高長恭(541-573)は、
北斉の皇族であり、美貌と武勇を兼ね備えた伝説的武将。
560年に蘭陵王に封じられ、以後「蘭陵王」として知られる。
「蘭陵王入陣曲」で後世に名を残し、日本の雅楽にも伝わるほど文化的影響が大きい。
美貌・勇猛・人格・芸術性を兼ね備えた稀有な人物である。
出自と家系|政治的には微妙な立場
北斉は実質的には、高歓(こう・かん)の軍閥から始まる。
高歓の長男 高澄を父に持つ。
(高澄には多くの妻がいたが、高長恭の母は兄弟の中で唯一姓名が不詳)
549年に東魏の重臣である父・高澄が暗殺されると、
同母弟の高洋(長恭の叔父)がその仇を討ち、北斉を建国し、皇帝となった。
つまり、高長恭は高氏の嫡流にありながら、北斉においては傍流の皇族となった。
邙山の戦い(ぼうざんのたたかい)
高長恭最大の武名を確立したのが、564年の邙山の戦いである。
・北周の大軍10万が洛陽を包囲。
・高長恭は、段韶・斛律光とともに救援に向かう。
・退却戦で敵を疲弊させ、反撃して大勝。
10万の敵軍にわずか500騎で突撃したという伝承もある。
史実としては誇張の可能性が高いが、勇猛さを象徴する逸話として語り継がれている。
金墉城救出戦の英雄譚:「蘭陵王入陣曲」誕生のきっかけ
・金墉城に突入した際、守備兵が敵味方を判別できず弩を構える
・高長恭は兜と仮面を脱ぎ、素顔を晒して味方であることを示す
・城門が開き、北周軍を撃退
・北斉軍の兵士たちは「蘭陵王入陣曲」という歌謡を作り、彼の勇猛を称えた
「蘭陵王入陣曲」は唐代には舞楽として発展し、
日本へ伝わり、宮廷雅楽の代表曲「蘭陵王」になった。
現代でも演奏され、蘭陵王の象徴的存在となっている。
軍事的功績
高長恭は、その他にも実際に戦場で成果を出している。
・北周との戦いで柏谷城・定陽城などを攻略
・段韶の病床からの計略を受け、伏兵戦術で勝利
・并州で突厥を撃退
兵を思いやる将
・将軍であっても細事は自分で処理した
・果物を贈られれば必ず、わずかでも将卒に分け与えた
・罪を犯した部下が長恭の怒りに怯えていると、小罰を与えて安心させた
・従僕が迎えに来なくても叱責しない
・軍功を称えて武成帝から20人の美女を賜ったとき、1人だけ選んで辞退した
など、配下の将兵をいたわる謙虚な人物でもあったため、
人望が厚く、将兵からの信頼が絶大だった。
容姿|美貌と仮面伝説
史書は彼の容姿について、以下のように明記している。
「音容兼美」・・美しい声と優れた美貌
「容貌柔美」・・女性のように美しい顔立ち
兵達が見惚れて士気が上がらず、敵に侮られるのを避けるため、
木製の仮面をつけて戦ったという伝説がある。
唐代に成立した後世の創作要素が強いが、文化的には定着し、
日本の雅楽「蘭陵王」の仮面はこの伝承に由来している。
多才な文化人
美貌・勇猛・人格だけでなく、芸術性をも兼ね備えていた。
・投壺(的当て遊戯)を好む
・工芸にも優れ、自作の傀儡(人形)は杯を掲げて挨拶できたという逸話
悲劇的な最期
後主高緯から「敵陣深く侵入したが、敗北を恐れなかったか?」と聞かれ、
「家の一大事だったので恐れませんでした」と答えたことがあった。
後主は皇帝を差し置いて国家を「家事」として語ったことや、
長恭の威名と武勲の大きさを恐れ、次第に疎んじるようになる。
逃れられない運命
長恭自身もその気配に気づき
・評判を落とすために戦利品を貪る演技をしたが逆効果
・病を理由に引退しようとするも許されず
・573年、ついに毒を賜った
長恭は「私は忠義を以って事にあたったが、一体何の罪で天は毒を賜わすのか」
と嘆き、妻・鄭氏が涙ながらに止めるも、「今さら訴えても聞き入れられまい」
と従容として死に臨む。享年33。
死後の影響
『北斉書』は「蘭陵王が生きていれば結果は違った」と記す。
彼の死は北斉滅亡の一因とされる。
墓碑と子孫
・1894年、河北省で「蘭陵忠武王碑」が発掘。
・弟・高延宗が兄を悼む詩が刻まれている。
・1999年、龍門石窟の造像銘に孫・高元簡の名が確認され、
高長恭の血統が唐代まで続いたことが判明。
まとめ
高長恭(蘭陵王)は北斉の皇族武将であり、
美貌を隠すため仮面をつけて戦った逸話で知られる。
邙山の戦いなどで活躍し、兵士から絶大な支持を得たが、
その人気ゆえに皇帝の猜疑を招き、最終的には毒殺された。
武勇・人格・悲劇性を兼ね備えた中国史屈指の英雄である。
史書・参考文献
・『北斉書』巻十一「蘭陵王伝」
・『北史』巻五十二
・『資治通鑑』北斉紀
・『隋書』音楽志(蘭陵王入陣曲)

