【後漢】蔡倫|製紙法を革新し文明を変えた後漢の宦官

後漢の宦官 蔡倫 037.宦官

蔡倫(さいりん、字は敬仲、生年不詳-121年)は、
後漢の明帝・章帝・和帝・殤帝・安帝期の宮廷に仕えた宦官である。
桂陽郡の出身で、中常侍・尚方令・長楽太僕などを歴任し、龍亭侯に封じられた。

蔡倫の名を後世に残したのは製紙法の改良である。
『後漢書』は、樹皮・麻のくず・ぼろ布・古い魚網などを原料として紙を作り、
元興元年(105)に和帝へ奏上したと記す。
この紙は広く用いられるようになり、後に「蔡侯紙」と呼ばれた。

ただし蔡倫以前にも紙あるいは紙に近い植物繊維製品が存在したことを示す出土例があり、
蔡倫を文字どおり「紙そのものの発明者」とする見方には議論がある。
史料から確実にいえるのは、蔡倫が既存の書写材料の不便を踏まえて原料と製法を工夫し、
宮廷を通じて新しい紙を普及させたことである。

一方、蔡倫は技術者だけではない。
和帝の側近として政治に関与し、皇后竇氏による宋貴人排斥では取調べを担当した。
のちにその宋貴人の孫である安帝が親政を開始すると、
過去の事件について廷尉へ出頭するよう命じられ、蔡倫は薬を飲んで自殺した。

宮廷に入り和帝の側近となる

桂陽郡の出身

『後漢書』によれば、蔡倫は桂陽郡の人で、字を敬仲という。
父母や家系、生年、幼少期、どのような事情で宦官となったのかについては記録がなく、
後世に広く流布した生年を確実なものとして扱うことはできない。

後世の地理的伝承では桂陽郡耒陽県との結びつきが強く、
『後漢書』李賢注が引く『湘州記』には、耒陽県の北に蔡倫の旧宅があり、
その西に「蔡倫が紙を搗いた臼」と伝えられる石臼があったと記されている。
ただし、これは蔡倫と同時代の記録ではなく、後世に形成された土地の伝承である。

明帝末年に宮中へ入る

蔡倫が史料に現れるのは明帝の永平末年である。
永平年間は58年から75年まで続くため、少なくとも明帝晩年にはすでに宮中に仕えていた

章帝が即位した後の建初年間(76~84)には小黄門となった。
小黄門は皇帝や後宮の近くで職務にあたる宦官であり、
蔡倫はこの段階から皇帝の近侍として宮廷内部に位置していた。

宋貴人事件の取調べを担当する

章帝の後宮では、皇后の竇氏に子がなかった一方、
宋貴人が皇子劉慶を産み、建初4年(79)に劉慶が皇太子となっていた。
竇皇后は宋貴人姉妹と劉慶を警戒し、母の沘陽公主とともに宋氏を失脚させようとした。

宋貴人が病気になり、実家へ「生菟」、すなわち生の兎を求める手紙を送ったことが問題とされた。
竇皇后側は兎を呪詛に用いるつもりだったと主張し、宋貴人を巫蠱に結びつけて非難した。

建初7年(82)、劉慶は皇太子を廃されて清河王となり、
代わって梁貴人が産み、竇皇后のもとで育てられていた劉肇が皇太子となった。
この劉肇が後の和帝である。

宋貴人姉妹は宮中の丙舎へ移され、当時小黄門だった蔡倫が取調べを担当した。
『後漢書』清河孝王慶伝は、
蔡倫らが竇皇后側の意向を受けて罪状を作り上げたことを「承風旨傅致其事」と記している。
宋貴人姉妹はその後、暴室へ送られる途中でともに毒を飲んで自殺した。

蔡倫自身の本伝にも、後年の死を説明する箇所で、
蔡倫がかつて竇皇后の意向を受けて安帝の祖母である宋貴人を誣告したことが明記されている。
この事件は蔡倫晩年の運命に直接つながることになる。

↓↓和帝の養母・竇皇后についての個別記事は、こちら

【後漢】竇皇后|無子で後宮を支配した皇后と外戚政治の実態
竇皇后(とうこうごう)とは後漢の明帝の皇后で、無子ながら皇太子擁立と外戚政治を主導した女性である。陰貴人排除の逸話や章帝即位との関係など、史実と評価をわかりやすく解説する。

和帝即位後に中常侍となる

章和2年(88)、章帝が死去すると劉肇が和帝として即位した。
蔡倫は中常侍へ昇進し、皇帝の帷幄に参与した。

『後漢書』は蔡倫について、才学があり、職務に誠実かつ慎重で、
しばしば皇帝の厳しい顔色を恐れずに諫め、政治上の得失を正した
と評している。
単なる技術官ではなく、和帝の政治的側近の一人として位置づけられていたことが分かる。

また休暇の日には門を閉じて客との交際を断ったとも記される。
後漢後期の宦官には私邸へ多数の官僚や請託者を集める者も現れるが、
少なくとも『後漢書』が描く蔡倫は、私的な交際を広げることを避ける人物だった。

尚方令として宮廷工房を統括する

武器や器物の製作を監督する

蔡倫はその後、尚方令を兼ねるようになった。
尚方は宮廷で用いる器物などを製作する官署であり、尚方令はその責任者だった。

永元9年(97)、蔡倫は秘剣をはじめとする各種器械の製作を監督した。
『後漢書』は、蔡倫のもとで作られた品々はいずれも精巧で堅牢であり、
後世の模範となった
と記している。

ここから確認できるのは、蔡倫が単に製紙について一度だけ工夫を行った人物ではなく、
宮廷工房の製作技術全般を監督する地位にあったことである。

材料の選定、加工、品質管理などに関わる環境が、
後の製紙法改良とも無関係ではなかったと考えられるが、
紙の開発過程そのものについて『後漢書』は詳しい経緯を記していない。

「尚方令となったのは97年」とは断定できない

『後漢書』の記述は、蔡倫が「後に尚方令を加えられ」、
続いて永元9年(97)に器械製作を監督したという順序になっている。
そのため97年には尚方令であったことは確認できるが、
ちょうど97年に任命されたとまでは史料から断定できない。

蔡倫の経歴では、後世の略歴で任官年が単純化されている場合があるため、
史料の記述に沿って「永元9年には尚方令として活動していた」とするのが適切である。

製紙法を改良し和帝へ奏上する

竹簡と絹に代わる書写材料

『後漢書』蔡倫伝は、当時の書写材料について、
文書の多くは竹簡を連ねて作られ、絹帛を用いるものもあったと説明している。
しかし絹は高価であり、竹簡は重いため、ともに使用には不便があった。

そこで蔡倫は新しい紙の製作を考え、樹皮、麻頭、敝布、魚網などを原料として紙を作った

ここで『後漢書』が具体的に挙げているのは原料であり、
煮熟、叩解、簀桁による抄紙といった詳細な工程までは記していない。
後世の製紙技術をそのまま蔡倫自身の作業工程として書くことは避けた方がよい。

元興元年に和帝へ奏上する

元興元年(105)、蔡倫は自ら作った紙を和帝へ奏上した。
和帝は蔡倫の能力を評価し、その後この方法による紙が広く用いられるようになった
と『後漢書』は記している。

後世、この紙は「蔡侯紙」と呼ばれた。

ただし105年当時の蔡倫はまだ侯に封じられていない。
蔡倫が龍亭侯となるのは元初元年(114)であるため、
「蔡侯紙」という呼称は蔡倫の封侯後に成立し、
史書が105年の製紙記事に遡って記したものと考えるのが自然である。

蔡倫は「紙の発明者」だったのか

かつては『後漢書』の記述をもとに、蔡倫が105年に紙を発明したとする説明が広く行われた。
しかし考古学的発掘によって、前漢期に遡るとされる植物繊維製の紙状遺物が複数報告され、
蔡倫以前の紙をめぐる研究が進んだ。

ただし、これらすべてを現代的な意味での「紙」と認めるか、
年代判定や製造方法をどう評価するかについては学術的な議論もある。
そのため「蔡倫以前に完成した紙が存在したので、蔡倫は何も発明していない」
と単純化することも適切ではない。

文献上でも、蔡倫が紙を奏上する3年前の永元14年(102)、
鄧皇后が地方からの豪華な献上品を禁止し、
季節の献上品を「紙と墨だけ」にさせたという記事が『後漢書』にある。

少なくとも105年以前に「紙」という書写材料が知られていたことは、
蔡倫伝以外の記録からもうかがえる。

蔡倫の功績は、紙そのものを無から発明したことより、
安価な植物繊維や廃材を利用する方法を工夫し、
宮廷へ奏上して広く使用される契機を作った
点に求める方が、現在の史料状況には適している。

鄧太后のもとで重用される

和帝死後も宮廷に残る

元興元年(105)12月、和帝が死去した。
その後、生後間もない殤帝が即位し、和帝の皇后だった鄧綏が皇太后として臨朝した。

殤帝も延平元年(106)に死去し、清河孝王劉慶の子である劉祜が安帝として即位したが、
実際の政治は引き続き鄧太后が掌握した。

蔡倫は和帝の死後も宮廷から退くことなく、鄧太后政権のもとで地位を保った。

↓↓和帝の皇后鄧綏についての個別記事は、こちら

【後漢】鄧綏|後漢を安定させた鄧太后の政治と生涯
鄧綏(とうすい)は後漢の和帝の皇后で、のちに鄧太后として長く政権を支えた人物。幼帝の時代に政治を主導し、後漢王朝を安定させた賢明な女性として知られる。その生涯と政治、後漢宮廷の背景をわかりやすく解説する。

周章の政変計画で殺害対象となる

永初元年(107)、司空の周章が政変を企てた。

周章は安帝の即位に不満を持ち、和帝の皇子である平原王劉勝を皇帝に立てようとした。
計画では宮門を閉じ、車騎将軍鄧騭ら鄧氏兄弟を殺害し、
さらに中常侍鄭衆と蔡倫も殺して尚書台を制圧し、鄧太后を南宮へ幽閉することになっていた。

『後漢書』周章伝は、この時の鄭衆と蔡倫について「皆秉勢豫政」、
すなわちともに権勢を持ち政治に関与していたと記している。
蔡倫が製紙技術だけで知られる宮廷技術者ではなく、
鄧太后期にも政治的影響力を持つ宦官だった
ことを示す記事である。

周章の計画は実行前に発覚し、周章は罷免されたのち自殺した。
蔡倫はこの事件では失脚せず、その後も宮廷に残った。

↓↓外戚排除に協力した宦官鄭衆についての個別記事は、こちら

【後漢】鄭衆|外戚竇憲を誅した“宦官政治の起点”となった後漢の宦官
鄭衆(ていしゅう)は後漢の宦官で、幼帝・和帝を支え外戚竇憲を誅殺した功臣。宦官として初めて侯に封ぜられ、養子が後を継ぐ先例を作った人物で、後漢末まで続く外戚と宦官の対立構造の起点となった。

龍亭侯に封じられる

元初元年(114)、
鄧太后は蔡倫が長く宮中の宿衛に仕えたことを理由として龍亭侯に封じ、三百戸を与えた。

蔡倫が「蔡侯」と呼ばれるようになるのはこの封爵以後である。

その後、蔡倫は長楽太僕となった。
長楽宮は皇太后に関係する宮殿であり、
長楽太僕への就任は、蔡倫が鄧太后のもとでも引き続き高い地位を占めていたことを示している。

東観の校書事業を監督する

元初4年(117)、安帝は経書や伝の文章に誤りが多く、内容が一定していないとして、
通儒の謁者劉珍や博士らを東観へ集め、文献の校訂を行わせた。

蔡倫はこの事業を監督する役目を命じられた。

東観は後漢宮廷の蔵書・著述・校書に関わる場所であり、
蔡倫は紙や器物の製作だけでなく、国家的な文献整理事業にも関与したことになる。
『後漢書』が蔡倫を「才学」がある人物と評したこととも一致する。

鄧太后の死と蔡倫の自殺

宋貴人事件が再び問題となる

永寧2年(121)、長年政治を行ってきた鄧太后が死去し、安帝が自ら政務を行うようになった。
ここで、約四十年前の宋貴人事件が蔡倫自身の問題として戻ってきた。

安帝の父・劉慶は、かつて竇皇后によって皇太子を廃された清河孝王である。
その母が、蔡倫の取調べを受けて自殺した宋貴人だった。つまり宋貴人は安帝の父方の祖母にあたる。

『後漢書』蔡倫伝は、蔡倫が当初、竇皇后の意向を受けて宋貴人を誣告したと明記している。
単に宋貴人事件に「関与した疑いがあった」という程度ではない。

廷尉への出頭を命じられる

鄧太后の死後、親政を開始した安帝は、蔡倫に廷尉へ自ら出頭するよう命じた。

廷尉は刑罰・司法を担当する最高官の一つであり、
この命令は蔡倫が宋貴人事件について正式に責任を問われることを意味した。

蔡倫は取調べと処罰を受けることを恥じ、出頭しなかった。

沐浴して衣冠を整え、毒を飲む

『後漢書』は蔡倫の最期を簡潔ながら具体的に記している。

蔡倫は沐浴し、衣冠を整えたうえで薬を飲んで死んだ。
永寧2年(121)のことである。生年が史料に残っていないため、享年は不明である。
蔡倫の死とともに龍亭侯の国は除かれた。

蔡倫の最期は、単なる「外戚争いに巻き込まれた結果」とまとめると経緯が見えにくい。
章帝期に竇皇后の意向を受けて宋貴人の取調べに関与し、
その宋貴人の孫である安帝が約四十年後に親政を開始したことで、
過去の事件について責任を問われることになったのである。

蔡倫の死によって龍亭侯国は廃されたが、その名は製紙と結びついて後世まで伝えられた。
『後漢書』李賢注が引用する『湘州記』には、耒陽県の北に蔡倫の旧宅があり、
その西には蔡倫が紙を搗いたものと伝えられる石臼が残っていたと記されている。
蔡倫と製紙を結びつける伝承が、後世の耒陽で形成されていたことが分かる。

まとめ

蔡倫は桂陽郡出身の宦官で、明帝末年に宮廷へ入り、章帝期には小黄門、和帝期には中常侍となった。
章帝期には竇皇后による宋貴人排斥の取調べを担当し、
『後漢書』は蔡倫が皇后側の意向を受けて罪状を作ったと記している。

和帝期には皇帝の帷幄に参与し、尚方令として宮廷の武器や器械の製作を監督した。
元興元年(105)には樹皮・麻頭・ぼろ布・魚網を原料とする紙を和帝へ奏上し、
その製紙法は広く用いられるようになった。

ただし蔡倫以前の紙を示すとされる出土資料もあり、
蔡倫を紙そのものの最初の発明者と断定することには問題がある。
製紙法を改良し、その普及に大きな役割を果たした人物と位置づける方が
史料と考古学の双方に適している。

和帝の死後も蔡倫は鄧太后のもとで重用され、
永初元年(107)には周章の政変計画で鄧氏兄弟や鄭衆とともに殺害対象とされた。
元初元年(114)には龍亭侯となり、その後は長楽太僕として東観の校書事業を監督した。

永寧2年(121)、鄧太后が死去して安帝が親政を開始すると、
蔡倫は宋貴人事件について廷尉へ出頭するよう命じられた。
蔡倫は沐浴して衣冠を整えたのち薬を飲んで自殺し、龍亭侯国も廃された。

史書・参考文献

『後漢書』巻4「孝和孝殤帝紀」
『後漢書』巻5「孝安帝紀」
『後漢書』巻10上「皇后紀上・和熹鄧皇后」
『後漢書』巻33「朱馮虞鄭周列伝・周章」
『後漢書』巻55「章帝八王列伝・清河孝王慶」
『後漢書』巻78「宦者列伝・蔡倫」
『資治通鑑』漢紀(章帝・和帝・殤帝・安帝期)
小林良生「蔡倫以前紙に関する学術論争」『科学史研究』47巻247号、2008年

関連リンク

中国史の皇族・王族一覧|皇子・親王・諸侯王など歴代王朝の人物を紹介 | 趣味の中国
中国史の軍師・策士一覧|知略で天下を動かした有名な軍師たち | 趣味の中国
中国史の政治家・文官一覧|宰相・名臣・奸臣など歴代王朝の人物 | 趣味の中国
中国史の権臣一覧|皇帝を凌ぐ権力を握った有名な実力者たち | 趣味の中国
中国史の皇后一覧|中国王朝を動かした有名な皇后たち | 趣味の中国
中国史の妃嬪一覧|歴代皇帝の有名な妃・貴妃・皇貴妃を時代別に紹介 | 趣味の中国
中国史の公主一覧|歴史に名を残した王女たちをわかりやすく紹介 | 趣味の中国
中国史の美女一覧|時代別まとめ(四大美女・傾国・亡国・悲劇の美人) | 趣味の中国
中国史の美男一覧|中国四大美男と歴史に残るイケメン人物 | 趣味の中国
中国史の武将一覧|歴史に名を残した猛将・知将・名将たち | 趣味の中国
中国史の女傑一覧|戦場・反乱で活躍した女性たちを時代別に紹介 | 趣味の中国
中国史の文人・学者一覧|有名な詩人・思想家・歴史家・書家 | 趣味の中国
中国史の才女一覧|才や徳で有名な女性たちの生涯と特徴を解説 | 趣味の中国
中国の宦官とは?有名な宦官、王朝ごとの役職・階級、宦官による機関など | 趣味の中国