白起|秦の天下統一への道を切り開いた戦国最強の武安君

033.武将

戦国時代の秦にあって、白起ほど大量の敵兵を破り、多くの国土を奪った将軍はほとんどいない。
韓・魏連合軍を伊闕で壊滅させ、楚の都・郢を陥落させ、華陽では魏・趙の軍を破り、
長平では趙軍を包囲して降伏に追い込んだ。
その戦歴は、秦が六国を圧倒する国家へ変貌していく過程そのものと重なる。

一方、白起の名には常に大量殺戮の記録が付きまとう。
『史記』は伊闕で二十四万、華陽で十三万、陘城で五万を斬ったとし、
長平では降伏した趙兵を含めて前後四十五万人を失わせたと記す。

これらの数字をそのまま実数とみなせるかには慎重さが必要だが、
少なくとも司馬遷が白起を、敵軍を単に退却させるのではなく、
その戦力そのものを徹底的に破壊する将として描いていることは明らかである。

戦場では比類のない成果を挙げた白起も、
晩年には秦昭襄王の命令を拒み、宰相范雎との関係を悪化させ、
ついには爵位を奪われて自害を命じられた。

『史記』が描くその生涯は、秦の軍事的膨張を象徴すると同時に、
大功を挙げた将軍が君主との関係を失い、
最後には自らの功績とも結びついた大量殺戮を振り返りながら死んでいく物語でもある。

郿に生まれ、秦昭襄王に仕える

白起は郿の人である。
郿は現在の陝西省眉県付近にあたり、秦の本拠である関中に位置していた。

生年や父母、家系、少年時代について、『史記』は何も伝えていない。
「公孫起」と呼ばれたとする後世の記録もあるが、
白起本人の同時代に近い確実な史料からその出自を詳しく復元することはできない。

『史記』「白起王翦列伝」は、
白起について「善く兵を用い、秦昭王に事う」と簡潔に記し、その軍歴から記述を始めている。

史書に明確に姿を現すのは秦昭襄王十三年、紀元前294年頃で、
この時すでに左庶長の爵位にあり、軍を率いて韓の新城を攻撃した。

左庶長は秦の二十等爵の十位にあたり、
白起がこの時点ですでに一定の軍歴と地位を持っていたことを示す。
ただし、そこへ至るまでにどのような戦功を挙げたのかは分からない。

当時の秦では、昭襄王の母・宣太后の弟である魏冉が大きな権勢を握り、
穣侯として宰相を務めていた。
後世には白起が魏冉によって抜擢されたと説明されることが多いが、
『史記』「白起王翦列伝」はこの年に魏冉が秦の宰相となったことを記す一方、
白起を直接推挙したとは明記していない。


白起の台頭が魏冉の執政期と重なっていたことまでは確かである。

伊闕の戦い――韓・魏連合軍二十四万を破る

翌紀元前293年、白起は左更へ進み、韓・魏の連合軍と伊闕で戦った。
伊闕は洛陽の南方に位置する交通の要衝で、韓・魏と秦の勢力圏を結ぶ重要な地点だった。
韓・魏側は大軍を集め、魏将公孫喜らがこれを率いた。

しかし白起は連合軍を破り、
『史記』によれば二十四万人を斬首し、公孫喜を捕虜としたうえで五城を攻略した。
白起はこの戦功によって国尉へ昇進し、
さらに黄河を渡って韓の安邑以東を奪い、乾河にまで到達した。

伊闕の勝利は白起の名を一躍知らしめた戦いであると同時に、
秦が韓・魏を軍事的に圧倒する契機となった。

韓と魏は秦の東進を防ぐ位置にあり、両国の連合軍を一度に壊滅させた意味は大きい。

『史記』が白起について記す大量の斬首数も、ここから本格的に現れる。
戦国秦では敵兵の首級が軍功爵制と結びついており、斬首数そのものが軍事成果として記録された。

数字の正確性とは別に、伊闕以降の白起の戦争が敵の領土を奪うだけでなく、
野戦軍を大規模に消耗させる性格を持っていたことがうかがえる。

大良造となり、魏の六十一城を攻略

伊闕の翌年、白起は大良造に進んだ。
大良造は秦の爵制における第十六等にあたり、商鞅もかつてこの地位に就いている。
白起は史書に登場してからわずかな期間で、秦の軍事を担う最高級の功臣へと昇ったことになる。

白起は魏を攻撃し、大小六十一城を攻略した。
さらに翌年には客卿の錯とともに垣城を攻めてこれを陥落させている。

『史記』本文はこの「錯」の名だけを記しており、
しばしば秦の名将司馬錯と理解されるが、
本文自体は姓を示していないため断定には注意が必要である。

この時期の白起は、韓・魏の国境地帯を継続的に侵食し、
秦の領土を東へ押し広げる役割を担っていた。


↓↓秦の名将司馬錯についての個別記事は、こちら

司馬錯|蜀併合で秦を「勝てる国」に変えた戦略家の実像
司馬錯(しばさく)は戦国時代の秦の将軍で、蜀併合を主導し秦を兵站国家へと転換させた戦略家。張儀との論争、蜀統治と反乱鎮圧、白起との共同作戦、楚・魏攻略までを史実ベースで詳説し、秦統一を可能にした構造戦略の核心に迫る。

趙へ進出し、光狼城を奪う

垣城攻略から五年後、白起は趙を攻撃して光狼城を攻略した。
『史記』「白起王翦列伝」の記述は簡潔だが、
白起の戦線が韓・魏だけでなく趙にまで広がったことを示している。

白起は特定方面専門の将ではなく、
韓・魏・趙・楚という秦周辺の主要国すべてに投入される将軍となっていた。
その後の楚遠征を含めれば、昭襄王が重要戦線で白起を繰り返し起用していたことが分かる。

楚への大遠征――鄢・鄧を攻略

紀元前279年、白起は楚へ侵攻し、鄢・鄧など五城を攻略した。
楚は広大な領土と人口を持つ大国であり、秦にとって韓・魏とは異なる規模の敵だった。
白起の攻撃は辺境の城を奪う程度にとどまらず、楚の中心部へ向かって深く進入するものとなった。

なかでも鄢攻略については、
『史記』よりはるか後世の北魏・酈道元『水経注』に興味深い伝承が残る。

白起は西山の長谷を流れる水を引き、堰を築いて鄢城へ注ぎ込ませたという。
水は城の東北角を破壊し、多数の住民が流されて死亡したとされ、
その死臭から城東の池が「臭池」と呼ばれたという地名伝承まで記録されている。
さらに後世には白起が作った水路が灌漑用水として利用され、「白起渠」と呼ばれたともいう。

『水経注』は白起の時代から七百年以上を経て成立した史料であり、
数十万人が死亡したという数字までそのまま戦国期の事実とみなすことはできない。
しかし、鄢城攻略に水攻めを用いたという伝承が
当地の地理や水路と結びついて長く残ったことは注目される。

楚都・郢を陥落させ、武安君となる

紀元前278年、白起は前年に続いて楚へ侵攻し、ついに楚の都・郢を攻略した。
さらに夷陵を焼き、東へ軍を進めて竟陵にまで到達する。

楚の頃襄王は郢を維持できず、東方の陳へ遷都を余儀なくされた。
郢は長く楚の政治的中心であったため、その陥落は単なる一都市の喪失ではなかった。

楚は本拠地である長江中流域の重要地域を秦に奪われ、
秦は占領地に南郡を設置して支配下へ組み込んだ。
白起はさらに楚領へ攻勢を続け、巫・黔中方面も平定している。

この一連の戦功によって、白起は武安君に封じられた。
以後、『史記』では白起を「武安君」と記すことが多くなる。


韓・魏方面で戦功を重ねてきた白起は、楚の都を陥落させるまでに至り、
秦の対外戦争を代表する将軍としての地位を確立した。

華陽の戦い――十三万を斬り、二万を黄河に沈める

紀元前273年、白起は再び東方戦線に姿を現した。
魏の華陽を攻撃し、魏将芒卯を敗走させ、三晋の将を捕虜とした。
『史記』によれば、この戦いで白起は十三万人を斬首した。
さらに趙将賈偃とも戦い、趙兵二万人を黄河へ沈めたと記されている。

白起の戦歴では、敵軍の「撃破」だけで終わる記録が少ない。
伊闕では二十四万、華陽では十三万を斬ったという数字が記され、
趙兵については二万人を河中に沈めたという具体的な処置まで残る。

これは白起個人の残虐性だけで説明すべきものではない。
秦の軍功制度自体が敵兵の殺傷を昇進や爵位と結びつけていたからである。
しかし、その制度のもとでも白起の記録が突出していることは否定できない。

陘城を攻略し、上党への道を開く

紀元前264年、白起は韓の陘城を攻め、五城を攻略した。
『史記』によれば、この戦いでは五万人を斬首したという。

翌年には南陽方面へ進み、太行山を通る交通路を遮断した。
さらに秦軍が野王を攻略したことで、韓本土と上党郡を結ぶ道はほぼ断たれることになった。

上党は太行山地に位置し、韓にとって北方の重要拠点だった。
しかし本国との連絡を失ったことで維持が難しくなり、韓は上党を秦へ割譲する方針を決めた。
『水経注』にも、昭襄王四十四年に白起が太行道を断ち、
その後に野王が秦へ降ったことが記されている。

ところが、上党の現地勢力は秦への帰属を受け入れず、郡を趙へ差し出そうとした。
趙がこれを受け入れたことで、上党をめぐる争いは韓と秦の問題ではなく、
秦と趙の直接対決へと変わった。


この領有問題から始まった軍事衝突が、やがて長平の戦いへ発展することになる。

長平の対陣――廉頗の持久戦

秦軍は王齕を中心として上党方面へ進み、趙は名将廉頗を派遣した。

廉頗は当初秦軍と戦って損害を受けると、方針を変えて堅固な陣地を築き、正面決戦を避けた。
趙軍は秦軍の挑発にも応じず、長期戦に持ち込んだ。

遠征軍である秦にとって、これは望ましい展開ではなかった。
短期間で敵主力を撃破できなければ補給負担が増し、戦争を続けるほど秦側も消耗する。

秦は趙の国内に離間工作を仕掛けた。
秦が恐れているのは廉頗ではなく、馬服君趙奢の子である趙括が将軍になることだ、
という風説を流したのである。


趙孝成王は廉頗を退け、趙括を主将に任命した。
この人事には反対も多かった。
藺相如は趙括が父の兵法を暗記しているだけで臨機応変の能力を欠くと諫め、
趙括の母も自ら王のもとへ赴いて息子を将軍に用いないよう求めたと『史記』は伝える。
しかし孝成王は趙括を長平へ送った。

白起を極秘に上将軍とする

趙括が廉頗に代わったことを知ると、
秦昭襄王は白起を密かに上将軍へ任命し、王齕を副将とした。


重要なのは、白起の就任そのものが軍事機密とされたことである。
『史記』によれば、秦は「武安君が将軍となったことを漏らした者は斬る」と命じた。
秦がそこまで白起の存在を隠したことは、趙側が白起をどれほど警戒していたかを逆に示している。

趙括は着任すると廉頗の戦術を変更し、軍の規則や将校の配置にも手を加え、秦軍との決戦に出た。
白起はこれを正面から受け止めず、敗走を装って趙軍を誘い込んだ。

趙軍を分断し、糧道を断つ

趙括は退く秦軍を追撃し、秦の陣地へ攻め込んだ。しかし秦軍の本営は堅く、突破できなかった。

その間に白起は別働隊を動かした。
『史記』によれば、二万五千の奇兵を趙軍の背後へ回して退路と補給路を遮断し、
さらに五千の騎兵を趙軍の陣営の間へ進出させた。

これによって趙軍は分断された。
前進した趙軍と後方の陣地との連絡が切れ、食糧輸送も困難となった。
白起は軽装部隊を送り込んで趙軍を攻撃し、
趙括は攻勢を続けられなくなって陣地を築き、救援を待つことになった。

長平における白起の戦術は、敵の正面を力任せに突破するものではない。
趙括が攻撃に出ることを利用して深く誘い込み、その後に後方を遮断して大軍を包囲するものだった。

昭襄王も河内へ赴く――秦の総力戦

趙軍を包囲したとはいえ、数十万規模と伝えられる大軍を完全に降伏させるには、
外部からの救援と補給を断たなければならなかった。

趙軍の糧道を遮断したとの報告を受けた昭襄王は、自ら河内へ赴いた。
現地の民に爵一級を与え、十五歳以上の男子を動員して長平方面へ送ったと『史記』はいう。
白起の包囲戦は、秦国家全体の動員によって支えられていたことになる。

趙軍は四十六日間にわたって包囲された。
食糧は尽き、『史記』は飢えた兵士が密かに互いを殺して食べるまでになったと記している。
趙括は部隊を四つに分け、何度も包囲突破を試みたが成功しなかった。

趙括の戦死と趙軍の降伏

最後に趙括は自ら精鋭を率いて包囲突破を図ったが、しかし秦兵の矢を受けて戦死した。
主将を失った趙軍は戦闘を継続できなくなり、白起に降伏した。

長平の戦いは、戦場での単純な兵力衝突によって決まったのではない。
廉頗を交代させる離間工作、白起の極秘投入、偽装退却、別働隊による分断、糧道遮断、
さらに昭襄王による後方動員が組み合わされて趙軍を追い詰めた。

白起の軍歴を通じても、その用兵を最も具体的に確認できる戦いである。

長平の降伏兵を処刑する

趙括が戦死すると、包囲されていた趙軍は白起に降伏した。
しかし白起は、この大軍をそのまま生かしておくことを選ばなかった。

『史記』によれば、白起は、上党の民がもともと秦への帰属を嫌って趙に付いたことから、
趙兵を帰せば再び秦に敵対し、後の禍根になると考えた。
そこで降伏した兵を欺き、年少者二百四十人だけを趙へ帰して、残る者をほぼすべて殺害したという。『史記』は長平で趙が失った兵を前後合わせて四十五万人とし、
この知らせを受けた趙国は震撼したと記している。

この時の「挾詐して尽く阬殺す」という記述から、
後世には白起が四十万人もの趙兵を「生き埋め」にしたと広く語られるようになった。
ただし、「阬殺(坑殺)」が全員を文字通り生き埋めにしたことを意味するのか、
それとも殺害した後に穴や谷へ埋めたことまで含むのかについては議論がある。

この問題を考えるうえで重要なのが、長平古戦場で実際に大量の人骨が発見されていることである。
1995年、現在の山西省高平市永録村で「永録1号尸骨坑」が発掘され、約130体の遺骨が確認された。
遺骨のなかには手足に切断・損傷の痕跡があるもの、胸部に矢じりが残るもの、頭部を失ったものなど
があり、少なくとも一部は戦闘や殺害によって死亡した後に埋められたと考えられている。
さらに周辺では、永録2号をはじめ複数の尸骨坑も確認されている。

もちろん、これによって『史記』の「四十万余」という数字がそのまま証明されたわけではない。
発掘された遺骨の数はそのごく一部にすぎず、
確認された尸骨坑のすべてを長平で処刑された趙兵の墓と断定することもできない。

一方で、長平一帯に多数の人骨が埋められていたこと自体は考古学的に確認されており、
大規模な死者が発生したという『史記』の記事には一定の現実的な背景があったと考えられる。

また、発掘された遺骨に武器による損傷が見られることから、
少なくとも「四十万人全員を生きたまま穴へ埋めた」という単純なイメージには修正が必要となる。
白起が降伏兵を大量に殺害し、
その遺体を周辺の谷や窪地などへまとめて埋めた可能性も考えられている。

長平一帯では後世にも人骨がたびたび露出したと伝えられ、
・金・代にも散乱した骨を集めて埋葬したという記録が残る。
『史記』の数字をそのまま実数とみなすことには慎重であるべきだが、
長平で起きた大量死そのものは、史書だけに残された伝説とは言い切れなくなっている。

趙を滅ぼそうとする白起

長平で趙の主力軍を壊滅させた白起は、この機会に趙を一挙に屈服させようとした。
白起は部隊を分け、王齕に皮牢を攻略させ、司馬梗に太原を平定させ、
自らは趙の首都邯鄲へ迫る構想を進めた。

長平直後の趙は大量の兵を失い、防衛力が著しく低下していた。
白起にとって、この時こそ趙を攻める最大の機会だった。

ところが秦軍は邯鄲へ進まなかった。
趙側から秦へ働きかけが行われたためである。

蘇代の工作と范雎との対立

『史記』は、趙側の工作として蘇代が秦の宰相応侯范雎を説得した話を伝えている。
蘇代は、このまま白起が趙を滅ぼせば、その功績はさらに巨大になると説いた。
白起はすでに多くの戦功を重ねており、趙まで滅ぼせばその地位は范雎を上回りかねない。
それよりも韓・趙に領土を割譲させ、秦軍を休ませた方がよいというのである。

范雎は昭襄王に休兵を進言した。
秦は韓から垣雍、趙から六城を割譲させることを条件に講和し、軍を引いた。
白起はこれを知って范雎を恨んだと『史記』は記している。

ここで白起と范雎の関係に亀裂が入った。
白起にとっては、長平で趙の主力を壊滅させながら、
その成果を趙滅亡まで結びつける機会を奪われたことになる。

一方、范雎から見れば、軍功によって巨大な威望を獲得した白起は、
宮廷政治の均衡を変え得る存在になっていた。

後世、蔡沢が范雎に引退を勧めた際にも、
大功を挙げたにもかかわらず最後には杜郵で死んだ白起が、
功臣の危険な末路の一例として挙げられている。
白起の死は早くから「功績が高くなりすぎた臣下」の問題と結びつけて理解されていた。

邯鄲攻略を命じられるが拒否する

長平の戦いから時間が経つと、秦は再び趙への侵攻を開始し、首都・邯鄲を攻めた。
この時、白起は病にかかっていたため出陣せず、王陵が秦軍を率いた。
しかし邯鄲の守りは固く、秦が兵力を増強しても王陵は思うような戦果を挙げられなかった。

やがて白起の病状が回復すると、昭襄王は王陵に代えて白起を出陣させようとした。
ところが白起は、今から邯鄲を攻めても勝つことは難しいとして命令を拒んだ

白起によれば、長平の直後であれば趙は主力軍を失い、国内も動揺していたため、
そのまま攻めれば邯鄲を落とすことができた。
しかし秦が講和したことで趙には立て直す時間が与えられ、すでに以前とは状況が変わっていた。
しかも趙が滅亡の危機に陥れば、秦のさらなる拡大を警戒する諸侯が救援に動く可能性も高かった。

加えて、秦軍は遠く趙領へ侵入して戦わなければならないのに対し、
趙軍は自国の都を守る立場にある。
白起はこうした条件を挙げ、すでに邯鄲を攻める好機は失われたと判断したのである。

長平直後には趙への攻撃続行を求めながら、
後になって出陣を拒んだ白起の態度は、一見すると矛盾している。
しかし白起が重視していたのは趙を攻めるか否かではなく、勝てる時機に戦うことだった。
長平直後には存在した勝機が、講和によって失われたというのが白起の判断だった。

范雎が説得しても動かない

昭襄王は白起を説得しようとした。
范雎も白起のもとを訪れ、出陣するよう求めたが、白起は病を理由に応じなかった。

白起が実際にどの程度病んでいたのかは分からない。
ただし『史記』に残る白起の主張を見る限り、単に病気だけを理由としていたわけではなく、
邯鄲攻撃そのものに勝算がないと判断していたことは明らかである。

秦王は白起を使えないまま、王陵を罷免して王齕らに攻撃を続けさせた。
白起の予想通り、戦況は悪化した。
趙には魏や楚などの援軍が加わり、秦軍は損害を受けた。

「秦王は私の計を聞かなかった」

秦軍敗北の知らせを聞いた白起は、自分の判断が正しかったことを口にした。
『史記』は白起が「秦、臣の計を聴かず、今如何」といった趣旨の言葉を発したと伝えている。
つまり「秦王は私の意見を聞かなかったが、今どうなったか」というのである。

軍事的には白起の判断が当たった。
しかし君臣関係の面では、この発言は危険だった。
昭襄王は自らの命令に従わなかった白起が、秦軍の敗北を見て王の判断を批判していると受け取った。

王は改めて白起に出陣を命じたが、白起は病が重いとして従わなかった。
范雎にも説得させたが結果は変わらない。
戦場で勝利を重ねてきた白起と、秦の最終的な軍事決定権を持つ昭襄王との関係は、
ここで修復困難な状態となった。

武安君の爵位を奪われる

度重なる出陣命令にも応じない白起に対し、
昭襄王はついに武安君の爵位を奪い、白起を士伍へ落とした。

楚の都・郢を陥落させ、長平では趙の主力軍を壊滅させるなど、
長年にわたって秦の拡大を支えてきた白起だったが、
王命を拒み続けたことで、その軍功ももはや彼の立場を守るものとはならなかった。

爵位を失った白起には、咸陽を離れて陰密へ移るよう命令が下された。
しかし病が重かったためすぐには出発できず、そのまま咸陽に三か月ほど留まった。

この間にも邯鄲を攻める秦軍の戦況は悪化し、
諸侯の援軍による攻撃を受けて秦軍は相次いで後退した。
白起が出兵に反対した際に懸念していた状況が、実際のものとなっていたのである。

しかし、それによって白起の立場が回復することはなく、
むしろ王命に従わないまま咸陽に留まり続ける白起に対して、
昭襄王の態度はいっそう厳しいものとなった。

咸陽を追放され、杜郵へ向かう

昭襄王は白起に咸陽に留まることを許さず、ただちに陰密へ向かうよう命じた。

白起はやむなく咸陽を出発し、西門から十里ほど離れた杜郵まで進んだ。
その頃、昭襄王は范雎や群臣と白起の処遇について改めて協議している。
『史記』によれば、群臣は白起について、罷免されてからも「怏怏として服さず」、
なお不満の言葉を口にしているとみなしていた。

白起が邯鄲攻略に反対した軍事判断そのものは、
秦軍の苦戦によって結果的に正しかったことが示されていた。
しかし昭襄王にとって問題となったのは、もはや戦況を正しく予測したかどうかではなく、
白起が王命を繰り返し拒み、罷免された後も不満を抱いていると見られたことだった。
こうして昭襄王は白起をそのまま陰密へ向かわせることを許さず、
杜郵に使者を送り、剣を与えて自害を命じた。

杜郵で自害を命じられる

杜郵にいた白起のもとへ昭襄王の使者が到着し、剣を渡して自害するよう命じた

『史記』によれば、白起は剣を手にすると天を仰ぎ、
「我は天に何の罪があって、このような結末を迎えるのか」と嘆いたという。
しかし、しばらく考えた後、自ら「私はもともと死ぬべきだった」と答え、
長平の戦いで降伏した趙兵数十万人を欺いて殺したことを挙げ、
「これだけでも死に値する」と語って自害した。

白起が実際にこの言葉を残したかどうかは確認できないが、
『史記』がその最期に長平の大量処刑を置いたことには意味がある。
白起が死を命じられた直接の理由は、邯鄲への出陣を拒み続け、
昭襄王との関係を決定的に悪化させたことにあった。

それにもかかわらず、『史記』は白起自身に長平での行為を振り返らせ、
自らの死に値する罪だったと認めさせている。
秦のために積み重ねた軍功のなかでも、とりわけ大きな勝利となった長平の戦いが、
最期には白起自身の口から罪として語られる構成になっている。

白起の死は紀元前257年頃とされるが、その最期については異なる伝承も残る。
『戦国策』系統では、白起は咸陽を出て七里ほどの地点まで来たところで、
昭襄王の使者に追いつかれ、絞殺されたと伝えられている。
剣を賜って自害したとする『史記』とは異なり、
白起の死について複数の伝承が存在していたことが分かる。

「罪なくして死んだ」と惜しんだ秦人

白起が死ぬと、秦の人々はその最期を哀れんだ。
『史記』は、秦人が白起について「その罪にあらずして死す」と考え、郷邑で祭祀したと記す。

これは興味深い評価である。
白起自身の最期の言葉では長平の殺戮を自らの死に値する罪としている一方、
秦の人々から見れば、白起は国家のために長く戦い続けた功臣であり、
そのような人物を王命拒否や不満を理由に死なせるのは不当だと映ったのである。

後代にも杜郵や咸陽周辺には白起の墓・祠に関する伝承が残り、白起を祀る廟も各地に伝えられた。
将軍としての軍功だけでなく、
君主によって死に追いやられた功臣としての記憶が、白起の死後像を形作っていった。

秦末にも語られた白起の悲劇

白起の死は、秦が滅亡する頃にはすでに過去の教訓として語られていた。

秦末、趙の陳余は秦将章邯に書簡を送り、
秦のために大功を挙げた者であっても安全ではないと説いた。
その例として白起を挙げ、南では鄢・郢を攻め、北では馬服君、すなわち趙括を破り、
攻略した城邑は数え切れないほどであったにもかかわらず、最後には死を賜ったと指摘した。
章邯に対し「秦のために戦い続けても、白起と同じ末路になるのではないか」と迫るための例だった。

また『史記』「范雎蔡沢列伝」では、
蔡沢が范雎に身を退くよう勧める際、白起の死を引き合いに出している。
白起は戦国末期から漢代にかけて、単なる名将ではなく、
「功が高くなりすぎた者が君主に容れられなくなる」という政治的教訓を象徴する人物となっていた。

史書に残る白起の戦果

『史記』に記された白起の戦果を積み上げると、その規模は極端に大きい。
伊闕で韓・魏兵二十四万、華陽で十三万を斬り、さらに趙兵二万を黄河に沈めた。
陘城では五万を斬り、長平では前後四十五万を失わせたとされる。
このほかにも光狼城、楚の鄢・郢、魏の六十一城など、多数の城邑を攻略している。
後世には白起が生涯に七十余城を攻略し、百万人近くを殺したといった形で総括されることもある。

しかし、こうした総数は後世の集計を含むため、
『史記』の個々の記事と同じ確実性で扱うべきではない。

それでも、史書が白起を敵国の人的戦力を大規模に失わせた将として描いている点は変わらない。
白起が戦った時期の秦は、まだ六国を統一できる段階には達していなかった。
だが韓・魏を繰り返し破り、楚から郢を奪い、趙の主力を長平で壊滅させたことで、
後の始皇帝の時代に行われる統一戦争の前提となる勢力差が形成されていった。

白起の用兵

白起の戦歴から特徴的なのは、単に勇猛な将として描かれていないことである。
長平では趙括の攻撃性を利用して敗走を装い、
敵を陣地から引き離したうえで別働隊を背後へ送り、補給線と退路を遮断した。
趙軍を二つに分断した後も、無理に大軍へ正面攻撃を仕掛けず、
食糧が尽きるまで包囲を維持している。

晩年に邯鄲出兵を拒んだ際も同じである。
長平直後には趙を攻めるべきだと考えたが、
趙が立ち直り、諸侯の援軍を得る条件が整った後には攻撃すべきではないと判断した。

つまり白起にとって重要だったのは、敵国の名や兵力だけではなく、
敵味方の疲労、地理、補給、外交関係、戦う時期を含めた状況全体だった。

司馬遷も「太史公曰」で白起について、
敵の変化を見極め、奇策を出して天下に名を馳せた人物として評価している。
白起の軍事能力について『史記』が否定的な評価を下すことはない。

司馬遷が見た白起――戦には勝ち、政治には敗れる

一方、司馬遷は白起を無条件には称賛していない。
『史記』「白起王翦列伝」の論評では、
白起が敵の情勢を見極めて変化に応じ、奇策によって天下に名を轟かせたことを認めながら、
最後には范雎との間に生じた災いから自らを救うことができなかったと評している。

ここに司馬遷が見た白起の限界がある。
白起は敵軍の動きを読むことには優れていた。
戦うべき時期と戦ってはならない時期も判断できた。
しかし宮廷の中で自らの立場がどう変化しているかを読み、
君主や宰相との関係を調整する能力は別問題だった。

長平後、白起は范雎による講和を恨んだ。
邯鄲攻略では自分の軍事判断を曲げず、秦軍が敗れると自分の正しさを口にした。
軍人の判断としては筋が通っていても、
絶対的な権力を持つ昭襄王にとって、自分の命令を拒み、
しかも結果を見て王の判断を批判する臣下を放置することは難しかった。

白起は戦場で敗れて死んだのではない。
最後まで自らの軍事判断を変えなかった結果、君主との関係を失って死んだ。

平原君が見た白起の人物像

白起の容貌については、
後世の『太平御覧』が引用する『春秋後語』に、趙の平原君による人物評が残されている。
平原君は白起について、
頭が小さく顎が鋭く、瞳の白と黒がはっきり分かれ、視線が動かない人物だったと評したという。

さらに平原君は、その容貌から白起の性格まで読み取っている。
頭が小さく顎が鋭いのは決断力と果敢さ、瞳が明瞭なのは判断の確かさ、
視線が動かないのは意志の強さを示すとし、
「持久戦には強いが、正面から鋒を争うのは難しい相手」と評価した。

この逸話は現行の『史記』には見えず、後世の史料に伝わったものである。
ただし、白起の容貌だけでなく、
同時代の名将としてどのような人物像が語り継がれたのかを示す逸話として興味深い。

まとめ

白起は秦昭襄王のもとで数十年にわたって軍を率い、
伊闕、鄢・郢、華陽、長平などの戦いで大きな戦果を挙げた。
とりわけ敵軍を誘い出して分断し、補給路を断つ長平での戦い方や、
勝機を失った邯鄲への出兵を拒んだ判断からは、
兵力だけに頼らず、敵情や補給、外交関係、戦う時機を重視した白起の用兵がうかがえる。

その一方で、『史記』には各地で多数の敵兵を殺害した記録が残り、
長平では降伏した趙兵の大部分を処刑したとされる。
白起自身も死を命じられた際、この長平での行為を「死に値する」と振り返ったという。
名将としての評価と大量殺戮の記憶は、白起という人物を考えるうえで切り離すことができない。

白起は戦場で敗れて滅びたのではなく、
勝てないと判断した戦争への出陣を拒み、昭襄王との関係を悪化させた末に自害を命じられた。

死後には秦人からその死を惜しまれ、
後世には大功を立てながら君主に容れられなかった功臣の代表としても語られた。

秦の統一を見ることなく死んだものの、韓・魏・楚・趙の国力を大きく削ったその戦歴は、
後の秦による六国統一へ至る過程で大きな位置を占めている。

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漫画『キングダム』の白起(はくき)は、秦の旧「六大将軍」の筆頭格として語られる伝説的な武将。
王騎や摎、司馬錯らと同じ昭王時代に活躍し、六将の中でも特に恐れられた存在として描かれている。

作中ではすでに故人だが、
長平の戦いで降伏した趙兵四十万人を生き埋めにした人物としてたびたび言及される。
この出来事は趙に秦への強烈な怨恨を残しており、
白起は『キングダム』における秦趙間の因縁を象徴する人物の一人となっている。


史書・参考文献

『史記』巻五「秦本紀」
『史記』巻十五「六国年表」
『史記』巻四十三「趙世家」
『史記』巻七十三「白起王翦列伝」
『史記』巻七十六「平原君虞卿列伝」
『史記』巻七十九「范雎蔡沢列伝」
『史記』巻八十一「廉頗藺相如列伝」
『戦国策』秦策・趙策
『資治通鑑』周紀
酈道元『水経注』巻九・巻二十八