【唐】高力士|唐玄宗に仕え続けた宦官の生涯と権力

唐の宦官 高力士 037.宦官

高力士は、の玄宗に仕え、開元・天宝年間の宮廷で大きな影響力を持った宦官である。

幼くして宮中に入り、武則天、中宗、睿宗、玄宗、粛宗の時代を生き、
玄宗が皇子だったころからその側近となった。

玄宗からの信頼はきわめて厚く、各地から届く奏請を事前に確認し、
小事であれば自ら処理するほどの権限を持った。
皇太子の選定にも意見を求められ、
李林甫や楊国忠、安禄山をはじめとする有力者たちも高力士との関係を重視した。

一方で、玄宗への権力集中や辺境の情勢に危惧を示すこともあり、
安史の乱では玄宗に従って蜀へ逃れ、長安帰還後も上皇となった玄宗のもとを離れなかった。

高力士の出自と宮廷入り

本姓は高氏ではなく馮氏

高力士は潘州の出身で、本来の姓は馮氏だった。
『新唐書』は、嶺南で大きな勢力を持った馮盎の曾孫であったと記している。

馮盎は末から初にかけて嶺南で活動した地方豪族で、
高州総管などを務め、に帰順した人物である。
したがって高力士は、もともと名もない家の出身だったわけではなく、
嶺南の有力者につながる家系に生まれたことになる。

しかし幼少期に宦官とされ、
聖暦元年(698年)、嶺南討撃使の李千里によって、金剛という少年とともに武則天へ献上された。

『旧唐書』はこのときの高力士を「黠恵」、すなわち機転が利いて賢い少年だったとし、
武則天はその利発さと身なりの整った様子を気に入って身辺に仕えさせたという。


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武則天に追放され、高延福の養子となる

宮中に入った高力士だったが、ほどなく小さな過失を犯した。
『旧唐書』によれば、武則天は高力士を鞭打って宮中から追放した。

そこで高力士を引き取ったのが宦官の高延福である。
高延福の養子となったため、馮姓から高姓を名乗るようになった。

高延福は武則天の甥・武三思の家と関係があり、
高力士も養父を通じて武三思の邸宅へ出入りするようになった。
宮廷から追放されたとはいえ、中央の権力者とのつながりまで失ったわけではなかった。

約一年後、武則天は高力士を再び宮中へ召し戻した。
司宮台に属して宮廷勤務に復帰し、成長すると宮闈丞となった。

『旧唐書』『新唐書』はいずれも、高力士が慎重で口が堅く、
皇帝の命令を伝えることに長けていたと記している。

この資質が、後に玄宗から絶大な信頼を受ける基礎となった。

皇子時代の李隆基に仕える

景龍年間、高力士はまだ皇帝となる以前の李隆基と接近した。
『旧唐書』は、高力士が李隆基に「傾心奉之」、心を傾けて仕えたと記している。

景龍4年(710年)、
中宗の死後に韋皇后が権力を握ると、李隆基は太平公主らと協力して政変を起こし、
韋皇后とその一派を排除した。いわゆる唐隆政変である。

政変後、李隆基が皇太子となると、高力士は内坊に配属されて日々その側近として仕え、
朝散大夫・内給事に抜擢された。

先天2年(713年)には、玄宗となった李隆基と太平公主の対立が決着する。

玄宗は太平公主側の蕭至忠、岑羲らを排除して実権を掌握し、
高力士もこの政変に功績を立てたとして昇進した。


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玄宗最側近としての権勢

玄宗が「力士がいれば安心して眠れる」と語る

開元年間に入ると、高力士は右監門衛将軍となり、内侍省の事務を統括するようになった。

その役割は皇帝の身辺の世話にとどまらなかった。
『新唐書』によれば、各地から皇帝へ送られてくる奏請は、
まず高力士が内容を確認してから玄宗へ取り次ぎ、小さな案件であれば高力士自身が処理したという。

高力士は休暇を取って宮中を離れることもほとんどなく、玄宗の寝殿近くで休息した。
玄宗はその信頼を「力士当上、我寝乃安」、
高力士が勤務していれば自分は安心して眠れるという言葉で表したとされる。

皇帝への接触を求める者にとって、高力士を無視することはできなくなった。
『新唐書』は、彼に面会しようとする者が高力士を見ることを
「天人」に会うように考えたと記している。

宰相や節度使まで高力士と結んだ

高力士の影響力が大きかったのは、玄宗と常に接触できる立場にいたためである。

『新唐書』は、宇文融、李林甫、蓋嘉運、韋堅、楊慎矜、王鉷、楊国忠、安禄山、安思順、高仙芝ら、
開元・天宝年間の政界や軍事を代表する人物たちが高力士との関係を深めたと記している。

彼らの昇進がすべて高力士の推薦だけによるものだったわけではない。
しかし、皇帝へ奏請を取り次ぎ、日常的に玄宗の意思を知る高力士との関係が
政治的に大きな意味を持ったことは確かである。

皇族からの扱いも特別だった。
後の粛宗は皇太子時代に高力士を兄のように遇し、『旧唐書』では「二兄」と呼んだという。
諸王や公主は「阿翁」、駙馬たちは「爺」と呼び、
玄宗自身も名前ではなく「将軍」と呼ぶことがあった。

宦官でありながら、皇族や宰相、将軍たちからこれほど高い待遇を受けた高力士は、
玄宗朝の宮廷において特異な位置にいた。

生き別れた母との再会

高力士には、幼少期に生き別れた実母との再会という逸話が『新唐書』に残されている。

高力士が権勢を得た後、嶺南節度使が瀧州で実母の麦氏を探し出して長安へ送った。
しかし幼いころに離別したため、高力士は母の顔を覚えていなかった。

麦氏は息子に、胸に七つの黒いほくろがあるはずだと尋ねた。
高力士が衣を開いて胸を見せると、その言葉どおりだった。
さらに麦氏は、高力士が幼いころ身につけていたという金の環を取り出した。

母子はそこで互いを確認し、抱き合って泣いたという。

玄宗は麦氏を越国夫人に封じ、高力士の実父にも広州大都督を追贈した。
一方、高力士は実母と再会した後も、自分を育てた養父・高延福夫妻を粗略には扱わず、
麦氏と同様に養った。

呂氏を妻とする

宦官であっても、代には養子を取ったり妻を迎えたりする例があり、
高力士も呂氏という女性を妻とした。

呂氏の父・呂玄晤は京師で官吏を務めていた。
『新唐書』はその娘を「国姝」、国でも並ぶ者がないほどの美女と表現し、
高力士が彼女を妻に迎えたと記している。

高力士との縁によって呂玄晤は昇進し、その一族も官職を得た。
呂氏が亡くなると盛大な葬儀が行われ、
朝廷内外から弔問や贈り物が殺到し、邸宅から墓所まで車馬が途切れなかったという。

高力士の影響力が本人だけでなく、婚姻によって結ばれた一族にも及んでいたことを示す逸話である。

玄宗への助言と政治的影響力

皇太子選定に助言する

開元26年(738年)、皇太子李瑛がすでに廃されていた玄宗は、
新たな皇太子を誰にするか決めかねていた。

当時、寵愛を受けていた武恵妃の子・寿王李瑁を推す勢力があり、李林甫らも李瑁を支持していた。
一方、年長の皇子には忠王李璵、後の粛宗がいた。

『新唐書』によれば、玄宗は後継者問題に悩み、食事も取れないほどだった。
高力士が理由を尋ねると、玄宗は皇太子を決められないことを打ち明けた。

高力士は「推長而立、孰敢争」、年長者を立てれば誰が争うでしょうか、と答えた。
玄宗はその意見を受け入れ、忠王李璵を皇太子とした。

高力士が皇位継承という最重要問題について、
玄宗から直接相談を受ける位置にあったことを示す逸話である。

李林甫への権力集中を諫める

高力士は玄宗の意向を伝えるだけではなく、ときには皇帝へ率直な意見を述べた。

あるとき玄宗は、天下も安定したので、自分は養生に努め、
政治を宰相の李林甫に任せようと思うがどうかと高力士に尋ねた。

高力士はこれに反対した。
漕運を補うための負担や和糴によって民間の蓄えが失われることを指摘したうえで、
天下の権力を一人の臣下に委ねるべきではなく、
いったん権威が集中すれば誰もその人物に異論を唱えられなくなると諫めた。

玄宗は不機嫌になった。
高力士はただちに頭を下げ、自分の発言が誤りであれば死罪に値すると謝罪した。

この一件以後、高力士は政治問題について以前ほど積極的に発言しなくなった
と『新唐書』は伝えている。

莫大な財産を築く

玄宗の信任とともに、高力士自身も莫大な財産を築いた。

天宝年間には冠軍大将軍、右監門衛大将軍となり、渤海郡公に封じられ、さらに驃騎大将軍へ進んだ。『旧唐書』は、その資産について王侯でも比較できないほどだったと記している。

長安の来庭坊には宝寿寺を建て、興寧坊には道観を造営した。
その建築は非常に豪華だったという。

また長安北西では澧水を利用した水車を設け、五つの石臼を動かして一日に麦三百斛を処理した。
高力士は宮廷内の権力だけでなく、寺院、土地、水利施設などを通じて
巨大な経済基盤も形成していた。

宝寿寺の鐘

高力士の富と権勢を象徴する逸話として、
『旧唐書』『新唐書』がともに伝えるのが宝寿寺の鐘である。

宝寿寺の鐘が完成すると、高力士は朝廷の公卿を招いて祝宴を開いた。
その際、鐘を一度撞くごとに十万銭を寄進するという決まりが設けられた。

高力士の歓心を買おうとする者のなかには二十回も鐘を撞く者がおり、
少ない者でも十回を下回らなかったという。

高力士自身が直接賄賂を要求したという話ではないが、
朝廷の高官たちが莫大な金銭を費やしてでも彼との関係を保とうとした状況をよく示している。

安禄山への警戒

天宝年間になると、節度使が軍事力を拡大し、辺境では戦功を求める軍事行動が相次いだ。

あるとき玄宗は高力士に、宰相へ朝廷の政務を任せ、辺境は諸将に任せているのだから、
自分には心配することなどないだろうと語った。

これに対して高力士は、雲南方面でたびたび敗戦が起こり、北方の軍勢も強大になっているとして、
いったん災いが生じれば抑えられなくなるのではないかと懸念を示した。
『新唐書』は、この「北方の軍勢」が安禄山を指していたとしている。

玄宗は「そのことは言うな。自分で考える」と答えた。

天宝13載(754年)には長雨が続き、玄宗が改めて政治について尋ねると、高力士は、
皇帝が宰相に権力を委ねて以来、法令が行われなくなり、天下が安定するはずがないと答えた。

安史の乱と玄宗への忠節

安史の乱と玄宗の蜀行

天宝14載(755年)11月、安禄山が范陽で挙兵すると、反乱軍は急速に南下し、洛陽を占領した。

翌至徳元載(756年)、潼関が陥落すると玄宗は長安を脱出して蜀へ向かった。
多くの宮廷関係者が混乱するなか、高力士は玄宗に同行した。

一行が馬嵬駅に到着すると、兵士たちが楊国忠を殺害し、さらに楊貴妃の処分を要求した。
玄宗は楊貴妃を死なせることをためらったが、
最終的に高力士が仏堂へ連れて行き、楊貴妃はそこで死を賜った。

この事件について高力士は玄宗側の実務を担った人物だったが、
楊貴妃の殺害を主導したわけではない。
兵士の要求と陳玄礼らの圧力を受け、玄宗の命令を実行する立場にあった。

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粛宗即位をめぐって玄宗を諫める

玄宗が蜀へ向かう途中、皇太子李亨は一行と別れて北上し、霊武で皇帝に即位した。
これが粛宗である。

玄宗が粛宗即位の知らせを受けると、自分の息子が天意と人心に応じて即位したのだから、
もう心配することはないという趣旨の言葉を口にした。

高力士はこれに対し、両京は失われ、人々は流浪し、各地が戦場となっているのに
「何を心配することがあるのか」と言うのは聞くに堪えないと諫めた。

玄宗への忠誠が、単なる追従ではなかったことを示す逸話である。

長安へ帰還

軍が長安・洛陽を奪回すると、玄宗も蜀から長安へ帰還した。

すでに皇帝は粛宗であり、玄宗は太上皇となった。
高力士も玄宗に従って帰京し、開府儀同三司を加えられ、実封五百戸を与えられた。

高力士は新皇帝の粛宗とも古くから関係があった。
粛宗は皇太子時代から高力士を兄のように遇していたため、
高力士は政権交代によって直ちに排除されたわけではなかった。

しかし、粛宗の側近として新たに台頭した宦官李輔国との関係が、
高力士の晩年を大きく変えることになる。

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李輔国から玄宗を守る

太上皇となった玄宗は興慶宮で暮らしていた。
高力士や陳玄礼ら旧臣が側に仕え、玄宗は比較的自由に生活していた。

これを警戒したのが李輔国である。
李輔国は粛宗の側近として禁軍を掌握し、太上皇の周囲に旧臣や民衆が集まることを危険視した。

上元元年(760年)、李輔国は玄宗を興慶宮から西内へ移そうとした。
移動の途中、李輔国が武装した兵を率いて玄宗を迎えたため、
玄宗の馬が驚き、側近たちも恐れて動けなくなったという。

高力士は李輔国を叱りつけ、太上皇の前で無礼を働くのかと責めたうえで、
兵士たちに玄宗への拝礼を命じた。
兵士が一斉に武器を収めて礼を取ったため、玄宗は無事に西内へ入ることができた。

この逸話は、高力士が玄宗の側近として持っていた威望を示すと同時に、
安史の乱後には宮廷内の権力が李輔国ら新しい宦官勢力へ移りつつあったことも示している。

流刑と高力士の最期

巫州へ流される

玄宗が西内へ移された後、高力士はその側近から排除された。

李輔国の讒言によって官籍を削られ、巫州へ流刑となった。
陳玄礼ら玄宗の旧臣も同様に排除され、太上皇は長年仕えてきた側近たちから切り離された。

『新唐書』によれば、流刑の命令を受けた高力士は、
自分はとっくに死んでいてもおかしくなかった身であり、
天子の憐れみによって今日まで生きてきた、せめて最後に玄宗の顔を一目見てから死にたいと願った。

しかし李輔国はこれを許さなかった。
高力士は、長年仕えた玄宗に別れを告げることさえできないまま長安を去った。

流刑地で詠んだ荔枝の詩

高力士の流刑中の逸話として知られるのが、荔枝を見て玄宗を思ったという話である。

巫州で荔枝を目にした高力士は、かつて玄宗に仕えていた時代を思い出し、詩を詠んだと伝えられる。

玄宗と荔枝といえば楊貴妃のために南方から運ばせた逸話が有名だが、
高力士にとっても荔枝は華やかだった宮廷生活と旧主を想起させるものとなった。

ただし、この詩やそれにまつわる細部は正史の高力士伝だけでは確認できない部分があり、
後世の詩話・筆記に伝わった逸話として扱う必要がある。

恩赦を受けて長安へ向かう

宝応元年(762年)、高力士は恩赦を受け、長安への帰還を許された。

しかし帰路で朗州まで来たところ、高力士は玄宗がすでに崩御したことを知った。
玄宗は同年4月に亡くなっており、高力士は最期に再会することができなかった。

『資治通鑑』は、高力士が玄宗の死を聞くと激しく慟哭し、血を吐いて死亡したと記している。

『新唐書』では、高力士は玄宗と粛宗の遺詔を目にすると北を向いて哭し、
「大行皇帝が崩御したのに梓宮に取りすがることもできなかった。死んでも悔いが残る」
という趣旨の言葉を述べ、慟哭して血を吐き、そのまま亡くなったとされる。享年79。

死後の名誉回復

高力士の死後、代宗は玄宗を長年護衛した功績を認め、官位を回復させた。
さらに揚州大都督を追贈し、玄宗の陵墓である泰陵への陪葬を許した。

幼少期に武則天の宮廷へ送られてから六十年以上、高力士はの宮廷で生きた。
その最終的な墓所も、長年仕えた玄宗の陵墓のそばとなった。

高力士と唐代宦官政治

高力士は宦官の権力拡大を考えるうえでも重要な人物である。

太宗は宦官に高位を与えることを制限していたが、
武則天・中宗期を経て宦官の人数と地位は次第に拡大した。
玄宗も信頼する宦官に三品の武官職などを与え、高力士はその代表的存在となった。

高力士自身は禁軍を握って皇帝を廃立した後世の宦官とは異なる。
しかし、奏請を選別し、有力官僚と皇帝の間を取り持ち、
人事にも影響を及ぼす高力士の存在によって、
皇帝の側近である宦官が朝廷政治に大きな力を持ち得ることが示された。

『新唐書』も、代後半に宦官が軍権と皇帝廃立にまで介入するようになった淵源を
開元年間に求めている。
高力士個人の行動と後世の宦官専横をそのまま同一視することはできないが、
玄宗による宦官重用がの政治制度に残した影響は小さくなかった。

人物評・評価

『旧唐書』は高力士について「謹慎して大過なし」とし、
大きな失敗を犯さない慎重な人物だったと評価している。
『新唐書』も、時勢と人の盛衰をよく見極め、
親しい人物であっても失脚するときには無理に救おうとしなかったため、
生涯に目立った失敗がなかったとする。

その慎重さは、単なる保身だけではなかった。
玄宗が李林甫に政治を委ねようとした際には権力集中の危険を指摘し、
辺境の軍事力が増大すると安禄山を念頭に警告し、
安史の乱後には玄宗の楽観的な言葉を正面から諫めている。

玄宗が高力士を長期間手元に置いたのは、命令に従うだけでなく、
皇帝の意向を理解したうえで必要なときには異論を述べられる側近だったからでもある。

一方、高力士を清廉な忠臣として美化することもできない。
皇帝への接近を求める官僚たちは高力士と結び、その一族や姻族は恩恵を受け、
高力士自身も王侯に匹敵する莫大な財産を所有した。

『旧唐書』は、宇文融以後の権力者たちが互いに争い朝政を乱した背景には
高力士の影響もあったとして、明確に批判している。

高力士の特徴は、皇帝を凌駕して権力を奪ったことではなく、
玄宗との個人的な信頼関係を政治的影響力へ転換したところにある。
その権勢は玄宗の権威に依存していたため、
玄宗が皇帝の座を退き、李輔国が粛宗のもとで台頭すると急速に失われた。

それでも流刑先から帰る途中で玄宗の死を知り、慟哭して亡くなったという最期は、
六十年以上に及んだ宮廷生活のなかでも、
とりわけ玄宗との主従関係が高力士の生涯を規定していたことを象徴している。

まとめ

高力士は幼くして宮中に入り、武則天の時代から王朝に仕え、
皇子時代の玄宗と結びついたことで朝廷の中心へ進んだ。
玄宗即位後には単なる身辺の宦官を越え、奏請の処理や皇太子選定にも関与する最側近となった。

その権勢によって莫大な富を築き、有力官僚の昇進にも影響を与えた一方、
玄宗に対して権力集中や辺境情勢の危険を諫めることもあった。

安史の乱後も玄宗に従い続け、李輔国によって流刑となった後、
恩赦の帰途で玄宗の死を知って亡くなった。

高力士は後世の宦官専横につながる政治構造の形成に関わった人物であると同時に、
玄宗個人への忠誠を最後まで失わなかった側近でもあった。
この二面性こそ、高力士を代の宦官のなかでも特異な存在にしている。

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『資治通鑑』
『唐会要』
『冊府元亀』
『明皇雑録』
『開元天宝遺事』
『酉陽雑俎』

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