邦も関中へ向かって進撃していた。
六国の旧王族や勢力も復活し、始皇帝が統一した帝国はわずか数年で分裂状態へ戻りつつあった。

しかし趙高は、関東の反乱について二世へ「大したことはない」と報告し続けていた。

やがて劉邦軍が武関へ迫るほどになると、もはや事態を隠し切れなくなった。
胡亥はこれまで反乱を軽視してきた趙高へ責任を問い始めた。

趙高は自分が処罰されることを恐れ、病気と称して朝廷へ出なくなった。

『史記』にはこの時期、劉邦側の使者と趙高が密かに接触したことをうかがわせる記事もある。
また後に子嬰は、趙高が楚と約束し、
秦の宗室を滅ぼして自ら関中の王になろうとしていると語っている。

ただし、これは子嬰側の認識として記されたもので、
趙高自身が「秦を滅ぼして関中王になる」と語った記録ではない。
その野心を確定した事実として扱うことはできない。

望夷宮の政変

胡亥から責任を追及され始めた趙高は、ついに自ら擁立した皇帝を排除することを決めた。
趙高は弟の趙成、娘婿の咸陽令・閻楽らと密議し、二世殺害の計画を立てた。

その際、趙高は閻楽の母を自邸へ置いたとも記されている。
娘婿の家族を事実上の人質としたものとも読め、
政変に参加する者さえ完全には信用していなかったことを思わせる。

さらに宮中の郎中令を内応させ、外から賊が侵入したように見せかける準備を整えた。

閻楽は千余人の兵を率いて望夷宮へ向かった。
宮門を守る衛令を捕らえ、「賊が侵入しているのになぜ防がない」と責めると、
衛令は周囲を厳重に警備している以上、賊が入るはずがないと反論した。

閻楽はその場で衛令を殺し、兵を宮中へ突入させた。
宮中では郎官や宦官らが抵抗し、数十人が殺された。

胡亥の命乞い

武装した兵が迫ると、胡亥は側近の宦官に向かって、
なぜもっと早く事態を知らせなかったのかと問い詰めた。

宦官は、事実を告げれば殺されるから黙っていたのであり、
黙っていたからこそ今まで生き延びられたのだと答えた。

胡亥自身が臣下から情報を遮断する政治を受け入れた結果、
危機が目の前に迫るまで真実を知らされない皇帝となっていた。

閻楽は胡亥の前へ進み、二世の罪を列挙して退位を迫った。

胡亥はまず趙高本人に会わせてほしいと求めたが、拒絶された。
そこで一郡の王にしてほしいと願ったが認められず、万戸侯でもよいと願ったが、これも拒絶された。最後には、妻子とともに普通の公子として庶民になりたいとまで命乞いした。

閻楽は、自分は丞相の命令を受けて天下のために二世を殺しに来たのであり、
何を言われても応じることはできないと告げた。

胡亥は自殺した。

趙高は自ら皇帝になろうとしたのか

二世を殺した後の趙高については、『史記』の記述に違いがある。

「秦始皇本紀」では、閻楽から二世殺害の報告を受けた趙高が大臣や公子を集め、
秦はもともと王国だったが、始皇帝が天下を統一したため帝号を称したにすぎないと説明する。
今や六国が再び自立し、秦の領土も縮小している以上、
実態を失った「帝」の号を使うべきではないとして、子嬰を秦王に立てた。

一方、「李斯列伝」には、趙高自身が皇帝の璽を取って身につけようとしたという記事がある。
しかし百官が従わず、宮殿へ上ろうとすると殿が三度崩れそうになったため、
天も自分を認めず、群臣も許さないと悟り、自ら帝位に就くことを断念したという。

この話を採用すれば、趙高は二世を殺して自ら皇帝になろうとしたことになる。
ただし「秦始皇本紀」には同じ描写がないため、
趙高が実際に帝位を狙った確実な証拠として断定するのは避けるべきである。

秦を帝国から王国へ戻す

二世の死後、趙高は秦の君主号を「皇帝」から「王」へ戻した。

始皇帝が紀元前221年に六国を滅ぼしたことで初めて「皇帝」の称号が作られたが、
わずか十数年後には六国が再び立ち、秦の支配範囲も急速に縮小していた。
趙高自身が、もはや「天下を統べる皇帝」という称号と現実が一致していないことを
認めたことになる。

後継者として立てられたのが子嬰だった。

ただし子嬰の系譜にも史料上の問題がある。
「秦始皇本紀」は「二世の兄の子」とする一方、別の系統では始皇帝の弟とする記事もあり、
秦王室内での正確な位置には異説がある。

子嬰は皇帝ではなく「秦王」として即位することになった。

子嬰、趙高を殺す計画を立てる

趙高によって秦王に擁立された子嬰は、従順な傀儡にはならなかった。

『史記』「秦始皇本紀」によれば、即位にあたって子嬰は五日間の斎戒を行い、
その後、宗廟に参拝して王璽を受けることになっていた。
しかし斎戒の間、子嬰は二人の子と趙高を殺す計画を立てた。

子嬰は、趙高が望夷宮で二世皇帝を殺したため、
群臣から報復されることを恐れ、自分を正義のために擁立したように装っていると考えた。
さらに、趙高が楚と通じ、秦の宗室を滅ぼしたうえで
自ら関中の王になろうとしているとの話を聞いたともいう。

そこで子嬰は、宗廟への参拝も自分を殺すための罠ではないかと疑った。
宗廟へ行かなければ、趙高は自ら迎えに来るはずであり、その機会に趙高を討とうと考えたのである。

子嬰は病気と称して宗廟へ行かなかった。
趙高は何度も使者を送って出席を求めたが、子嬰は応じなかった。

趙高の最期

趙高は何度も使者を送り、子嬰に宗廟へ出るよう催促した。しかし子嬰は応じなかった。

ついに趙高自身が斎宮へ出向き、
「宗廟は重大なことであるのに、王はなぜ来ないのか」と問いただした。

その機会を待っていた子嬰側が趙高を襲った。

「秦始皇本紀」では子嬰自身が趙高を刺殺したと記す。
一方、「李斯列伝」系統では、子嬰が宦者・韓談に命じて趙高を刺殺させたとされる。
実際に誰が刃を下したかについては史料間で違いがある。

趙高が死ぬと、その三族も誅殺され、咸陽で晒された。

始皇帝の側近から出発し、胡亥を皇帝に立て、蒙氏と李斯を滅ぼし、
二世を殺して秦の政治を掌握した趙高は、自ら選んだ後継者によって殺されることになった。

趙高死後の秦

趙高を殺した子嬰にも、秦を立て直す時間は残されていなかった。

子嬰が秦王となってわずか四十六日後、劉邦軍が関中へ進入した。
子嬰は首に組紐をかけ、白馬・白車の姿で皇帝の璽や符を捧げ、軹道のほとりで降伏した。

劉邦は咸陽へ入ったものの、秦の宮殿や府庫を封印して霸上へ軍を戻した。

その約一か月後、項羽を中心とする諸侯軍が咸陽へ到着する。
項羽は子嬰と秦の公子・宗族を殺し、咸陽を焼いた。
始皇帝が築いた秦帝国はここに完全に滅亡した。

趙高の死によって秦の政治を立て直せなかったのは、
趙高一人を除けば問題が解決する段階をすでに過ぎていたためでもある。

「指鹿為馬」が残した趙高像

趙高の名は秦滅亡後も、「指鹿為馬」とともに残った。

後世、この言葉は明らかな事実を意図的に逆転させ、
権力によって誤りを正しいものとして押し通す意味で使われるようになった。
鹿を指して馬だと言ったという視覚的にわかりやすい逸話は、趙高の人物像を象徴するものとなった。

しかし『史記』での意味はもう少し具体的である。

趙高自身は鹿と馬を見分けられなかったわけではなく、胡亥を騙すことだけが目的でもなかった。
群臣が自分に逆らうのか従うのかを確認し、正直に「鹿」と答えた者を後から処罰している。

指鹿為馬は、趙高の権力がどこまで及んでいるかを測る服従試験だったのである。

趙高は始皇帝の時代から秦を裏切っていたのか

後世の趙高像からは、
始皇帝のそばに潜みながら秦を内部から破壊する機会を狙っていた人物のように見えることがある。

しかし『史記』には、始皇帝在世中の趙高が秦を滅ぼそうとした記事はない。

むしろ始皇帝は趙高の法律知識と実務能力を評価して中車府令に抜擢し、
死刑判決を受けた際にもその能力を惜しんで赦免し、官爵を復旧させている。
趙高も始皇帝存命中には中車府令として仕え、最後の巡幸にも随行していた。

皇位継承を操作する明確な行動を開始したのは、始皇帝が沙丘で死去した後である。

趙高を「最初から秦滅亡を狙っていた復讐者」とするより、
始皇帝のもとでは能力を認められた官僚だった人物が、皇帝の死によって生じた権力の空白を利用し、
自らの権力を急速に拡大していったと見る方が『史記』の叙述に近い。

法律家としての趙高

趙高の経歴には「法」が繰り返し現れる。
最初に始皇帝から抜擢された理由は「獄法に通じる」ことだった。
胡亥には「決獄」を教え、自らも秦の司法実務を熟知していた。

ところが二世の時代になると、その知識は政敵排除のために使われるようになる。
皇族や大臣を厳罰と連座で排除し、李斯を自ら取り調べ、拷問によって自白させ、上書を遮断した。
指鹿為馬でも、自分に逆らった臣下を後になって「法」を使って処罰している。

趙高は秦の法律を無視して権力を握った人物ではない。
むしろ法律制度を熟知していたからこそ、それを政治的な武器として利用することができた。

一方で、自分が蒙毅によって法に従って死刑相当とされた際には始皇帝の恩赦によって救われている。法によって出世し、法によって死刑寸前まで追い詰められ、
最後には法を利用して他人を排除したという点は、趙高の経歴の大きな特徴となっている。

趙高と胡亥

趙高と胡亥の関係は、趙高の生涯を通じて大きく変化した。

始皇帝の時代、趙高は胡亥に決獄を教える側だった。
沙丘では胡亥を説得して皇位を奪わせ、その即位を実現した。
二世政権では皇帝の最側近として旧臣や皇族を排除し、胡亥を大臣から隔離することで、
自らが政務を決する立場へ進んだ。

しかし趙高の立場は、胡亥の信任によって成り立つものであると同時に、
胡亥を外部から切り離すことで維持されていた。

反乱軍が関中へ迫り、胡亥が趙高の責任を追及し始めると、その関係は一転する。
趙高は皇帝に説明して信任を取り戻そうとはせず、閻楽らに命じて胡亥そのものを殺した。

師に近い存在から皇帝擁立者となり、側近から事実上の政権掌握者となり、
最後には殺害者となったのである。

趙高の人物評・評価

『史記』には「趙高列伝」は存在しない。
趙高の生涯は「秦始皇本紀」「李斯列伝」「蒙恬列伝」など、
彼によって運命を変えられた人物たちの記事の中に分散している。

そこから確認できる趙高の出発点は、後世の「奸臣」「悪宦官」という定型像とは少し異なる。
低い身分の家系に生まれながら、法律に通じた能力によって秦王から抜擢され、
死刑に相当する罪を犯しても始皇帝から赦免されるだけの実務能力を持った人物だった。

その能力が政治権力へ転化する契機となったのが始皇帝の死だった。

趙高は扶蘇へ送られるはずだった璽書を握る立場にあり、
胡亥との個人的な関係を持ち、李斯の弱点を突いて共謀者に引き入れた。
胡亥即位後は皇族と旧臣を排除し、皇帝を大臣から隔離して情報経路を握り、
かつての共犯者・李斯さえ裁判と拷問によって葬った。

その権力掌握は、単純な暴力だけによるものではない。
皇帝への接触、詔書、司法、情報、人事という国家機構の要所を押さえ、
相手が自分の判断で行動しているように見せながら選択肢を狭めていく方法を繰り返している。

胡亥を皇帝にする際には李斯の地位への不安を突き、李斯を倒す際には皇帝との接触を操作し、
裁判では偽の取調官まで使った。
指鹿為馬では群臣を直接殺す前に、誰が従い誰が逆らうかを確認している。

一方、趙高を秦滅亡の唯一の原因とするのも適切ではない。

始皇帝の時代から重い徴税と徭役、大規模な土木事業、厳格な刑罰制度が存在し、
二世自身も享楽を望んで粛清策を受け入れた。
陳勝・呉広の反乱を契機として旧六国勢力が復活し、項羽や劉邦という軍事勢力も台頭していた。

それでも趙高が危機を深刻化させたことは否定できない。
正統な皇位継承を操作して扶蘇を死なせ、蒙恬・蒙毅を排除し、
皇族と旧臣を大量に粛清し、李斯を殺害した。
さらに反乱の実情を胡亥から遠ざけ、前線の章邯らにも朝廷への不信を抱かせ、
最後には皇帝自身を殺害した。

趙高が権力の頂点に達したころ、彼の立場を支えていた秦帝国そのものは崩壊していた。

そして二世を殺してから間もなく、自ら選んだ子嬰の罠にかかって殺された。
秦もその四十六日後には劉邦へ降伏している。

後世に趙高が「王朝を滅ぼす奸臣」の典型とされたのは、単に残虐だったからではない。
皇帝への近さと法律知識によって国家の権力機構を自らへ集中させながら、
その過程で皇族・重臣・将軍・皇帝を次々と排除し、
最後にはその国家自体が維持できなくなったという生涯が、
秦の急速な崩壊とあまりにも重なっていたためだった。

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史書・参考文献

・『史記』巻6「秦始皇本紀」
・『史記』巻48「陳涉世家」
・『史記』巻7「項羽本紀」
・『史記』巻8「高祖本紀」
・『史記』巻87「李斯列伝」
・『史記』巻88「蒙恬列伝」
・『史記』三家注(『集解』『索隠』『正義』)

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