珍妃(ちんひ、1876年-1900年)は、清朝第11代皇帝・光緒帝の妃である。
満洲鑲紅旗のタタラ(他他拉)氏に生まれ、姉の瑾妃とともに後宮へ入り、
光緒帝の寵愛を受けたことで知られる。
しかし、光緒20年(1894年)には姉とともに妃から貴人へ降格された。
翌年には妃位へ復帰したものの、戊戌の変法と政変を経て光緒帝が政治権力を失うと、
珍妃も宮中で厳しい制約を受けるようになる。
そして光緒26年(1900年)、八カ国連合軍が北京へ迫り、
西太后(慈禧太后)らが都を脱出する直前、珍妃は紫禁城内の井戸へ投じられて死亡した。
光緒帝の改革を支えた女性、あるいは西太后に抵抗した妃として語られることも多いが、
珍妃の生涯には後世に形成された逸話も少なくない。
本記事では、史料から確認できる経歴と後世の伝承を分けながら、その生涯をたどる。
名門タタラ氏に生まれる
満洲鑲紅旗の一族
珍妃は光緒2年(1876年)、満洲鑲紅旗に属するタタラ氏の家に生まれた。
父の長叙は清朝に仕え、礼部左侍郎などを務めた官僚である。
タタラ氏は満洲八旗に属する一族で、珍妃の家系からも清朝に仕える官僚や軍人が出ていた。
祖父の裕泰は陝甘総督などを歴任し、伯父の長善は広州将軍を務めている。
従兄弟には進士となった志鈞・志鋭らがおり、珍妃はこうした官僚家系の娘として育った。
珍妃には姉の瑾妃がいた。
姉妹はのちにそろって光緒帝の後宮へ入り、生涯を通じて清朝末期の宮廷と深く関わることになる。
後世の記録では、瑾妃は比較的穏やかな性格であったのに対し、
珍妃は活発で新しいものを好む女性だったと描かれている。
↓↓清朝の八旗制度についての個別記事は、こちら

光緒帝の後宮へ
姉・瑾妃とともに入宮
光緒14年(1888年)、西太后は光緒帝の皇后として、
自らの弟・桂祥の娘である葉赫那拉氏、のちの隆裕皇后を選んだ。
同時に長叙の二人の娘も後宮へ入ることが決まり、姉は瑾嬪、妹は珍嬪に封じられた。
翌光緒15年(1889年)、光緒帝の大婚が行われ、珍嬪も正式に後宮生活へ入った。
珍妃は書画などを好み、活発な性格だったと伝えられている。
また、西洋から伝わった写真にも関心を示したことで知られ、
故宮博物院も清朝後宮のなかで早くから写真撮影を受け入れた女性として紹介している。
こうした珍妃は光緒帝から寵愛を受けた。
後世には「光緒帝が最も愛した女性」として語られることも多く、
隆裕皇后との関係が疎遠だった光緒帝にとって、珍妃が親しい妃であったことは、
その後の宮廷内での立場にも影響を与えていく。
↓↓西太后についての個別記事は、こちら

珍嬪から珍妃へ
光緒20年(1894年)正月、西太后の六十歳の祝賀にあたり、後宮の妃嬪たちに昇進が行われた。
このとき瑾嬪は瑾妃、珍嬪は珍妃へ進んだ。
珍妃だけが特別に昇進したのではなく、姉の瑾妃を含む複数の妃嬪が同時に昇進している。
そのため、珍妃への昇進を単純に光緒帝の寵愛の結果とみなすことはできない。
ところが、妃となった同じ年に、珍妃の立場は大きく変化することになる。
1894年の降格と西太后との対立
瑾妃・珍妃を貴人へ降格
光緒20年(1894年)10月、西太后は瑾妃と珍妃をともに貴人へ降格する懿旨を出した。
『徳宗景皇帝実録』に収められた懿旨では、二人はそれまで「淑慎」とされていたものの、
近ごろは「習尚浮華」、すなわち華美を好むようになり、
「屢有乞請」、たびたび何らかの請願を行っていたことが問題とされている。
さらに後宮から政治へ干渉することを禁じる清朝の家法にも言及され、
妃嬪の周囲にいる者がその立場を利用して皇帝へ働きかけることへの警戒が示された。
この処分によって、珍妃は同年正月に得た妃位を失い、珍貴人へ降格された。
姉の瑾妃も同じく瑾貴人となっている。
ただし処分は永久的なものではなく、翌光緒21年(1895年)には妃位へ復帰した。
『清史稿』にも「逾年、仍封珍妃」とあり、
降格からおよそ一年後に再び珍妃となったことが記されている。
「売官事件」をめぐる逸話
珍妃の降格をめぐっては、後世に「売官事件」と呼ばれるさまざまな逸話が伝えられた。
珍妃やその周辺の人物が、官職や昇進を求める者から金品を受け取り、
光緒帝へ働きかけたというものである。
こうした請託が西太后の怒りを招き、珍妃失脚の直接的な原因になったと説明されることも多い。
一方、公式記録である『徳宗景皇帝実録』が明記しているのは、
珍妃と瑾妃が華美を好み、たびたび請願を行ったことなどである。
後世に語られた個々の売官事件については記録によって内容が異なり、
すべてをそのまま事実とみなすことはできない。
珍妃の降格そのものと、その背景として請託が問題視されたことは史料から確認できるが、
具体的な「売官」の経緯については分けて考える必要がある。
懐妊・廷杖をめぐる伝承
1894年の処分については、珍妃が西太后から杖刑を受け、
その際に妊娠していたため流産したという話も広く知られている。
珍妃が妊娠中であったにもかかわらず厳しい体罰を受け、重傷を負ったとする記述や、
これによって子を失ったとする説は、後世の珍妃伝説を形づくる重要な要素となった。
しかし、珍妃の妊娠や流産を含め、この一連の出来事については公式記録による十分な裏付けがない。1894年に珍妃と瑾妃が貴人へ降格されたことは確認できるものの、
「妊娠三か月の珍妃が廷杖を受けて流産した」というところまで
確定した史実として扱うことはできない。
珍妃の悲劇的な生涯を語る際によく紹介される逸話ではあるが、
1894年の降格という史実と、後世に伝えられた懐妊・流産説とは区別しておく必要がある。
戊戌の変法と珍妃
改革へ向かう光緒帝
1895年、清朝は日清戦争に敗れ、下関条約を締結した。
敗戦は清朝の政治や軍事制度に対する危機感を強め、
康有為・梁啓超らをはじめとする知識人や官僚の間で改革を求める動きが広がった。
光緒帝も改革へ傾き、光緒24年(1898年)には政治・教育・軍事など幅広い制度改革に着手した。
いわゆる戊戌の変法、あるいは百日維新である。
しかし改革をめぐって宮廷内部の対立が深まり、同年9月に西太后が再び政治の実権を掌握した。
康有為・梁啓超らは逃亡し、譚嗣同ら六人が処刑され、
光緒帝は中南海の瀛台に置かれて政治権力を失った。
珍妃は変法を支持したのか
珍妃については、光緒帝の改革を支持し、
変法派に理解を示していたという人物像が広く知られている。
故宮博物院の人物解説でも、珍妃が政治面で光緒帝を支持した人物として紹介されている。
一方で、珍妃自身が戊戌の変法の政策決定にどの程度関与したのかを
具体的に示す同時代史料は限られている。
光緒帝に改革を勧めた、変法派の官僚と密接に連絡したといった逸話についても、
後世の記録による部分が大きい。
したがって、珍妃が光緒帝の改革に好意的だった可能性と、
実際に政治活動へ深く関与したかどうかは分けて考える必要がある。
戊戌政変後の幽閉生活
戊戌の政変後、珍妃は宮中で隔離され、行動を厳しく制限されたと伝えられている。
故宮博物院では、珍妃が景祺閣北側の小院に幽禁されていたとしている。
この状態は後世にしばしば「冷宮への幽閉」と表現される。
ただし、紫禁城に「冷宮」という正式名称の宮殿が存在したわけではない。
皇帝の寵愛を失った妃嬪などが隔離された状態や場所を、後世に「冷宮」と総称したものである。
一方、光緒帝も瀛台に置かれて政治活動を制限されていた。
これによって光緒帝と珍妃は引き離され、以前のように接することが困難になった。
この時期の珍妃の日常生活について詳しい記録は少ない。
光緒帝が珍妃を案じていたとする逸話も伝えられているが、
二人がどのような方法で連絡を取っていたのかなど、具体的な状況は明らかではない。
こうして珍妃は、1900年に北京を大きな混乱が襲うまで、
宮中で厳しい制約を受けながら暮らすことになった。
義和団事件と珍妃の最期
八カ国連合軍が北京へ迫る
1900年、義和団運動の拡大を背景として清朝と列強の対立が激化し、八カ国連合軍が北京へ進軍した。
同年8月、連合軍が北京へ迫ると、西太后は光緒帝らを伴って都を脱出することを決めた。
その直前、宮中に残されていた珍妃の処遇が問題となる。
故宮博物院の説明では、西太后は景祺閣北側の小院に幽禁されていた珍妃を頤和軒へ呼び出し、
宦官の崔玉貴らに命じて貞順門内の井戸へ投じさせたという。
この井戸が、現在「珍妃井」と呼ばれているものである。
『清史稿』も珍妃について、
光緒26年(1900年)、西太后が北京を離れた際に「沈於井」と記しており、
珍妃が井戸に沈められて死亡したことを伝えている。
「避難に反対したため殺された」という説
珍妃の最期については、西太后の北京脱出に反対したため殺害されたという逸話が有名である。
後世の記録では、珍妃が「皇帝を残して逃げるべきではない」「外国軍と交渉すべきだ」
といった趣旨の発言を行い、それに激怒した西太后が殺害を命じたとされる。
また、西太后が珍妃を連れて逃げることはできず、
外国兵から辱めを受ける恐れがあることを理由として処分を命じたという話も伝わっている。
ただし、西太后と珍妃の間で実際にどのような会話が交わされたのかについては、
記録によって内容が異なる。
珍妃が最後まで西太后に抵抗したという劇的な描写を、そのまま史実として再現することは難しい。
確認できるのは、八カ国連合軍が北京へ迫った1900年8月、
西太后らの脱出直前に珍妃が井戸へ投じられて死亡したことである。
死後の追贈と改葬
珍妃が死亡すると、西太后と光緒帝らは北京を離れ、西安方面へ避難した。
翌光緒27年(1901年)、北京議定書の締結後に清朝宮廷が北京へ戻ると、
珍妃には死後の処置が行われた。
清朝側では珍妃について、前年の北京の混乱に際して皇帝への扈従がかなわず、
宮中で殉難したという形で処理し、貴妃へ追贈した。
公式には西太后による殺害とはされず、宮廷の体面を保つ形でその死が説明された。
故宮博物院によれば、このとき珍妃の家族に遺体を井戸から引き上げることが許され、
西郊の田村に安置された。
その後、光緒帝の陵墓である崇陵の造営にともない、珍妃も崇陵妃園寝へ改葬された。
『清史稿』にも、光緒27年に光緒帝が北京へ戻った後、珍妃を皇貴妃へ追進し、
西直門外に葬ったのち崇陵へ移したことが記されている。
そのため、珍妃の名誉が回復されたのは西太后が死去した1908年以降というわけではない。
少なくとも1901年にはすでに死後の追贈が行われていた。
のちに「恪順皇貴妃」の諡号を受け、清朝の后妃として正式な位置づけが与えられた。
現在に残る珍妃ゆかりの地
珍妃井
現在の北京故宮には、珍妃が最期を迎えたとされる「珍妃井」が残されている。
珍妃井は寧寿宮北端の貞順門内にあり、もともとは宮中に設けられた普通の井戸だった。
井口には石が置かれ、その両側には鉄棒を通して施錠するための穴が設けられている。
1900年に珍妃がこの井戸へ投じられたことから、後世に「珍妃井」と呼ばれるようになった。
現在残る井戸は珍妃の最期を伝える場所として保存されており、
紫禁城に残る清朝末期の宮廷史を伝える遺構の一つとなっている。
景仁宮と懐遠堂
珍妃が生活した場所として知られる景仁宮も、現在の故宮に残されている。
また珍妃井の北側にある懐遠堂には、珍妃の死後、姉の瑾妃が小さな霊堂を設け、
珍妃の位牌を安置して追悼したと故宮博物院は伝えている。
姉妹はともに光緒帝の妃として入宮したが、珍妃は1900年に死亡し、
瑾妃はその後も清朝滅亡を経て1924年まで生きた。
珍妃井とその周辺には、二人の姉妹のその後を伝える痕跡も残されている。
珍妃の歴史的位置
珍妃は後世、「光緒帝が最も愛した女性」「西太后に抵抗した妃」「戊戌の変法を支持した女性」
として描かれてきた。
その背景には、光緒帝の寵愛を受けながら西太后との関係を悪化させ、
最終的に北京脱出の直前に井戸へ投じられて死亡したという劇的な生涯がある。
一方、珍妃にまつわる逸話のすべてが同時代史料によって確認できるわけではない。
親政を光緒帝に勧めたという話、売官事件の詳細、妊娠中の廷杖と流産、
戊戌の変法への直接的な関与、西太后との最期の会話などには、
後世に形成された伝承が含まれている。
史料から確認できる珍妃の生涯は、それだけでも波乱に富んでいる。
光緒帝の後宮へ入り、1894年に珍妃へ昇進したものの、同じ年に貴人へ降格された。
翌年には妃位へ戻り、戊戌政変後には宮中で隔離され、
1900年に西太后らが北京を離れる直前、井戸へ投じられて死亡した。
そして1901年には死後の追贈を受け、のちに崇陵妃園寝へ葬られた。
珍妃を理解するには、この史料から確認できる経歴と、
後世に形成された「悲劇の寵妃」という人物像を区別して見る必要がある。
まとめ
珍妃は、清朝末期の光緒帝に仕えた妃であり、姉の瑾妃とともに後宮へ入った。光緒帝から寵愛を受けた一方、1894年には姉とともに貴人へ降格され、翌年に妃位へ復帰している。
1898年の戊戌政変後には宮中で隔離され、光緒帝とも引き離された。さらに1900年、八カ国連合軍が北京へ迫ると、西太后らが都を脱出する直前に井戸へ投じられて死亡した。
翌1901年には追贈が行われ、遺体も引き上げられたのち、最終的に光緒帝の崇陵に付属する妃園寝へ葬られた。
珍妃には光緒帝への政治的進言、売官、懐妊と流産、戊戌の変法への関与など多くの逸話が残る。しかし、そのなかには後世の記録によって形成されたものもあり、史実として確認できる部分とは区別する必要がある。
現在も北京の故宮には「珍妃井」が残されている。
珍妃の生涯は、光緒帝と西太后が対立した清朝末期の宮廷と、
義和団事件によって北京そのものが戦場となった時代を伝える出来事の一つとなっている。
史料・参考文献
- 『清史稿』巻214「列伝一・后妃」恪順皇貴妃他他拉氏伝
- 『清実録』「徳宗景皇帝実録」
- 故宮博物院「珍妃」
- 故宮博物院「珍妃井」
- 中国第一歴史檔案館所蔵・清宮内務府関係档案
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