慕容紹宗(ぼようしょうそう)は、北魏末から東魏にかけて活躍した武将である。
前燕を建国した慕容氏の一族に連なり、
北魏末の混乱期には親族にあたる爾朱栄のもとへ身を寄せ、
その軍事集団の一員となった。
慕容紹宗は自ら巨大な勢力を築いた人物ではないが、情勢を読む能力に優れていた。
爾朱栄が洛陽の百官を大量に殺そうとした際には反対し、
爾朱兆が高歓の軍事力を借りようとした際には、いずれ高歓が脅威になると警告している。
どちらの進言も受け入れられず、河陰の変と爾朱氏の滅亡へつながったことから、
後世には先見性を示す逸話として伝えられた。
爾朱氏が滅びると高歓に帰順し、東魏では地方反乱の鎮圧や行政にも携わった。
高歓の死後、侯景が東魏に反旗を翻すと討伐軍を率い、渦陽で侯景軍を破って南へ敗走させている。
高歓が生前、「侯景が反乱したなら慕容紹宗を当たらせよ」と高澄に言い残したとされるほど、
その軍略は高く評価されていた。
しかし侯景を破った翌年、西魏の王思政が守る潁川を攻めていた際、
暴風によって乗っていた船が敵城へ流され、逃れることができないと判断して水中へ身を投じた。
享年四十九だった。
- 前燕の名将・慕容恪の子孫として生まれる
- 河陰の変を思いとどまるよう爾朱栄を諫める
- 爾朱栄のもとで軍功を重ねる
- 高歓を「蛟竜」にたとえて爾朱兆を諫める
- 高歓と戦い、爾朱氏の滅亡を見届ける
- 高歓に降伏しても官爵を奪われなかった
- 李延孫の反乱を平定する
- 孫搴の縁故採用を拒み、謀反を疑われる
- 洛陽周辺の混乱を平定する
- 劉烏黒を内部から崩して捕らえる
- 高歓が「侯景には慕容紹宗を当てよ」と遺言する
- 梁の十万の援軍を寒山で破る
- 侯景が慕容紹宗の出陣を知って警戒する
- 渦陽で侯景軍を破る
- 王思政が守る潁川を水攻めにする
- 自分の寿命が尽きることを予感する
- 暴風で船が敵城へ流され、水中に身を投じる
- 長男は謀反の罪で処刑される
- 慕容紹宗の人物像
- まとめ
- 史書・参考文献
- 関連リンク
前燕の名将・慕容恪の子孫として生まれる
慕容紹宗は、五胡十六国時代に前燕を建国した慕容氏の出身だった。
『北斉書』によれば、前燕の慕容皝の第四子で、名将として知られた太原王慕容恪の後裔にあたる。
曾祖父の慕容騰の代に北魏へ帰順して代に移り住み、
祖父は岐州刺史、父の慕容遠は恒州刺史を務めた。
『北斉書』は若い頃の慕容紹宗について、
堂々とした容貌を持ち、口数は少なく、沈着で胆略があったと記している。
武勇そのものよりも、寡黙で深く物事を考える性格が強調されている点は、
同時代の武将の列伝としては特徴的である。
北魏末に北辺が混乱すると、慕容紹宗は家族を連れて晋陽へ移り、爾朱栄のもとへ身を寄せた。
爾朱栄は慕容紹宗にとって母方の親族にあたり、その縁もあって厚遇されたという。
河陰の変を思いとどまるよう爾朱栄を諫める
武泰元年(528年)、孝明帝が死去すると、爾朱栄は軍を率いて洛陽へ進み、
長楽王元子攸を孝荘帝として擁立した。
このとき爾朱栄は、洛陽の王公や官僚をどう扱うかについて慕容紹宗に相談している。
爾朱栄は、洛陽には有力者が多く、奢侈と驕慢が習慣となっているため、
そのままでは統制できないと考えていた。
そこで百官が自分を出迎える機会を利用し、
まとめて殺してしまおうと考えているがどう思うか、
と慕容紹宗に尋ねた。
慕容紹宗は反対した。
霊太后の政治が人々から批判されている以上、
爾朱栄は兵力を握りながら「忠義」を掲げて洛陽へ進んできたのであり、
そこで突然多数の官僚を殺せば得策ではないとして、もう一度よく考えるよう求めた。
爾朱栄はこの進言を受け入れなかった。
その後、河陰へ集められた北魏の王公・官僚は爾朱栄軍によって大量に殺害され、
北魏史上の大事件となる河陰の変が起こった。
慕容紹宗は爾朱栄の側近としてこの計画を事前に知らされ、実行に明確に反対した人物の一人だった。
爾朱栄のもとで軍功を重ねる
河陰の変の後も慕容紹宗は爾朱栄に仕え、軍功によって索盧県子に封じられ、のちに侯へ進んだ。
その後は高歓らとともに羊侃を破り、元天穆に従って邢杲の反乱を平定した。
邢杲は北魏末の山東で大規模な反乱を起こした人物で、元天穆らの討伐軍によって鎮圧されている。
慕容紹宗もこれらの軍事行動で功績を重ね、最終的に并州刺史まで昇進した。
永安三年(530年)に爾朱栄が孝荘帝によって殺されると、爾朱氏一族は反撃して洛陽を占領した。
慕容紹宗も引き続き爾朱氏に属し、爾朱兆のもとで活動することになる。
高歓を「蛟竜」にたとえて爾朱兆を諫める
爾朱栄の死後、紇豆陵歩藩が晋陽へ迫り、爾朱兆は迎撃したものの何度も敗れた。
そこで爾朱兆は、当時晋州刺史だった高歓を呼び寄せ、その兵力を借りて紇豆陵歩藩を討とうとした。
慕容紹宗はこれに強く反対した。
天下が混乱し、誰もが機会をうかがっている今こそ、知略のある者が勢力を伸ばす時であり、
高歓は才能も気力も並外れ、軍略にも優れている。
慕容紹宗は高歓を「蛟竜」にたとえ、
そのような人物に「雲雨」を与えてはならないと爾朱兆へ警告した。
つまり、軍勢を与えて高歓に活躍の機会を与えれば、
やがて爾朱氏の手に負えなくなると見ていたのである。
しかし爾朱兆は、高歓とは互いに誠意をもって付き合っているのに、なぜ根拠もなく疑うのかと怒り、逆に慕容紹宗を拘束した。
数日後には釈放したものの、その忠告には従わず、
鮮卑兵の一部を高歓に与えて紇豆陵歩藩を討たせた。
高歓はこの戦いで勝利し、軍事的基盤をさらに強化した。
高歓と戦い、爾朱氏の滅亡を見届ける
やがて慕容紹宗の予想は現実となった。
高歓は信都で挙兵し、爾朱氏に公然と反旗を翻した。
爾朱兆は慕容紹宗を長史とし、さらに行台として壺関方面へ派遣して高歓に対抗させた。
しかし爾朱氏は広阿、さらに韓陵の戦いで相次いで敗北した。
韓陵で敗れた後、爾朱兆は初めて慕容紹宗の忠告を思い出した。
胸を叩いて後悔し、
「以前お前の言葉を用いていれば、どうして今日のようなことになっただろうか」と語ったという。
韓陵の敗戦では多くの兵士が逃亡し、爾朱兆自身も密かに逃げようとしたが、
慕容紹宗は旗を立てて角笛を鳴らし、散った兵を集め直した。
軍容が整うと、爾朱兆とともに落ち着いて馬に乗り、敗走する軍を立て直して撤退した。
その後、高歓が鄴から晋陽へ攻め込むと、爾朱兆は赤谼嶺へ逃れて自殺した。
慕容紹宗は烏突城まで進んだところで追撃してきた高歓と遭遇し、
爾朱栄の妻子と爾朱兆の残兵を伴って降伏した。
高歓に降伏しても官爵を奪われなかった
かつて高歓の台頭を危険視し、爾朱兆の将として実際に高歓と戦った慕容紹宗だったが、
高歓は降伏した彼を処罰しなかった。
それまで持っていた官位と爵位をそのまま認め、軍事上の重要な相談にも参加させた。
高歓にとって慕容紹宗は敵方の将だったものの、その軍略を利用する価値がある人物だった。
天平元年(534年)、孝武帝が関中へ逃れ、北魏が東西に分裂すると、
高歓は元善見を孝静帝として擁立し、都を洛陽から鄴へ移した。
遷都直後は行政機構の整理が終わっていなかったため、
慕容紹宗は高隆之とともに府庫や図籍などを管理する仕事を任された。
軍事だけでなく、東魏成立直後の財物・文書を整理する実務にも起用されていたことになる。
李延孫の反乱を平定する
天平二年(535年)、宜陽の李延孫が兵を集めて反乱を起こすと、
慕容紹宗は西南道軍司に任じられ、厙狄安盛らを率いて討伐に向かった。
慕容紹宗は李延孫を破って反乱を鎮圧し、
帰還後には揚州刺史の職務を代行し、まもなく青州刺史の職務も任された。
孫搴の縁故採用を拒み、謀反を疑われる
高歓の丞相府で記室を務めていた孫搴が、
自分の兄を青州の主簿に採用するよう慕容紹宗へ頼んだことがあった。
慕容紹宗はこれを受け入れなかった。
恨んだ孫搴は高歓に対し、慕容紹宗がかつて広固城に登った際、
「大丈夫たる者、祖先の事業を復興することができないものだろうか」と親しい者に語った、
と讒言した。
慕容紹宗は前燕王家の子孫であり、広固は南燕の都だった場所でもある。
この発言が事実であれば、かつての慕容氏政権を復興する意図があるとも受け取れる内容だった。
高歓はこれを聞いて慕容紹宗を青州から召還した。
『北斉書』は孫搴の発言を「譖之」、すなわち讒言として記しており、
慕容紹宗が実際に復国を企てていたとはしていない。
洛陽周辺の混乱を平定する
元象年間(538~539年)になると、西魏の独孤如願が洛州を占拠し、
梁・潁一帯では盗賊や反乱勢力が相次いだ。
高歓は慕容紹宗を武牢へ派遣し、行台の劉貴らとともにこれらを平定させた。
この功績によって慕容紹宗は公爵へ進み、度支尚書に任じられた。
その後は晋州刺史・西道大行台を歴任し、朝廷へ戻ると御史中尉となった。
軍を率いるだけでなく、地方長官、財政官、監察官を歴任しており、
東魏政権では軍事専門の将軍だけに限定されない役割を与えられていた。
劉烏黒を内部から崩して捕らえる
南朝梁の劉烏黒が徐州方面へ侵入すると、高歓は慕容紹宗を討伐に派遣した。
慕容紹宗は劉烏黒軍を大破し、その功績によって徐州刺史となった。
しかし劉烏黒は残兵を集め直し、再び周辺への侵攻を始めた。
そこで慕容紹宗は正面から再度決戦するのではなく、劉烏黒の配下へ密かに働きかけて離反を誘った。
数か月後には劉烏黒を捕らえることに成功し、これを殺害して反乱を終わらせた。
高歓が「侯景には慕容紹宗を当てよ」と遺言する
武定四年(546年)、東魏の実権を握っていた高歓が病に倒れた。
この頃、河南方面の大軍を率いていた侯景の動向が問題となっていた。
侯景は長く高歓の配下で戦い、西魏との戦線で大きな軍事力を持っていたが、
高歓の後継者となる高澄には従わない可能性があった。
『北斉書』によれば、高歓は死を前にして高澄へ、
侯景が反乱した場合には慕容紹宗を当たらせるよう言い残した。
かつて高歓の危険性を見抜いて爾朱兆へ警告した慕容紹宗を、
高歓自身が侯景を抑えられる将として評価していたことになる。
高歓が死去すると、侯景は予想された通り東魏に反旗を翻し、
河南十三州をもって西魏へ降伏しようとした。
その後は南朝梁へ接近し、梁武帝蕭衍も侯景を受け入れた。
梁の十万の援軍を寒山で破る
侯景を支援するため、南朝梁は貞陽侯蕭淵明を総大将として北へ大軍を送った。
『北斉書』はその兵力を十万と記している。
蕭淵明軍は寒山に駐屯し、侯景と呼応しながら泗水を堰き止め、
その水を利用して彭城を攻めようとした。
東魏では慕容紹宗を東南道行台とし、さらに開府を加え、燕郡公へ改封した。
慕容紹宗は高岳らとともに梁軍を迎え撃ち、三徐・二兗州の軍事を統轄して寒山へ進んだ。
戦いは東魏軍の大勝となり、梁軍は崩壊した。
総大将の蕭淵明をはじめ多数の将兵が捕らえられ、侯景は南からの大規模な援軍を失った。
侯景が慕容紹宗の出陣を知って警戒する
梁軍を破った慕容紹宗は、そのまま軍を返して渦陽にいる侯景の討伐へ向かった。
それまで侯景は東魏から送られてきた将軍たちを軽く見ていたという。
しかし慕容紹宗と高岳が迫っていると知ると態度を変え、部下たちに警戒するよう命じた。
侯景は、高岳の率いる兵は精鋭であり、
慕容紹宗は経験豊富な将だから慎重に戦わなければならないと語った。
長年東魏軍を率いてきた侯景自身が、慕容紹宗の用兵を知っていたためだった。
渦陽で侯景軍を破る
慕容紹宗らが侯景軍と対峙した際、
東魏の諸将は相手の強さを警戒し、誰も先に攻撃を始めようとしなかった。
そこで慕容紹宗が自ら軍を指揮して前進すると、他の将軍たちもこれに続いた。
戦闘は東魏軍の勝利となり、侯景軍は大きく崩れて敗走した。
侯景はその後、残った兵を率いて南朝梁へ逃れた。
東魏にとっては、河南の広い地域を握って反乱を起こした有力武将を国外へ追い出したことになる。
慕容紹宗は帰還すると、その功績によって別に永楽県子へ封じられた。
『北斉書』はここで、
高歓が生前に残した「侯景が反乱したなら慕容紹宗を当たらせよ」という言葉を記し、
実際にその言葉どおりの結果になったとしている。
王思政が守る潁川を水攻めにする
侯景が南へ逃れた後、西魏は大将の王思政を潁州へ送り込んだ。
東魏はこの拠点を奪回するため、慕容紹宗を南道行台とし、高岳、劉豊らとともに潁川を包囲させた。
王思政が籠城した城は堅固だったため、
東魏軍は洧水を堰き止め、その水を城内へ流し込む水攻めを行った。
ところが、この包囲戦の最中から慕容紹宗は不吉な夢を繰り返し見るようになったという。
自分の寿命が尽きることを予感する
『北斉書』には、慕容紹宗が死の直前に自分の死を予感したという逸話が残されている。
慕容紹宗は二十歳を過ぎた頃から、頭に「蒜髪」と呼ばれる特徴的な毛が生えていたという。
それが潁川攻撃の最中、突然すべてなくなった。
不吉な夢が続いていたこともあり、慕容紹宗は側近に、蒜という字の音は「算」に通じるため、
自分の「算」、つまり寿命も尽きようとしているのではないかと語った。
史実として予兆を受け取る必要はないが、
『北斉書』が慕容紹宗の最期に結び付けて収録した逸話である。
暴風で船が敵城へ流され、水中に身を投じる
武定六年(548年)、慕容紹宗は劉豊とともに水攻めのため築いた堰を視察していた。
北の方角に土煙のようなものが見えたため、二人は船に乗って様子を見ていた。
すると突然、東北から激しい風が吹きつけ、周囲が暗くなるほどの暴風となった。
船をつないでいた綱が切れ、
慕容紹宗と劉豊を乗せた船はそのまま王思政が守る敵城へ向かって流されていった。
このままでは捕らえられると判断した慕容紹宗は、水中へ身を投じて死亡した。四十九歳だった。
劉豊も同じく命を落とした。
『北斉書』は、慕容紹宗の死を知った全軍の将兵が悲しみ、朝廷もその死を惜しんだと記している。
死後、慕容紹宗には使持節、二青・二兗・斉・済・光七州諸軍事、
尚書令、太尉、青州刺史などが追贈され、「景恵」と諡された。
長男は謀反の罪で処刑される
慕容紹宗の死後、長男の慕容士粛は散騎常侍に任じられた。
しかしその後、士粛は謀反を企てたとして処刑された。
本来であれば一族にも処罰が及びかねない事件だったが、
朝廷は慕容紹宗の功績を考慮し、罪を士粛本人だけにとどめた。
北斉成立後の皇建元年(560年)には、
慕容紹宗は高澄の廟庭に配享され、功臣として祭られることになった。
家督は士粛の弟である慕容建中が継いだ。
建中は北斉末に儀同三司となり、北斉滅亡後も生き残って隋に仕え、
開皇年間には大将軍・疊州総管にまで昇っている。
慕容紹宗の人物像
『北斉書』が慕容紹宗について最初に挙げる特徴は、
口数が少なく、沈着で胆略があったという点である。
その人物像は、列伝に残された個々の逸話とも一致している。
爾朱栄が洛陽の官僚を皆殺しにしようとした際には、
その行為が爾朱栄の掲げる「忠義」と矛盾すると考えて反対した。
爾朱兆が高歓の力を借りようとすると、高歓を「蛟竜」にたとえて危険性を警告した。
この二つの進言はいずれも採用されなかったが、
その後、河陰の変は爾朱栄の評価を大きく損ない、高歓は実際に爾朱氏を滅ぼした。
一方で、慕容紹宗は主君を次々に乗り換えて勢力を伸ばした人物ではない。
爾朱氏が高歓に敗れた後も爾朱兆に従い、韓陵の敗戦では逃げ散った兵を集めて軍を立て直した。
爾朱兆が自殺し、爾朱氏の軍事的抵抗がほぼ不可能になった段階で初めて高歓へ帰順している。
高歓のもとでは軍事だけでなく、
遷都直後の府庫・図籍の管理、度支尚書、御史中尉、各州刺史なども務めた。
青州刺史時代には有力者である孫搴から兄の採用を頼まれても拒否しており、
それが原因で讒言を受けて召還されることさえあった。
『北史』の史臣は慕容紹宗について、「兵機武略、世に重んぜらる」と評している。
また、爾朱氏に仕えた際には忠義を守りながら高歓の危険性を見抜き、
侯景については高歓の遺言どおり討伐を成功させたとして、
その軍略と人物を見る力を高く評価している。
まとめ
慕容紹宗は、前燕の名将慕容恪の系統に生まれ、
北魏末の混乱の中で爾朱栄のもとへ身を寄せた武将だった。
爾朱栄による河陰の変には事前に反対し、爾朱兆が高歓を利用しようとした際には、
その才能が将来爾朱氏を脅かすと見抜いた。
高歓が実際に爾朱氏を滅ぼした後は東魏に仕え、地方反乱の鎮圧だけでなく、
府庫・図籍の管理や度支尚書、御史中尉なども務めた。
高歓の死後に侯景が反乱すると、高歓の遺言によって討伐の中心に据えられ、
南朝梁の援軍を寒山で破った後、渦陽でも侯景軍を撃破した。
侯景自身が慕容紹宗の出陣を警戒したという記録からも、
その軍事能力が同時代の武将から高く評価されていたことが分かる。
その最期は戦死ではなく、潁川包囲中に暴風で船が敵城へ流されたため、
水中へ身を投じるというものだった。
死後は太尉などを追贈され、北斉では高澄の廟庭に配享された。
史書・参考文献
『北斉書』巻二十「慕容紹宗伝」
『北史』巻五十三「慕容紹宗伝」
司馬光『資治通鑑』北魏末・東魏関係記事
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