宇文憲(うぶんけん、544年~578年)は、北周の建国者・宇文泰の子であり、
武帝・宇文邕の実弟として北周最盛期を支えた皇族である。
若くして益州統治で才能を示し、
その後は北斉との戦いで前軍を率いて河東・并州・鄴・信都などを転戦し、
577年の北斉滅亡に大きく貢献した。
一方で、母への深い孝行や、降伏した敵将の節義を尊重する人柄でも知られ、
『周書』は「智勇冠世、攻戰如神」と高く評価している。
しかし、武帝・宇文邕の死後に即位した宣帝から名望を警戒され、
35歳で謀反の罪を着せられて処刑された。
本記事では、宇文憲の生涯を『周書』『北史』『資治通鑑』などの史料をもとに、
北斉征討での活躍や人物像、悲劇的な最期まで詳しく解説する。
名門皇族出身
出自
宇文憲(うぶんけん、544年~578年)は、
北周王朝の皇族であり、字(あざな)は毗賀突(ひがとつ)という。
父は西魏の実権を握り、後に北周建国の礎を築いた宇文泰(うぶんたい)、
母は柔然系とされる達歩干氏(たつほかんし)である。
『周書』は宇文憲を宇文泰の第五子として伝えている。
宇文憲が生まれた544年は、西魏と東魏が対立し、北方の覇権を争っていた時代だった。
宇文泰は西魏の丞相として軍政を掌握し、名目上は西魏皇帝を奉じながら国家の実権を握っていた。
宇文氏政権は後の北周へとつながる過渡期にあり、
宇文憲はその中枢を担う宗室の一員として誕生した。
兄弟には後に北周第二代皇帝となる明帝・宇文毓、第三代皇帝となる武帝・宇文邕らがおり、
宇文憲も幼い頃から宗室の皇子として育てられた。
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幼少期の教育
宇文憲は幼い頃、兄の宇文邕(後の武帝)とともに儒学の教育を受けた。
『周書』によれば、二人は『詩』や『伝』を学び、その大意をよく理解したという。
「詩」は『詩経』、「伝」は『春秋左氏伝』を指すと考えられている。
『周書』は宇文憲について、「性通敏、有度量(生まれつき聡明で度量があった)」と記す。
また、「童齔而神彩嶷然」とあり、幼少の頃から落ち着いた風采を備え、
ひときわ目立つ存在だったという。
こうした人物評は、列伝の冒頭に置かれている。
駁馬を選んだ逸話
幼少期の宇文憲について、『周書』は次のような逸話を載せている。
父・宇文泰はある日、息子たちに良馬を選ばせた。
兄弟たちが毛並みや姿の美しい馬を選ぶ中、宇文憲だけは白黒のまだら模様をした駁馬を選んだ。
宇文泰が理由を尋ねると、
宇文憲は「戦場では目立つ馬のほうが味方に所在を知らせやすく、指揮を執る者には都合がよい」
と答えたという。
宇文泰はその返答を聞いて大いに喜び、「この子は並の人物ではない」と評したという。
李賢の家で育てられた六年間
宇文憲の幼少期には、宮中を離れて養育された逸話が伝えられている。
『周書』李賢伝によれば、宇文憲と1歳年上の兄・宇文邕は、
幼い頃に「忌避」のため宮中で育てられず、宇文泰の功臣であった李賢の邸宅へ預けられた。
二人は約六年間を李賢の家で過ごし、李賢夫妻のもとで養育されたという。
ここでいう「忌避」とは、幼い子どもを災厄や不吉な事柄から遠ざけるため、
一定期間、宮中や本宅を離れて養育することである。
しかし、『周書』は宇文憲と宇文邕が忌避の対象となった理由や、
他の皇子については記していない。
李賢は宇文泰の信任を受けた重臣であり、
『周書』は夫妻が宇文邕・宇文憲を実子のように手厚く養育したことを伝えている。
後に宇文邕が武帝として即位すると、李賢は重く用いられた。
武帝は李賢を召して幼少時代を振り返り、
「昔、公の家で兄弟ともども養育を受けた恩は忘れていない」
という趣旨の言葉を述べたと『周書』李賢伝は伝えている。
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涪城県公から安城郡公へ
554年(西魏・廃帝3年)、11歳の宇文憲は涪城県公に封じられた。
これが史書に見える最初の爵位である。
翌555年(西魏・恭帝2年)には安城郡公へ進封された。
556年、父・宇文泰が死去すると、西魏の実権は従兄の宇文護が握り、
翌557年には西魏に代わって北周が建国された。
初代皇帝・孝閔帝が即位すると、宇文憲は驃騎大将軍・開府儀同三司に任じられる。
この時点で『周書』に軍功の記事はまだ見えず、
十代前半の宇文憲は宗室の一員として官職に列していた。
若年の統治能力
十六歳で益州総管となる
559年、北周の明帝が即位すると、宇文憲は大将軍に任じられた。
翌560年(武成2年)には益州総管・益州刺史となり、斉国公に進封された。
このとき宇文憲は十六歳であった。
益州は、現在の四川盆地を中心とする地域である。
三国時代の蜀漢以来、巴蜀は経済力と地理的独立性を備えた重要地域であり、
北周にとっても西南方面を押さえる要地だった。
総管は州・郡の軍事を統轄する職、刺史は州政を担う長官であり、
宇文憲は軍事と行政の双方を統べる立場に置かれた。
『周書』は、宇文憲の益州統治について「聽訟不倦」と記している。
訴訟を裁くことに倦むことがなかったという意味である。
地方官にとって訴訟の裁決は政務の重要な職責であり、
租税・土地・財産・刑事事件など、多くの案件が州へ持ち込まれた。
続いて『周書』は、「蜀人悅服」と記す。蜀の人々は宇文憲の統治を喜び、これに服したという。
さらに、蜀の人々は宇文憲の徳を称え、碑を建てて頌徳したと伝えられている。
碑を建立して徳を顕彰することは、地方官の治績を後世に伝えるための顕彰方法の一つであった。
『周書』は宇文憲の益州統治について、
「聽訟不倦」「蜀人悅服」「立碑頌徳」の三点を記している。
若年で益州へ赴任した宇文憲は、
軍事だけでなく地方行政においても治績を残したことが史書に伝えられている。
宇文護政権下での活躍
宇文護政権下での重用
557年(孝閔帝元年)、宇文護は西魏に代わって北周を建国し、孝閔帝を即位させた。
しかし、朝政の実権は大冢宰である宇文護が掌握していた。
その後、宇文護は孝閔帝を廃して殺害し、明帝を擁立した。
さらに明帝を毒殺して武帝を即位させ、約十五年にわたって北周の最高権力者として朝政を主導した。
宇文護は、宇文憲の約31歳年上の従兄弟にあたる。
宇文憲から見ると宇文護は、兄というより父親世代に近い年齢である。
『周書』によれば、宇文護は宇文憲をことのほか信任し、
賞罰や軍国の大事については、しばしば宇文憲に意見を求めたという。
宇文憲もその都度、率直に意見を述べたと記されている。
560年(武成2年)に益州総管・益州刺史となって以後も、宇文憲は宇文護のもとで軍政に参与した。
568年(天和3年)、宇文憲は大司馬に任じられた。
大司馬は北周六官の一つで、軍事を統轄する最高位の官職の一つである。
↓↓北周の最高権力者として朝政を主導した宇文護についての個別記事は、こちら

邙山で北斉軍を防ぐ
564年(保定4年)、北周の実権を握る宇文護は大軍を率いて東征を開始し、洛陽攻略を目指した。
これに対し、北斉では武成帝・高湛が諸将を動員し、洛陽救援に向かった。
邙山は洛陽北方の丘陵地帯で、黄河から洛陽へ至る交通の要衝である。
古くから幾度も大会戦が行われた地であり、この戦いでも北周・北斉両軍の主力が激突した。
北周軍では宇文護が総指揮を執り、宇文憲、王雄、達奚武らが従軍した。
一方の北斉軍には、段韶、斛律光、高長恭(蘭陵王)ら名将がそろい、洛陽方面の防衛にあたった。
北周軍は洛陽へ迫ったが、北斉軍の反撃によって戦局は次第に北斉側へ傾いた。
『資治通鑑』によれば、高長恭はわずか五百騎を率いて包囲下の金墉城へ突入し、
城兵が敵味方を判別できず城門を開かなかったため、自ら兜を脱いで顔を見せた。
これによって城内の兵は高長恭であることを知り、歓呼して城門を開けたという。
この救援によって金墉城の守備は持ち直し、北斉軍は攻勢へ転じた。
さらに段韶、斛律光らの反撃を受けた北周軍は総崩れとなり、北斉軍は退却する北周軍を追撃した。『周書』は、このとき北斉軍が北周軍の背後へ現れたため諸軍が動揺し、
退却を唱える者が続出したと記している。
この危機にあたり、宇文憲は王雄、達奚武とともに退却する諸軍を収容し、
自ら前線に立って迎撃した。
激戦の最中、王雄は斛律光を目前にして「生け捕りにして天子に献じよう」と叫び、
さらに攻めかかった。
しかし、斛律光は放った矢で王雄の額を射抜き、王雄は陣中へ戻った後に絶命した。
この一騎討ちは『資治通鑑』にも記される邙山の戦いを代表する場面である。
王雄という勇将を失い、北周軍の士気は大きく揺らいだ。
それでも宇文憲は退くことなく、自ら将兵を督励して戦列を立て直した。
『周書』は「親自督戰」と記し、宇文憲が自ら前線で軍を指揮したことを伝えている。
達奚武もこれに呼応して防戦し、北周軍は壊滅を免れて退却することができた。
この戦いは北斉軍の勝利に終わり、宇文護の洛陽攻略は失敗した。
しかし、『周書』はこの戦役を通じて、宇文憲が軍の危急に際して退かず、
王雄・達奚武とともに殿軍を務めたことを詳しく伝えている。
↓↓北斉三名将についての個別記事は、こちら



邙山の戦いでの両軍諸将
二十歳余りの宇文憲は、宿将・達奚武、王雄らとともに出陣した。
一方、北斉軍には老将・段韶、円熟期の斛律光に加え、若き皇族将軍・蘭陵王も加わっていた。
| 北周軍 | 生年 | 邙山の戦い当時 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 宇文護 | 513年 | 約52歳 | 北周軍総司令格。 |
| 達奚武 | 504年 | 約60歳 | 北周創業以来の宿将。宇文泰の腹心の一人。 |
| 王雄 | 507年 | 約57歳 | 北周を代表する猛将。邙山で斛律光の矢を受けて戦死。 |
| 宇文憲 | 544年 | 約20~21歳 | 若き皇族将軍として従軍。 |
| 北斉軍 | 生年 | 邙山の戦い当時 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 段韶 | 496年頃 | 約68歳 | 北斉軍総司令格。左軍を率い、全軍を指揮。 |
| 斛律光 | 515年 | 約49~50歳 | 右軍を率いる。王雄を射殺したことで知られる。 |
| 蘭陵王(高長恭) | 生年不詳 (540年前後説が有力) | 20代半ば~30歳前後 | 中軍を率い、五百騎で金墉城へ突入。 |
独孤永業・斛律光への対応
568年(天和3年)、北周と北斉は洛陽周辺で激しい攻防を続けていた。
前年までの戦いで北周は宜陽を確保していたが、
洛陽を完全に攻略するにはなお多くの要地を押さえる必要があった。
宇文護は河南方面への攻勢を継続し、宇文憲に宜陽方面の軍事を委ねた。
宜陽は洛陽の西方に位置し、洛水流域を押さえる軍事上の要衝である。
ここを確保すれば洛陽への圧力を維持できる一方、失えば北周軍の前線は大きく後退する。
そのため北周・北斉の双方が繰り返し争奪戦を繰り広げた。
これに対し、北斉では名将・独孤永業が宜陽方面の防衛を担当し、
さらに北斉随一の名将として知られた斛律光も前線へ出動した。
独孤永業は守備戦に優れた将として知られ、
堅固な城塞を拠点として北周軍の侵攻を阻止しようとした。
一方、斛律光は機動力を生かして各地を転戦し、必要に応じて宜陽方面の戦線を支援した。
宇文憲は正面から城攻めを急がず、まず要害に城塁を築いて前線基地を整備した。
『周書』は「築城」と記すのみで場所までは詳述していないが、
これは宜陽周辺の支配を維持し、長期戦に備えるための拠点であったと考えられる。
さらに宇文憲は兵を分け、北斉軍の糧道を遮断した。
宜陽では両軍とも長期間にわたって軍を展開しており、兵站の維持が勝敗を左右した。
宇文憲は補給路への圧力を強めることで北斉軍を城外へ誘い出し、戦況を有利に運ぼうとした。
やがて北斉軍が後退を始めると、宇文憲はこれを見逃さず、軍を率いて洛水を渡河した。
洛水は洛陽盆地を流れる天然の防衛線であり、
大軍を率いて渡河することは敵前での危険な行動でもあった。
宇文憲は渡河後も追撃を続け、北斉軍を圧迫したと『周書』は伝えている。
もっとも、この戦役は一度の会戦で決着したものではなかった。
独孤永業は守備を維持し、斛律光も各地で北周軍の攻勢を食い止めたため、
北周軍は洛陽攻略には至らなかった。
宜陽をめぐる攻防はその後も続き、
洛陽周辺では北周・北斉両軍が一進一退の戦いを繰り返すことになる。
宜陽攻防戦は宇文憲が北周軍の前線指揮官として、北斉の独孤永業・斛律光らと対峙し、
前線基地の築城、糧道の遮断、洛水渡河による追撃を指揮した。
龍門方面での作戦
570年(天和5年)、北斉の斛律光は大軍を率い、汾水の北に城を築き、
その防衛線を西は龍門にまで及ぼした。
龍門は黄河の渡河点であり、関中から河東へ進む際の重要な入口である。
汾水流域は河東を南北に貫く交通路であり、ここを押さえることは北斉の河東防衛に直結した。
この情勢を受け、宇文護は宇文憲に対し、
国境地帯で戦乱が続き、民が疲弊しているとして、どのような策を取るべきかを問うた。
宇文憲は、宇文護自身が同州に出て大軍の威勢を示し、
自分は精兵を率いて前進し、機に応じて攻略すべきだと答えた。宇文護はこの策を採用した。
571年(天和6年)、宇文憲は兵二万を率いて龍門から出撃した。
北斉では新蔡王・王康徳が対峙したが、宇文憲の兵が迫ると、夜のうちに密かに軍を退いた。
宇文憲はいったん西へ帰還した。
その後、宇文憲は汾水の流れを掘り移し、汾水南岸の堡壁を再び北斉側へ入らせた。
北斉軍は、宇文憲の軍略は遠方には及ばないと見て、辺境の備えを緩めた。
宇文憲はこの機を逃さず黄河を渡り、伏龍など四城を攻撃した。四城は二日のうちにすべて陥落した。さらに張壁へ進軍してこれを攻略し、軍需物資を奪い、城塁を破壊した。
このとき斛律光は華谷にいたが、救援することができなかった。
宇文憲はさらに北上して姚襄城を攻め、これを陥落させた。
龍門方面の作戦は、斛律光が築いた汾北から龍門に至る防衛線に対し、
宇文憲が二万の兵を率いて出撃し、王康徳を退かせ、伏龍など四城、張壁、
姚襄城を相次いで攻略した戦役であった。
汾州救援と石殿城
龍門方面での攻勢と前後して、北周の汾州は北斉軍に長く包囲されていた。
城内では兵糧が尽きかけ、外部からの援路も断たれていた。
『周書』によれば、宇文憲はまず柱国の宇文盛(宇文憲の異母弟)を遣わし、
兵糧を運ばせて汾州へ補給した。
包囲下の城を救うには、援軍だけでなく兵糧の搬入が不可欠だった。
その後、宇文憲は自ら軍を率いて両乳谷へ入り、北斉の柏社城を奇襲して陥落させた。
さらに姚襄へ進軍したが、北斉軍は城を固く守って抵抗した。
宇文憲は柱国・譚公の宇文会(宇文護の子)に命じ、石殿城を築かせた。
石殿城は汾州を支援するための拠点として築かれた城であり、
『周書』は「以為汾州之援」と記している。
これに対し、北斉では平原王・段韶と蘭陵王が兵を率いて大挙して現れた。
宇文憲は将士に命じて陣を整え、これを待ち受けた。
戦闘が始まると、北周の大将軍・韓歓が北斉軍の攻撃を受けて退却した。
宇文憲は自ら督戦し、軍を立て直した。
北斉軍は次第に退き、日暮れとなったため、両軍はそれぞれ兵を収めた。
汾州救援では、宇文盛による兵糧輸送、柏社城の攻略、石殿城の築城、
段韶・蘭陵王軍との対陣が続いて起こった。
『周書』は、宇文憲がこの戦線で補給・築城・野戦を組み合わせて汾州を支援したことを伝えている。
宇文護誅殺後の立場
宇文護誅殺後の謝罪
572年(建徳元年)、北周の武帝・宇文邕は宮中で宇文護を誅殺した。
宇文護は557年の北周建国以来、孝閔帝・明帝・武帝の三代にわたって実権を掌握し、
約十五年にわたり朝政を専断していた。
宇文憲は宇文護の信任を受け、軍政の重要事項についてたびたび意見を求められていた。
そのため、宇文護が誅殺された後、宇文憲は冠を脱いで武帝の前へ進み、自らの罪を謝した。
『周書』によれば、武帝は宇文憲に対し、
「あなたは私と同じ父を持つ兄弟であり、この件に関わりはない」と述べ、罪に問わなかった。
さらに武帝は、宇文護の邸宅に保管されていた兵符・文書・帳簿などを接収するよう
宇文憲に命じたと『周書』は伝えている。
兵符は軍隊の指揮権を示す割符であり、文書や帳簿は宇文護政権の軍事・行政に関わる記録であった。
大冢宰となるが実権は削られる
572年(建徳元年)、宇文護が誅殺されると、29歳の宇文憲はその後任として大冢宰に任じられた。
大冢宰は北周六官の筆頭に位置する最高官職であり、
宇文護も長年この官職にあって朝政を統轄していた。
宇文憲は最高官職に就いたものの、実権は武帝が掌握していた。
『周書』は、
「雖居冢宰之任、實奪其權(大冢宰の職にありながら、実際の権限は取り上げられていた)」
と記している。
裴文挙を介した武帝の警告
宇文憲が大冢宰となった後、武帝は宇文憲の属官であった裴文挙を宮中へ召した。
『周書』によれば、武帝は裴文挙に対し、
「斉王(宇文憲)は宗室の長であり、人望も厚い。
それゆえ、忠義を尽くし、兄弟の道を守るよう、よく諫めてほしい」と命じた。
裴文挙は武帝の言葉をそのまま宇文憲へ伝えた。
これに対し宇文憲は、「私はただ忠節を尽くすのみです」と答えたという。
このやり取りは、『周書』にそのまま記されている。
兵書『要略』五篇
572年(建徳元年)以降、宇文憲は軍務のかたわら兵法の研究にも取り組んだ。
『周書』によれば、宇文憲は古来の兵書は内容が広範で要点を把握しにくいと考え、
その要旨をまとめて『要略』五篇を著した。
完成した『要略』は武帝に献上され、武帝はこれを読んで賞賛したという。
『要略』は現在では失われており、その内容は伝わっていない。
しかし、『周書』は宇文憲が自ら兵法を研究し、兵書を著したことを記録している。
現存する史料で確認できる宇文憲の著作は、『周書』に見える『要略』五篇のみである。
衛王 宇文直の反乱
574年(建徳3年)、武帝によって宇文護が誅殺されてから約二年後、
弟である衛王・宇文直が反乱を起こした。
衛王・宇文直は、以前から宇文憲を快く思っていなかった。
『周書』によれば、宇文護が誅殺された際には、
宇文憲も宇文護と親しかったことを理由に、あわせて処分すべきであると武帝へ進言した。
しかし、武帝は「宇文憲はこの件に関わっていない」として取り上げず、引き続き重用した。
その後、宇文憲は大冢宰に任じられ、宗室の筆頭として武帝の信任を受け続けた。
一方、宇文直は自らが重く用いられないことへの不満を募らせ、ついに挙兵を決意する。
574年、武帝が雲陽宮へ行幸して長安を離れると、
宇文直はこれを好機とみて兵を集め、長安で挙兵した。
反乱軍は宮城の粛章門を攻撃し、一挙に宮中を制圧しようとした。
しかし、宮城では尉遅運と長孫覧らが守備にあたっていた。
尉遅運は門を固く閉ざして反乱軍の突入を阻み、激しい攻防の末、
宇文直軍は宮門を突破することができなかった。
武帝は反乱の報を受けると直ちに軍を返し、宇文憲を前軍総管として討伐軍を編成した。
宇文憲は諸軍を率いて進軍し、武帝軍は長安へ迫る宇文直軍を攻撃した。
皇帝自らが軍を率いて戻ってきたことを知ると、宇文直軍の士気は急速に低下した。
反乱軍は総崩れとなり、宇文直は長安を脱出して荊州方面へ逃れたが、まもなく捕らえられた。
宇文直は都へ送還され、いったん庶人に落とされた。
しかし、『周書』は、なお異志ありと判断され、最終的に処刑されたと伝えている。
この反乱は短期間で鎮圧され、武帝による親政はさらに強化された。
575年(建徳4年)の東征
東討前の私財献上
575年(建徳4年)、武帝は北斉討伐のため東征を計画した。
『資治通鑑』によれば、この東征計画は極秘に進められ、
武帝は当初、側近の王誼にのみ相談していた。
その後、斉王・宇文憲を召して計画を打ち明けると、宇文憲は直ちに賛同した。
さらに于翼や尉遅運らの意見も徴し、東征の準備が整えられた。
出征を前に、宇文憲は自ら所有する金宝など十六件を朝廷へ献上し、軍費に充ててほしいと願い出た。
しかし、武帝はこれを受け取らず、宇文憲の申し出だけを公卿たちに示したという。
『周書』は、
「宇文憲が金宝等十六事を献じ、帝はこれを受けず、その志を公卿に示した」と記している。
黎陽・河陰・武済・洛口の戦い
575年(建徳4年)、武帝は北斉討伐のため大規模な東征を開始した。
当時の北斉では、後主・高緯のもとで穆提婆・韓長鸞・高阿那肱らが朝政を左右していた。
一方で、軍事面では依然として強力な戦力を維持しており、
洛陽方面には黄河を利用した堅固な防衛線が築かれていた。
武帝は正面から洛陽城を攻撃するのではなく、
まず黄河沿いの要地を攻略して北斉軍の防衛線を切り崩し、洛陽攻略の足掛かりを築く方針を採った。
東征が始まると、武帝は自ら主力軍を率い、宇文憲を前軍の総指揮に任じた。
宇文憲は諸軍に先行して東進し、まず黎陽へ進軍した。
黎陽は黄河の重要な渡河点であり、
ここを確保したことで北周軍は黄河東岸への進出路を得ることに成功した。
続いて宇文憲は河陰へ進み、さらに黄河を渡って武済を攻略した。
河陰・武済はいずれも洛陽北方の交通を押さえる要地であり、洛陽防衛線を支える重要拠点であった。
この頃、洛陽方面の防衛を担っていたのが北斉の名将・独孤永業である。
独孤永業は金墉城を拠点として洛陽周辺の守備を統括し、北周軍の進撃に備えていた。
宇文憲はその勢いのまま洛口へ軍を進めた。
洛口は黄河と洛水が合流する地点に位置し、洛陽へ迫る玄関口である。
ここには東城・西城の二城が築かれており、宇文憲は両城を包囲して攻略した。
これにより北周軍は黄河東岸に橋頭堡を築き、洛陽攻略への前進基地を確保した。
北斉側もただちに対応に動いた。
河陽方面には将軍・傅伏が援軍として派遣され、
さらに晋陽からは高阿那肱が主力軍を率いて南下し、洛陽救援と北周軍迎撃の準備を進めた。
北周軍と北斉軍による洛陽決戦が迫る中、武帝は軍中で病に倒れた。
総司令官である武帝は作戦の継続を断念し、全軍に撤退を命じた。
宇文憲も占領した諸城を放棄して兵をまとめ、主力軍とともに関中へ帰還した。
この東征は北斉滅亡には至らなかったものの、
北周軍は黄河を越えて黎陽・河陰・武済・洛口まで進出し、洛口の東西二城を攻略する戦果を挙げた。
一方で、独孤永業を中心とする洛陽防衛線もなお健在であり、
北周による北斉攻略は翌年以降の再度の東征へ持ち越されることとなった。
上柱国となる
575年(建徳4年)、北周では新たに上柱国の官が置かれた。
上柱国は北周における最高位の武官号の一つであり、柱国の上位に位置づけられた官職である。
『周書』には、「初置上柱國官,以憲為之(初めて上柱国の官を置き、宇文憲をこれに任じた)」
と記されており、任命の経緯についてはそれ以上詳しく伝えていない。
宇文憲は大冢宰に加え、上柱国の官も兼ねることとなった。
576年(建徳5年)の東征
576年(建徳5年)、武帝は再び自ら軍を率いて北斉討伐に乗り出した。
『周書』によれば、武帝は宇文憲に精騎二万を授け、前軍の総指揮を命じた。
宇文憲は本隊に先行して進軍し、まず関中から河東へ至る要衝である雀鼠谷を確保した。
雀鼠谷は関中と河東を結ぶ交通の要地であり、
ここを押さえることによって北周軍は安全に東進することが可能となった。
雀鼠谷を制圧した宇文憲は、そのまま河東へ進軍し、洪洞を攻略した。
『資治通鑑』によれば、洪洞陥落の報が伝わると、北斉の守将韓建業は抗戦を断念して降伏した。
宇文憲はさらに軍を進め、永安を攻略した。
河東方面の諸城が相次いで北周軍の手に落ちたことで、北周軍は并州方面への進軍路を確保した。
一方、北斉では後主・高緯が晋陽にあって諸軍を指揮し、北周軍の進撃に備えた。
しかし、宇文憲率いる前軍は進撃を続け、武帝率いる本隊もこれに続いて河東へ進出した。
この遠征では、宇文憲が精騎二万を率いる前軍として先行し、
雀鼠谷、洪洞、永安を攻略して北周軍の進路を切り開いた。
武帝率いる主力軍はその後を進み、北斉との決戦の地となる并州・晋州方面へ向かった。
柏枝による偽装作戦
宇文憲は前軍を率いて河東方面を進軍し、
洪洞・永安を攻略した後も北斉軍と対峙していた。
『周書』によれば、このとき宇文憲は軍を移動させるにあたり、
柏の枝を集めて仮小屋(菴)を築かせた。
一見すると大軍がなお営中に駐屯しているように見えたが、
実際には主力はすでに移動を開始していた。
北斉軍は北周軍が依然としてその場に留まっているものと判断し、
ただちに追撃することができなかった。
その間に宇文憲は軍を進め、予定どおり進軍を続けた。
『周書』は、柏の枝で営舎を残し、敵を欺いて軍を移動させたこの出来事を、
宇文憲の用兵を伝える逸話として収録している。
高梁橋で段暢と対話
北周軍は河東方面で勝利を重ねたが、武帝が軍中で病に倒れたため撤退を開始した。
宇文憲は精騎二千を率いて殿軍(しんがり)を務め、高梁橋で北斉軍の追撃を迎え撃った。
『周書』によれば、北斉の領軍・段暢(段韶の子)は橋を隔てて宇文憲に向かい、主将の名を尋ねた。
宇文憲は初め、「私は虞候大都督にすぎない」と答えた。
しかし、段暢は「その言葉遣いは凡人ではない。なぜ身分を隠すのか」と重ねて問いかけた。
そこで宇文憲は、「我は天子の太弟、斉王である」と名乗り、
そばにいた陳王宇文純(宇文憲の異母弟)、梁公侯莫陳芮、内史王誼らの官位と姓名も告げた。
段暢はただちに馬首を返すと、北斉軍は直ちに追撃を開始した。
宇文憲も直ちに軍を反転させ、開府・宇文忻とともにそれぞれ精兵百騎を率いて殿軍となり、
追撃してきた北斉軍を迎え撃った。
この戦いで宇文憲らは北斉の驍将賀蘭豹子、山褥瑰ら百余人を討ち取り、
北斉軍は退却したと『周書』は伝えている。
晋州救援
北周軍は河東方面で進撃を続け、その主力は北斉西部最大の要衝・晋州へ向かった。
晋州は并州(晋陽)へ通じる入口に位置し、
この城を失えば北斉の西方防衛線は大きく揺らぐことになる。
そのため武帝は晋州攻略を東征最大の目標と定めた。
晋州では北周の将・梁士彦が城を守り、北斉軍の激しい包囲攻撃に耐えていた。
『周書』によれば、北斉軍は昼夜を分かたず攻城を続け、城内は孤立した状態に置かれていた。
武帝は宇文憲に兵六万を授け、晋州救援を命じた。
宇文憲はまず涑水へ進軍して陣を敷き、前線の様子を探らせた。
その頃、軍中には「晋州はすでに陥落した」との報が伝わったが、宇文憲はこれを信じず、
越王宇文盛(異母帝)、大将軍尉遅迥(宿将)、開府・宇文神挙(宗室の若手有力将軍)らに
軽騎一万を与え、夜陰に乗じて城内へ向かわせた。
やがて斥候が帰還し、晋州がなお持ちこたえていることが判明すると、
宇文憲は直ちに軍を進めて救援に向かった。
宇文憲は蒙坑へ進出して武帝率いる本隊の到着を待ち、晋州守備軍との連携を回復した。
一方、北斉でも後主・高緯が自ら晋陽を発し、高阿那肱らを従えて大軍を率い、晋州救援へ向かった。
まもなく武帝率いる北周主力軍も前線へ到着し、北周・北斉両国の主力軍が晋州城外に集結した。
「破ってから食事する」
晋州決戦を前に、武帝は宇文憲を呼び、北斉軍の陣容を視察させた。
宇文憲は敵陣を詳しく見分した後、武帝のもとへ戻って報告した。
武帝は宇文憲に食事を勧めたが、宇文憲はこれを辞退し、
「願破賊後食(賊を破ってから食事をいただきます)」と答えた。
武帝はこの言葉を聞いて大いに喜んだ。
しかし、その場にいた文臣・柳虯(りゅうきゅう)は、
「敵を軽んじてはなりません」と宇文憲を戒めた。
これに対し宇文憲は、
「敵を侮っているのではありません。前軍を率いる将として、勝利を期しているだけです」
と答えたという。
このやり取りは『周書』および『資治通鑑』に記されており、
晋州決戦を目前に控えた宇文憲の言動を伝える逸話として知られている。
晋州決戦
武帝は諸軍に総攻撃を命じ、宇文憲は六万の前軍の総指揮を任され、先鋒を務めた。
一方、北斉では後主・高緯が自ら軍を率い、高阿那肱、穆提婆、韓長鸞らがこれに従った。
『資治通鑑』によれば、その兵力は十余万に及んだという。
晋州城外では激戦が続いた。
やがて北斉軍の一部が後退すると、高緯の寵姫であった馮小憐は「軍敗矣」と叫び、
穆提婆も高緯へ退却を勧めた。高緯は高阿那肱らとともに高梁橋方面へ退いた。
これに対し、
奚長や張常山は「軍はまだ敗れていない。陛下が退かれれば軍は本当に崩壊する」と諫め、
高緯を戦場へ戻そうとした。
高緯も一時は軍へ戻ろうとしたが、穆提婆は再び退却を勧め、高緯はそのまま晋陽へ向かった。
皇帝の退却を知った北斉軍は潰走し、北周軍はこれを追撃した。
晋州を包囲していた北斉軍は撤退し、晋州の包囲はここに解かれた。
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并州攻略と安徳王高延宗の捕縛
晋州城外の戦いに敗れた後、後主・高緯は晋陽へ退いた。
しかし間もなく晋陽を離れ、幼主・高恒を伴って鄴へ向かった。
晋陽では、安徳王・高延宗が将兵や官民に推戴され、皇帝を称した。
高延宗は高歓の孫、高緯の従兄、高長恭(蘭陵王)の異母弟にあたる皇族である。
『北史』『資治通鑑』によれば、高延宗は府庫を開いて金銀や絹帛を将兵へ分け与え、
自ら甲冑をまとって軍の先頭に立った。
これを受けて晋陽には再び兵が集まり、その数は数万に及んだという。
一方、武帝は并州攻撃を命じ、宇文憲は西面から進軍して北周諸軍とともに城を包囲した。
やがて高延宗は自ら軍を率いて城外へ出撃した。
『資治通鑑』によれば、この戦いでは北周軍の一部が乱れ、武帝の近臣は退却を勧めたという。
しかし武帝はこれに従わず、自ら馬を進めて諸軍を督戦した。
宇文憲も西面から攻勢を続け、北周諸軍は再び前進した。
激戦の末、高延宗は捕らえられ、
北斉建国以来の根拠地である晋陽を擁する并州は、北周軍の支配下に入った。
鄴攻略
577年(建徳6年)正月、北周軍は并州を制圧し、鄴へ向けて進軍した。
并州を失った北斉では、後主・高緯は皇太子・高恒へ帝位を譲り、自らは太上皇となった。
高恒はこの時八歳であった。
その後、高緯は幼帝・高恒を伴い、
穆提婆、高阿那肱、平原王高叡ら近臣・宗室とともに鄴を離れ、青州方面へ向かった。
『資治通鑑』によれば、高緯一行は済州付近で北周軍に追いつかれ、
高緯、高恒、穆提婆、高阿那肱、高叡らは相次いで捕らえられた。
一方、武帝は諸軍を率いて東進を続け、宇文憲も軍を率いて鄴へ向かった。
『周書』は、「明年,攻拔鄴城(翌年、鄴城を攻め落とした)」と記し、
宇文憲が鄴攻略に参加したことを伝えている。
鄴は曹魏の重要拠点であり、後趙、冉魏、前燕はいずれもここに都を置いた。
さらに東魏が遷都して以後は北斉も引き続き都とし、中国北方の政治・軍事の中心となっていた。
北周軍は鄴へ入城し、宮殿や府庫を接収した。
東魏・北斉の歴代皇帝が政務を執った都は、ここに北周の支配下へ入ることとなった。
信都攻略前の降伏勧告
鄴を制圧した北周軍は、なお各地で抵抗を続ける北斉宗室の討伐へ向かった。
後主・高緯と幼帝・高恒はすでに北周軍の捕虜となっていたが、
任城王・高湝(高歓の子)、広寧王・高孝珩(高長恭(蘭陵王)や高延宗の異母兄)らは信都に拠り、
旧臣や各地の守備兵を集めて北周軍への抗戦を続けていた。
宇文憲は直ちに攻城戦を開始せず、まず高湝へ降伏を勧めた。
『周書』によれば、宇文憲は北斉から帰順した旧臣や捕らえた北斉の間者を通じて、
高湝へ書簡を送っている。
その書簡で宇文憲は、北斉の皇帝はすでに捕らえられ、鄴も陥落して天下の大勢は定まったとして、「天命の帰するところ、すでに定まれり」と説いた。
そして、なお一城に拠って抗戦を続ければ、将兵と百姓をいたずらに兵火へさらすのみであるとし、
宗室として国家に尽くしてきたのであれば、今こそ民を全うし、生を保つ道を選ぶべきであり、
速やかに帰順するよう勧めた。
しかし、高湝が書簡に応じることなく信都に拠り、抗戦を続けたことを『周書』は伝えている。
信都の戦い
降伏交渉が決裂すると、宇文憲は諸軍に総攻撃を命じた。
北周軍は四方から信都を包囲して攻城戦を開始し、激戦の末に北斉軍を撃破した。
『周書』によれば、この戦いで三万人を俘虜とするか、あるいは討ち取ったと記されている。
城が陥落すると、高湝、高孝珩ら北斉宗室は捕らえられ、北周軍は信都を制圧した。
これにより、鄴陥落後も続いていた北斉宗室を中心とする組織的な抵抗は終息した。
敵将への礼遇
宇文憲は捕らえられた任城王・高湝、広寧王・高孝珩ら北斉宗室を引見して言葉を交わした。
『周書』によれば、高湝は宇文憲に対し、
「国が滅んだ以上、生きて恥を受けることは望まない。
ただ宗室として国に殉じようとしただけである」と述べた。
これに対し宇文憲は、高湝が最後まで北斉に忠節を尽くしたことを認め、その志を称えた。
そして高湝を辱めることなく、その妻子を返し、多くの財物を与えたという。
また、高孝珩も宇文憲の前で抗戦に至った経緯を語った。
宇文憲はその言葉を聞き、高孝珩に対しても礼をもって接したと『周書』は伝えている。
宇文憲は捕虜となった北斉宗室に対し、その節義を認めたうえで処遇を決めた。
この高湝・高孝珩との問答と礼遇の記事は、『周書』列伝に続けて収録されている。
北斉滅亡後
劉没鐸の討伐
577年(建徳6年)、稽胡の首領・劉没鐸が挙兵し、自ら皇帝を称して北周に反旗を翻した。
稽胡は山西一帯の山間部を拠点とする胡族系集団で、
北魏以来たびたび反乱を起こし、歴代王朝を悩ませていた。
『周書』によれば、武帝は宇文憲を総指揮官とし、
趙王・宇文招(弟)ら諸将を従えて劉没鐸討伐を命じた。
宇文憲は諸軍を率いて反乱軍を討ち、劉没鐸を平定した。
この討伐によって、北斉滅亡後もなお不安定であった山西方面の反乱は鎮圧され、
北周は華北支配の安定化を進めることとなった。
名望を恐れて退こうとする
宇文憲は河東、并州、鄴、信都を転戦して北斉滅亡に大きな役割を果たし、
さらに劉没鐸討伐にも功績を挙げた。
この頃、宇文憲はすでに大冢宰・上柱国として朝廷にあり、
『周書』によれば、宇文憲は自らの名望が高まることを憂え、
たびたび職を辞して身を退きたいと願い出ている。
しかし、武帝はこれを許さなかった。
翌578年(宣政元年)、武帝は北方の突厥討伐を計画した。
このとき宇文憲は病を理由として従軍を辞退した。
『周書』は、武帝がこれを快く思わなかったことを伝えているが、
宇文憲を処罰したとは記していない。
宣帝即位後の悲劇
宣帝に疑われる
578年(宣政元年)6月、武帝が崩御すると、皇太子・宇文贇が即位し、宣帝となった。
『周書』によれば、宣帝は「憲は宗室の長にして、名望は天下に著しい」と語り、
早くから宇文憲を警戒していたという。
やがて宣帝は側近の于智に命じて宇文憲の動静を探らせた。
于智は宇文憲に謀反の疑いがあると奏上したが、
『周書』には宇文憲が兵を集めたことや、反乱を計画したことを示す記事は見えない。
その後、宣帝は宇文憲を宮中へ召し出すことを決めた。
一方、宇文憲はなお平常どおり朝務に従っていたと『周書』は伝えている。
三師任命をめぐる誘導
『周書』によれば、宣帝は内史・宇文孝伯を宇文憲のもとへ遣わし、
宇文憲を太師・太傅・太保の「三師」のいずれかに任じようと考えていると伝えさせた。
三師は太師・太傅・太保の総称で、皇帝を補佐する最高位の官職とされた。
これに対し宇文憲は、「宗室には賢者が多くおります。私たち兄弟だけが高位を占めれば、天下の人々はどのように思うでしょうか」と述べ、その申し出を辞退した。
宇文孝伯はこの言葉をそのまま宣帝へ復命した。
宮中への召喚と逮捕
578年(宣政元年)、宣帝は諸王を宮中へ召した。
宇文憲も詔に従って参内し、他の諸王とともに殿門へ至った。
ところが宇文憲だけが別に引き入れられると、
あらかじめ待機していた兵に取り囲まれ、その場で拘束された。
宇文憲は宣帝へ向かって、「私にどのような罪があるのでしょうか」と問いかけた。
宣帝が謀反の疑いを告げると、
宇文憲は「私は太祖 文帝以来、代々皇恩を受け、先帝にも忠節を尽くしてまいりました。
謀反など考えたことはありません」と弁明し、
もし罪があるというのであれば、その証拠を示してほしいと求めた。
しかし宣帝はこれを容れず、
『周書』は、このとき宣帝が于智らの奏言を理由として宇文憲を罪に問い、
そのまま獄へ下すよう命じたことを記している。
最期と母への遺言
『周書』によれば、宣帝は担当官に命じて宇文憲を取り調べさせたが、
宇文憲は自らに謀反の意思はないと訴えた。
しかし宣帝はこれを容れず、宇文憲を死罪に処するよう命じた。
『周書』は、このとき宇文憲が生母・達歩干太妃のことを気に掛けていたと伝えている。
宇文憲は使者に対し、自分の死をすぐには母へ知らせず、頃合いを見て伝えてほしいと頼んだという。
やがて宇文憲は五府門で絞殺された。享年三十五。
『周書』は、その死を人々が惜しんだと記している。
側近の連座
宇文憲の誅殺は本人だけにとどまらなかった。
『周書』によれば、宣帝は続いて上大将軍・安邑公王興、上開府独孤熊、開府豆盧紹を処刑した。
三人はいずれも長年宇文憲に近侍し、軍務や政務を支えた側近であった。
『周書』は、その処刑理由について
「皆以昵於憲也(いずれも宇文憲と親しかったためである)」と記している。
さらに『周書』は、宣帝は宇文憲を処刑した後、その罪状を説明することができず、
王興らが宇文憲と結んで謀反を企てたという名目を立てて処刑したと伝えている。
しかし、列伝には王興・独孤熊・豆盧紹が実際に謀反へ加わったことを示す記事は見えない。
また、宣帝は宇文憲の幕僚たちを召し出し、宇文憲の謀反を証言させようとしたという。
しかし、参軍の李綱は宇文憲の無実を主張し、ついにその証言を得ることはできなかった。
当時の人々も、この処刑を宇文憲事件に連座したものと受け止めていた。
『周書』は、人々が王興らについて「皆坐齊王(みな斉王〔宇文憲〕のために罪を受けた)」
と語っていたことを伝えている。
母・達歩干氏への孝行
宇文憲の生母は達歩干氏である。
達歩干氏は柔然系の出身とされ、574年(建徳3年)に斉国太妃となった。
達歩干太妃が病に伏した際、宇文憲は昼夜を問わず看病し、衣帯を解かず寝所に仕えた。
病が快方へ向かうまで邸宅へ戻ることもなく、母の傍らを離れなかったという。
また、あるとき宇文憲が遠征のため都を離れていた際、
理由もなく胸騒ぎを覚え、「母上に異変があったのではないか」と案じた。
急いで使者を派遣して安否を確かめさせると、実際に達歩干太妃はその頃から病に伏していた。
宇文憲はただちに帰京し、再び母の看病にあたったと『周書』は記している。
宣帝によって処刑される直前にも、宇文憲は自らの命より母を案じ、
死をすぐには知らせず、頃合いを見て伝えてほしいと言い残した。
『周書』は、宇文憲の列伝にこれらの逸話を載せ、母への孝養ぶりを伝えている。
子女と族誅
『周書』によれば、宇文憲には、長男・宇文貴、次男・宇文質、三男・宇文賨、四男・宇文貢、
五男・宇文乾禧、六男・宇文乾洽の六人の男子がいた。
もっとも、『周書』『北史』は宇文憲の正妃や側室について記しておらず、
その姓名や出自、また諸子の生母についても伝えていない。
578年(宣政元年)、宇文憲が宣帝によって誅殺されると、その子らも連座した。
すでに早世していた長男・宇文貴を除き、
宇文質・宇文賨・宇文貢・宇文乾禧・宇文乾洽もまた誅殺された。
一方で、後世の史料によれば、宇文憲には娘がおり、参軍・李綱の庇護によって生き延びたという。
李綱は宇文憲の旧臣であり、宣帝が宇文憲の謀反を立証しようとした際にも、
その無実を主張した人物であった。
娘はその後、唐の時代まで生存し、李綱が死去した際には、
実父を失った時のように悲しんだと『旧唐書』『新唐書』の李綱伝は伝えている。
580年、宣帝が崩御すると、外戚の楊堅が朝政を掌握した。
翌581年、楊堅は静帝から禅譲を受けて隋を建国し、
宇文憲には斉王の爵位が追復され、諡として「煬」が贈られている。
「煬」は後世、隋の煬帝の諡号として広く知られるため、現在では否定的な印象を抱かれやすい。
しかし、『周書』『北史』『隋書』はいずれも宇文憲にこの諡号が贈られた理由を説明しておらず、
その選定理由は正史からは明らかではない。
また、『周書』『隋書』には連座して誅殺された男子の復権を伝える記事は見えず、
斉王家の男系はこの事件によって断絶した。
史臣評
『周書』列伝の末尾で、史臣は宇文憲に極めて高い評価を与えている。
まず、その才能については、「智勇冠世、攻戰如神」と評した。
知略と武勇は当世に冠たり、戦えば神のごとしという意味であり、
『周書』全体を見ても最上級の賛辞の一つである。
また、宇文憲は軍事だけでなく、政治にも優れた才能を発揮した人物として評価されている。
若くして益州を統治し、北斉征討では常に前軍を率いて河東・并州・鄴・信都を攻略し、
北周による華北統一に大きく貢献したことが、その根拠として列伝全体を通じて描かれている。
一方で、史臣は宇文憲の死についても論評を加えている。
宣帝が宇文憲を殺害したことによって、北周は宗室の柱石を自ら失ったとし、
この出来事が国家衰亡の兆しとなったと論じている。
実際、宇文憲が処刑された578年(宣政元年)の翌々年である580年には楊堅が朝政を掌握し、
581年(開皇元年)には静帝から禅譲を受けて隋を建国した。
北周は建国からわずか二十四年で滅亡した。
『周書』は、宇文憲を単なる名将としてではなく、北周を支える宗室の重臣として位置づけ、
その死を北周衰退の大きな転機であったと総括している。
武廟六十四将
唐の建中4年(783年)、
顔真卿の上奏によって古今の名将六十四人が武成王(太公望)廟に配享された際、
宇文憲もその一人に選ばれている。後世にいう「武廟六十四将」である。
武廟六十四将には、白起、韓信、衛青、霍去病、諸葛亮、李靖、李勣ら
中国史を代表する名将たちが列せられている。
北周は建国からわずか二十四年で滅亡した短命王朝であったが、
宇文憲の名は王朝の盛衰を超えて伝えられ、
唐代に至ってもなお歴代の名将の一人として評価されていたことがうかがえる。
史書・参考文献
- 『周書』巻12「斉煬王憲伝」
- 『周書』巻5「武帝紀」
- 『北史』巻58「周宗室伝・斉煬王憲伝」
- 『資治通鑑』巻170~173(北周武帝・宣帝期)
- 『隋書』巻1「高祖紀」
- 『資治通鑑考異』(関連記事)
- 令狐徳棻『周書』(中華書局校点本)
- 李延寿『北史』(中華書局校点本)
- 司馬光『資治通鑑』(中華書局校点本)
