欧陽脩(おうようしゅう、1007~1072)は、北宋を代表する政治家・文学者・歴史家であり、
「唐宋八大家」の一人に数えられる人物である。
韓愈・柳宗元以来の古文を北宋で復興させ、『酔翁亭記』などの名文を残したことで知られるが、
その活動は文学だけにとどまらない。
科挙を経て官界に入り、范仲淹を擁護して左遷され、慶暦の新政では改革を支持し、
『朋党論』を著して政争の渦中に立った。
後には参知政事にまで昇り、英宗の実父をめぐる濮議にも深く関与している。
また、嘉祐2年(1057)の科挙では知貢挙を務め、蘇軾・蘇轍・曾鞏らが登場する契機を作った。
歴史家としても官修の『新唐書』編纂に参加し、私撰の『五代史記』、
後の『新五代史』を完成させている。
『新五代史』は北宋における歴史叙述の代表的成果の一つとなった。
政治・文学・史学・科挙という複数の分野にまたがって活動した欧陽脩の生涯は、
北宋の士大夫が政治と学問の双方を担った時代を象徴している。
出自と幼少期――父を失い母に育てられる
欧陽脩は景徳4年(1007)に生まれた。
本貫は吉州廬陵、現在の江西省吉安市周辺だが、
出生地は父・欧陽観の任地であった綿州、現在の四川省綿陽付近である。
幼くして父を失い、その後は母の鄭氏に育てられた。
家は裕福ではなく、十分な教育環境を整えることが難しかったと伝えられている。
欧陽脩の幼少期について特に有名なのが「画荻教子」の逸話である。
母が紙や筆を十分に用意できなかったため、
葦の茎を使って地面に文字を書き、幼い欧陽脩に文字を教えたという。
この話は後世において、
貧困のなかでも息子の教育に尽くした母の故事として広く知られるようになった。
ただし、「画荻教子」の具体的な描写については後世に形成された部分も考慮する必要があり、
史実として細部までそのまま受け取ることはできない。
一方、父を早くに失い、母のもとで学問を身につけたことは欧陽脩の経歴を考えるうえで重要である。
少年時代から文章を好んだ欧陽脩は、とりわけ唐代の韓愈の文章から大きな影響を受けた。
後に自ら古文復興を推進することになる欧陽脩にとって、
韓愈との出会いは文学上の方向を定める重要な契機となった。
科挙への道は順調だったわけではない。
試験に失敗した経験を経た後、天聖8年(1030)に進士に及第した。
↓↓「賢母」として知られる欧陽母についての個別記事は、こちら

科挙合格から范仲淹擁護による左遷へ
進士となった欧陽脩は、西京留守推官として洛陽に赴任した。
洛陽では尹洙・梅堯臣らの文人と交流し、詩文や古文について議論を重ねた。
この時期は、後の欧陽脩の文学活動を形作った重要な時期でもある。
やがて中央に戻って館閣校勘などを務めるが、景祐年間に政治生命を左右する事件が起こった。
范仲淹が言論を理由に饒州へ左遷された際、司諫の高若訥がその処分を正当とした。
欧陽脩はこれに強く反発し、高若訥へ書簡を送り、その態度を批判した。
高若訥がその書簡を朝廷に提出したため、欧陽脩自身も処罰され、夷陵県令へ左遷された。
『宋史』は、欧陽脩だけでなく尹洙・余靖らも范仲淹を弁護したため排斥され、
「党人」と呼ばれるようになったことを記している。
後に北宋政治を大きく揺るがす「朋党」の問題は、欧陽脩の政治人生と早い時期から結びついていた。
その後、范仲淹が陝西へ赴任すると欧陽脩を招こうとしたが、欧陽脩はこれを断った。
范仲淹を擁護したのは自らの出世のためではなく、
退くときにはともに退いても、進むときまで一緒である必要はない、
という趣旨の理由だったと『宋史』は伝えている。
慶暦の新政と朋党論争
欧陽脩はやがて中央へ復帰し、慶暦3年(1043)には知諫院となった。
当時、仁宗は范仲淹・富弼・韓琦らを登用し、政治改革を進めようとしていた。
いわゆる「慶暦の新政」である。
范仲淹らの改革を支持する
慶暦の新政は、官吏の人事・考課、恩蔭制度、科挙と学校、地方行政など、
北宋の官僚政治が抱えていた問題を是正しようとする改革だった。
欧陽脩もこれを支持し、科挙制度の改善などについて積極的に意見を述べた。
慶暦期には知諫院として仁宗に対して繰り返し政治上の意見を提出している。
しかし改革は既存の政治勢力から強い反発を受けた。
范仲淹らを「朋党」とする批判が強まると、欧陽脩もその攻撃対象となった。
『朋党論』を書く
欧陽脩は、朋党そのものを否定するのではなく、
「君子の朋」と「小人の朋」を区別するという論理で反論した。
それが『朋党論』である。
欧陽脩は、利益によって結びつく小人の集団とは異なり、
君子は道義・忠信・名節を共有することによって結びつくと論じた。
したがって君主が警戒すべきなのは「朋」が存在すること自体ではなく、
それが君子の結びつきなのか、小人の利害集団なのかを見極めることであるとした。
『宋史』にもその議論が詳しく引用されている。
しかし慶暦の新政は長続きせず、范仲淹・富弼らは中央を離れ、改革は挫折した。
欧陽脩も政治的な攻撃を受け、再び地方へ出ることになる。
欧陽脩の政治的位置を生涯を通じて単純に「改革派」と呼ぶことはできない。
慶暦年間には范仲淹らの改革を支持した一方、
晩年には王安石が推進した新法、とりわけ青苗法などに批判的な立場を取ったからである。
欧陽脩の政治姿勢は特定の改革勢力への一貫した所属というより、
その時々の政策を自らの政治理念から判断するものだった。
欧陽脩と青苗法・致仕の関係は、現代研究でもその晩年を考える重要な問題として扱われている。
↓↓「新法」を主導した改革者・王安石についての個別記事は、こちら

滁州時代と『酔翁亭記』
政争によって中央を離れた欧陽脩は、滁州の知州となった。
この時期に書かれた代表作が『酔翁亭記』である。
滁州郊外の琅琊山に建てられた酔翁亭を題材とし、山水、宴、四季の移り変わり、
人々の楽しみなどを描いた作品で、欧陽脩の散文を代表する名篇となった。
欧陽脩は自らを「酔翁」と号した。
しかし『酔翁亭記』の「酔翁の意は酒に在らず、山水の間に在り」という趣旨の言葉が示すように、
ここでいう「酔」は単なる飲酒趣味を意味するものではない。
中央政界から離れた地方官として自然と人々の暮らしに接し、
そのなかに楽しみを見いだす姿勢が作品の中心に置かれている。
『酔翁亭記』は山水文学であると同時に、地方官としての欧陽脩の経験を背景とした作品でもあり、
政治・自然・個人の感情を平明な古文によって結びつけた北宋散文の代表作となった。
中央復帰と科挙・人材登用
その後、欧陽脩は再び中央政界へ戻った。
政治家としての欧陽脩の業績のなかでも、後世への影響が特に大きかったのが科挙と人材登用である。
嘉祐2年の科挙と蘇軾・蘇轍・曾鞏
嘉祐2年(1057)、欧陽脩は知貢挙として科挙を担当した。
当時の文壇・科挙では、難解な語句や奇抜な表現を競う文体が流行していた。
欧陽脩はこうした傾向を退け、内容と論理を備えた古文を重視した。
この試験で及第した者のなかには、蘇軾・蘇轍・曾鞏らがいた。
後に唐宋八大家に数えられる人物が複数含まれており、
嘉祐2年の科挙は北宋文学史において大きな意味を持つことになった。
欧陽脩が彼らを「発見した」というだけではない。
自らが試験官として文章の評価基準に影響を与え、
古文を評価する環境を官僚登用制度の内部に広げたことに重要性がある。
↓↓北宋の文人官僚で、詩・詞・書・絵画に大きな業績を残した蘇軾についての個別記事はこちら

古文復興と北宋文学
欧陽脩は唐代の韓愈・柳宗元が推進した古文の流れを受け継ぎ、
北宋における古文復興の中心人物となった。
当時の文章に見られた過度な装飾や形式偏重を批判し、
内容と論理を伝えることのできる文章を重視した。
ただし、韓愈・柳宗元の古文運動が単なる「理論」にとどまっていたわけではない。
両者自身が多数の古文作品を残し、唐代文学に大きな影響を与えている。
欧陽脩の重要性は、その流れを北宋で再興し、自らの創作だけでなく、
官僚・文人としての地位や科挙を通じて次世代へ広げたところにある。
平明な散文
欧陽脩の文章は、過度な装飾を避けながら、論理と情感を両立させる点に特徴がある。
政治的な論説、碑誌、序跋、紀行、史書など幅広い文章を残し、後世の散文に大きな影響を与えた。
『酔翁亭記』はその代表例だが、欧陽脩の古文は文学作品だけに限定されない。
政治的主張を展開した『朋党論』などにも、その文章観を見ることができる。
自ら文章を書く一方、蘇軾・蘇轍・曾鞏ら後進を評価して世に送り出したことによって、
欧陽脩は北宋文壇の世代交代にも大きな役割を果たした。
詩と詞
欧陽脩は散文だけでなく、詩や詞も数多く残している。
特に詞では、宴席や男女の情愛など従来から扱われてきた題材を受け継ぎながら、
個人の感情や人生経験を表現する作品も残した。
その詩文には、政治的な挫折、地方官としての生活、自然への関心など、
自身の経験が反映されている。
このため欧陽脩は古文家だけでなく、
北宋前期から中期にかけての文学全体を考えるうえで重要な文人となっている。
歴史家としての欧陽脩
欧陽脩の活動は文学と政治だけではない。歴史編纂でも大きな業績を残した。
『新唐書』の編纂
北宋では唐代の正史を改修する事業が進められ、欧陽脩も官修史書『新唐書』の編纂に参加した。
『新唐書』は欧陽脩一人の著作ではない。
宋祁らとともに進められた官撰事業であり、欧陽脩は紀・志・表などの編纂を担当したとされる。
したがって、『新唐書』と後述する『新五代史』では、欧陽脩と書物との関係が異なる。
私撰した『新五代史』
一方、五代の歴史については欧陽脩自身が私的に編纂を進めた。
当初は『五代史記』と呼ばれ、景祐年間から長期間をかけて編纂され、
皇祐5年(1053)ごろまでに完成したとされる。
欧陽脩の死後に朝廷へ提出され、後世には『新五代史』と呼ばれるようになった。
『新五代史』には、出来事を並べるだけではなく、
人物や政治に対する欧陽脩自身の評価が強く表れている。
史料を選択し、簡潔な文章によって歴史を叙述しながら、
人間の行為や政治秩序について評価を加えるところに特徴がある。
文学において追求した簡潔な古文と、歴史家としての叙述姿勢は無関係ではなく、
欧陽脩にとって文章・政治・歴史はそれぞれ独立した活動ではなかった。
参知政事への昇進と濮議
欧陽脩は左遷を繰り返しただけの官僚ではない。
仁宗晩年には中央政界で地位を高め、嘉祐6年(1061)には参知政事となった。
参知政事は宰相を補佐して国政を担う高官であり、
欧陽脩は北宋中央政府の中枢にまで達した政治家だった。
仁宗の死後、英宗が即位すると、英宗の実父である濮王趙允譲をどのような礼で扱うかをめぐって
「濮議」と呼ばれる論争が起きた。
英宗は仁宗の実子ではなく、宗室から皇嗣として迎えられた人物だった。
そのため、皇帝となった英宗が実父をどのような名義で尊ぶべきかが礼制上の大問題となった。
欧陽脩は韓琦らとともにこの問題に関与し、台諫官らと激しく対立した。
濮議は単なる儀礼上の名称をめぐる論争ではなく、皇帝と実父の関係、皇統、礼制、
そして皇帝権力と官僚の言論をめぐる北宋政治の重要事件だった。
現代の欧陽脩研究でも、その国家観を考える主要問題の一つとして扱われている。
王安石の新法への批判と晩年
神宗が即位すると、王安石が登用され、新法が始まった。
慶暦年間に范仲淹らの改革を支持した欧陽脩だったが、
王安石の政策を全面的に支持したわけではない。
特に青苗法の実施について問題を指摘し、
新法をめぐって王安石らと政治的立場を異にするようになった。
ここからも、欧陽脩を生涯一貫した「改革派」
あるいは「保守派」のどちらかに分類することの難しさが分かる。
彼が重視したのは改革という名称そのものではなく、
具体的な政策が政治や民衆にどのような結果をもたらすかという問題だった。
晩年には中央政治から離れて地方官を務め、やがて致仕を願うようになった。
六一居士
晩年の欧陽脩は「六一居士」と号した。
「六一」とは、一万巻の蔵書、一千巻の金石遺文、一張の琴、一局の棋、一壺の酒、
そしてその間にいる一人の老人という趣旨である。
これは欧陽脩が文学だけでなく、
書物、金石、音楽、囲碁など幅広い文化に関心を持っていたことを示す号でもある。
とりわけ金石文の収集と研究は、後の金石学につながる活動として重要である。
政治の第一線を離れた後も、欧陽脩は詩文や学問との関わりを失ったわけではなかった。
欧陽脩の死と評価
熙寧4年(1071)、欧陽脩は致仕し、翌熙寧5年(1072)に死去した。65歳だった。
死後、「文忠」と諡された。
欧陽脩の生涯を政治的な成功と失敗だけで評価することは難しい。
范仲淹を擁護して左遷され、慶暦の新政を支持し、
朋党論争に巻き込まれながらも中央へ復帰し、最終的には参知政事にまで昇った。
一方で濮議では激しい政治対立の中心となり、神宗期には王安石の新法にも批判的な立場を取った。
文学では韓愈・柳宗元以来の古文を北宋で再興し、自ら優れた散文を残すだけでなく、
科挙を通じて蘇軾・蘇轍・曾鞏ら次世代の文人が台頭する環境を作った。
史学では官修の『新唐書』に参加するとともに、私撰の『新五代史』を完成させ、
歴史叙述にも自らの文章観と政治・倫理思想を反映させた。
『新五代史』が欧陽脩の歴史観と慶暦期の政治思想を考える重要な著作であることは、
研究でも指摘されている。
欧陽脩は政治家、文学者、歴史家という別々の顔を持っていたのではない。
政治において重視した言論、文学において追求した古文、歴史叙述における人物評価、
科挙を通じた人材登用は、いずれも士大夫が文章と学問によって政治に関与するという
北宋の文化のなかで結びついていた。
その意味で欧陽脩は、一人の名文家という以上に、
北宋中期の士大夫文化そのものを形作った人物の一人だった。
まとめ
欧陽脩は景徳4年(1007)、父の任地であった綿州に生まれ、本貫を吉州廬陵とした。
幼くして父を失い、母に育てられ、科挙で失敗を経験した後、天聖8年(1030)に進士となった。
官界では范仲淹を擁護して夷陵へ左遷された後、中央へ復帰し、慶暦の新政を支持した。
朋党批判に対しては『朋党論』を著し、その後も地方と中央を往復しながら政治に関与した。
晩年には参知政事にまで昇り、濮議に関与し、神宗期には王安石の新法を批判している。
文学では韓愈・柳宗元以来の古文を北宋で復興し、『酔翁亭記』などを残した。
嘉祐2年の科挙では蘇軾・蘇轍・曾鞏らが及第し、
欧陽脩による人材登用と文章評価は後の北宋文壇に大きな影響を与えた。
さらに『新唐書』の官修事業に参加し、自ら『五代史記』、後の『新五代史』を編纂した。
政治・文学・史学・人材登用を通じて、欧陽脩は北宋の士大夫文化の形成に大きな役割を果たした。
熙寧4年(1071)に致仕し、翌1072年に死去した。諡は文忠である。
史書・参考文献
・『宋史』巻319「欧陽脩伝」
・欧陽脩『欧陽文忠公集』
・欧陽脩『新五代史』
・欧陽脩・宋祁ほか『新唐書』
・小林義廣『欧陽脩――その生涯と宗族』
・劉子健『欧陽脩――十一世紀のユマニスト』
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