曹彰(そうしょう)は、後漢末から三国時代初頭にかけて生きた曹操の子で、字を子文という。
幼いころから弓術や馬術を得意とし、常人を超える腕力を持っていたと伝えられる。
学問よりも武芸を好み、前漢の名将・衛青や霍去病のように軍勢を率いて異民族を討ち、
功績を立てることを望んでいた。
建安二十三年(218)、代郡で烏丸が反乱を起こすと、
北中郎将・行驍騎将軍として討伐に派遣された。
曹彰は兵力が十分に集まっていないなかで敵の騎兵を退け、さらに桑乾まで追撃して烏丸を破った。
この戦果を見た鮮卑の軻比能も服属し、『三国志』は「北方悉平」と記している。
曹操は帰還した曹彰の働きを喜び、黄色い鬚を持つことから「黄鬚児」と呼んで称賛した。
曹操が死去した際には、曹彰が弟の曹植に対し、
曹操が自分を召したのは曹植を後継者に立てるためだった
と語ったという逸話が『魏略』に残されている。
また、曹丕が魏王となった後、曹彰は引き続き軍事面で用いられることを期待していたが、
他の諸侯と同様に封国へ赴くことになった。
黄初三年(222)には任城王に封じられ、翌黄初四年(223)、洛陽へ朝見した際に死去した。
『三国志』本文は病死とするが、後世にはその死をめぐって異なる記録や説話も残された。
正史『三国志』は曹彰を「武芸壮猛にして、将領の気あり」と評している。
武勇を好んだ少年時代から北方での軍事活動、曹操の死後の動向、そして死後に残された異説まで、
正史と裴松之注を中心にその生涯をたどる。
曹操と卞氏の子として生まれる
曹彰の字は子文。生年については『三国志』に明確な記載がなく、正確な年齢は分からない。
父は後漢末の群雄・曹操、母は卞氏である。
卞氏はのちに曹操の正室となり、曹丕・曹彰・曹植・曹熊の四男をもうけた。
曹彰は卞氏所生の次男にあたる。
曹操には二十五人の男子がいたと『三国志』は伝える。
長男の曹昂は建安二年(197)の宛城の戦いで戦死し、
曹丕はのちに魏の初代皇帝となった。
このほか建安文学を代表する詩人・曹植、
幼い頃から並外れた知性を示し「神童」で知られる曹沖などがいる。
曹彰は幼いころから武芸を好んだ。
『三国志』「任城威王彰伝」は、その冒頭から曹彰について、
「少くして射御を善くし、膂力人に過ぎ、手ずから猛獣を格ち、険阻を避けず」と記している。
幼いころから弓術と馬術に優れ、腕力は常人を超え、素手で猛獣と格闘し、
険しい場所や危険を恐れなかったという。
「手格猛獣」が具体的にどの動物を指すのか、
また、どのような状況で猛獣と格闘したのかは記されていない。
成長すると曹彰は曹操の征伐にたびたび従軍した。
『三国志』はこのころの曹彰を「志意慷慨」と表現しており、
意気盛んで勇壮な気質の青年だったことがうかがえる。
↓↓異母兄曹昂、異母弟曹沖についての個別記事は、こちら


「衛青・霍去病のようになりたい」――武人を志した少年時代
曹彰が武芸に熱中する姿を、父の曹操は必ずしも喜んでいたわけではなかった。
曹操は曹彰に、
「お前は書物を読んで聖人の道を慕おうともせず、汗馬に乗って剣を振るうことを好んでいる。
そのようなものは一人の男の勇にすぎない。何ほどの価値があろうか」
という趣旨の言葉をかけ、『詩経』や『書経』を学ばせた。
しかし曹彰の志は変わらなかった。曹彰は側近たちに、
「男子たるもの、一度は衛青や霍去病のようになり、十万の騎兵を率いて砂漠を駆け、
戎狄を追い払い、功績を立てて名を残すべきだ。どうして博士になどなれようか」
と語ったという。
衛青と霍去病はいずれも前漢の武帝に仕え、匈奴との戦争で大功を立てた名将である。
特に霍去病は若くして騎兵を率い、たびたび匈奴を破ったことで知られる。
また、曹操が息子たちにそれぞれの志を尋ねた際、
曹彰は「将軍になることを好みます」と答えた。
曹操が「将軍とはどのようなものか」と尋ねると、曹彰は、
「堅固な鎧をまとい、鋭い武器を執り、危難に臨んでも顧みず、兵士たちの先頭に立つ。
賞は必ず行い、罰は必ず信を守る。そのような者です」と答えた。
これを聞いた曹操は大笑いしたという。
建安二十一年(216)、曹彰は鄢陵侯に封じられた。
↓↓前漢の名将 衛青・霍去病についての個別記事は、こちら


代郡烏丸の反乱――北中郎将として出征
建安二十三年(218)、代郡で烏丸が反乱を起こした。
烏丸は中国北方に居住していた民族で、後漢末の動乱にも深く関わっていた。
曹操は建安十二年(207)、柳城の戦いで烏丸の蹋頓を破り、
袁氏と結びついた烏丸勢力を破っていたが、その後も北方では烏丸の反乱が起きていた。
曹操は曹彰を北中郎将に任じ、驍騎将軍の職務を代行させて反乱の鎮圧に向かわせた。
出陣に際して、曹操は曹彰に、
「家にいるときは父と子だが、任務を受ければ君主と臣下である。
行動は王法に従って処理される。よく戒めよ」という趣旨の言葉を与えた。
曹彰が軍を率いて涿郡の境内に入った時点では、兵の集結がまだ完了しておらず、
手元にいたのは歩兵約千人と騎兵数百騎だった。そこへ数千騎の烏丸軍が攻め寄せた。
田豫の策と数千騎との戦い
曹彰軍には、のちに魏の北方防衛で活躍する田豫が従っていた。
田豫は敵騎兵を迎え撃つため、地形を利用して守りを固める策を進言し、曹彰はこれを採用した。
『三国志』田豫伝には、この戦いが曹彰伝より詳しく記されている。
敵軍に包囲されると、田豫は地形に応じて車を巡らせて円陣を組み、
その内側に弓弩を構えた兵を配置した。
敵が攻撃してくると一斉に射かけ、敵軍が混乱すると追撃に転じてこれを大破した。
敵が退却すると、曹彰も自ら追撃し、弓を手にして敵兵を射た。
『三国志』は「応弦而倒」、弦の音に応じるように敵が倒れたと記している。
曹彰自身の鎧にも数本の矢が刺さったが、そのまま敵を追って戦い続けた。
軍令を越えて桑乾まで追撃
曹操から与えられた命令では、曹彰軍の進軍範囲は代郡までとされていた。
敗走する敵をさらに追撃しようとする曹彰に対し、長史らは命令の範囲を越えるとして反対した。
これに対して曹彰は、
「将たる者は勝利を得ることを第一とする。どうして節度に拘束されていられようか。
敵がまだ遠くへ逃げていないうちに追撃すれば、必ず破ることができる。
軍法に従って敵を逃がすくらいなら、私は死をもって責任を取る」
という趣旨の言葉を述べ、追撃を続けた。
曹彰軍は敵を追って桑乾まで進み、一昼夜にわたる追撃の末に敵軍を大破した。
多数を斬首・捕虜とし、戦後には功績を挙げた将兵への恩賞を通常の倍にしたため、
『三国志』は「将士に悦喜せざる莫し」と記している。
鮮卑の軻比能を服従させる
曹彰が烏丸を討伐していたころ、
鮮卑の有力者・軻比能は数万騎を率い、両軍の勝敗を見守っていた。
軻比能は後漢末から魏初にかけて鮮卑諸部の間で勢力を拡大した人物で、
このときは曹彰と烏丸の戦いには加わらず、その推移を観望していた。
やがて曹彰が烏丸を破ると、軻比能は服属を申し入れた。
曹彰は烏丸を破ったうえ、戦いに加わらなかった軻比能を服属させることとなり、
『三国志』はこの結果を「北方悉平」、すなわち「北方がことごとく平定された」と記している。
曹丕の助言と曹操の称賛
北方を平定した曹彰は曹操から召還され、帰還の途中で鄴に立ち寄った。
このとき兄の曹丕は、父に会っても自らの功績を誇らず、
常に自分には足りないところがあるかのように振る舞い、
戦功を従軍した諸将に譲るよう曹彰に助言した。
曹彰は兄の言葉に従い、曹操と会った際には自らの功績を語らず、戦功を諸将に帰した。
これを喜んだ曹操は曹彰の鬚をつかみ、「黄鬚児、竟に大奇なり」と称賛した。
「黄色い鬚のわが子よ、ついに大したものになったな」という意味で、
曹彰は黄色い鬚を持っていたことから「黄鬚児」と呼ばれていた。
裴松之注に引用された『魏略』にも、
曹彰は剛勇な性格で、黄色い髪あるいは鬚を持っていたとする記述が残っている。
↓↓同母兄・曹丕についての個別記事は、こちら

漢中戦への召還
建安二十四年(219)、曹操と劉備は漢中をめぐって争っていた。
前年には夏侯淵が定軍山で劉備軍に敗れて戦死し、曹操自身が漢中へ進出して劉備と対峙している。
このときの曹彰について、裴松之注に引用された『魏略』に逸話が残されている。
劉備が山上に陣を置き、養子の劉封を曹操軍への挑戦に出すと、曹操は、
「履物売りの小倅が、仮の息子を使ってこのわしに当たらせるのか。
わが黄鬚を呼んできて、こいつを撃たせてやる」
という趣旨の言葉を発し、曹彰を召し寄せたという。
「履物売り」は、若いころ筵や草履を売っていたと伝えられる劉備を指し、
「仮の息子」は養子の劉封、「黄鬚」は黄色い鬚を持つ曹彰を指している。
召命を受けた曹彰は昼夜兼行で長安まで進んだが、
到着したころには曹操がすでに漢中から撤退していたため、曹彰が劉封と実際に戦うことはなかった。
長安への駐屯と曹操の死
漢中から撤退した曹操は東へ帰還する際、曹彰を行越騎将軍として長安に駐屯させた。
越騎将軍は中央軍を率いる将軍号の一つで、
曹彰は北方討伐を終えた後も引き続き軍事任務に就いていた。
建安二十五年(220)正月、曹操が洛陽で病を得ると、駅馬を使って長安の曹彰を召した。
曹彰は洛陽へ向かったが、到着する前に曹操が死去したため、
その最期に立ち会うことはできなかった。
曹操の璽綬の所在を尋ねる
曹操が死去したとき、太子の曹丕は鄴にいた。
『三国志』「賈逵伝」によれば、洛陽に到着した曹彰は賈逵に対し、
「先王の璽綬はどこにある」と尋ねたという。璽綬とは君主の印章とそれに付属する組紐を指す。
これに対して賈逵は、
太子は鄴にあり、国家にはすでに後継者がいる。先王の璽綬について尋ねるべきではない」
という趣旨で答え、曹彰の問いを退けた。
曹彰が璽綬の所在を尋ねた理由について、「賈逵伝」は何も記していない。
この行動は後世に曹彰の後継問題への関与と結びつけて解釈されることになるが、
この記録だけから曹彰自身が魏王位を望んでいたと断定することはできない。
曹植への後継打診
曹操の死後の曹彰については、裴松之注に引用された『魏略』にも別の逸話が残されている。
曹彰は弟の曹植に対し、
「先王が私を呼び寄せたのは、お前を立てようとしていたからだ」と語ったという。
曹丕と曹植はかつて曹操の後継者の座をめぐって競っていたが、
建安二十二年(217)には曹丕が魏王太子に立てられていた。
曹彰の言う「お前を立てる」とは、曹植を曹操の後継者とすることを意味する。
これに対して曹植は、「いけない。袁氏の兄弟を見なかったのか」という趣旨で拒んだ。
袁紹の死後、その子の袁譚と袁尚は後継をめぐって争い、
袁氏勢力は内部分裂の末に曹操によって滅ぼされている。
曹植はこの前例を挙げ、曹彰の申し出を受けなかった。
この逸話に従えば、曹彰が後継者として推そうとしたのは自分自身ではなく曹植だったことになる。
ただし、これは『三国志』本文ではなく、裴松之注が引用する『魏略』に記された話であり、
曹操が実際に曹丕から曹植へ後継者を変更する意図を持っていたことを示す記録はない。
また、曹操が病中に曹彰を召した理由も史料には明記されていない。
↓↓弟・曹植についての個別記事は、こちら

曹丕政権――軍事的登用への期待と不満
建安二十五年(220)、曹操の死後、曹丕が魏王の位を継ぎ、
曹彰をはじめとする曹操の子たちはそれぞれの封国へ赴くことになった。
このときの曹彰について、裴松之注に引用された『魏略』は、
『三国志』本文には見えない事情を伝えている。
曹彰はそれまで曹操のもとで軍事面の功績を立てていたことから、
曹操の死後も引き続き軍事上の任務を与えられることを期待していたという。
しかし曹丕が魏王を継ぐと、曹彰も他の諸侯と同様に封国へ帰ることになった。
『魏略』によれば、曹彰はこれを知って「意甚だ悦ばず」と不満を抱き、
正式な出発命令を待たずに封国へ去ったという。
ただし、曹彰が曹丕に対して具体的な反抗行動を起こしたとは記されていない。
曹丕は曹彰を封国へ赴かせる際に詔を下し、
かつて北伐を命じられて北方を平定した功績を称え、食邑五千戸を加増して計一万戸とした。
同年十月、曹丕は後漢の献帝から禅譲を受け、魏の皇帝となった。
曹丕の即位後、曹氏の諸王は封国に置かれ、政治・軍事の中枢から距離を置くこととなった。
曹彰についても、曹操の時代には北中郎将・行驍騎将軍として軍を率い、
行越騎将軍として長安に駐屯していたが、
曹丕の時代に大規模な軍事指揮を執った記録は残されていない。
中牟を治めた曹彰
曹彰は建安二十一年(216)に鄢陵侯に封じられていたが、
裴松之注に引用された『魏略』によれば、鄢陵の土地が痩せていたため、
曹彰には中牟を治めさせたという。
さらに曹丕が後漢の献帝から禅譲を受けて皇帝となると、
そのまま中牟王に封じられたと記されている。
ただし、『三国志』本文には曹彰が中牟王となったことは記されておらず、
黄初二年(221)に公へ進爵し、翌黄初三年(222)に任城王に封じられたとする。
中牟王については、『魏略』に見える記録として区別する必要がある。
『魏略』はこのころの曹彰を「剛厳」と記している。
曹丕が許昌へ行幸した後、北方の諸侯らが中牟を通過する際には曹彰を恐れ、
速やかに通り過ぎたという。
なぜ曹彰がそこまで恐れられていたのかについて、『魏略』は具体的な事情を記していない。
黄初四年、洛陽へ朝見
黄初四年(223)、曹彰は都へ朝見した。
『三国志』「文帝紀」によれば、同年六月甲戌(223年8月1日)、任城王曹彰は京都で死去した。
任城王伝には、「四年、京都に朝し、疾に遇い邸に薨ず」とあり、
洛陽へ朝見した曹彰が病を得て、滞在先の邸宅で死去したことが記されている。
陳寿は病についてそれ以上の事情を記しておらず、
曹彰の生年も『三国志』には明記されていないため、正確な享年は分からない。
『魏氏春秋』が伝える憤怒と急死
裴松之は曹彰の死を記した箇所に、孫盛の『魏氏春秋』を引用している。
それによると、曹彰は曹操が死去した際に璽綬の所在を尋ねたことから、
「異志」があると疑われていた。
そのため黄初四年(223)に洛陽へ朝見した際にも、曹丕にすぐには謁見できなかったという。
曹彰はこれに憤り、そのまま急死したとされ、『魏氏春秋』は「彰忿怒暴薨」と記している。
「暴薨」は突然亡くなったことを意味し、毒殺されたとは記されていない。
ただし、これは陳寿の『三国志』本文ではなく、
4世紀の孫盛が著した『魏氏春秋』に見える異伝である。
また、「異志」があったというのも『魏氏春秋』の記述であり、
曹彰が実際に反乱を計画したことを示す記録はない。
曹操の死後に曹彰が璽綬の所在を尋ねたこと自体は『三国志』「賈逵伝」にも記されているが、
そこでは曹彰がなぜ璽綬について尋ねたのかは説明されていない。
『世説新語』に見える曹丕毒殺説
曹彰の死については、兄の曹丕が毒殺したという説話も残されている。
ただし、この話は『三国志』や『魏氏春秋』には見えず、
南朝宋の劉義慶によって編纂された『世説新語』「尤悔」に収録されたものである。
『世説新語』によれば、曹丕は弟の任城王曹彰が勇猛であることを警戒していた。
あるとき曹丕と曹彰が母の卞太后のもとで囲碁を打ちながら棗を食べた際、
曹丕はあらかじめ一部の棗の蔕に毒を入れておき、自分は毒のないものを選んで食べたため、
それを知らない曹彰が毒入りの棗を口にしたという。
曹彰が苦しみ始めると、卞太后は水を飲ませようとしたが、
曹丕はあらかじめ周囲の瓶や甕を壊させていた。
卞太后は履物を履く暇もなく井戸へ向かったものの、水を汲むための器がなく、
その間に曹彰は死去したとされる。
『世説新語』はさらに、曹丕が曹植も殺そうとした際、
卞太后が「すでに私の任城を殺したのだから、今度は東阿まで殺してはならない」
という趣旨の言葉を述べて止めたと伝えている。
「任城」は任城王曹彰、「東阿」は東阿王であった曹植を指す。
この毒殺説は、曹彰の死から約二百年後に成立した『世説新語』に見える説話であり、
史実として断定することはできない。
『三国志』本文は曹彰が洛陽への朝見中に病を得て邸宅で死去したと記し、
4世紀の『魏氏春秋』は曹丕にすぐ謁見できなかったことに憤って急死したとするが、
いずれも毒殺については記していない。
曹彰の死については、史料の成立時期によって異なる記録や説話が残されている。
↓↓母・卞太后についての個別記事は、こちら

東平王の故事にならった葬礼
曹彰の死後、『三国志』によれば、
葬儀に際して「鑾輅」「龍旂」が与えられ、さらに虎賁百人が付された。
「鑾輅」は鈴を備えた車、「龍旂」は龍を描いた旗で、
虎賁は宮廷の警護などを担った武官を指す。
この葬礼は「漢の東平王の故事の如し」とされ、
後漢の光武帝の子である東平王劉蒼の先例にならったものだった。
劉蒼は明帝の同母弟で、朝廷で重んじられ、死後には特別な葬礼を受けている。
曹彰もその故事にならって任城王として葬られ、死後には「威」の諡号が贈られた。
子・曹楷が爵位を継ぐ
曹彰の死後は子の曹楷が爵位を継ぎ、中牟へ移封された。
黄初五年(224)には任城県へ改封され、
明帝曹叡の太和六年(232)には任城国へ移されて、五県二千五百戸を領有した。
青龍三年(235)、曹楷は官属を私的に中尚方へ派遣し、
諸侯に製作が禁じられていた器物を作らせたことが罪に問われ、食邑二千戸を削減された。
その後、正始七年(246)には済南王へ移封され、食邑三千戸となった。
正元年間(254~256)から景元年間(260~264)の初めにかけて再び加増を受け、
最終的に食邑は四千四百戸に達したと『三国志』は記している。
曹彰の家系は、その後も魏の諸侯王家として存続した。
↓↓魏の第二代皇帝・曹叡についての個別記事は、こちら

曹芳を曹彰の孫とする説
魏の第三代皇帝となった曹芳は、第二代皇帝・曹叡の養子だったが、
その実父については明らかになっていない。
『三国志』「三少帝紀」は、曹芳と秦王曹詢について
「宮省の事は秘され、その由来を知る者はいなかった」と記しており、
二人の出自は陳寿の時代にも不明とされていた。
この記述に対し、裴松之注に引用された『魏氏春秋』は、
「或いは任城王楷の子という」とする説を伝えている。
任城王楷とは曹彰の子・曹楷であり、この説に従えば、曹芳は曹彰の孫にあたることになる。
曹芳は景初三年(239)、曹叡の死後に皇帝へ即位した。
ただし、『魏氏春秋』も「或云」、すなわち「ある説では」として伝えているにすぎず、
『三国志』本文は曹芳の実父を明らかにしていない。
そのため、曹芳を曹彰の孫と断定することはできず、
曹楷の子とする異説が存在したことまでを確認できる。
なお、曹叡は曹芳とともに曹詢も養子としており、曹詢は秦王に封じられた。
『魏氏春秋』の「任城王楷の子」という記述を
どこまで両者の出自に関わるものとして読むかについては、慎重に扱う必要がある。
史料に見える妻と娘
曹彰の妻については、『三国志』「孫賁伝」に、孫賁の娘が曹彰に嫁いだことが記されている。
孫賁は孫堅の兄・孫羌の子で、孫策・孫権の従兄にあたり、
曹操と孫権が全面的に対立する以前に結ばれた両勢力の婚姻関係の一つであった。
ただし、この孫氏が曹彰の子・曹楷の母であったかどうかは、史料には明記されていない。
曹彰には王昌に嫁いだ娘がいたことも伝わっている。
曹彰の家族について史料に残された情報は限られており、
妻である孫氏や王昌に嫁いだ娘の名は伝わっていない。
愛馬「白鶻」をめぐる後世の逸話
曹彰については、唐代の李亢が著した説話集『独異志』にも逸話が残されている。
それによれば、曹彰はあるとき非常に優れた馬を見つけて譲り受けようとしたが、
持ち主が手放そうとしなかったため、「私には美しい妾がいる。好きな者を選べ」と申し出たという。
持ち主が一人の女性を選ぶと、曹彰はその妾と馬を交換し、
手に入れた馬を「白鶻(はくこつ)」と呼んだ。
その後、曹彰は狩猟の際に白鶻を文帝曹丕へ献上したと伝えられている。
ただし、『独異志』は曹彰の時代から数百年後の唐代に成立した説話集であり、
この逸話を曹彰の実際の行動として確定することはできない。
曹植の「任城王誄」
曹彰の死後、同母弟の曹植は兄を悼んで「任城王誄」を作った。
「誄」とは、死者の生前の功績や徳を述べ、その死を悼む文章である。
曹植はこのなかで、曹彰について幼いころから優れた徳を備え、
孝と義に厚く、穏やかで恭しい人物であったと記している。
その一方で、軍を率いた曹彰については、「横行燕代、威懾北胡」と述べ、
燕・代の地を進んで北方の異民族を威圧した功績を挙げている。
さらに、「王率壮士、常為軍首」と記し、
曹彰が壮士を率いて常に軍の先頭に立っていたことを称えている。
「任城王誄」には「奔虜無竄、還戦高柳」ともあり、
敗走する敵を追い、高柳で戦ったことが記されている。
これは曹彰が建安二十三年(218)に北方へ出征し、烏丸を破った戦いを踏まえた記述とみられる。
曹植は序文でも、曹彰は亡くなったものの、その功績は記録に残るという趣旨を述べている。
「任城王誄」は、曹彰と同時代を生きた弟の曹植が、
兄の徳と北方での軍功を記した文章として残されている。
人物評・評価
陳寿は曹操の諸子をまとめた評のなかで、
曹彰について「任城は武芸壮猛にして、将領の気あり」と評している。
任城王曹彰は武芸に優れ、勇猛で、人を率いる将としての資質を備えていたという意味であり、
『三国志』曹彰伝も、その人物像を主として軍事面から伝えている。
曹彰は幼いころから弓馬と武芸を好み、
成長してからは衛青や霍去病のような将軍になることを望んだ。
建安二十三年(218)の北方遠征では、田豫の献策を採用して烏丸を破り、
自ら追撃して桑乾まで進んだほか、戦後には将兵へ厚く恩賞を与えている。
こうした記録からは、個人的な武勇だけでなく、部下の献策を受け入れ、
将兵を率いて戦う指揮官としての行動も確認できる。
同母弟の曹植も「任城王誄」において、
「王率壮士、常為軍首」と曹彰が壮士を率いて軍の先頭に立ったことを記し、
「横行燕代、威懾北胡」と北方での軍功を称えている。
また、曹植は曹彰の孝や義、恭しい性格についても記しており、
同時代の親族による人物評として、陳寿とは異なる側面を伝えている。
一方、『魏略』は曹彰を「剛厳」と記しており、
他の諸侯が中牟を通る際に曹彰を恐れたという逸話を伝える。
ただし、その理由となった具体的な出来事は記されておらず、
「剛厳」が実際の統治にどのように表れていたのかは明らかではない。
曹彰について政治家としての事績はほとんど伝わっていない。
曹操の死後には引き続き軍事的に登用されることを期待していたと『魏略』は伝えるが、
曹丕の時代に大規模な軍事指揮を執った記録も残されていない。
そのため、史料から確認できる曹彰の事績は、曹操のもとで活動した武将としてのものが中心となる。
陳寿の「武芸壮猛にして、将領の気あり」という評価は、
曹彰について正史に残された事績の中心を簡潔に示したものといえる。
まとめ
曹彰は曹操と卞氏の子として生まれ、幼いころから弓馬と武芸を好み、
将軍として功績を立てることを志した。
建安二十三年(218)の北方遠征では代郡の烏丸を破り、鮮卑の軻比能を服属させるなど、
曹操の子のなかでも軍事面で明確な実績を残している。
曹操の死後は曹丕のもとで封国へ赴き、黄初三年(222)に任城王となった。
翌黄初四年(223)、洛陽への朝見中に死去し、「威」の諡号を贈られた。
死因については後世に異説や説話も生まれたが、
『三国志』本文は病を得て邸宅で亡くなったと記している。
陳寿は曹彰を「武芸壮猛にして、将領の気あり」と評した。
曹彰の生涯について正史に残された事績も、北方遠征をはじめとする軍事活動を中心としている。
史書・参考文献
陳寿『三国志』魏書巻十九「任城威王彰伝」
陳寿『三国志』魏書巻二「文帝紀」
陳寿『三国志』魏書巻十五「賈逵伝」
陳寿『三国志』魏書巻二十六「田豫伝」
陳寿『三国志』魏書巻四「三少帝紀」
陳寿『三国志』呉書巻六「孫賁伝」
裴松之注所引『魏略』
裴松之注所引『魏氏春秋』
劉義慶『世説新語』「尤悔」
曹植「任城王誄」
李亢『独異志』

