屈原(くつげん)は、戦国時代後期の楚に仕えた政治家であり、
『離騒』をはじめとする楚辞文学を代表する人物である。名は平。
『史記』は「楚と同姓」と記し、
楚懐王の左徒として国政・外交の双方に深く関わった人物として伝えている。
懐王から厚く信任されたが、上官大夫の讒言によって王から遠ざけられ、
その後も秦との外交をめぐって楚の政治と関わり続けた。
懐王が秦で拘留され客死したのち、頃襄王の時代にはさらに疎まれ、江湘地方をさまよった末、
『史記』によれば『懐沙』を作って石を抱き、汨羅に身を沈めた。
ただし、屈原について一般に語られる生年、三閭大夫就任の経緯、
前278年五月五日に楚都郢の陥落を悲しんで自殺したという一連の物語には、
後世の注釈や伝承から補われた部分も多い。
『史記』が伝える政治家としての屈原、『楚辞』に描かれた自己像、
漢代以降に形成された忠臣・詩人像を区別して見る必要がある。
屈原の出自|楚王族と同系統の屈氏
『史記』は屈原について「名は平、楚の同姓なり」と記す。
楚王家と同じ系統に属する公族であり、
後世の注釈では楚の公族である羋姓屈氏の人物と説明されている。
王逸『楚辞章句』などの伝承では、
楚武王の子・屈瑕が屈の地を与えられ、その子孫が屈氏を称したとされる。
また楚の公族には昭氏・屈氏・景氏の三族があり、三閭と呼ばれたという。
現在しばしば屈原の生年を前343年頃とするが、『史記』には生年の記事はない。
『離騒』冒頭には、自らを高陽帝顓頊の子孫とし、父を伯庸と呼び、
「攝提」の年の正月、庚寅の日に生まれたという表現がある。
後世、この記述をもとに生年を推定する試みが行われたが、絶対年代まで確定できるものではない。
『離騒』では父から「正則」という名と「霊均」という字を与えられたとも語られる。
一方、『史記』は名を「平」と記し、後世には「名は平、字は原」とする説明が定着した。
屈原の名前に関する伝承も、『史記』と『楚辞』本文、後世の注釈を分けて考える必要がある。
懐王の左徒として国政と外交を担う
屈原は楚懐王に仕え、左徒となった。
『史記』は屈原を、広く物事を知り記憶力に優れ、政治の治乱に通じ、
言辞にも熟達した人物と評している。
宮廷内では懐王と国事を議論して命令を作り、外では賓客を接待し、諸侯との応対を担当した。
単なる文人ではなく、楚の政策形成と外交実務の双方に携わる重臣だった。
懐王は屈原を非常に信任していたが、同列にいた上官大夫がその才能を妬んだ。
憲令の草稿をめぐる上官大夫の讒言
懐王が屈原に「憲令」を作らせた際、屈原はまだ草稿を完成させていなかった。
上官大夫はその草稿を見ると自分のものにしようとしたが、屈原は渡さなかった。
そこで上官大夫は懐王に、屈原は王命で法令を作っていることを誰もが知っているのに、
法令が出るたびに自分の功績を誇り、「自分でなければできない」と言っている、と讒言した。
懐王はこれを聞いて怒り、屈原を疎んじるようになった。
『史記』が最初に伝える屈原失脚の直接の原因は、
親秦派と反秦派の外交路線対立ではなく、この上官大夫による讒言である。
失意の中で『離騒』を作る
『史記』は、屈原が懐王の判断力の乏しさ、讒言によって君主の目が曇ること、
邪悪な者が公正な者を害し、正しい者が受け入れられないことを憂え、『離騒』を作ったと説明する。
司馬遷は「信じられていたのに疑われ、忠義を尽くしたのに誹謗されたなら、
どうして怨まずにいられようか」と屈原の境遇を評した。
『離騒』では香草や美人、神々、古代の聖王などを象徴として用いながら、
理想の政治、君主への忠誠、讒言への憤り、自己の潔白、
理想を曲げられない苦悩が長大な詩として展開されている。
司馬遷は『離騒』を『詩経』の「国風」と「小雅」の双方の精神を備える作品と評価し、
その言葉は簡潔でありながら意味は深く、身近なものを挙げながら遠大な意味を示していると論じた。
↓↓「史記」を完成させた司馬遷についての個別記事は、こちら

張儀の策謀と楚の敗北|屈原失脚後に進んだ秦との対立
屈原が懐王から遠ざけられた後、秦は楚と斉の同盟を破壊しようとした。
秦の恵文王は張儀を楚へ送り、
楚が斉との同盟を断てば、秦は商・於の地六百里を楚へ与えると持ちかけた。
懐王は張儀の言葉を信じ、斉との関係を断った。
ところが楚の使者が秦へ土地を受け取りに行くと、
張儀は約束したのは六百里ではなく六里だと言い張った。
激怒した懐王は秦へ大軍を送り込んだが、
楚軍は丹・淅で大敗し、『史記』によれば八万の兵を失い、将軍屈匄も捕らえられた。
秦はさらに楚の漢中を奪った。
懐王は国内の兵を総動員して秦へ攻め込み、藍田でも戦ったが、
その間に魏軍が楚へ侵入したため撤退を余儀なくされた。
斉も楚が一方的に同盟を破棄したことを怒って援軍を送らず、楚は大きく国力を損なった。
↓↓縦横家・張儀についての個別記事は、こちら

張儀を殺すよう進言する
翌年、秦は漢中の一部を返して和睦しようとしたが、
懐王は土地よりも張儀を手に入れたいと要求した。
張儀は自ら楚へ赴き、懐王の側近である靳尚に賄賂を送り、さらに寵姫の鄭袖を動かした。
鄭袖の説得を受けた懐王は結局、張儀を釈放してしまった。
この時期、屈原はすでに王から疎まれ、政治の中枢から外されていたが、
斉への使者を命じられていた。
斉から戻った屈原は張儀が釈放されたことを知り、「なぜ張儀を殺さなかったのか」と懐王を諫めた。懐王は後悔して張儀を追わせたものの、すでに間に合わなかった。
その後も楚は諸侯の攻撃を受けて敗れ、将軍唐眛を失った。
懐王の秦行きを止める|忠告は受け入れられず王は客死する
秦昭王の時代になると、秦と楚の間で婚姻関係が結ばれ、秦は懐王に会盟を持ちかけた。
懐王が秦へ向かおうとすると、屈原は反対した。
屈原は秦を「虎狼の国」と呼び、信用できないので行くべきではないと進言した。
一方、懐王の末子・子蘭は、秦との友好を断つべきではないとして出向くよう勧めた。
懐王は子蘭の意見を採用した。
懐王が武関へ入ると、秦は伏兵によって退路を断ち、王を拘留して楚領の割譲を要求した。
懐王は拒否し、のちに秦から逃れて趙へ向かったが、趙は受け入れなかった。
再び秦の支配下に戻され、最終的に秦で死去し、遺体だけが楚へ戻された。
屈原が警告したと『史記』が明記する秦との会盟は、結果として懐王の帰国不能と客死につながった。
頃襄王即位と子蘭への反発
懐王の長男が即位し、楚頃襄王となった。
頃襄王は弟の子蘭を令尹に任じた。
楚の人々は、子蘭が懐王に秦行きを勧め、その結果王が帰国できなくなったことを非難した。
『史記』は、放逐された後も屈原が楚を顧み、懐王のことを思い、
王が悟り政治が改まれば再び帰朝したいと願っていたと記す。
屈原は子蘭を憎み、その政治を批判した。
これを知った子蘭は激怒し、上官大夫に屈原の悪口を頃襄王へ吹き込ませた。
頃襄王も怒り、屈原をさらに遠ざけた。
「三閭大夫」はいつ務めたのか
屈原は一般に「三閭大夫」としても知られる。
ただし、『史記』本文は「左徒から三閭大夫へ左遷された」とは記していない。
屈原が江辺をさまよう場面で、漁父が「あなたは三閭大夫ではないか」と呼びかけていることから、
屈原が三閭大夫を務めたという伝承自体は漢代には存在していたことが分かる。
後漢の王逸『楚辞章句』では、屈原が三閭大夫を務め、
昭氏・屈氏・景氏という楚王族三姓を掌ったと説明されている。
したがって三閭大夫就任そのものを否定する必要はないが、
懐王から疎まれた直後に左徒から三閭大夫へ降格された、と時系列まで確定することはできない。
放逐された屈原|江辺の漁父との問答
頃襄王によって遠ざけられた屈原は、江辺へ至った。
『史記』では、髪を乱しながら沢のほとりを歩いて詩を吟じ、
顔は憔悴し、身体もやせ衰えていたと描かれている。
そこで一人の漁父が屈原に出会い、
「あなたは三閭大夫ではないか。なぜこのような境遇になったのか」と尋ねた。
屈原は、世の中すべてが濁っている中で自分だけが清く、
人々が皆酔っている中で自分だけが醒めていたため放逐された、と答えた。
漁父は、聖人は一つの考えに凝り固まらず、世の変化に応じて生きるものだと説いた。
世が濁っているなら流れに従い、人々が酔っているなら酒粕でも口にすればよいのに、
なぜ宝玉を抱くように自らの潔白に固執して放逐されるのか、と問うた。
これに対し屈原は、髪を洗った者は冠の塵を払い、
身体を洗った者は衣服を振って汚れを落とすものだと答えた。
清らかな身体に世俗の汚れを受けるくらいなら、川へ身を投じて魚の腹に葬られるほうを選ぶという。
この問答は『史記』にも取り込まれ、『楚辞』「漁父」にも伝わる。
ただし実際に屈原と漁父の間でこの会話が行われたことを独立した史料から確認することはできず、
屈原の生き方を象徴する文学的な問答として見る必要がある。
『楚辞章句』に伝わる「漁父」では、このあと漁父が笑って舟を漕ぎ去り、
「滄浪の水が清ければ冠の紐を洗い、濁っていれば足を洗えばよい」と歌う。
屈原の潔癖な生き方と、世に応じて身の処し方を変える隠者の思想が対照的に描かれている。
『離騒』『九章』『九歌』『天問』|屈原と楚辞文学
屈原の名は政治家として以上に、楚辞文学と結び付いて後世へ伝えられた。
前漢末に劉向らが整理した『楚辞』には、
『離騒』『九歌』『天問』『九章』『遠遊』『卜居』『漁父』など、
屈原作として伝えられてきた作品が収められている。
『漢書』「芸文志」は「屈原賦二十五篇」と記しており、
前漢末の宮廷図書には屈原名義の作品二十五篇が伝わっていたことが分かる。
ただし、現在の『楚辞』に収められたすべての作品を一人の屈原が書いたと断定できるわけではない。
篇ごとに成立事情や作者について議論があり、
『九歌』のように楚地方の祭祀歌をもとに成立したと考えられる作品もある。
『九歌』と楚の祭祀世界
『九歌』には東皇太一、雲中君、湘君、湘夫人、東君、河伯、山鬼などの神々が登場し、
人と神との出会いや別離が歌われている。
「九歌」という題名でありながら現行本には「礼魂」を含め十一篇が伝わり、
「国殤」では戦死した楚兵を悼む内容も描かれる。
楚地方の祭祀・巫覡文化と深く結びつく作品群であり、
後世には屈原が楚の祭祀歌を整えたものと解釈されたが、
その成立を屈原一人の創作に帰すことには慎重な見方もある。
『天問』に残された古代神話
『天問』は天地の始まり、神々、古代王朝、英雄、歴史上の事件について
次々と問いを発する特殊な作品である。
盤古以前の宇宙観ではなく、女媧、羿、鯀、禹、夏・殷・周の伝承など、
秦漢以前の中国で語られていた多くの神話や古伝承を保存している点でも重要な史料となっている。
『九章』と放逐後の屈原
『九章』には「惜誦」「渉江」「哀郢」「抽思」「懐沙」など九篇が収められている。
作品中には放逐、江南への旅、楚への思慕、政治への失望が繰り返し現れる。
なかでも「哀郢」は郢を離れる悲哀を歌った作品として知られ、
秦軍による郢陥落と関連づけて解釈されることが多い。
ただし各篇を屈原の実際の移動や政治事件と一対一で結び付け、
正確な年代順に配置できるわけではない。
『懐沙』と汨羅への入水|屈原の最期
『史記』は、漁父との問答に続けて、屈原が『懐沙』を作ったと記している。
『懐沙』では、方形を削って円形に変えるように正しい基準が失われ、
白が黒とされ、上と下が逆転し、鳳凰が籠に閉じ込められる一方で
鶏や雉が飛び回るという表現によって、価値の逆転した世を批判する。
自らは宝玉を抱いていても、その価値を示す場所がなく、人々から理解されない。
しかし一度定めた志を変えることはしないという姿勢が繰り返し語られ、
終盤では死を避けることはできないという決意が示される。
『史記』はその直後、屈原が石を抱き、汨羅に身を沈めて死んだと記す。
郢陥落と屈原の死は同じ事件なのか
楚頃襄王21年、一般に前278年とされる年、
秦将白起は楚の都郢を攻略し、夷陵にあった楚の先王の陵墓を焼いた。
頃襄王は軍を失い、東北の陳へ退いた。
この事件自体は『史記』「楚世家」に明記されている。
そのため後世には、郢陥落に絶望した屈原が前278年に汨羅へ身を投じたという伝記が広く定着した。
「哀郢」もこの事件と結び付けて読まれてきた。
しかし『史記』「屈原賈生列伝」は、白起による郢陥落を屈原の自殺直前の事件として記しておらず、
屈原が郢陥落を知って自殺したとも書いていない。また屈原の死を前278年と明記していない。
したがって前278年を没年とする説は有力な伝統的年代ではあるものの、
正史本文から直接確定できる年月ではない。
さらに、この時点で楚という国そのものが滅亡したわけではない。
楚は都を東へ移しながら存続し、最終的に秦によって滅ぼされるのは前223年である。
↓↓多くの国土を奪った秦の将軍・白起についての個別記事は、こちら

死後に形成された屈原像|楚辞から端午節まで
屈原の死後、楚では宋玉・唐勒・景差らが辞賦に優れた人物として知られるようになった。
『史記』は彼らが屈原のゆったりとした辞令や文学表現を受け継いだものの、
屈原のように王へ直諫することはなかったと評している。
楚はその後も秦に領土を奪われ、屈原の死から数十年後、秦によって滅ぼされた。
↓↓美男子としても知られる文人・宋玉についての個別記事は、こちら

賈誼が湘水で屈原を弔う
屈原が汨羅に沈んでから百余年後、前漢の賈誼が長沙王太傅として任地へ向かう途中、湘水を渡った。
賈誼はそこで文章を水中へ投じ、「弔屈原賦」を作った。
賈誼自身も才能を認められながら政敵の批判によって中央政界から長沙へ出された人物であり、
屈原の境遇に自らを重ねていた。
ただし賈誼は屈原をただ称賛しただけではなく、
それほどの才能があるなら楚を離れ、他国へ行くこともできたのではないかという問いも示している。
司馬遷が汨羅を訪れる
司馬遷も屈原を特別な人物として扱った。
『史記』「屈原賈生列伝」の末尾で、司馬遷は『離騒』『天問』『招魂』『哀郢』を読み、
屈原の志を悲しんだと述べている。
さらに長沙を訪れ、屈原が身を沈めたという淵を実際に見た際には、
涙を流し、屈原の人となりを思い浮かべたという。
一方で司馬遷は、屈原ほどの才能があれば他の諸侯に仕えることもできたはずなのに、
なぜ自らをあのような境遇へ追い込んだのか、と疑問も示している。
屈原を無条件に神格化するのではなく、その生き方への敬意と疑問の双方を記した評価だった。
漢代に『楚辞』として編まれる
屈原の作品は漢代にも広く読まれた。
『漢書』「芸文志」には「屈原賦二十五篇」が記録され、
前漢末には劉向が屈原・宋玉をはじめとする楚辞系作品を整理した。
後漢になると王逸が『楚辞章句』を著し、屈原の生涯や作品に詳細な注釈を加えた。
現在一般に知られる「三閭大夫として昭・屈・景三姓を掌った」という説明や、
個々の作品と屈原の境遇を結び付ける解釈にも、王逸の注釈が大きな影響を与えている。
こうして屈原は、歴史上の楚の臣下であると同時に、
忠臣・清廉な士・不遇の文人という後世の典型像へ発展していった。
五月五日と端午節
現在、屈原の死は五月五日の端午節と強く結び付けられている。
しかし『史記』は屈原が五月五日に死んだとは記していない。
屈原と五月五日を結び付ける明確な伝承は、後世の『続斉諧記』などに見える。
同書では、屈原が五月五日に汨羅へ身を投げたため、
楚の人々が毎年その日に竹筒へ米を入れて水中へ投じ、屈原を祭ったとされる。
さらに後漢建武年間、長沙の人物の前に「三閭大夫」を名乗る者が現れ、
供えた米が蛟龍に奪われるため、葉で包み五色の糸を巻いてほしいと告げたという説話も伝えられた。
これが粽を屈原と結び付ける伝承の一つとなった。
龍舟競渡についても、後世の『荊楚歳時記』は五月五日の競渡を、
汨羅へ沈んだ屈原を舟で救おうとした習俗と説明している。
ただし五月五日の節日、邪気払い、薬草採取、
五色糸などの風習は屈原伝説だけでは説明できない古い要素を含む。
龍舟競渡についても伍子胥や越王勾践と結び付ける別系統の伝承があり、
端午節全体が屈原の死から始まったとすることはできない。
屈原の伝説が既存の五月五日の習俗と結び付き、
長い時間をかけて現在の端午節文化の一部となったと考えるほうが史料に即している。
「愛国詩人」屈原はいつ成立したのか
後世、とりわけ近代以降の中国では、屈原は「愛国詩人」の代表として称揚されるようになった。
確かに『史記』の屈原は、放逐された後も楚を忘れず、懐王を思い、
国を立て直すことを願い続けた人物として描かれている。
ただし戦国時代の君主・公族・諸侯国の関係を、
近代的な国民国家への愛国心とそのまま同一視することはできない。
史料から確実に読み取れるのは、屈原が自ら属する楚王家と楚国への強い帰属意識を持ち、
君主への忠誠と政治的理想を最後まで捨てなかった人物として漢代には理解されていたことである。
実在と作品帰属をめぐる議論
20世紀以降、屈原研究では『史記』の伝記記事そのものや、
『楚辞』諸篇の作者について再検討が行われてきた。
屈原の実在そのものを疑う説も提示されたほか、
屈原という政治家は実在したとしても、現在伝わる『離騒』『九歌』『九章』『天問』などを
すべて一人の作品とすることには慎重な研究も多い。
とりわけ『九歌』は祭祀歌としての性格が強く、
『漁父』『卜居』も屈原本人の自作ではなく、屈原像を語る後世の作品と見る説がある。
一方、『史記』が前漢中期の段階ですでに屈原を楚懐王の臣下として詳しく記し、
『漢書』「芸文志」が屈原名義の賦二十五篇を記録していることも無視できない。
現在の屈原像は、戦国時代の政治家に関する伝承、屈原名義の作品群、
司馬遷による伝記、劉向による『楚辞』の整理、王逸らの注釈、
さらに後世の忠臣伝説が重なって形成されたものと見るのが妥当である。
まとめ
屈原は楚王族と同系統の屈氏に属し、楚懐王の左徒として国政と外交を担った。
懐王から厚く信任されたが、上官大夫の讒言によって疎まれ、
その失意と政治への憂慮が『史記』では『離騒』成立の背景として語られている。
屈原が政治の中心から離れた後、楚は張儀の策謀によって斉との同盟を失い、
秦との戦争で相次いで敗れた。
屈原は斉への使者から戻ると張儀を殺すべきだったと懐王を諫め、
のちには秦との会盟そのものにも反対したが、
懐王は忠告を聞かず秦へ赴き、拘留されたまま客死した。
頃襄王の時代には令尹子蘭との対立からさらに遠ざけられ、江辺をさまようようになった。
『史記』は漁父との問答と『懐沙』を伝え、その末に屈原が石を抱いて汨羅へ沈んだと記している。
一方、一般に知られる前278年五月五日の死、郢陥落を直接の原因とする自殺、
端午節の粽や龍舟競渡との関係は、正史本文と後世伝承を区別する必要がある。
屈原の死後、その作品と生涯は宋玉ら楚の辞賦家、賈誼、司馬遷を経て漢代文学へ受け継がれ、
劉向が整理した『楚辞』と王逸の注釈によって後世へ伝えられた。
史実の政治家、楚辞の作者、忠臣、清廉な士、愛国詩人という複数の屈原像が重なりながら、
中国文学史と知識人文化の中で特別な位置を占めるようになった。
史書・参考文献
・『史記』巻40「楚世家」
・『史記』巻84「屈原賈生列伝」
・『漢書』巻30「芸文志」
・『楚辞』
・王逸『楚辞章句』
・宗懍『荊楚歳時記』
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