安徳公主(あんとくこうしゅ、生没年不詳)は、
北魏の孝文帝・元宏の孫で、清河文献王・元懌の娘である。
安徳公主について残る記録は決して多くない。
しかし、その名が現れる場面は北魏末から北斉初期にかけての大きな転換点と重なっている。
父・元懌は北魏宮廷の権力争いで殺害され、
安徳公主自身は北魏最後の皇帝となった孝武帝・元脩の洛陽宮廷に姿を見せる。
北魏が東西に分裂した後も生き残り、東魏時代の542年には仏像を造立した記録を残した。
そして北斉成立後の555年、文宣帝・高洋の暴虐に巻き込まれ、
凄惨な屈辱を受けたことが『北斉書』『北史』に記録されている。
彼女本人の言葉はほとんど残っていない。
しかし、孝文帝の孫として生まれた女性が、北魏皇室の内紛、軍閥の台頭、王朝の東西分裂、
東魏の成立、元氏から高氏への王朝交代を生き抜いた末に、
新王朝の皇帝から暴力を受けるまでをたどることで、北魏皇族が権威を失っていく過程が見えてくる。
孝文帝の孫として生まれた安徳公主
安徳公主の父・元懌は、北魏第7代皇帝・孝文帝元宏の子で、清河王に封じられた皇族である。
したがって安徳公主は、孝文帝の孫という北魏皇室の直系に近い血統に生まれた。
孝文帝は494年に都を平城から洛陽へ移し、
鮮卑の旧俗を改めながら漢人貴族社会との融合を進めたことで知られる。
安徳公主が生まれた頃の元氏皇族は、北魏の政治・社会秩序の頂点に位置していた。
しかし、安徳公主が生きることになる6世紀前半には、その秩序そのものが急速に崩れていく。
父の元懌は孝明帝期に朝廷の重鎮となり、宗室の中でも高い名望を持っていた。
ところが幼い孝明帝に代わって政治を行った霊太后の周辺では、
皇族・外戚・宦官らの権力争いが激化していた。
元懌と対立したのが、霊太后の妹婿である元叉と宦官・劉騰だった。
520年、元叉と劉騰は政変を起こして霊太后を幽閉し、元懌を殺害した。
安徳公主の生年は分からないため、このとき何歳だったのかは不明である。
しかし安徳公主にとって、北魏皇室内部の権力争いによって父を失ったことになる。
父を殺した北魏宮廷はさらに崩れていく
元懌の死後も北魏の混乱は収まらなかった。
523年には北方辺境の沃野鎮から反乱が始まり、懐朔・武川などへ拡大して六鎮の乱となった。
反乱そのものはやがて鎮圧されたが、その過程で大量の北辺軍人や流民が各地を移動し、
北魏朝廷では制御できない軍事勢力が形成されていく。
その混乱から台頭したのが爾朱栄だった。
528年、孝明帝が急死すると、爾朱栄は軍を率いて洛陽へ進み、孝荘帝を擁立した。
そして河陰に北魏の皇族・官僚を集め、大量に殺害する河陰の変を起こす。
安徳公主自身がこの事件でどこにいたのかは分からない。
しかし孝文帝の孫として生まれた彼女が成人していく時期に、父は政変で殺され、
北辺では大反乱が起こり、さらに北魏皇族が軍閥によって大量殺害されていた。
皇族であることが身の安全を保証する時代は、すでに終わりつつあった。
↓↓北魏末の政局を一変させた爾朱栄についての個別記事は、こちら

孝武帝の宮廷に現れる安徳公主
爾朱栄が530年に孝荘帝によって殺されると、その一族が洛陽を制圧した。
しかし今度は六鎮出身の高歓が台頭し、532年の韓陵の戦いで爾朱氏の主力を撃破する。
高歓が新たな皇帝として擁立したのが元脩、すなわち孝武帝だった。
この孝武帝の時代に、安徳公主は再び史書へ姿を現す。
『北史』によれば、孝武帝が洛陽にいた頃、嫁がずにいた従妹が三人いた。
一人が南陽王元宝炬の同母妹である平原公主・元明月、
一人が清河王元懌の娘である安徳公主、もう一人が蒺藜で、三人はいずれも公主に封じられていた。
『資治通鑑』も孝武帝について「閨門無礼」と記したうえで、この三人をまとめて挙げている。
同姓である元氏皇族の従妹たちを嫁がせず、
孝武帝が私的な男女関係を持っていたことが問題視されたのである。
宮中の宴では女性たちに詩を詠ませ、
ある女性が鮑照の楽府を踏まえて「明月」を孝武帝の懐に入るものとして詠んだという。
この逸話からも、孝武帝の宮廷では元氏皇族の女性たちとの関係が
公然のものとなっていたことがうかがえる。
ただし三人の中でも、とくに孝武帝との関係が詳しく記録されているのは元明月だった。
534年に孝武帝が高歓と決裂して関中へ逃れると、元明月はこれに同行した。
一方、蒺藜は自ら縊死し、安徳公主は東方に残った。
三人がその後にたどった道は異なったが、
安徳公主も孝武帝の愛人となった元氏皇族女性の一人として史書に名を残したのである。
↓↓孝武帝と特別な関係を持った平原公主・元明月についての個別記事は、こちら

孝武帝の西奔と北魏分裂|安徳公主は東方に残る
孝武帝を皇帝にした高歓だったが、両者の関係は急速に悪化した。
高歓は晋陽を拠点に巨大な軍事力を握っていた。
一方、孝武帝は高歓の傀儡であり続けることを拒み、独自の軍事力を確保しようとする。
関中では賀抜岳の死後に宇文泰が台頭していた。
孝武帝は宇文泰と結び、高歓に対抗しようとした。
534年、高歓が洛陽へ迫ると、孝武帝はついに都を捨てて関中へ逃亡した。
↓↓北魏を二分した勢力、高歓・宇文泰についての個別記事は、こちら


三人の皇族女性の運命が分かれる
洛陽で孝武帝の周辺にいた三人の女性は、534年を境に異なる道をたどった。
元明月は孝武帝とともに関中へ向かった。
しかし孝武帝を迎えた宇文泰は、やがて元明月を殺害させる。
これに孝武帝が不満を示し、宇文泰との関係は悪化した。孝武帝自身も534年末に急死する。
蒺藜は孝武帝が西へ去った後、自害した。
それに対して安徳公主は東方に残り、その後も生き続けた。
なぜ安徳公主が孝武帝について行かなかったのかは分からない。
孝武帝との関係が薄かったのか、すでに別の生活を持っていたのか、
単に逃亡に同行できなかったのか。
史料が説明していない以上、理由を作ることはできない。
しかし結果として、
この選択が三人の中で安徳公主だけを東魏・北斉の時代まで生き残らせることになった。
甥が東魏皇帝となる
孝武帝が洛陽から逃げると、高歓は新たな皇帝を必要とした。
そこで擁立されたのが、清河王元亶の子・元善見である。これが東魏の孝静帝だった。
元亶は安徳公主の兄であるため、孝静帝は安徳公主の甥にあたる。
高歓は孝静帝を立てると都を洛陽から鄴へ移し、東魏を成立させた。
一方、関中では宇文泰が孝武帝の死後に元宝炬を文帝として擁立し、西魏を成立させる。
北魏は完全に東西へ分裂した。
皇帝の姓はどちらも元氏だったが、東魏の実権を握ったのは高歓、西魏を支配したのは宇文泰だった。
安徳公主はこうして、北魏皇帝の孫から、
軍閥・高氏によって支配される東魏皇帝の叔母という立場になった。
542年の造像記|正史から消えた安徳公主の姿
東魏成立後、安徳公主の動向は正史からほとんど分からなくなる。
ところが、正史とは別の史料に彼女の名が残されている。
東魏興和4年6月4日、すなわち542年に作られた安徳公主の造像記である。
そこには安徳公主が釈迦牟尼像一区を造立したことが記されている。
この造像記によって、
534年に孝武帝が洛陽を去ってから8年後にも安徳公主が生存していたことが確認できる。
安徳公主には夫がいた
造像記には、安徳公主が亡くなった夫の妹にあたる「当男」のために像を造ったことが記されている。
この記録から、安徳公主が結婚しており、542年までには夫が亡くなっていたことが分かる。
しかし夫の姓名は判明していない。
いつ結婚したのか、夫がどのような家柄だったのか、子供がいたのかについても、
現在確認できる史料からは明らかにできない。
ここで重要なのは、孝武帝との関係だけで安徳公主の人生を終わらせないことである。
534年に孝武帝が西へ逃れた後も、安徳公主には東魏社会での生活が続いていた。
そして仏像を造立するほど夫側の家族との関係を持っていたことが、
わずかながら造像記から見えてくる。
正史が皇帝や戦争を中心に記録するために残さなかった、
一人の皇族女性の日常に近い姿が現れる貴重な史料である。
元氏から高氏へ|安徳公主が見た東魏の終焉
東魏では甥の孝静帝が皇帝だったが、実権は高歓が握った。
高歓の娘が孝静帝の皇后となり、孝静帝の姉妹である元仲華は高歓の長男・高澄へ嫁いだ。
安徳公主の一族と高氏は、婚姻によって深く結び付けられていたことになる。
しかし、これは元氏と高氏が対等だったことを意味しない。
高歓が547年に死ぬと長男の高澄が権力を継承し、
高澄が549年に暗殺されると弟の高洋が政権を掌握した。
550年、高洋は孝静帝から禅譲を受けて皇帝となり、北斉を建国する。
東魏は滅亡した。
孝文帝の孫である安徳公主にとって、自分が生まれた元氏皇室がついに帝位を失ったことになる。
さらに552年、廃帝となっていた孝静帝は高洋によって殺害された。
安徳公主は甥の死後も生きていた。
そして、その3年後に再び史書へ姿を現す。
555年、高洋の暴虐に巻き込まれる
天保6年(555)、高洋の暴虐を記した『北斉書』巻九に、安徳公主の名が突然現れる。
この記事の中心にいるのは、高澄の正妻だった元仲華である。
元仲華は孝静帝の姉妹であり、北魏時代には馮翊公主に封じられ、
高澄との間に河間王・高孝琬らをもうけた。
高澄の死後、高洋が北斉皇帝になると、元仲華は文襄皇后として遇された。
ところが555年、高洋は兄・高澄がかつて自分の女性を犯したことへの報復だとして、
元仲華を凌辱した。
さらに『北斉書』は、高氏の女性について親疎を問わず、
左右の者に自分の目の前で乱交させたと記す。
その直後に、安徳公主への暴行が記されている。
↓↓高澄・高洋についての個別記事は、こちら


葛の太縄にまたがらせ、胡人に辱めさせる
『北斉書』巻九には、高洋が葛で太い縄を作らせ、「魏安徳主」をその上にまたがらせ、
人々に押したり引いたりさせ、さらに胡人に命じて「苦辱」させたと記されている。
『北史』巻十四にも、ほぼ同じ記事が残る。
ここで「魏安徳主」と書かれている人物が安徳公主である。
この事件は安徳公主の記事の中でも最も凄惨な部分だが、史料にない内容まで加えるべきではない。
正史が明記しているのは、高洋が安徳公主を葛の縄にまたがらせて人々に押し引きさせ、
胡人に激しく辱めさせたというところまでである。
高洋自身が安徳公主を直接犯したとは書かれていない。
また、高洋が「北魏皇族を辱めるため」に安徳公主を選んだとも書かれていない。
なぜ安徳公主が標的になったのか
高洋が安徳公主をこの場へ連れ出した理由は分からない。
事件の直前には元仲華への暴行が記されているため、元氏皇族の女性が続けて被害を受けている。
しかし、それを政治的な元氏弾圧として計画したのか、
高洋個人の暴虐の一環だったのかについて、史書は説明していない。
したがって「北魏への復讐」「旧王朝を辱める儀式」などと断定することはできない。
ただし、結果としてこの事件が示しているものは重い。
安徳公主は孝文帝の孫であり、かつてなら北魏皇室でも最高位に近い女性だった。
その人物が、元氏から帝位を奪った北斉皇帝の宮廷で、公然と暴力を受けている。
安徳公主個人の悲劇であると同時に、
北魏皇族という身分がもはや彼女を守る力を完全に失っていたことを示す事件でもある。
安徳公主の最期|555年を最後に史書から消える
555年の事件を最後に、安徳公主の確実な消息は分からなくなる。
いつ死んだのかは記録されていない。
高洋の暴行によって死亡したという記録もなければ、その後に自害したという記録もない。
北斉後期まで生きたことを示す記録も確認できない。
したがって安徳公主の最期について、悲劇的な結末を作って補うことはできない。
ただし父・元懌が520年に殺害される以前には生まれていたため、
555年の時点で少なくとも三十代半ば以上には達していたことになる。
その間に北魏の政治情勢は完全に変わった。
父・元懌を殺した宮廷政変があり、六鎮の乱が起こり、爾朱栄が洛陽を制圧した。
高歓が爾朱氏を滅ぼし、孝武帝が洛陽から逃亡して北魏は東西に分裂した。
安徳公主はそのすべてを生き延びた。
さらに甥の孝静帝を戴く東魏で暮らし、その東魏も高洋によって滅ぼされ、孝静帝も殺された。
そして最後に確認できる彼女の姿が、高洋による555年の暴行なのである。
安徳公主とは何者だったのか|元氏皇族の没落を生きた女性
安徳公主については、史料が少ないからこそ注意が必要である。
孝武帝の「愛人」とだけ紹介すれば、北魏末期の宮廷醜聞に登場する女性で終わってしまう。
高洋の「被害者」とだけ紹介すれば、北斉の暴君逸話に登場する女性で終わってしまう。
しかし二つの記録の間には二十年以上の時間がある。
安徳公主は孝文帝の孫として北魏皇室に生まれ、父・元懌を政変で失った。
六鎮の乱と河陰の変を経た後、孝武帝の洛陽宮廷に名を残し、
北魏が東西に分裂した際には東方に残った。
542年の造像記からは、彼女が結婚し、
夫を失った後にも夫側の家族のために仏像を造立していたことが分かる。
そして東魏皇帝となった孝静帝は彼女の甥だった。
それでも元氏皇族は政治権力を取り戻せなかった。
東魏では高歓・高澄父子が実権を握り、550年には高洋が帝位そのものを奪った。
孝静帝は殺され、北魏以来の元氏皇室は王朝の支配者ではなくなった。
555年の安徳公主への暴行は、その流れの最後に現れる。
かつて皇帝の孫として生まれた女性を守っていた王朝も、
皇族としての権威も、その時には存在しなかった。
彼女が生きた数十年間を追うと、北魏皇室が政治的権威を失い、軍閥に皇帝を選ばれ、
王朝を二分され、最後には高氏へ帝位を奪われていく過程が一人の女性の人生の中に収まっている。
それこそが、史料の少ない安徳公主を単なる
「孝武帝の女性」「高洋に辱められた公主」で終わらせるべきではない理由である。
まとめ
安徳公主の生涯は、北魏皇族の権威が失われていく過程と重なっている。
祖父・孝文帝の時代には、元氏は北魏を支配する皇室として絶大な権威を持っていた。
しかし北魏末になると、六鎮の乱を契機として軍事勢力が台頭し、
爾朱栄、高歓、宇文泰らが皇帝の擁立や廃立を左右するようになる。
534年には北魏そのものが東西に分裂し、東魏では元氏の孝静帝を戴きながら、
実権を高歓とその一族が握る体制が成立した。
安徳公主は孝文帝の孫であり、東魏の孝静帝にとって叔母にあたる。
北魏から東魏へ移行しても元氏皇族としての身分は維持されたが、
550年に高洋が北斉を建国すると、元氏は皇室としての地位を失った。
555年に安徳公主が高洋から凄惨な辱めを受けた事件は、
北魏皇族の血統がもはや身を守る権威さえ持たなくなっていたことを象徴している。
孝文帝の孫として北魏皇室の中に生まれ、北魏の分裂後は東魏で暮らし、
さらに北斉成立後まで生きた安徳公主は、北魏から東魏、北斉へと続く政権交代と、
その中で進んだ元氏皇族の没落を一つの生涯の中に映し出す存在である。
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史書・参考文献
・『北史』巻五「魏本紀第五」
・『北斉書』巻九「列伝第一 后宮」
・『北史』巻十四「列伝第二 后妃下」
・『魏書』巻二十二「列伝第十 清河王懌」
・東魏興和四年「安徳公主造像記」
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