【前漢】李陵|匈奴に降った悲劇の名将と司馬遷を変えた男

李陵(漢・武将) 033.武将

李陵(りりょう、字は少卿、生年不詳-前74年)は、
前漢の武帝時代に活動した将軍で、名将・李広の孫にあたる。

若い頃から騎射に優れ、兵士を慈しんで人望を集め、
武帝からも祖父・李広を思わせる人物として評価された。
八百騎を率いて匈奴領深くまで偵察した経験を持ち、
のちには五千人の歩兵を率いて酒泉・張掖で対匈奴戦に備えている。

天漢2年(前99)、李陵はわずか五千の歩兵を率いて匈奴領へ入り、
且鞮侯単于が率いる数万の騎兵と遭遇した。
援軍のないまま戦闘を続け、匈奴側に大きな損害を与えたが、矢を使い果たして退路を断たれ、
最後には降伏した。

李陵の降伏は本人だけの問題では終わらなかった。
李陵を弁護した司馬遷は武帝の怒りを買って宮刑を受け、
李陵の一族も、別人である李緒との取り違えによって処刑された。
李陵はその後、匈奴で右校王となり、漢への忠節を貫いた蘇武とも再会する。

武帝の死後にはから帰国を求められたが、
李陵は「丈夫は二度辱めを受けることはできない」と帰国を拒み、そのまま匈奴で生涯を終えた。

李広の孫として生まれ、武帝に仕える

父・李当戸の死後に生まれる

李陵は、匈奴との戦いで名を知られた前漢の将軍・李広の孫である。
李広は文帝・景帝・武帝の三代に仕え、匈奴から「飛将軍」と恐れられた武将だった。

長年にわたって北方防衛と匈奴戦に従事したものの侯爵にはなれず、
元狩4年(前119)の漠北遠征では道に迷って本隊への合流が遅れ、
その責任を問われることになったため自害した。

李広には李当戸・李椒・李敢という三人の子がいた。

李陵の父・李当戸も郎として武帝に仕えていた。
『漢書』によれば、李当戸は武帝と戯れていた寵臣の韓嫣が無礼な態度を取った際に韓嫣を殴り、
武帝は李当戸を勇ましい人物として評価したという。

ただし李当戸は父・李広より早く死去した。
李陵は李当戸の死後に生まれた遺腹の子だった。

祖父・李広も父・李当戸もすでに亡くなっていたが、
李陵は李氏の武門としての家風を受け継ぎ、成長すると武帝のもとで官職に就いた。

騎射に優れ、兵士から慕われる

李陵の字は少卿という。
若い頃には侍中・建章監となり、武帝の近くに仕えた。
『漢書』はこの頃の李陵について、騎射を得意とし、人を慈しみ、
身分の低い者にも謙虚に接したため、非常に高い評判を得ていた
と記している。

祖父の李広も兵士と食事をともにし、
飲み水が不足した際には全員が飲むまで自分は水に口をつけなかったことで知られる。
李陵にも同じように兵士との距離を縮める性格があったらしく、
武帝は李陵に「李広の風」があると評価した。

李陵がのちに絶望的な状況でも多数の兵士を率いて戦い続けることができた背景には、
単なる武勇だけではなく、こうした日頃からの人望もあった。

八百騎で匈奴領二千余里へ入る

武帝は李陵に八百騎を与え、匈奴領へ深く侵入して地形を偵察させた。
李陵は居延を越え、匈奴領内へ二千余里も進んだが、この時には敵と遭遇せず、そのまま帰還した。

その後、李陵は騎都尉に任じられ、勇敢な兵士五千人を率いることになった。
李陵は酒泉・張掖で兵士たちに弓射を教え、匈奴の侵入に備えた。

この五千人が、のちに匈奴の大軍と戦う李陵軍の中核となる。

李広利の大宛遠征にも従う

武帝が弐師将軍・李広利を大宛遠征へ派遣すると、李陵も五校の兵を率いてその後方を進んだ。

しかし李陵が塞外まで進んだ頃には李広利軍がすでに帰還へ向かっていたため、
武帝は李陵へ書を送り、李陵は兵士を残して五百の軽騎だけを率いて敦煌から塩水へ進み、
李広利を迎えた。
その後は再び張掖へ戻って駐屯している。

したがって李陵は、天漢2年(前99)の有名な戦い以前から、
対匈奴・西域方面で偵察や辺境防衛、遠征軍の支援を経験していた将軍だった。

五千の歩兵で匈奴の大軍と戦う

李広利の補給部隊となることを拒む

天漢2年(前99)、武帝は再び大規模な匈奴遠征を行った。
主力となったのは、武帝の寵姫である李夫人の兄・李広利である。
李広利は三万騎を率いて酒泉から出撃し、天山方面で匈奴の右賢王を攻撃することになった。

武帝は李陵を召し出し、当初は李広利軍の輜重、すなわち補給部隊を担当させようとした。

しかし李陵は武帝の前で叩頭し、自分が率いている者たちは荊楚出身の勇士や剣客で、
虎を押さえつけるほど力が強く、弓を射れば命中させる者たちであると訴えた。
そして李広利軍の後方ではなく、独立した一隊として匈奴へ向かい、
単于の兵力を自分の方へ引きつけたいと願い出た。

武帝は「他の将軍の指揮下に入ることを嫌っているのか」と問い、
すでに多くの軍を出しているため李陵へ与える騎兵はないと告げた。

これに対して李陵は騎兵を必要とせず、
五千の歩兵だけで匈奴の地へ入って「少をもって衆を撃つ」と申し出た。

武帝はその意気を壮とし、出撃を許可した。

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路博徳との合流をめぐって武帝の疑いを受ける

武帝は強弩都尉・路博徳に命じ、途中で李陵軍を迎えさせることにした。

ところが路博徳はかつて伏波将軍を務めた老将であり、若い李陵の後詰めとなることを恥じた。
そこで武帝へ上書し、秋は匈奴の馬が肥えて戦いに適さないため、李陵を春まで留め、
自分と李陵が酒泉・張掖からそれぞれ五千騎を率いて攻撃すれば勝てると進言した。

武帝はこれを見て、李陵が出撃を後悔して路博徳に上書させたのではないかと疑い、激怒した。
そのため李陵には九月に出発するよう改めて命令が下された。

李陵は五千の歩兵を率いて居延から北へ進み、約三十日をかけて浚稽山へ到達した。
途中では通過した山川や地形を地図にまとめ、
麾下の騎士・陳歩楽を朝廷へ帰して武帝へ報告させている。

陳歩楽は李陵が兵士の心をつかみ、皆が命を惜しまず戦おうとしている様子を武帝へ語った。
武帝は喜び、陳歩楽を郎に任じた。

三万騎に包囲される

浚稽山に到着した李陵軍は、そこで且鞮侯単于の軍と遭遇した。
単于は李陵軍がわずか五千人であることを見ると、およそ三万騎で包囲した。

李陵は二つの山の間に大車を並べて陣営を築き、兵士を外へ出して陣形を整えた。
前列には戟と盾を持つ兵士を置き、後列には弓弩兵を配置する。
鼓が鳴れば一斉射撃し、鉦が鳴れば止めるよう命令した。

匈奴軍は軍が少数であると見てそのまま陣営へ迫ったが、李陵は一斉に弩を放たせた。
匈奴兵は次々と倒れ、退却したところを軍が追撃して数千人を殺した。

予想外の抵抗を受けた単于は周辺の兵を招集し、兵力は八万余騎にまで増えた。
五千人の歩兵を相手に、匈奴側はさらに大軍を投入することになった。

戦いながら南へ退却する

李陵軍は匈奴軍と戦いながら南へ退いた。
山谷に入る頃には負傷者が増え、三か所負傷した者は車に乗せ、二か所負傷した者には車を引かせ、
一か所だけの負傷者にはそのまま武器を持たせて戦わせた。

それでも李陵軍は戦闘を続け、ある戦いでは三千余の首級を挙げている。

さらに葦の茂る湿地へ入ると、匈奴軍は風上から火を放った。
李陵も自軍側から火をつけることで延焼を防ぎ、危機を脱した。

山林へ入った後には単于の子が騎兵を率いて攻撃してきたが、
李陵軍は木々の間で歩兵戦を行い、ここでも数千人を殺傷した。
さらに連弩を単于へ向けて放ったため、単于自身が山上から退避している。

匈奴側では、わずか数千人の軍を数万騎で攻めても倒せず、
しかも李陵がの国境へ向かって南下していることから、
伏兵がいるのではないかという疑いまで生じ、一時は撤退を検討するほどだった。

管敢の投降で状況が変わる

李陵軍にとって決定的だったのは、軍候の管敢が匈奴へ投降したことである。

管敢は校尉から辱めを受けたことを恨んで逃亡し、
李陵軍には後続の援軍がなく、矢も尽きかけていることを単于へ伝えた。
また李陵と韓延年の直属兵を攻撃すれば軍を崩せることまで教えた。

これを知った単于は攻撃を強めた。
匈奴軍は山上から四方より矢を降らせ、李陵軍の退路を塞いだ。
軍が持っていた五十万本の矢もついに尽き、兵士たちは車を捨て、
車輪の輻を切り取って武器とし、軍吏は短刀を手にして戦う状態となった。

この時点で残っていた兵は三千余人だった。
李陵軍は狭い谷へ追い込まれ、匈奴軍が上から岩を落としたため、多くの兵士が死亡した。

韓延年が戦死し、李陵は降伏する

夜になると、李陵は普段着に着替えて一人で陣営を出た。
周囲にはついて来ないよう命じ、「丈夫たるもの単于を一度は捕らえてみせる」と言い残したが、
しばらくして戻り、「兵は敗れた。死ぬだけだ」と嘆いた。

部下からは、生き延びて帰国する道を探すべきだという意見も出た。
かつて匈奴の捕虜となりながら脱出して帰国した趙破奴の例を挙げ、
李陵ほどの人物であれば皇帝も受け入れるはずだと説得されたが、
李陵は当初、生きて帰ることを恥じて死ぬ意思を示していた。

李陵は軍旗を切り捨て、財宝を地中へ埋め、「あと数十本でも矢があれば脱出できた」と嘆いた。
そして兵士たちには各自で散り、国境まで逃げ延びて戦況を報告するよう命じた。

夜半、李陵と韓延年は十数人の壮士とともに脱出を図ったが、数千の匈奴騎兵に追撃された。
韓延年は戦死した。
李陵は「陛下に合わせる顔がない」と言い、ついに匈奴へ降伏した。

五千人のうち、の国境まで帰還できた者は四百余人だった。
したがって李陵の降伏を「残った兵を救うために自ら降伏した」と断定することはできない。
『漢書』が描くのは、最後まで脱出や死を考えながら戦った李陵が、
軍の壊滅と韓延年の死の後に降伏したという経過である。

李陵の降伏と司馬遷の宮刑

武帝は李陵が戦死したと考えていた

李陵軍が敗れた場所はの国境から百余里ほどしか離れていなかった。

敗戦の報告を受けた武帝は、李陵が最後まで戦って死んだものと考え、
李陵の母と妻を呼び出して人相を見る者に観察させた。
しかし二人の顔には身内の死を示す兆候がないと判断されたという。

やがて李陵が生きて匈奴へ降伏したことが判明すると、武帝は激怒した。
戦況報告のため帰還していた陳歩楽も責任を追及され、自殺した。
朝廷の臣下たちは李陵を罪に問うべきだと主張した。

司馬遷が李陵を弁護する

武帝は太史令の司馬遷にも李陵について意見を求めた。

司馬遷は、李陵は親に孝行で、兵士との信義を重んじ、
国家の危急には自分の身を顧みず戦ってきた人物であると述べた。
その李陵が一度の不運によって敗れただけで、
身の安全ばかり考えている者たちから非難されるのは痛ましいと訴えた。

さらに李陵は五千にも満たない歩兵を率いて匈奴の奥深くへ入り、
数万の兵を相手に戦い続け、矢が尽きて道も絶たれながら最後まで抵抗したと評価した。
その戦いぶりは古の名将にも劣らず、生きて降伏したのも、
後に何らかの形でへ報いようと考えているためではないかと論じた。

しかし武帝は、司馬遷が李陵を持ち上げることで、
戦果の乏しかった李広利を非難しようとしていると受け取った。

司馬遷は獄に下され、最終的に腐刑、すなわち宮刑を受けることになった。

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【前漢】司馬遷|宮刑に耐え『史記』を完成させた歴史家
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武帝は後に援軍を送らなかったことを悔やむ

時間が経つと、武帝自身も李陵を救援できなかったことを後悔した。

『漢書』によれば、武帝は李陵が出撃した際、本来なら路博徳に途中で迎えさせるつもりだったが、
その命令をめぐる行き違いによって老将に策を弄する機会を与えてしまった
という趣旨の言葉を残している。

武帝は李陵軍から生還した者たちへ使者を送り、労をねぎらって褒賞を与えた。

これは武帝が李陵の降伏そのものを許したことを意味しないが、
李陵軍が援軍を得られないまま戦うことになった経緯について、
後になって自らの側にも問題があったと認識していたことを示している。

李緒との取り違えと一族の処刑

公孫敖が李陵を迎えに向かう

李陵が匈奴へ降伏して一年余りが経つと、
武帝は因杅将軍・公孫敖に兵を与え、匈奴領へ深く入って李陵を迎え戻すよう命じた。
この時点では、武帝は李陵を完全に見捨てていたわけではなかったことになる。

しかし公孫敖は戦果を挙げることができず、李陵を連れ戻すこともできなかった。

帰還した公孫敖は、匈奴で捕らえた人物から
「李将軍が単于に兵法を教え、軍への備えをさせている」と聞いたため、
李陵を連れ戻せなかったと武帝へ報告した。

「李将軍」は李陵ではなく李緒だった

公孫敖の報告を聞いた武帝は、李陵が匈奴に軍の戦術を教えていると信じた。
その結果、李陵の家族は連座して処刑された。
『漢書』は母・弟・妻子がことごとく処刑されたと記している。

しかし、この「李将軍」は李陵ではなかった。
実際に匈奴へ軍事知識を教えていたとされるのは李緒という人物である。
李緒はもともとの塞外都尉で、奚侯城にいたところを匈奴に攻撃されて降伏していた。

後にの使者と会った李陵は、一族が処刑された理由を聞き、
「自分はの将軍として五千の歩兵で匈奴を相手に戦い、援軍がなかったため敗れただけだ。
 いったいに何の罪があって自分の家族を殺したのか」という趣旨で抗議した。

使者から「では李少卿が匈奴に兵法を教えていると聞いた」と説明されると、
李陵はそれは自分ではなく李緒だと答えた。

一族処刑は、李緒と李陵を取り違えた情報によって起きたことになる。

李陵が李緒を殺させる

李緒は匈奴で単于から客として厚遇され、宴席でも李陵より上座に置かれることがあった。

李陵は、自分の一族が李緒との取り違えによって処刑されたことを激しく恨み、
人を使って李緒を殺害させた。

これに対して匈奴の大閼氏は激怒し、李陵を殺そうとした。

しかし単于は李陵をかばい、北方へ隠した。
李陵は大閼氏が死去した後になって戻ることができた。

李陵が一族の処刑を知った後にへ戻らなかった背景には、
単に匈奴で厚遇されたという事情だけでなく、
によって母・弟・妻子を失ったことも大きく影響していた。

匈奴の右校王となり、蘇武と再会する

単于の娘を妻として右校王となる

単于は李陵の武勇を高く評価し、自分の娘を妻として与え、李陵を右校王に立てた。
同じくから匈奴へ降った衛律も丁霊王となり、二人はいずれも匈奴で高い地位を得た。
ただし両者の立場には違いがあった。

衛律は単于の側近として常に近くに仕えていたのに対し、
李陵は普段は外におり、重大な問題が起きた際に単于のもとへ入り、
政務や軍事について協議する立場だったと『漢書』は記している。

李陵は単なる捕虜や客将ではなく、匈奴の政治・軍事に関与する有力者となっていた。

蘇武に降伏を勧める

李陵を語るうえでもう一人欠かせない人物が蘇武である。
蘇武と李陵は、もともとの宮廷でともに侍中を務めていた。

蘇武は天漢元年(前100)にの使節として匈奴へ派遣されたが、
現地で起きた事件に巻き込まれて抑留された。
匈奴から降伏を迫られても拒み続けたため、北海のほとりへ送られ、雄羊を飼わされた。

翌年に李陵が匈奴へ降伏したが、李陵はしばらく蘇武に会おうとしなかった。

それから年月が経つと、単于は李陵と蘇武が旧知であることを利用し、
李陵を北海へ派遣して蘇武を説得させた。

李陵は酒宴を設け、蘇武の兄弟がすでに死亡したこと、母も亡くなったこと、
妻は再婚したと聞いていること、子どもたちの消息も分からないことなどを伝えた。
そして武帝は高齢となり、法令も一定せず、多くの大臣が罪なく滅ぼされているとして、
いつ帰れるかも分からない土地で忠節を守り続ける必要があるのかと説いた。

そこには、によって一族を処刑された李陵自身の経験も重なっていた。

しかし蘇武は拒絶した。
自分と父兄は皇帝から大恩を受けたのであり、皇帝のためなら死んでも悔いはないと答えた。
李陵が再び説得しても、蘇武は「本当に自分を降伏させたいのであれば、この場で死ぬ」
とまで言った。

その姿を見た李陵は、蘇武を「義士」と称え、
自分と衛律の罪は天に届くほどだと嘆き、涙で衣を濡らして別れた。

自分から贈ることを恥じ、妻を通して牛羊を与える

蘇武を説得できなかった後も、李陵は蘇武を見捨てなかった。
『漢書』には、李陵は自分自身の名で蘇武へ物を贈ることを恥じ、
妻を通して数十頭の牛や羊を贈らせたと記されている。

降伏した自分と、極寒の地でなおへの忠節を守る蘇武との違いを、
李陵自身が強く意識していたことをうかがわせる逸話である。

李陵は蘇武を降伏させる側に立ちながら、その節義そのものには敬意を抱いていた。

武帝の死を蘇武へ知らせる

後に李陵は再び北海へ赴き、の武帝が死去したことを蘇武へ知らせた。
それを聞いた蘇武は南を向いて号泣し、血を吐くほど悲しみ、
朝夕に哭すること数か月に及んだという。

李陵はの皇帝の死を知らせる立場にありながら、
自らはそのへ帰ることのできない人物となっていた。

さらに匈奴ととの和親が進み、蘇武の帰国が決まると、李陵は酒宴を開いて祝った。

蘇武が十九年ぶりにへ帰れることを称えながら、
自分については、もしが自分の罪を許し、老母を生かしておいてくれたならば、
いつか恥をすすいでへ報いることも考えていたが、
一族が皆殺しにされた以上、もはや何も望むものはないという趣旨を語った。

李陵は泣きながら蘇武と別れた。

李陵と蘇武は「降伏した者」と「最後まで降伏しなかった者」として対照的に描かれることが多い。
しかし『漢書』に残された二人のやり取りを見ると、単純に互いを否定し合う関係ではなく、
それぞれの選択を理解しながらも同じ道を選ぶことのできなかった複雑な関係だったことが分かる。

漢から帰国を求められるが拒絶する

昭帝即位後、霍光と上官桀が李陵を呼び戻そうとする

征和4年(前89)に李広利が匈奴へ降伏し、
その後、後元2年(前87)に武帝が死去すると、幼い昭帝が即位した。
昭帝を補佐したのは大将軍・霍光と左将軍・上官桀である。

霍光と上官桀は以前から李陵と親しかったため、李陵をへ呼び戻そうと考えた。
そこで李陵の旧知である隴西出身の任立政ら三人を使者として匈奴へ派遣した。

任立政たちが単于の宴席へ出ると、そこには李陵と衛律も同席していた。

李陵と二人だけで話す機会を得られなかった任立政は、
何度も刀の環を撫で、李陵の足を握るなどして、ひそかにへ帰るよう合図したという。

その後、李陵と衛律が牛や酒を用意しての使者をもてなした。
二人はすでに匈奴風の服装をし、髪型も胡風に変えていた。

任立政は李陵にも聞こえるように、では大赦が行われ、国内は安定し、
若い皇帝のもとで霍光と上官桀が政権を担っていると大声で語った。
李陵は黙ったまま、自分の髪を撫でて、「私はもう胡服を着ている」という趣旨の言葉を返した。

「丈夫は二度辱めを受けることはできない」

衛律が席を外すと、任立政は李陵に帰国を勧め、
霍光と上官桀が政権を担っている現在ならへ戻っても富貴を失う心配はないと説得した。

李陵は二人の安否を尋ねたものの、帰国そのものを拒絶したわけではなく、
「帰ること自体は容易だが、再び辱めを受けることが恐ろしい」という趣旨を語った。

任立政がなおも帰国を促すと、李陵は「丈夫は二度辱めを受けることはできない」と答え、
へ戻らない意思を示した。

李陵にとって、匈奴に敗れて降伏したことに加え、その後にによって一族を処刑されたことは、
もはや簡単には取り返すことのできない出来事だった。

このため、李陵は一族を失った時点で完全に帰国の道を閉ざされたわけではない。
武帝の死後、昭帝の時代には霍光と上官桀が実際に帰国を働きかけており、
李陵にはへ戻る機会が与えられていた。
それでも李陵は、再び辱めを受けることを拒み、匈奴に残る道を選んだ。

匈奴での最期と子孫

匈奴で二十余年を過ごして病死する

李陵は匈奴で二十余年を過ごした。
元平元年(前74)、病によって死去した。

生年は史料に記されていないため享年は分からない。

若い頃には武帝から李広を思わせる将軍として期待され、軍を率いて匈奴と戦った李陵だったが、
その人生の後半は右校王として匈奴で過ごすことになった。

へ帰る機会そのものがなかったわけではない。
それでも李陵は、降伏、一族処刑、匈奴で得た地位という長い経緯の末に、
故国へ戻らないまま生涯を終えた。

李陵の子は匈奴の内乱に関与する

李陵には匈奴で子がいた。
『漢書』匈奴伝には、李陵の死後かなり経ってから
「李陵の子」が匈奴内部の単于争いに関与したことが記されている。

前1世紀半ば、匈奴では複数の単于が並び立つ激しい内乱が起きた。
呼韓邪単于が勢力を回復しつつあった時期、李陵の子は烏藉都尉を再び単于として擁立した。
しかしこの動きは成功せず、呼韓邪単于は烏藉都尉を捕らえて処刑した。
李陵の子自身がこの時に処刑されたのか、
また李陵の子孫がここで完全に断絶したのかまでは、この記録から断定できない。

一方、に残った李氏にも悲劇が続いた。
李広の子・李敢は霍去病によって射殺され、
李敢の子・李禹も後に李陵のもとへ逃亡しようとしたとの告発を受け、獄に下されて死亡している。

祖父・李広から李陵の世代に至るまで、
この一族は匈奴戦と武帝期の政治に深く関わりながら、多くの死者を出すことになった。

↓↓李広の子・李敢を射殺した霍去病についての個別記事は、こちら

【前漢】霍去病|匈奴を撃破した若き将軍の生涯と実像
霍去病(かくきょへい)とは何者か。前漢武帝期に匈奴を撃破し、わずか数年で戦局を覆した若き将軍の生涯を解説。衛青との関係や戦術、逸話から人物像まで史実をもとに詳しく整理する。

李陵は裏切り者だったのか

李陵に対する評価は、古くから一つではない。

の将軍でありながら敵国へ降伏し、その後は匈奴の王として生涯を送ったという事実だけを見れば、
への忠節を失った降将として批判される余地はある。

『漢書』も李陵と蘇武を同じ巻に収めながら、
巻末では「使者として四方へ赴いて君命を辱めない」という孔子の言葉を引き、
それを体現した人物として蘇武を称えている。
結果として、降伏した李陵と忠節を守った蘇武の違いは強く意識される構成となっている。

一方、李陵の戦いそのものは高く評価されている。

五千にも満たない歩兵で匈奴領深くへ入り、
単于直率の騎兵数万と連戦し、匈奴側に甚大な損害を与えた。
匈奴が周辺兵力を集めて八万余騎まで増強し、
それでも一時は撤退を考えたという『漢書』の記述から見ても、
李陵軍の戦闘能力が極めて高かったことは疑いない。

司馬遷もまさにこの点を評価した。
司馬遷は李陵を無条件に正当化したのではなく、
日頃の人物、兵士からの信頼、少数兵力で大軍を相手にした戦果を踏まえ、
一度の敗北だけで李陵を断罪することに異を唱えたのである。

また李陵自身も、匈奴へ降伏したことを何とも思っていなかったわけではない。
蘇武を説得した際には、自分が降伏した直後は心を失ったようになり、
に背いたことを苦しんだと語っている。
蘇武の忠節を目の当たりにすると、自分と衛律の罪は天に届くほどだと涙を流した。

その一方で、一族を処刑された後にはへの強い恨みも抱いた。
武帝の死後に帰国を求められても、自ら帰国を拒絶した。

李陵を単純な「忠臣」あるいは「裏切り者」のどちらかに分類すると、その人物像は見えにくくなる。

の将軍として最後まで激しく戦った人物であり、
敗北後には敵国へ降伏し、家族をに殺され、その匈奴で王となった。
それでもへの感情を完全に捨てたわけではなく、
蘇武の忠節に涙しながら、最終的には自らへ戻らない道を選んだ。

この矛盾を抱えた生涯そのものが、李陵が後世まで繰り返し語られてきた理由の一つである。

「李陵答蘇武書」は李陵本人の文章なのか

後世には、李陵が蘇武へ送ったとされる「答蘇武書」が伝わっている。
この文章では、李陵が自らの敗戦や降伏、一族の処刑、への複雑な感情を語っており、
李陵の悲劇を象徴する文章として長く読まれてきた。

ただし、これを李陵本人が実際に書いた書簡とみなせるかについては古くから疑問が持たれており、
後世の偽作とする見方が有力である。

『漢書』に記された李陵と蘇武の直接のやり取りと、
後世に李陵の名で伝えられた文章は分けて扱う必要がある。

唐代以降の詩文でも李陵と蘇武はたびたび題材となり、
故国へ帰還した蘇武と異郷に残った李陵という対照的な運命が描かれ続けた。
李陵は軍人としてだけでなく、故国・忠義・降伏・名誉をめぐる象徴的な人物として、
中国文学の中にも長く残ることになった。

まとめ

李陵は、前漢の将軍として匈奴と戦った軍人である一方、
その敗北と降伏によって後世まで評価の分かれる人物となった。

五千の歩兵で匈奴の大軍と戦った軍事的能力は高く評価されたが、
結果として敵国に降った事実は消えず、その後の人生もと匈奴の間で揺れ続けた。

李陵の生涯を特徴づけるのは、単純な「名将の敗北」ではなく、
降伏後もとの関係を完全には断ち切れなかった点にある。

一族を処刑されながらも、蘇武の忠節には敬意を示し、
武帝の死後には帰国を勧められてなお匈奴に残った。
そこには、への未練と恨み、将軍としての自負、降将としての屈辱が同時に存在していた。

また李陵の事件は、本人だけの運命にとどまらなかった。
李陵を弁護した司馬遷は宮刑を受け、
その経験は『史記』完成へ向かう司馬遷の人生とも深く結びついた。
蘇武との対照も含め、李陵は「忠節とは何か」「敗者をどこまで責めるべきか」
という問題を後世に残した人物でもある。

そのため李陵は、単に「匈奴に降った将軍」として見るより、
戦場での敗北によって忠義・名誉・国家との関係を大きく変えられ、
その後もその選択から逃れることのできなかった人物として捉える方が、その生涯に近い。

史書・参考文献

・司馬遷『史記』巻109「李将軍列伝」
・班固『漢書』巻54「李広蘇建伝」
・班固『漢書』巻94下「匈奴伝下」
・班固『漢書』巻62「司馬遷伝」
・司馬光『資治通鑑』巻21~23

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