高長恭|仮面の美将「蘭陵王」と呼ばれた北斉最強の皇族武将

北斉の将軍・高長恭(蘭陵王) 033.武将

高長恭(こう ちょうきょう、541年-573年)は、
中国南北朝時代の北斉で活躍した皇族・名将であり、
蘭陵王の名で広く知られる人物である。

祖父は北斉の基礎を築いた高歓、父は東魏の実力者であった高澄で、
高氏宗室の有力者として北周や突厥との戦いに従軍した。
とりわけ邙山の戦いでの活躍は後世まで語り継がれ、
『蘭陵王入陣曲』や仮面伝説の成立にもつながっている。

また「音容兼美」と評される美貌の持ち主としても知られ、
中国史上でも屈指の人気を誇る武将の一人である。

しかし、その名声と武功はやがて皇帝の猜疑を招き、
北斉末期の政争の中で悲劇的な最期を迎えることになった。

本記事では『北斉書』『北史』『資治通鑑』などをもとに、
高長恭の生涯や戦功、数々の逸話、後世に形成された伝説について詳しく解説する。

高長恭の出自と北斉皇族としての立場

高長恭は541年、東魏の実力者であった高澄の三男として生まれた。
本貫は渤海郡蓨県で、現在の河北省衡水市景県にあたる。

祖父の高歓は東魏政権の実質的な創設者であり、父の高澄もその後継者として朝政を主導していた。
しかし549年、高澄は鄴城の邸宅で蘭京らに暗殺される。このとき高長恭は数え年9歳であった。

高澄の死後、その地位を継承した弟の高洋は550年に東魏の孝静帝から禅譲を受けて北斉を建国する。
これにより高長恭は北斉皇族となったが、皇位を継承したのは叔父の高洋であったため、
高長恭は高氏嫡流の出身でありながら、北斉では傍流の宗室として遇される立場となった。

高長恭の母は兄弟の中で唯一記録がなく、姓名も伝わっていない。
兄には河南王高孝瑜、広寧王高孝珩、弟には河間王高孝琬、安徳王高延宗らがおり、
高長恭は北斉宗室の中でも有力な家系の一員として成長していった。

北斉高氏家系図

官界への登場と蘭陵王への封爵

557年、数え年17歳の高長恭は散騎侍郎に任じられた。

翌558年には楽城県開国公に封じられ、食邑八百戸を与えられる。
さらに儀同三司の栄誉を受け、領左右大将軍にも任命された。

560年3月には蘭陵王に封じられる。
蘭陵郡は現在の山東省臨沂市周辺に位置し、
高長恭は以後「蘭陵王」の名で広く知られるようになった。

同年にはさらに食邑一千五百戸を加増され、中領軍へ昇進している。

562年には使持節・都督并州諸軍事・并州刺史に任命された。
并州は晋陽を擁する北斉屈指の軍事拠点であり、西には北周、北には突厥が控える最前線でもあった。

并州での活躍と対突厥戦

562年、高長恭は使持節・都督并州諸軍事・并州刺史に任じられた。
并州は北に突厥、西に北周を控える北斉屈指の軍事拠点であり、
その中心都市である晋陽は副都として重要な地位を占めていた。

史書によれば、高長恭は在任中に突厥軍が晋陽へ侵入した際、
自ら迎撃してこれを撃退したという。

戦闘の詳細は伝わっていないものの、
この頃から高長恭は北斉を代表する宗室将軍の一人として重用されるようになり、
563年には鉅鹿郡開国公に別封され、食邑一千戸を加増されたうえ領軍将軍へ昇進した。

北斉を支えた名将たち

高長恭が活躍した時代の北斉には、多くの名将が存在した。
なかでも段韶斛律光北斉軍を代表する将軍として知られる。

段韶高歓以来の宿将として長年にわたり北斉を支えた人物であり、
斛律光は「落雕都督」の異名を持つ名将であった。
北周では「斛律光が生きている限り北斉は滅ぼせない」と恐れられたほどである。

高長恭はこうした名将たちとともに北斉軍の主力として活躍し、
後には彼らと並び称される存在となった。

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北周との対立と洛陽危機

564年、北周の実権を握る宇文護は、母の閻氏が北斉にいることを知ると、
その返還と引き換えに和睦を提案した。

北斉では段韶が強く反対したが、武成帝高湛はこれを聞き入れ、閻氏を北周へ送り返している。
しかし宇文護は約束を破り、
同年11月、宇文憲・尉遅迥・達奚武らに十万の兵を与えて洛陽を包囲させた。

洛陽は北斉西部防衛の要であり、
ここを失えば北周軍は黄河東岸へ大規模侵攻する足掛かりを得ることになる。
事態を重く見た北斉朝廷は、ただちに高長恭と斛律光へ救援を命じた。

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邙山の戦いと高長恭最大の武勲

高長恭と斛律光が前線へ到着した時、
北周軍は邙山に陣を構え、北斉軍は山麓で足止めされていた。

そこへ段韶が晋陽から千騎の精鋭を率いて到着し、
自ら左軍、高長恭を中軍、斛律光を右軍に配置して北周軍と対峙
する。

戦いに先立ち段韶宇文護の不義を非難すると、北周軍は山を下って攻撃を開始した。
北斉軍は退却しながら敵軍の疲弊を待ち、機を見て反撃に転じたため、北周軍は大きく崩れた。

さらに高長恭は五百騎を率いて敵中を突破し、包囲下にあった金墉城へ向かう
城内の守備兵は近づく騎兵隊が味方か敵か判別できず開門をためらったが、
高長恭が兜を脱いで姿を見せると、
蘭陵王本人であることを知った守備兵たちは歓声を上げて門を開いたという。

この救援によって金墉城は持ちこたえ、北斉軍は洛陽を守り抜くことに成功した。
邙山の戦いは高長恭の生涯で最大の武勲として知られる。

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『蘭陵王入陣曲』と仮面伝説の誕生

邙山の戦いでの活躍によって、高長恭の名声は大きく高まった。
とりわけ五百騎を率いて敵中を突破し、包囲下の金墉城へ入城した逸話は広く知られるようになり、
北斉の兵士たちはその武勇を称えて『蘭陵王入陣曲』を作ったと伝えられている。
この曲は北斉滅亡後も語り継がれ、高長恭を象徴する物語の一つとなった。

もっとも、現在広く知られている
美貌を隠すため仮面を着けて戦った蘭陵王」という話は正史には見えない。
『北斉書』や『北史』に記されているのは、金墉城の守備兵に味方であることを示すため、
高長恭が兜を脱いで顔を見せたという逸話である。

仮面を着けて戦ったという伝説が現れるのは代の『教坊記』である。
同書には、高長恭が婦人のような容貌であったため敵を威圧するには不足と考え、
木製の仮面を作って戦場で着用したと記されている。

しかし、この記録は高長恭の死後かなり時代が下って成立したものであり、正史による裏付けはない。そのため、仮面を着けた蘭陵王の姿は後世に形成された伝説と考えられている。

それでもこの伝説は広く流布し、『蘭陵王入陣曲』とともに後世の芸能へ大きな影響を与えた。
武則天の時代には、孫の岐王 李範が宮廷の宴席で『蘭陵王』を舞ったことが記録されており、
その人気の高さをうかがうことができる。

邙山戦勝後の栄達

邙山の戦いでの功績により、高長恭はさらに重用されるようになった。
564年12月には開府儀同三司に任じられ、尚書令を兼ねている。
開府儀同三司は三公に準ずる待遇を受ける高位の官職であり、
高長恭が朝廷から高く評価されていたことを示している。

その後も司州牧、青州刺史、瀛州刺史などを歴任し、
567年には使持節・都督青州諸軍事・青州刺史に任じられた。

邙山の戦い以後、高長恭は北斉を代表する宗室将軍として
軍事・行政の両面で重責を担うようになったのである。

北周との戦いで武功を重ねる

570年7月、高長恭は録尚書事に任じられ、翌571年2月には太尉へ昇進した。
同月、北周軍が侵攻したため、高長恭は段韶斛律光とともに迎撃を命じられる。

柏谷城攻略

571年3月末、高長恭は段韶斛律光とともに西部国境へ到着した。

その地にあった柏谷城は険しい地形を利用した堅固な城であり、諸将は攻略をためらったという。
しかし段韶
「柏谷城を放置すれば国家の害となる。城は高くとも内部は狭く、火攻めによって攻略できる」
と主張し、攻撃を断行した。

北斉軍は柏谷城を陥落させることに成功し、その地に華谷城を築いて防衛体制を強化している。

定陽城攻略

571年6月、高長恭は段韶とともに定陽城攻略に向かった。
しかし攻囲中に段韶が病に倒れたため、高長恭がその軍勢を引き継ぐこととなる。

段韶は病床から作戦を授け、高長恭は城の南東部を意図的に手薄に見せかける一方、
その周辺に千人余りの精鋭を伏兵として配置した。
夜になると城兵は好機と見て出撃したが、待ち構えていた伏兵の攻撃を受けて敗れ、
定陽城は陥落する。城主の楊範も捕らえられ、北斉軍は大きな戦果を挙げた。

石殿城攻防と戦功の拡大

定陽城攻略後も北周との戦いは続いた。

宇文憲は汾州方面を支援するため譚公会に石殿城を築かせたため、高長恭は段韶とともに出陣した。
北斉軍は北周の大将軍韓歡を退却させたものの、宇文憲自らが督戦したため戦況は膠着し、
日没とともに双方が軍を退いている。

この戦いに決着はつかなかったが、
高長恭は571年の一連の軍事行動を通じて北斉軍の主力将軍として活躍し、
鉅鹿・長楽・楽平・高陽などの郡公号を別封された。

皇帝高緯との関係悪化

邙山の戦いの後、高緯は高長恭に対し、
「敵陣深くまで突入したが、敗北を恐れなかったのか」と尋ねた。

これに対して高長恭は
「家事親切、不覚遂然(家の大事でしたので、恐れを感じる暇もありませんでした)」
と答えたという。

しかし高緯はこの発言を快く思わなかったとされる。
さらに高長恭は軍功と名声によって宗室の中でも際立った存在となっており、
皇帝の警戒を受けるようになった。

北斉では有力な宗室や功臣が猜疑の対象となることも少なくなく、
高長恭もまたその例外ではなかった。

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自ら評判を落とそうとした蘭陵王

高長恭は皇帝の猜疑を恐れ、
定陽遠征の頃には意図的に財貨を集める姿を見せて評判を落とそうとしたという。
しかし属将の尉相願はこれを見て、「そのような行動はかえって災いを招くでしょう」と諫めた。
高長恭が涙を流しながら「ではどうすればよいのか」と尋ねると、
尉相願は「病を理由に官職を辞し、邸宅へ引きこもる以外に方法はありません」と答えたという。

高長恭もその意見には納得したが、国家の重臣である以上、簡単に引退することはできなかった。
その後、実際に腫瘍を患って帰宅した際には、
南方でが侵攻したとの報を受けても再び起用されることを恐れ、
治療を受けようとしなかったと伝えられている。

斛律光粛清と高長恭への暗雲

572年、北斉の命運を左右する事件が起きた。
北斉軍を支えてきた名将斛律光が、後主高緯の命によって謀反の罪を着せられ処刑されたのである。
その背景には祖珽や穆提婆らによる讒言があったとされる。

斛律光北周から最も恐れられた将軍の一人であり、
「百升の黄金を得るより斛律光一人を除く方が価値がある」とまで言われていた。

こうして北斉軍の柱石が失われると、翌月には高長恭が大司馬に任じられ、
573年4月には太保へ昇進した。

しかし当時の朝廷では有力な宗室や功臣に対する猜疑が強まっており、
斛律光の失脚は高長恭にとっても決して他人事ではなかった。

毒酒を賜る

573年5月、後主高緯は徐之範を遣わし、高長恭に毒薬を賜った。

高長恭はこれを前にして
「私は忠義を尽くして国に仕えてきたが、いったい何の罪があって鴆毒を賜るのか」と嘆いたという。

王妃の鄭氏は涙ながらに「今からでも陛下へ申し開きをなされてはどうでしょうか」と訴えたが、
高長恭は「今更どのような訴えが聞き入れられよう」と答え、
手元にあった債券や証文を焼き払わせた。

その後は取り乱すことなく毒を仰ぎ、573年5月に死去した。享年33。

死後の追贈と諡号

高長恭の死後、朝廷は仮黄鉞・使持節・都督并青瀛肆定五州諸軍事・太師・太尉公・并州刺史
を追贈した。諡号は「武」であり、後に蘭陵武王と称された。

574年6月16日、高長恭は鄴城の西北十五里の地に葬られている。

鄭氏と高延宗の逸話

高長恭の死後、王妃の鄭氏は葬儀費用を工面するため、
自らの首飾りを高孝珩へ売却しようとしたという。

しかしこの話を知った弟の高延宗は涙ながらの手紙を送り、
そのような形で兄の葬儀を営むべきではないと諫めたと伝えられている。

この逸話は『北史』に収録されており、高長恭の死が一族に与えた衝撃の大きさをうかがわせる。

北斉滅亡との関係

高長恭の死は、北斉にとって大きな損失であった。
斛律光の処刑に続いて高長恭も失われたことで、
北斉を代表する名将たちは相次いで姿を消したのである。

当時の北斉では鮮卑系武人を中心とする勲貴、漢人官僚、
そして皇帝側近である恩倖の対立が続いており、国家の求心力は低下していた。
後主高緯は穆提婆や韓長鸞らを重用し、
一方の北周では武帝宇文邕が着実に国力を強化していた。

576年、北周軍は大規模な侵攻を開始し、北斉軍は各地で敗北を重ねる。
翌577年には首都鄴が陥落し、建国から27年で北斉は滅亡した。

『北斉書』は高長恭について、
「たとえ斛律光が死を賜り、覆敗の兆しが現れていたとしても、
 蘭陵王に全権を委ねていれば結果は分からなかった」と評している。

これは高長恭の軍事的才能を高く評価した記述として知られている。

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美貌の名将として知られた蘭陵王

高長恭は中国史上でも屈指の美男子として知られる。
『北斉書』には「音容兼美」と記されており、声も容貌も美しかったと伝えられている。
また『北史』は高長恭について「貌柔心壮」と評しており、
柔和で美しい容貌とは対照的に、内面には並外れた勇気と胆力を備えていたことを伝えている。
後世の史書や伝承でも高長恭は「容貌柔美」であったと語られ、
蘭陵王伝説の形成に大きな影響を与えた。

高長恭の美貌は当時から有名であったらしく、後世にはさまざまな伝説が生まれた。
その代表が「仮面伝説」である。
代の『教坊記』には、高長恭は婦人のような容貌であったため、
そのままでは敵を威圧できないことを憂い、木製の仮面を作って戦場で着用したと記されている。
さらに後世には、その美貌に兵士たちが見惚れて士気が乱れたり、
敵に侮られたりすることを避けるため仮面を着けたという話も語られるようになった。

もっとも、こうした記録は高長恭の死後かなり時代が下ってから現れるものであり、
正史には見えない。
『北斉書』や『北史』が伝えるのは、邙山の戦いで金墉城へ突入した際、
味方に自分だと知らせるため兜を脱いで顔を見せたという逸話である。

しかし、その逸話が後世に語り継がれる過程で、
美貌の英雄というイメージと結びつき、仮面を着けた蘭陵王という伝説へ発展していったのであろう。

将兵に慕われた人格者

高長恭は武勇や美貌だけでなく、その人柄でも高く評価されていた

将軍でありながら細かな事務も自ら処理し、
果物などを贈られた際には必ず将兵たちへ分け与えたという。

また、過去に窃盗で免官されたことのある部下が処罰を恐れていると知ると、
あえて軽い罰を与えて安心させた逸話も伝わる。

さらに朝廷から帰宅した際、従者たちが迎えに来ていなかったことがあったが、
それを咎めることなく一人で帰宅したという。

軍功を賞した武成帝から二十人の美女を与えられた際にも、
一人だけを選んで残りを辞退している。

こうした逸話からは、高長恭が権勢を誇るのではなく、
周囲への配慮を忘れない人物であったことがうかがえる。

文人を重んじた王

北斉の諸王は家臣を選ぶ際、商人や佞臣、
あるいは容姿の良い少年などを側近とすることが少なくなかった。

しかし高長恭は兄の高孝珩や河間王高淯とともに、
学識や見識に優れた人物を積極的に登用したという。

『北史』は、諸王の中でこの三人だけが文芸清識の士を好んで用いたため称賛されたと記している。

工芸を愛した意外な一面

高長恭は文人を重んじただけでなく、技芸にも関心を持っていた。
邸宅には投壺が置かれており、遊芸を楽しんでいたという。

また工芸にも巧みで、自ら製作した傀儡人形は主人の意思に応じて杯を掲げ、
挨拶をするような動きを見せたと伝えられている。

当時の人々はその仕組みを理解できなかったという。

子孫は生き残っていた

高長恭の後継者については長く不明とされていた。
しかし1999年、龍門石窟で発見された造像銘により、新たな手がかりが得られている。
その銘文には、高元簡という人物が
681年に亡母趙氏の供養のため地蔵菩薩像と観音菩薩像を奉納したことが記されていた。

研究者の間では、この高元簡を高長恭の孫とみる説が有力であり、
これが正しければ高長恭の血統は北斉滅亡後も存続し、
少なくともの高宗時代まで続いていたことになる。

高長恭の墓碑

1894年、直隷省広平府磁州の劉荘村(現在の河北省邯鄲市磁県講武城鎮劉荘村)で
高長恭の墓碑が発見された。碑には「斉故假黄鉞太師太尉公蘭陵忠武王碑」と刻まれている。

この墓碑には高長恭の生涯が記されているほか、裏面には弟の高延宗が兄へ贈った詩も刻まれていた。現在も劉荘村の蘭陵王墓に保存されており、高長恭を知るうえで貴重な史料となっている。

高長恭と日本の雅楽『蘭陵王』

高長恭の活躍を題材とした『蘭陵王入陣曲』は、北斉滅亡後も長く伝承された。
この楽曲は代に日本へ伝わり、雅楽の演目『蘭陵王(陵王)』として受け継がれている。
日本の雅楽では赤い面を着けて舞うことで知られ、
現在も宮内庁式部職楽部をはじめ各地の雅楽団体によって演じられている。
中国の一王侯であった高長恭の名が現代まで広く伝わった背景には、この『蘭陵王』の存在も大きい。

北畠顕家と『陵王』

日本では南北朝時代の名将・北畠顕家との関係でも高長恭の名が語られる。
顕家は後醍醐天皇の御前で雅楽『陵王』を舞ったという逸話を残している。

『陵王』は蘭陵王高長恭を題材とする舞楽であり、
このことから後世には顕家が高長恭へ強い憧れを抱いていたとも語られてきた。
高長恭と顕家は時代も国も異なる人物であるが、
ともに美貌と武勇を兼ね備え、若くして悲劇的な最期を遂げたことで知られる。

そのため後世の歴史愛好家や創作作品の中では、しばしば両者が重ね合わせて語られている。

まとめ

高長恭は北斉宗室の出身であり、蘭陵王として知られる名将である。
并州での対突厥戦や邙山の戦いなどで武功を挙げ、
とりわけ洛陽救援での活躍によって大きな名声を得た。

また『北斉書』に「音容兼美」と記された美貌の持ち主でもあり、
その姿は後世に仮面伝説や『蘭陵王入陣曲』として語り継がれている。

しかし、その軍功と人気は皇帝高緯の警戒を招き、573年に毒を賜って33歳で世を去った。
北斉はその後も内紛と政治混乱を続け、577年に北周によって滅ぼされる。
『北斉書』が「蘭陵王に全権を委ねていれば結果は分からなかった」と評したように、
高長恭は北斉後期を代表する将軍の一人として後世まで記憶されることになった。

史書・参考文献

  • 『北斉書』巻11・巻12・巻41
  • 『北史』巻52
  • 資治通鑑 巻169~171
  • 『隋書』音楽志
  • 『旧唐書』音楽志
  • 『教坊記』
  • 『北朝史研究』
  • 『中国歴代帝王人物辞典』
  • 『龍門石窟造像題記総録』
  • 『中国古代軍事史研究』
  • 『北斉・北周史研究』

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