固倫和孝公主|乾隆帝が溺愛した末娘と和珅一族の運命

清の皇女・固倫和孝公主 03.公主

固倫和孝公主(1775年-1823年)は、
朝第六代皇帝・乾隆帝の第十皇女であり、乾隆帝にとって最後の娘である。
母は惇妃汪氏。晩年の乾隆帝から特に寵愛され、
妃の娘でありながら皇后所生の皇女に与えられる「固倫公主」に封じられた。

昭槤の『嘯亭続録』には、容貌が父帝に似ていたこと、
弓を引き、男装して乾隆帝の狩猟に同行したことが記されている。
さらに乾隆帝が「お前が皇子であれば、必ず皇太子にした」と語ったという逸話も残る。

やがて乾隆帝は、寵臣・和珅の息子である豊紳殷徳を婿に選んだ。
しかし乾隆帝の死後、和珅は嘉慶帝によって失脚し、自尽を命じられる。
和珅一族が大きな打撃を受けるなか、固倫和孝公主と豊紳殷徳の生活も一変した。

父帝の寵愛を一身に受けた皇女は、和珅失脚後の変転をどのように生きたのか。
『清史稿』『清実録』『嘯亭続録』などに残された記録から、その生涯をたどる。

乾隆帝に寵愛された末娘

乾隆帝と惇妃の娘として誕生

固倫和孝公主は乾隆40年(1775年)正月初三日、乾隆帝と惇妃汪氏の間に生まれた。
乾隆帝の第十皇女であったことから、「十公主」とも呼ばれる。

乾隆帝には十人の皇女がいたが、そのうち五人は幼くして亡くなっている。
和孝公主が生まれた時には、成人した姉たちの多くがすでに結婚して宮廷を離れていた。
乾隆帝自身も六十代半ばに達しており、和孝公主は文字通り晩年に生まれた末娘だった。

母の惇妃は、もとは汪氏といい、和孝公主誕生以前から乾隆帝の妃嬪となっていた。
乾隆43年(1778年)には宮女を責めて死なせたため惇嬪へ降格されたが、
その後再び妃位に戻されている。

この処分について乾隆帝は、公主を産んだことを考慮して刑を軽減したという趣旨を明言している。
ただし、惇妃が復位した理由まで和孝公主の存在によるものだったと断定できる史料はない。

「男子なら皇太子にした」という逸話

和孝公主に対する乾隆帝の寵愛を伝える史料として知られるのが、
朝皇族の昭槤が著した『嘯亭続録』である。

同書巻五「和孝公主」によれば、
乾隆帝は末娘を非常に可愛がっており、その容貌が自分に似ていたという。
そして、「もしお前が皇子であったなら、必ず皇太子にした」と語ったと伝えられる。

これは皇位継承をめぐる正式な発言ではなく、娘への寵愛を示す逸話として記されたものである。
ただし、『嘯亭続録』には単に可愛がられた皇女としてだけでなく、
和孝公主自身の特徴も記されている。

和孝公主は「性剛毅」と評され、強い弓を引くことができたという。
幼少期には男装して乾隆帝の狩猟に同行し、獲物を射止めて父帝を喜ばせたという逸話も残る。

こうした記録からは、後宮で静かに育っただけの皇女ではなく、
騎射にも親しむ活発な人物像がうかがえる。

和珅の息子との婚約

乾隆45年(1780年)、和孝公主がまだ幼い頃、乾隆帝は和珅の息子を婿に定めた。

この時、乾隆帝から「豊紳殷徳」の名を与えられた和珅の息子も、公主とほぼ同年齢だった。
実際の婚礼は成長後に行われることになり、二人は幼少期のうちに婚約したことになる。

当時の和珅は急速に出世していた。
乾隆帝から強い信任を受ける和珅の家と皇室が婚姻関係を結んだことは、
和珅一族の地位をさらに高めることになった。

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固倫和孝公主に封ぜられる

乾隆51年(1786年)8月、十公主には金頂轎に乗ることが許された。
さらに乾隆52年(1787年)正月、正式に「固倫和孝公主」に封ぜられた。

朝の制度では、原則として皇后所生の皇女が「固倫公主」、
妃嬪所生の皇女が「和碩公主」とされた。
和孝公主の母は皇后ではなく惇妃であるため、固倫公主への冊封は通常の原則を超えた待遇だった。

『清高宗実録』に残る上諭でも、乾隆帝は末娘の資質を評価するとともに、
自らが特に愛していることを理由として固倫公主への昇格を命じている。

乾隆帝による寵愛は、後世の逸話だけでなく、実際の冊封や待遇にも表れていたのである。

和珅の子・豊紳殷徳との結婚

乾隆54年(1789年)11月、15歳となった固倫和孝公主は豊紳殷徳に降嫁した。

婚礼に先立って内務府では固倫公主の例に従って大量の嫁妝が準備され、
衣服、装身具、家具、生活用品、古董、家畜など多岐にわたる品々が用意された。
乾隆帝は婚礼後にも公主夫妻を厚く遇し、同年12月には和孝公主の邸宅を訪れている。

豊紳殷徳も結婚後、御前行走、散秩大臣などを経て要職に就いた。
父の和珅が乾隆朝末期に権勢を拡大していたことに加え、
皇帝の娘婿となったことによって、豊紳殷徳も朝宮廷の中心に近い立場に置かれた。

しかし、『嘯亭続録』が描く和孝公主は、和珅一族の繁栄を無条件に享受していた人物ではない。

同書によれば、豊紳殷徳が父・和珅の権勢を背景に驕るようになると、公主は夫を諫めた。
和珅が乾隆帝から大きな恩を受けながら賄賂によって富を増やしていることを批判し、
このままではいずれ家を保てなくなり、自分まで巻き添えになると心配したという。

また、雪の日に豊紳殷徳が子供のように遊んでいるのを見た公主が、
すでに成人しているのにそのような振る舞いをするのかと叱責し、
豊紳殷徳が跪いて謝ったという逸話も記されている。

これらは昭槤による筆記史料に収められた逸話であるため、
細部までそのまま史実と断定することには慎重であるべきだが、
少なくとも同時代に近い記録のなかで、
和孝公主が剛毅で夫を律する人物として認識されていたことがわかる。

乾隆帝の死と和珅の失脚

嘉慶4年(1799年)正月、乾隆帝が死去すると、和孝公主を取り巻く環境は一変した。

乾隆帝の存命中、嘉慶帝はすでに皇帝となっていたが、
太上皇となった乾隆帝が大きな政治的影響力を保っていた。
乾隆帝の死によって嘉慶帝が名実ともに政権を掌握すると、和珅は直ちに追及を受ける。

和珅は逮捕され、二十か条に及ぶ罪状を突きつけられた。
当初、廷臣からはさらに重い刑罰も提案されたが、
最終的に嘉慶帝は和珅に自尽を命じ、その莫大な財産を没収した。

当然、その処分は息子の豊紳殷徳にも及んだ。

豊紳殷徳はそれまでの官職を失い、爵位についても処分を受けた。
しかし、和孝公主自身まで和珅と同様に処罰されたわけではない。

『清史稿』巻166「公主表」は、
和珅の財産が没収された際、嘉慶帝が和孝公主の生活を維持するため財産を残したことを記している。
また、豊紳殷徳に対する恩典についても、公主の存在を考慮したものであったとしている。

そのため、「和孝公主が嘉慶帝に直接嘆願して和珅一族を救った」とまで断定することはできないが、
彼女が乾隆帝の愛娘であり嘉慶帝の妹であったことが、
豊紳殷徳の処遇に影響したこと自体は史料から確認できる。

一方で、和珅失脚後も公主夫妻が以前と同じ生活を維持できたわけではなかった。
和孝公主は従来の邸宅を離れ、和珅の財産の多くも没収された。
乾隆帝と和珅という二つの後ろ盾を同時に失ったことで、夫妻を取り巻く環境は大きく変化した。

和珅失脚後の豊紳殷徳と和孝公主

和珅失脚後、豊紳殷徳の地位は安定しなかった。

嘉慶7年(1802年)には恩典を受けて公爵品級を与えられたが、
翌嘉慶8年(1803年)、公主府の元長史・奎福から、武芸を習って父の仇を討とうとしている、
公主を害そうとしているなどと告発された。

取り調べの結果、謀反や公主殺害を企てたという告発は事実とは認められなかった。
一方、国喪中に侍妾との間に娘をもうけたことは事実とされ、
豊紳殷徳は再び処分を受け、自宅で謹慎することになった。

この事件を根拠として、和孝公主と豊紳殷徳の夫婦関係が完全に破綻していたとする見方もある。
しかし、史料からそこまで断定することはできない。

嘉慶11年(1806年)には、豊紳殷徳は再び一等侍衛となり、副都統に昇進している。
嘉慶帝が再登用に踏み切った背景には、豊紳殷徳が慎重に振る舞っていたことに加え、
公主との関係が保たれていたこともあったとされる。

したがって、和孝公主の結婚生活を単純に
「不幸な結婚」「夫婦関係の破綻」と位置づけるのは適切ではない。

和珅失脚によって一家の地位と生活が大きく変化し、
豊紳殷徳自身もたびたび処分を受けたが、
夫妻の関係そのものについては慎重に見る必要がある。

豊紳殷徳の死と公主の晩年

嘉慶15年(1810年)、豊紳殷徳は病に倒れた。
嘉慶帝は、それまで豊紳殷徳が職務に慎重に当たっていたことを評価し、
病中の彼に公爵の称号を与えた。同年5月、豊紳殷徳は36歳で死去した。

和孝公主は35歳で夫を失ったことになる。
『嘯亭続録』によれば、その後の公主は十余年にわたって自ら家政を取り仕切り、
家の内外を厳格に治めたことで、家計を一定の状態に維持したという。

この記述を裏付けるように、
嘉慶朝の档案には、夫の死後に和孝公主が財産を管理していた様子が残されている。

豊紳殷徳の死後、所有する土地をめぐる問題が発覚すると、
公主はその来歴を調査させ、地租の回収を求めた。
また嘉慶19年(1814年)には、維持費を負担できなくなった円明園の住居を朝廷へ返還し、
その代わりに与えられた銀六千両を運用して利息収入を得る措置が取られている。

乾隆帝のもとで大量の賞賜を受けた少女時代とは異なり、
この頃の公主は限られた財産を管理しながら家を維持する立場になっていた。

豊紳殷徳との間に成人した男子は残らなかった。
子女をめぐっては史料間に異同があり、後世の系譜にも不明確な点が残っているため、
「実子の男子が成長して家を継いだ」とすることはできない。

嘉慶帝の死後、即位した道光帝も皇姑にあたる和孝公主を一定程度保護した。
道光元年(1821年)には、公主の生活費が不足しているとして、
かつて和珅から没収した質屋を与えて収入源とする措置が取られている。

この事実からも、
晩年の和孝公主が乾隆朝の最盛期と同じような富裕な生活を続けていたわけではないことがわかる。

固倫和孝公主の死

道光3年(1823年)、和孝公主は病に倒れた。
道光帝はたびたび使者を送って病状を尋ねたが、同年9月初十日、和孝公主は49歳で死去した

道光帝は葬儀にあたって使者を派遣しただけでなく、
自ら弔問し、葬儀についても朝廷が取り計らうよう命じた。

和孝公主の生涯は、乾隆・嘉慶・道光という三代の皇帝にまたがっている。

乾隆朝には皇帝の最愛の末娘として育ち、固倫公主という高い地位を与えられ、
当時もっとも権勢を誇った和珅の家へ嫁いだ。

しかし乾隆帝の死と和珅の失脚によって、その生活は大きく変化する。
さらに夫にも先立たれ、晩年には自ら家政と財産を管理しながら生活を維持しなければならなかった。

固倫和孝公主の人物像

和孝公主について残る史料のなかで、繰り返し現れるのが「剛毅」という人物像である。

『嘯亭続録』は幼少期の彼女について「性剛毅」と記し、
弓を引き、男装して乾隆帝の狩猟に同行したと伝えている。
結婚後についても、豊紳殷徳の振る舞いを諫め、
和珅の権勢が長くは続かない可能性を警戒する人物として描いている。

もちろん、『嘯亭続録』は正史や実録とは性格の異なる筆記史料であり、
そこに収録された会話を一字一句そのまま事実として扱うことはできない。
しかし、和孝公主が単なる「乾隆帝に溺愛された皇女
としてだけ記憶されていたわけではないことは重要である。

和珅失脚後の記録から確認できるのも、受動的に運命に翻弄されるだけの人物ではない。
夫の死後には家政を担い、土地や地租をめぐる問題を処理し、
維持できない不動産を返還して現金を運用するなど、現実的に家計を管理していた。

また、彼女の生涯を「乾隆帝に愛された幸福な皇女」あるいは
和珅一族に嫁いだため不幸になった公主」という一面的な物語にすることも適切ではない。

乾隆帝から特別な寵愛を受けたことは史料から明らかであり、
その寵愛によって固倫公主への冊封や豊かな賞賜を受けた。
一方、和珅失脚後には生活基盤そのものが縮小し、夫の処分や死も経験している。
それでも嘉慶・道光両帝から一定の保護を受けながら、自ら家政を維持して生涯を終えた。

固倫和孝公主は、乾隆朝最盛期の宮廷と和珅一族の繁栄、
その崩壊後の嘉慶朝という二つの時代を生きた皇女だった。

まとめ

固倫和孝公主は乾隆40年(1775年)、乾隆帝と惇妃汪氏の間に第十皇女として生まれた。

乾隆帝から殊のほか寵愛され、
『嘯亭続録』には「男子なら皇太子にした」と父帝が語ったという逸話が残る。
妃所生の皇女でありながら固倫公主に封ぜられたことからも、
その特別な待遇を確認することができる。

乾隆54年(1789年)には和珅の息子・豊紳殷徳と結婚したが、
嘉慶4年(1799年)に乾隆帝が死去すると和珅は失脚し、一家の状況は大きく変わった。
豊紳殷徳もたびたび処分を受けたものの、
公主との関係が完全に破綻していたと断定できる史料はない。

嘉慶15年(1810年)に豊紳殷徳が死去すると、和孝公主は自ら家政を担った。
乾隆朝のような豊かな生活ではなくなったものの、財産を管理しながら家を維持し、
道光3年(1823年)に49歳で死去した。

乾隆帝の寵愛だけでなく、和珅失脚後の変化と夫の死後の家政運営までを見ることで、
固倫和孝公主の実像はより明確になる。
父帝に愛された末娘であると同時に、朝宮廷の大きな政治的変動を経験し、
その後も自ら家を維持した公主だった。

史書・参考文献

  • 『清史稿』巻166「公主表」
  • 『清史稿』和珅伝
  • 『清高宗純皇帝実録』
  • 『清仁宗睿皇帝実録』
  • 『清宣宗成皇帝実録』
  • 昭槤『嘯亭続録』巻五「和孝公主」
  • 『清皇室四譜』巻四「皇女」
  • 『愛新覚羅宗譜』
  • 中国第一歴史档案館所蔵・清宮档案

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