蘭欽(らんきん)は、南北朝時代の南朝梁に仕えた武将で、
北魏・西魏との戦争や南方の反乱鎮圧に功績を挙げた人物である。字は休明。
父の蘭子雲に従って北方遠征に参加し、
527年には蕭城・擬山城・厥固などを攻め、北魏の将軍を相次いで撃破した。
その後は桂陽・陽山・始興の反乱を鎮圧し、梁州・漢中方面では西魏軍を破って南鄭を守り、
宇文泰が馬二千匹を贈って友好関係を求めるほどの戦功を立てた。
衡州刺史として善政を行い、住民から頌徳碑の建立を願い出られたが、
広州刺史に任命されると、前任者の死後に刺史の職務を代行していた南安侯蕭恬と対立し、
赴任先で毒殺された。享年四十二。
息子の蘭京は後に東魏の権臣・高澄を暗殺しており、
父子ともに南北朝の政争と深く関わった人物として知られる。
出自と若年期
蘭欽は中昌魏の出身で、父は南朝梁の将軍・蘭子雲である。
生年は明らかではないが、四十二歳で死去したことが『梁書』に記されている。
蘭子雲は梁武帝の天監年間(502~519年)に軍功を重ね、
雲麾将軍・冀州刺史にまで昇進した武人だった。
冀州は南朝と北魏が争った北方戦線に関係する地域であり、
蘭欽も父の軍事活動に従って若い頃から戦場を経験した。
『梁書』は蘭欽について、幼い頃から決断力があり、身のこなしが非常に敏捷だったと記している。
父に従って北征に参加した後、東宮直閤に任命された。
東宮直閤は皇太子の宮殿に関係する近衛の職であり、
蘭欽は軍人としての経歴を重ねながら、宮廷に仕える機会も得た。
当時の南朝梁は、北魏との間で淮河流域から徐州方面にかけて戦争を繰り返していた。
北魏では六鎮の乱以降、各地で反乱が続き、中央の統制が弱まっていた。
梁武帝はこの混乱に乗じて北方への軍事行動を進めており、蘭欽もその戦争に参加した。
北魏との戦いと北方戦線での活躍
527年の蕭城・擬山城攻略
527年(大通元年)、蘭欽は北魏領の蕭城を攻撃して陥落させた。
続いて彭城方面へ進軍し、北魏の別将・郊仲を撃破した。
彭城は徐州方面の軍事上の要地であり、南朝と北朝が繰り返し争奪した都市だった。
蘭欽はその周辺に位置する擬山城へ進み、北魏の大都督・劉属が率いる軍を破った。
『梁書』によれば、劉属の軍勢は二十万と記されている。
ただし、これは史書に伝わる兵力であり、実際の動員数が二十万人だったと確定できるわけではない。
蘭欽はさらに籠城を攻撃し、千匹余りの馬を鹵獲した。
騎兵の運用に欠かせない軍馬を大量に獲得したことは、
北魏軍の戦力を削ぐとともに、梁軍にとっても重要な戦果だった。
その後も蘭欽は攻勢を続け、
北魏の大将・柴集、襄城太守・高宣、別将の范思念や鄭承宗らを相次いで破った。
北魏の諸将が守る拠点を攻略しながら、彭城周辺で戦闘を重ねたのである。
厥固の攻略と曹龍牙の討伐
蘭欽は続いて厥固・張龍・子城の攻略を試みたが、これらの拠点は容易には陥落しなかった。
北魏の彭城守将・楊目は、子の楊孝邕に軽装の兵を率いさせて救援に向かわせた。
蘭欽はこれを迎撃して敗走させ、さらに譙州刺史の劉海游を破った後、
厥固を攻略して守備側の家族を捕らえた。
楊目は再び援軍を送り、都督の范思念と別将の曹龍牙に数万の兵を率いさせた。
蘭欽はこの軍勢と交戦し、戦場で曹龍牙を斬殺した。
その首級は梁の都である建康へ送られ、蘭欽の戦功として朝廷に報告された。
『梁書』が伝える一連の戦闘では、蘭欽は城を攻めるだけでなく、
守備軍を救援するために派遣された部隊を繰り返し撃退している。
厥固の攻略も、楊孝邕と劉海游を破った後に実現したものだった。
南方経略と反乱勢力の討伐
桂陽・陽山・始興の平定
北方戦線で軍功を挙げた蘭欽は、南方の反乱鎮圧にも派遣された。
梁武帝は蘭欽に節を仮し、衡州の三郡の兵を統率させて、
桂陽・陽山・始興で反乱を起こした勢力を討伐させた。
節を仮されることは、皇帝の命令を受けて一定の軍事指揮権を行使することを意味した。
これらの地域には、史書で「蛮」や「俚」と呼ばれる集団が居住していた。
南朝の支配が十分に及ばない山間部も多く、
地方官による統治や徴税をめぐって反乱が発生することがあった。
蘭欽は現地に到着すると反乱勢力を撃破し、桂陽・陽山・始興の騒乱を鎮圧した。
この功績によって安懐県男に封じられ、五百戸の食邑を与えられた。
さらに天漆蛮の指導者・晩時得を破り、南方の反乱鎮圧を続けた。
元慶和の救援と長楽諸洞の平定
衡州刺史の元慶和が桂陽の厳容に包囲されると、元慶和は蘭欽に救援を求めた。
蘭欽は軍を率いて現地へ向かい、容羅渓で厳容の勢力を撃破した。
これによって包囲されていた元慶和を救援し、長楽の諸洞も平定した。
「洞」は南方の山地に存在した集落や地域集団に関係する呼称であり、
長楽の諸洞を平定したという記録は、
蘭欽の軍事活動が個別の反乱指導者の討伐にとどまらなかったことを示している。
蘭欽は北魏との正規軍同士の戦争だけでなく、山間部に拠点を持つ反乱勢力との戦闘にも従事した。
梁州・漢中をめぐる西魏との戦争
襄陽救援と梁州の平定
蘭欽はその後、梁武帝から密命を受けて魏興へ向かうことになった。
南鄭を経由して進軍していたところ、魏の将軍・拓跋勝が襄陽を攻撃しているとの報告が届き、
朝廷は蘭欽に救援を命じた。
襄陽は漢水流域の重要都市で、南朝が北方に対する防衛を維持するうえで欠かせない拠点だった。
また、南鄭を中心とする漢中は関中と四川盆地を結ぶ交通路を押さえており、
北朝との戦争では重要な地域となっていた。
蘭欽は持節・督南梁南北秦沙四州諸軍事・光烈将軍・平西校尉・梁南秦二州刺史に任じられ、
南朝梁の北西方面における軍事指揮を担った。封邑も五百戸加増され、爵位は侯に進んだ。
この戦線で蘭欽は通生を破り、敵方の行台・元子礼、大将の薛儁と張菩薩を捕虜にした。
さらに魏の梁州刺史・元羅が降伏し、梁州と漢中一帯が梁の支配下に入った。
梁州・漢中の平定によって、蘭欽は智武将軍に昇進し、封邑を二千戸加増された。
地方の反乱鎮圧で県男に封じられた蘭欽は、北西方面での戦功によって侯に進み、
広域の軍事指揮を任される将軍となった。
なお、『梁書』はこれらの戦闘を連続して記しているが、
個々の戦闘の年月をすべて明示しているわけではない。
また、北魏が東魏と西魏に分裂したのは534年であるため、
分裂前の戦闘を一律に西魏との戦争とすることはできない。
高橋城の戦いと南鄭救援
蘭欽はその後、持節・都督衡桂二州諸軍事・衡州刺史に任じられた。
しかし、任地へ向かう前に北西方面で再び戦争が起きた。
西魏の都督・董紹と張献が軍を率いて南鄭を包囲し、梁州刺史の杜懐瑤が救援を求めたのである。
蘭欽は配下の兵を率いて南鄭方面へ進軍し、高橋城で董紹・張献の軍を迎え撃った。
『梁書』によれば、この戦いで蘭欽は敵兵三千人余りを斬り、董紹と張献を敗走させた。
蘭欽は撤退する敵軍をそのまま逃がさず、斜谷まで追撃した。
斜谷は漢中から関中方面へ通じる山間の交通路であり、
西魏軍が北方へ撤退する際の重要な経路だった。
蘭欽は追撃によってさらに多くの敵兵を討ち取ったと記されている。
南鄭を守る杜懐瑤の救援要請に応じて出撃し、
包囲軍を高橋城で破ったうえで、斜谷まで追撃したことが、この戦いの経過だった。
宇文泰が馬二千匹を贈って講和を求める
高橋城の敗戦後、西魏の実権を握っていた宇文泰は、
梁に馬二千匹を贈り、友好関係を結ぶことを求めた。
『梁書』は宇文泰を「西魏相宇文黒泰」と記している。
宇文黒泰は宇文泰の別名であり、
当時の西魏では皇帝を擁立した宇文泰が軍事・政治の実権を掌握していた。
馬二千匹の贈与は、単なる戦利品の返還ではなく、
西魏側から梁に対して関係改善を求める外交的な行為だった。
梁にとっても、北西方面での軍事的緊張を緩和することには意味があった。
ただし、『梁書』は宇文泰が蘭欽個人に降伏したとは記していない。
原文の「請結鄰好」は、隣国として友好関係を結ぶことを求めたという意味であり、
西魏そのものが梁に服属したわけではない。
この戦功によって蘭欽には散騎常侍の官職が加えられ、仁威将軍に昇進し、
さらに五百戸の封邑が加増された。
その後、蘭欽は当初の命令どおり衡州へ赴任することになった。
↓↓西魏の権臣・宇文泰についての個別記事は、こちら

衡州刺史としての善政
広州で陳文徹兄弟を捕らえる
蘭欽は衡州へ向かう途中、広州を通過した際にも軍事行動を行っている。
当地では俚の指導者・陳文徹とその兄弟が反抗しており、
蘭欽はこれを攻撃して撃破し、兄弟を捕虜にした。
その後、衡州に到着した蘭欽は平南将軍に昇進し、爵位も安懐県侯から曲江県公に改められた。
封邑はさらに五百戸加増されている。
曲江県公は県を封号とする公爵であり、蘭欽は県男から侯を経て公に進んだ。
北方・南方の双方で積み重ねた軍功が、爵位と官職の昇進につながっていた。
官吏と住民が頌徳碑の建立を願い出る
衡州刺史となった蘭欽は、軍事指揮官としてだけでなく、地方行政でも評価された。
『梁書』には、衡州で「恵政」があったと記されている。
これは住民に恩恵を与える政治を行ったという意味である。
ただし、具体的にどのような税制改革や救済策を実施したのかについては記録されていない。
蘭欽の統治を受けた官吏と住民は、朝廷に使者を送り、その功徳を称える碑の建立を願い出た。
梁武帝はこの請願を認め、頌徳碑の建立を許可した。
頌徳碑は地方官の功績や徳行をたたえるために建立される碑であり、
蘭欽の場合は官吏と住民が朝廷に請願したことが明記されている。
戦功による昇進とは異なり、地方統治に対する評価が記録された事例だった。
蘭欽が衡州刺史を務めた期間は明確ではないが、
その後、朝廷に召還されて散騎常侍・左衛将軍に任じられた。
左衛将軍は宮廷の宿衛に関係する官職であり、蘭欽は再び建康で勤務する立場となった。
広州刺史への任命と毒殺
南安侯蕭恬との対立
蘭欽は建康へ召還された後、散騎常侍・安南将軍・広州刺史に任命された。
広州は南朝梁の南方統治における重要な地域であり、
広州刺史はその行政と軍事を担当する地方長官だった。
前任の広州刺史は、新渝侯の蕭暎である。
蕭暎が死去すると、南安侯の蕭恬が刺史の職務を代行していた。
蕭恬は正式に広州刺史へ任命されることを望んでいたが、朝廷は蘭欽を後任に選んだ。
これによって、すでに広州で職務を代行していた蕭恬と、新たに着任する蘭欽との間に対立が生じた。
蘭欽は梁武帝から正式に任命された刺史だったが、
蕭恬は南安侯という爵位を持ち、現地で刺史の職務を担っていた。
両者の対立は、地方長官の後任人事をめぐるものだった。
毒を塗った刀で切った瓜を食べて死亡
蘭欽が広州に到着すると、蕭恬は密かに料理人を使って毒殺を企てた。
『梁書』は「前刺史南安侯密遣廚人置藥於食」と記しており、
蕭恬が料理人に命じて食物に毒を仕込ませたことを伝えている。
一方、『南史』には、料理人が瓜を切る刀に毒を塗ったという、より具体的な経緯が記されている。
蘭欽はその刀で切られた瓜を食べ、愛妾とともに中毒死した。
蘭欽は広州刺史として赴任したばかりであり、戦場で敵軍に敗れたのではなく、
同じ梁朝の宗室に属する蕭恬によって命を奪われた。
『梁書』によれば、蘭欽は四十二歳で死去した。
生年は明らかではなく、没年についても伝記本文に明記されていないため、
正確な死亡年には注意が必要である。
死後の追贈と息子・蘭夏礼
蘭欽の死後、梁武帝は侍中・中衛将軍を追贈し、鼓吹一部を与えた。
侍中は皇帝の側近として仕える高官であり、中衛将軍も宮廷の軍事に関係する官職だった。
鼓吹は軍楽を伴う儀仗であり、功績のある官僚や武将に与えられる栄誉の一つだった。
『梁書』蘭欽伝には、息子の蘭夏礼についても記録されている。
548年に侯景が反乱を起こし、翌年にかけて梁の都・建康へ進軍すると、
蘭夏礼は自らの部曲を率いて侯景軍を迎撃した。しかし、戦闘に敗れて死亡した。
蘭夏礼が迎撃したのは、侯景が歴陽へ進出した時期のことである。
蘭欽の死後、息子もまた梁朝の軍事的混乱のなかで命を落とした。
蘭欽の人物評価と歴史的意義
『梁書』が陳慶之と並べて評価した武将
『梁書』巻三十二には、陳慶之と蘭欽の伝記が収められている。
陳慶之は梁武帝に仕え、北魏の混乱に乗じて元顥を洛陽へ送り込んだことで知られる武将である。
蘭欽も北方戦線で軍功を挙げたが、両者の軍歴は同一ではない。
陳慶之が洛陽への遠征で名を残したのに対し、
蘭欽は彭城方面の攻略、南方の反乱鎮圧、梁州・漢中の防衛に従事した。
『梁書』の史臣は二人について、
いずれも将略を備え、戦って勝利し、敵地を攻略した人物であると評価している。
さらに廉頗・李牧・衛青・霍去病ら古代の名将に比肩するほどの武将だったと評した。
これは史書の編纂者による高い評価であり、
蘭欽が南朝梁を代表する武将の一人として扱われていたことを示している。
↓↓南朝梁を代表する名将・陳慶之についての個別記事は、こちら

北方戦線から南方統治まで担った軍歴
蘭欽の軍歴は、北魏との戦争から始まり、南方の反乱鎮圧、漢中をめぐる西魏との戦闘へと広がった。
527年の蕭城攻略では北魏の城塞を次々に攻め、厥固では救援軍を撃退して城を陥落させた。
桂陽・陽山・始興では地方の反乱勢力を討伐し、
梁州・漢中では敵将を捕らえて北西方面の要地を確保した。
さらに高橋城の戦いでは南鄭の包囲を解き、宇文泰が梁に友好関係を求める契機となった。
蘭欽はこうした戦功によって、安懐県男から侯、曲江県公へと昇進した。
将軍号も智武将軍、仁威将軍、平南将軍へと進み、複数の州にまたがる軍事指揮権を与えられている。
また、衡州では官吏と住民が頌徳碑の建立を願い出ており、
軍功だけでなく地方官としての統治も評価された。
ただし、『梁書』には蘭欽の戦術や行政について詳しい説明があるわけではない。
迅速な進軍や敵軍の撃破は記録されているものの、独自の戦法を確立したとする具体的な記述はなく、
衡州での善政についても政策の内容までは伝わっていない。
息子・蘭京と東魏の高澄暗殺
蘭欽の息子としては、蘭夏礼のほかに、東魏の権臣・高澄を暗殺した蘭京が知られている。
蘭京は東魏側の捕虜となり、高澄の家で使役されていた。
父が南朝梁の将軍だったという出自を持ちながら、敵国の権力者に仕える立場に置かれたのである。
高澄は東魏の実権を握った高歓の長男で、
父の死後に政権を継承し、北斉建国へ向けて準備を進めていた。
しかし549年、蘭京らによって東柏堂で襲撃され、殺害された。
この事件によって高澄の政権は突然終わり、弟の高洋が権力を継承した。高洋は翌550年に東魏の孝静帝から禅譲を受け、北斉を建国している。
蘭京の暗殺事件は、蘭欽が生前に関与した軍事行動とは別の事件である。
蘭欽自身が高澄の暗殺を計画したわけではなく、
蘭京が父の毒殺に対する報復として高澄を殺したという記録もない。
↓↓東魏の権臣・高澄を暗殺した、息子の蘭京についての個別記事は、こちら

まとめ
蘭欽は南朝梁の北方遠征で頭角を現し、
蕭城・擬山城・厥固の攻略を経て、南方の反乱鎮圧や梁州・漢中の防衛を任された武将だった。
西魏軍が南鄭を包囲した際には高橋城で敵軍を破り、斜谷まで追撃した。
その後、宇文泰が梁に馬二千匹を贈り、友好関係を求めたことも『梁書』に記されている。
衡州刺史としては住民から頌徳碑の建立を請願され、曲江県公にまで昇進した。
しかし、広州刺史への転任が決まると、現地で職務を代行していた南安侯蕭恬によって毒殺され、
四十二歳で生涯を終えた。
『梁書』は蘭欽を陳慶之と並ぶ名将として評価している。
北方の正規軍との戦争、南方の反乱鎮圧、漢中の防衛、地方行政を経験したその経歴は、
南朝梁の軍事と地方統治の双方に関わるものだった。
お薦め商品

史書・参考文献
・『梁書』列伝
・『南史』列伝
・『資治通鑑』梁紀
・『魏書』関連列伝
・『周書』宇文泰伝
・中国歴代正史校注本
関連リンク
中国史の皇族・王族一覧|皇子・親王・諸侯王など歴代王朝の人物を紹介 | 趣味の中国
中国史の軍師・策士一覧|知略で天下を動かした有名な軍師たち | 趣味の中国
中国史の政治家・文官一覧|宰相・名臣・奸臣など歴代王朝の人物 | 趣味の中国
中国史の権臣一覧|皇帝を凌ぐ権力を握った有名な実力者たち | 趣味の中国
中国史の皇后一覧|中国王朝を動かした有名な皇后たち | 趣味の中国
中国史の妃嬪一覧|歴代皇帝の有名な妃・貴妃・皇貴妃を時代別に紹介 | 趣味の中国
中国史の公主一覧|歴史に名を残した王女たちをわかりやすく紹介 | 趣味の中国
中国史の美女一覧|時代別まとめ(四大美女・傾国・亡国・悲劇の美人) | 趣味の中国
中国史の美男一覧|中国四大美男と歴史に残るイケメン人物 | 趣味の中国
中国史の武将一覧|歴史に名を残した猛将・知将・名将たち | 趣味の中国
中国史の女傑一覧|戦場・反乱で活躍した女性たちを時代別に紹介 | 趣味の中国
中国史の文人・学者一覧|有名な詩人・思想家・歴史家・書家 | 趣味の中国
中国史の才女一覧|才や徳で有名な女性たちの生涯と特徴を解説 | 趣味の中国
中国の宦官とは?有名な宦官、王朝ごとの役職・階級、宦官による機関など | 趣味の中国

