趙姫|始皇帝の母にして「秦を揺るがした美女」呂不韋と嫪毐事件の伝説

趙姫(始皇帝の母) 04.美女

趙姫(ちょうき)は、中国史上初めて天下統一を成し遂げた秦の始皇帝の母として知られる。

若き日の趙姫は美しい女性として知られ、
豪商・呂不韋や後の秦荘襄王となる子楚との出会いによって、
戦国末期の政争の渦中へと身を置くことになる。

『史記』には、呂不韋の愛妾であったことや子楚へ献上されたこと、
さらには始皇帝の実父が呂不韋だった可能性まで記されている。

また、太后となった後には嫪毐との関係に溺れ、反乱を招いた女性としても語られてきた。
一方で、こうした逸話には後世の脚色や政治的意図が含まれている可能性も指摘されており、
その実像については現在も議論が続いている。

本記事では、『史記』をはじめとする史料を基に、趙姫の生涯と数々の逸話、
そして現代における再評価まで詳しく解説する。

趙姫の出自と若き日の姿

趙姫の本名は伝わっておらず、「趙姫」という呼称自体も、
趙の国の出身女性であったことに由来すると考えられている。生年についても明確ではない。

当時の中国は戦国時代末期にあたり、秦、趙、楚、魏、韓、燕、斉の七雄が覇権を争っていた。
趙姫が生まれた趙国は軍事大国として知られたが、
長平の戦いで秦に大敗して以降、国力を大きく失っていた。

『史記』によれば、若き日の趙姫は趙の都・邯鄲で暮らしており、
絶世の美女として知られていたという。
彼女は当時、豪商であった呂不韋のもとにいた女性であり、愛妾であったとも記されている。

しかし、これが事実であったかについては古くから議論がある。
そもそも「愛妾」という表現自体が後世の価値観による脚色である可能性も否定できず、
趙姫が呂不韋の家にいた女性であったこと以上の実態は明らかではない。

呂不韋との出会いと子楚への献上

奇貨居くべし

呂不韋は衛の出身とされる豪商で、莫大な財産を築いていた人物である。
彼は趙国の都・邯鄲で、秦の人質として暮らしていた異人(後の子楚)と出会った。

異人は秦昭襄王の孫であったが、父の安国君には多くの子がいたため、王位継承の可能性は低かった。さらに趙国で人質生活を送る不遇の立場にあり、将来を期待される存在ではなかった。

しかし呂不韋は異人を見て、「これは奇貨居くべし」と語ったという。
「珍しい商品は後に大きな利益を生む」という意味であり、異人への投資を決意した
のである。

趙姫は呂不韋の愛妾だったのか

『史記』呂不韋列伝には、呂不韋が宴席で異人に趙姫を紹介し、
異人が彼女を望んだため、当初は怒ったものの最終的には献上したと記されている。

さらに『史記』では、この時すでに趙姫が身ごもっており、
その子が後の始皇帝・嬴政だった可能性を示唆している。

ただし、この記述には大きな疑問が呈されている。
秦王の正統性を揺るがす重大な内容であるにもかかわらず、
『史記』以外の同時代史料では確認できないためである。
また、司馬遷自身が伝聞として記録した可能性も指摘されている。

そのため、現在では「始皇帝=呂不韋の実子説」を事実として断定する研究者は多くない。
一方で、戦国末期には広く流布していた噂であった可能性は高いと考えられている。

秦王政の誕生と子楚の即位

紀元前259年、趙の都・邯鄲において嬴政が誕生した。
後に中国史上初の皇帝となる始皇帝である。

当時、秦と趙は激しく対立しており、異人一家の立場は極めて危険だった。
紀元前257年、秦軍が邯鄲を包囲すると、趙国は異人を殺害しようとしたとされる。

呂不韋は多額の財産を用いて工作を行い、異人を秦へ脱出させた。
しかし、趙姫と幼い嬴政はその場に取り残された。

『史記』によれば、母子は身分を隠して趙国内に潜伏し、生き延びたという。
やがて秦と趙の情勢が変化すると、母子は無事に秦へ迎えられた。

その後、異人は華陽夫人の養子となり、「子楚」と改名する。
そして紀元前250年、安国君が即位して孝文王となると、子楚は太子となった。

しかし孝文王は即位後わずか三日で崩御した。

子楚は即位して荘襄王となり、趙姫は王后となった。
嬴政は正式な王太子となり、後の王位継承者としての地位を確立した

荘襄王の急死と趙姫の太后即位

荘襄王の治世は長く続かなかった。
即位から三年後の紀元前247年、荘襄王は崩御する。
死因について詳細は伝わっていない。

この時、嬴政はまだ十三歳であった。
幼い秦王政に代わり、国政の実権を握ったのが相国・呂不韋である。
趙姫は王太后となり、秦王の母として絶大な地位を得た。

この時期の秦は戦国最強の軍事国家として各国を圧倒しており、天下統一目前の段階にあった。
しかし、王太后と呂不韋の関係は再び人々の噂の的となる。

『史記』は、趙姫が情欲の強い女性であり、呂不韋との関係を断ち切れなかったと記している。
だが、これも司馬遷が採用した伝承の一つであり、実証は困難である。
幼い国王の母として政治に関与した女性を否定的に描くことで、
後世の儒家的価値観に沿った物語へと再構成された可能性も指摘されている。

嫪毐との出会いと禁断の関係

呂不韋が送り込んだ男

王太后となった趙姫は若く、なお盛んな情欲を持っていたと『史記』は伝えている。
呂不韋は太后との関係が続けば、自身への疑惑や政治的危険が高まることを恐れたという。

そこで呂不韋が目を付けたのが嫪毐(ろうあい)という男だった。

嫪毐の出自は明らかではないが、
『史記』では「巨大な男性器を持つことで知られていた」と記されている。
司馬遷は、嫪毐が車輪を男性器で回したという猥雑な逸話まで記録しているが、
これらは誇張や中傷の可能性も高い。

呂不韋は嫪毐を「宦官を装った男」として趙姫のもとへ送り込んだという。
宦官であれば後宮への出入りが許されるためである。

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趙姫と嫪毐の関係、そして雍での生活

『史記』によれば、呂不韋によって送り込まれた嫪毐は、
やがて趙姫の深い寵愛を受けるようになった。

二人の関係は単なる密通の域を超え、趙姫は嫪毐との生活を続けるため、雍へ移り住んだとされる。
雍は秦の旧都として宗廟や離宮が置かれた重要な土地であり、
王太后の居所としてもふさわしい場所であった。

雍では嫪毐が事実上の夫のような立場となり、長信侯に封じられて広大な封地を与えられた。
彼のもとには数千人の家臣や食客が集まり、その勢力は「嫪国」と呼ばれるほどに拡大していった。
『史記』には、趙姫が嫪毐との間に二人の男子をもうけたとも記されているが、
この記述は他の同時代史料による裏付けがなく、その真偽については古くから議論が続いている。

とはいえ、嫪毐が王太后の寵臣として異例の権勢を誇り、
秦王政の成長とともに宮廷内で看過できない存在となっていったことは確かである。

嫪毐の権勢拡大と宮廷内の反発

趙姫の寵愛を背景に、嫪毐は急速に権勢を拡大していった。
『史記』によれば、秦王政は嫪毐を長信侯に封じ、広大な封地を与えたという。
その封地には数千戸が与えられ、嫪毐を頼って移り住む者も少なくなかった。
さらに嫪毐は独自の家臣団や官僚機構を形成し、その勢力は「嫪国」と称されるほどになった

この頃には、もはや一介の寵臣ではなく、
王太后の後ろ盾を持つ政治勢力として国家中枢に影響を及ぼす存在へと変貌していた。

しかし、急激な出世は嫪毐の慢心も招いた。
『史記』には、酒宴の席で嫪毐が「自分は秦王の義父である」と豪語したという逸話が記されている。
これを聞いた者が役人へ密告し、その話は秦王政の知るところとなった。
逸話自体の真偽は定かではないものの、少なくとも嫪毐と趙姫の関係が宮廷内では公然の秘密となり、
その異常な権勢に対する不満や警戒感が広がっていたことはうかがえる。

そして、こうした緊張の高まりは、
やがて秦王政と嫪毐の直接対決である「嫪毐の乱」へとつながっていく。

嫪毐の乱

秦王政への反乱

紀元前238年、二十二歳となった秦王政は、秦の旧都である雍において加冠の儀を執り行った。
これは成人した王として自ら政務を執る「親政」の開始を意味する重要な儀式であり、
幼少期から続いてきた呂不韋や王太后による後見政治に終止符を打つ節目でもあった。

しかし、秦王政の親政開始は、
趙姫の寵愛を背景に権勢を誇っていた嫪毐にとって、
自らの地位を失う危機でもあった。

『史記』によれば、嫪毐は趙姫の王璽を用いて兵を動員し、
咸陽の宮廷を掌握して秦王政を排除しようとしたという。

その背景には、親政によって失脚することへの危機感に加え、
趙姫との間に生まれたとされる二人の子を
新たな後継者として擁立しようとする意図があったとも伝えられている。

これに対し、秦王政は昌平君や昌文君らに討伐を命じ、嫪毐の軍勢と激しく衝突した。
詳細な戦況は明らかではないものの、反乱は短期間のうちに鎮圧され、嫪毐は捕らえられた。

こうして秦王政即位後最大の宮廷クーデターは失敗に終わったのである。

嫪毐の最期と事件の影響

反乱後の処罰は極めて苛烈なものであった。
『史記』によれば、嫪毐は五馬分屍、すなわち車裂きの刑に処された。
さらに嫪毐の一族は三族誅滅となり、多くの関係者が処刑されたほか、
反乱への関与が疑われた四千戸余りの人々も蜀へ流されたという。

また、『史記』は、趙姫と嫪毐の間に生まれたとされる二人の男子についても、
その悲惨な最期を記している。
秦王政は二人を捕らえると革袋に入れ、撲殺させたという。
幼子であっても王位継承争いの火種を残さないため、徹底的に排除したのである。

ただし、この逸話は『史記』以外の同時代史料では確認できず、
あまりにも劇的かつ残酷な描写であることから、
後世の潤色や誇張を含む可能性を指摘する研究者もいる。

嫪毐の乱は、単なる後宮の醜聞ではなかった。
この事件によって秦王政は王太后勢力を一掃し、
呂不韋をはじめとする旧勢力への追及を進めることになる。

そして自らの手で権力を掌握した秦王政は、ここから本格的な親政を開始し、
中国統一へ向けて大きく歩み始めた。

趙姫の私的な関係から生じた宮廷内の混乱は、
結果として始皇帝による絶対王権確立の転機となった点においても、
中国史上きわめて重要な事件だったといえる。

呂不韋の失脚と自害

嫪毐の乱が鎮圧されると、秦王政は事件の責任追及を開始した。
そこで矛先が向けられたのが、かつて自身を王位へ押し上げた最大の功労者であり、
長年にわたり秦の国政を主導してきた呂不韋であった。

『史記』によれば、嫪毐を趙姫のもとへ送り込んだのは呂不韋自身であり、
結果として反乱の遠因を作ったとされた
のである。

もっとも、呂不韋が実際に嫪毐の乱へ関与していたことを示す直接的な証拠はなく、
秦王政が親政を開始するにあたり、
自らの権力を脅かし得る旧勢力を排除したという側面も指摘されている。

当初、秦王政は呂不韋を直ちに処刑することはせず、相国の地位を解いて河南へ移住させた。
しかし呂不韋の名声は依然として高く、各国の使者や賓客が絶えず訪れたという。
これを危険視した秦王政は、呂不韋に対して厳しい叱責の書簡を送った。

『君は秦に何の功績があって十万戸の食邑を受けているのか。
 秦の宗族でもないのに、なぜ『仲父』と呼ばれるのか』 という内容であったと伝えられている。

王の真意を悟った呂不韋は、紀元前235年、鴆毒をあおって自害した。

呂不韋は『呂氏春秋』の編纂を主導した文化人としても知られ、その政治手腕は高く評価されている。一方で、『史記』においては「始皇帝出生の謎」と「嫪毐事件の黒幕」という
劇的な役回りを与えられた結果、中国史上有数の野心家として語り継がれることとなった。

趙姫と始皇帝の母子関係

嫪毐の乱によって最も大きな傷を負ったのは、趙姫と秦王政の母子関係であった。

秦王政にとって、母である趙姫が自らの権威を利用して
反乱勢力を生み出したことは到底容認できるものではなく、
『史記』によれば、激怒した秦王政は趙姫を咸陽から追放して雍へ幽閉したという。

また、「太后のもとを訪れ、その復帰を求める者は処刑する」と命じ、
実際に二十数名の臣下が諫言して処刑されたとも伝えられている。

しかし、この苛烈な措置に対しては宮廷内でも異論が生じた。

やがて斉出身の茅焦という臣下が進み出て、
母を追放したままでは「不孝の君」との悪名が天下に広まり、
諸侯を従えて天下統一を成し遂げるうえで大きな障害になると諫めた。

秦王政は当初こそ激怒したものの、最終的には茅焦の進言を受け入れ、趙姫を咸陽へ呼び戻した。
こうして趙姫は太后としての待遇を回復し、母子関係も一定の修復をみたとされる。

この逸話は、始皇帝の冷徹さを示すと同時に、
優れた諫言に耳を傾ける柔軟さを備えていたことを物語るものとして後世に伝えられている。

趙姫の晩年

咸陽へ戻った後の趙姫について、『史記』は多くを語っていない。

嫪毐の乱以前のように政治の表舞台へ立つことはなく、
太后として静かな余生を送ったとみられている。
始皇帝も母を再び排斥することはなく、一定の敬意を払って遇したと考えられる。

紀元前228年、趙姫は死去した。
没年については『史記』秦始皇本紀に記録が残されている。

その後、趙姫は亡き荘襄王とともに芷陽に葬られた。
かつて嫪毐の乱によって母子の縁は断絶寸前まで至ったものの、
最終的には王家の正統な太后として葬られたのである。

『史記』の記述と現代の再評価

趙姫をめぐる最大の論点は、『史記』の記述をどこまで史実として受け止めるべきかという点にある。

現在広く知られている趙姫像の多くは司馬遷の『史記』に基づくものであり、
「呂不韋の愛妾であり、妊娠した状態で子楚へ献上された」「嫪毐と密通し、二人の子をもうけた」
といった逸話も、『史記』によって後世へ伝えられたものである。

しかし、これらの記述には他の同時代史料による裏付けに乏しいものも少なくない。
とりわけ、始皇帝が呂不韋の実子だったという説については、
『史記』呂不韋列伝にその可能性が示唆される一方、
『史記』秦始皇本紀では嬴政はあくまで荘襄王の子として扱われており、
司馬遷自身も明確な断定はしていない。
そのため、当時流布していた噂や伝承を記録したものとみる見解もある。

また、嫪毐の男性器に関する猥雑な逸話や、
嫪毐との間に生まれた子を革袋に入れて撲殺したという記述についても、
あまりにも劇的で残酷な描写であることから、
事実を基にしながらも脚色や誇張が加えられている可能性が指摘されている。
ただし、それらを完全な創作と断定できるだけの根拠もなく、
史実と伝承が入り混じっている可能性も否定できない。

さらに、『史記』が編纂されたのは秦滅亡後の代であり、
暴政によって滅んだ秦を批判的に捉える時代の空気の中で
記述が形成されたことも考慮する必要がある。

趙姫は長らく「情欲に溺れた悪女」として語られてきたが、
戦国時代末期は後宮制度や家族制度が後世ほど固定化されておらず、
女性の行動規範も代以降とは異なっていた可能性がある。
また、太后として一定の政治的影響力を持った女性を否定的に描くこと自体が、
男性中心社会における歴史叙述の特徴だったとの指摘も存在する。

そのため、近年では趙姫を単純な悪女として断じるのではなく、
戦国時代末期の激動を生き抜き、秦の王后、
王太后として中国史上初の皇帝となる始皇帝を支えた一人の女性として、
その実像を改めて捉え直そうとする見方もみられる。

『史記』に描かれた趙姫像と実際の人物像との間には、なお埋めがたい隔たりがあり、
その生涯は二千年以上を経た現在も議論の対象となっている。

まとめ

趙姫は、始皇帝の母として中国史に名を残した女性である。
その生涯は、呂不韋との関係、始皇帝出生の謎、嫪毐との愛情、嫪毐の乱、
呂不韋の失脚といった数々の逸話に彩られている。

しかし、それらの多くは『史記』によって後世へ伝えられたものであり、
どこまでが事実でどこまでが伝承なのかは現在も明確ではない。

それでも確かなのは、趙姫が戦国末期という激動の時代の中心に存在し、
中国統一という歴史的大事業の陰で大きな影響を及ぼした人物だったということである。

悪女、母、太后、そして一人の女性として、
趙姫は二千年以上を経た今なお人々の関心を集め続けている。

史書・参考文献

・『史記』秦始皇本紀
・『史記』呂不韋列伝
・『史記』李斯列伝
・『史記』秦本紀
・司馬遷 著/野口定男 訳『史記(中国古典文学大系)』
・吉川忠夫『秦の始皇帝』
・鶴間和幸『始皇帝の戦争と将軍たち』
・鶴間和幸『始皇帝陵と兵馬俑』
・宮城谷昌光『史記を語る』
・藤田勝久『秦漢帝国史研究』

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