【南朝陳】張麗華|『玉樹後庭花』に象徴された傾国の美女

張麗華(南朝陳の寵妃) 02.妃賓

張麗華(ちょうれいか)は、南朝最後の王朝・の後主陳叔宝に最も寵愛された貴妃である。
貧しい軍人の家に生まれ、十歳で東宮の侍女となったのち、後主の二人の皇子を産み、
後宮の政務だけでなく朝廷の政治にも関与するまでになった。

長い黒髪と際立った美貌、優れた記憶力を備えていたとされる一方、
後宮の請託を取り次ぎ、反対する大臣を讒言したとも記録される。

軍が建康を陥落させると、張麗華は後主らと井戸に隠れたところを捕らえられ、青渓で斬られた。
後世にはを滅亡させた「傾国の美女」として語られたが、
の崩壊を一人の妃に帰すことはできない。

本記事では、『陳書』『南史』『資治通鑑』を中心に、
張麗華の出自から死、その後に形成された評価までを時系列に沿ってたどる。

貧家の娘から皇太子の寵姫へ

軍人の家に生まれる

張麗華は南朝陳の時代に生まれた。
生年を559年とする紹介が多いが、正史が明記するのは、
陳叔宝が皇太子であった時期に十歳で宮中へ入ったということだけである。
具体的な出生年は、入宮時の年齢などから推定されたものにすぎない。

『陳書』巻7「後主貴妃張麗華伝」と『南史』巻12「後主張貴妃麗華伝」は、
張麗華を「兵家女」、すなわち軍籍に属する家の娘とし、
家は貧しく、父と兄は蓆を編んで生計を立てていたと記す。
父母や兄弟の名、出身地、幼少期の詳しい経歴は伝わっていない。
後世の物語には歌妓などとするものもあるが、正史にその記載はない。

張麗華が生まれた頃のは、陳霸先が梁に代わって建国したばかりの小国であった。
北方では北周北斉が対立し、は長江流域を中心とする限られた領土を保っていた。

張麗華は名門の出身ではなく、皇族との婚姻によって入内した女性でもなかった。

十歳で龔良娣の侍女となる

陳宣帝の皇太子であった陳叔宝の東宮では、龔氏が良娣の位にあった。
張麗華は選抜を受けて宮中に入り、十歳で龔良娣に仕える給使、
すなわち身の回りの雑事を担う侍女となった。

やがて陳叔宝が張麗華を見て気に入り、寵愛するようになった。
張麗華はほどなく妊娠し、陳叔宝の第四子となる陳深を産んだ。

正史には二人が出会った時期や陳深の生年が記されていないため、
十歳でただちに懐妊したとまで断定することはできない。
しかし、低い身分で入宮した張麗華が皇子を産んだことにより、
東宮での立場を大きく変えたのは確かである。

陳叔宝には、正妃の沈婺華と、孫姫が産んだ長男の陳胤がいた。
陳胤は出産時に母を失い、沈婺華に養育され、陳宣帝から嫡孫として扱われていた。
このため、張麗華とその子陳深が当初から皇位継承者と見なされていたわけではない。

陳後主の即位と張貴妃の台頭

始興王陳叔陵の乱と看病

太建14年(582年)正月、陳宣帝が崩御した。
葬儀の最中、後主の弟である始興王陳叔陵陳叔宝を襲い、薬を刻む刀で首を斬りつけた。
陳叔宝は重傷を負ったものの、母の柳皇后、乳母の呉氏、弟の長沙王陳叔堅らに助けられ、
陳叔陵は討たれた。

即位した陳叔宝は、傷が癒えるまで承香殿に伏せた。
ほかの妃嬪が近づくことを許されないなか、張麗華だけが側に置かれて看病したという。

母の柳太后は皇后の正殿に当たる柏梁殿におり、
皇后となった沈婺華は以前から夫の寵愛を受けていなかったため、
求賢殿に別居して看病にも加われなかった。
この出来事は、後主の即位直後から張麗華が特別な位置を占めていたことを示す。

陳叔宝が回復すると、張麗華は貴妃に冊立された。
皇后は沈婺華であったが、後主は張貴妃を最も寵愛し、後宮の事務も張麗華が統括するようになった。沈皇后はその状況を妬まず、質素に暮らしながら経書・史書や仏典を読んでいたとされる。

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容姿と記憶力

『陳書』の魏徴による補注と、それを取り入れた『南史』は、
張麗華の容姿と才能を詳しく描いている。

髪は七尺に及び、漆のように黒く、光を映せるほど艶やかであった。
顔立ちは端麗で、振る舞いは落ち着き、視線を動かすだけでも周囲を照らすようであったという。
楼閣で化粧をして欄干に立つ姿を宮中から遠望すると、神仙が舞い降りたように見えたとも記される。

もっとも、これらは客観的な身体記録ではなく、正史に収められた美人描写である。
とくに「光が周囲を照らした」「神仙のようであった」という表現は、
張麗華の美貌を伝えるための文学的修辞として読む必要がある。

張麗華は美貌だけでなく、頭の回転が速く、弁舌と記憶力にも優れていた。
後主陳叔宝の表情を読むことにも長け、相手が何を望んでいるかを察して振る舞った。

自分だけが寵愛を独占するのではなく、
宮女を後主陳叔宝に推薦し、宴席にも加えたため、宮女たちは恩を感じて張麗華を称賛した。

こうした人心掌握も、後宮で影響力を広げる一因になった。

呪術と女巫をめぐる記録

正史は、張麗華が「厭魅の術」を好み、鬼神の力を装って後主陳叔宝を惑わせたとも記す。
宮中に正規の礼制に基づかない祭祀を設け、女巫を集めて太鼓を打たせ、舞わせたという。

さらに女巫や宮中の人脈を通じて外部の情報を集め、
世間で何かが起こると後主より先に把握して報告したため、
後主陳叔宝は張麗華に不可思議な力があるかのように感じ、いっそう重んじたとされる。

ただし、張麗華自身が超自然的な能力を持っていたという意味ではない。
宮廷内外に情報網を築き、得た情報を宗教的な演出と結びつけて示したと読むのが妥当である。

また「厭魅」「淫祀」「妖巫」という語には、
女性の政治関与や公認されない信仰を否定的に描く正史編者の価値判断も含まれる。

後宮の享楽と政治への関与

臨春閣・結綺閣・望仙閣

至徳2年(584年)、後主陳叔宝は光昭殿の前に臨春閣・結綺閣・望仙閣の三楼閣を建てた。
それぞれ数十丈の高さがあり、数十の部屋を備え、窓や欄干などには沈香や白檀が用いられた。
金銀、宝玉、真珠、翡翠で飾られ、外には珠簾、内部には豪華な寝台と帳が置かれた。
風が吹けば香りが数里先まで届き、朝日に照らされると後庭が光り輝いたという。
楼閣の下には石を積んだ築山と池が造られ、珍しい樹木や草花が植えられた。

後主は臨春閣、張麗華は結綺閣、龔貴嬪と孔貴嬪は望仙閣に住み、楼閣は空中廊下で結ばれていた。
王・李の二美人、張・薛の二淑媛、袁昭儀、何婕妤、江修容らも順番に楼閣へ上がり、
宴遊に加わった。

後主陳叔宝は文学の素養を持つ宮女の袁大捨らを「女学士」とし、
張麗華ら妃嬪、宮廷に出入りする文人たちと詩を作らせ、互いに贈答させた。

そのなかからとくに華麗な作品を選んで新曲を付け、
容姿の優れた宮女を千人単位で選び、各組に分けて歌わせた。
代表的な曲が「玉樹後庭花」と「臨春楽」であり、
歌詞は主として張麗華と孔貴嬪の美しさをたたえる内容だったと『南史』は記す。

正史に引用される「璧月夜夜満、瓊樹朝朝新」は、
宝玉のような月が夜ごと満ち、美しい樹木が朝ごと新鮮に輝くという意味である。

後世に広く知られる「麗宇芳林対高閣」から始まる六句の「玉樹後庭花」は
『楽府詩集』に収められているが、『陳書』『南史』に全文は見えない。

張麗華を直接詠んだ作品と一般に解されるものの、
現存する歌詞が後主在世時の原形をそのまま伝えるかは慎重に考える必要がある。

後主の膝上で政務に加わる

後主陳叔宝は次第に政務を怠り、官署から上がる奏聞も、
宦官の蔡臨児と李善度を通して取り次がせるようになった。

後主陳叔宝は隠囊と呼ばれる肘掛けにもたれ、張麗華を膝に乗せたまま案件を判断した。
蔡臨児と李善度が内容を記憶しきれない場合には、
張麗華が項目ごとに整理して書き出し、漏れがなかったという。

この記録は、張麗華が単に宴遊をともにした寵妃ではなく、
奏聞の内容を把握し、後主陳叔宝の意思決定に同席する存在であったことを示す。

張麗華が独自に国政を決裁したとまでは書かれていないが、
後主陳叔宝が正式な官僚機構を遠ざけ、妃と宦官を介して政務を処理したため、
宮廷内の私的な関係が政治判断に入り込むことになった。

請託・讒言と張氏一族の進出

後宮の妃嬪や宮人の親族が法に触れたり、訴訟に関わったりすると、張麗華に救済を求めた。
張麗華はまず蔡臨児と李善度から後主の耳に入れさせ、その後に折を見て自ら意見を述べた。
要求に従わない大臣がいれば、後主陳叔宝に讒言し、
後主陳叔宝はその言葉をほぼ必ず受け入れたとされる。

こうして張麗華と孔貴嬪の権勢は朝廷内外に及び、両者の一族から多くの者が登用された。
具体的な親族名や官職は正史に残されていないが、
大臣たちも両貴妃の意向に従い、宦官や追従者が内外で結びついて互いを推薦した。
賄賂が公然と行われ、賞罰の基準が揺らぎ、政治の綱紀は乱れたという。

張麗華が後宮の秩序を掌握したことは、正妃の沈皇后と皇太子陳胤の立場にも影響した。
陳胤は沈皇后を母として敬い、東宮の者も沈皇后のもとへ出入りしていたため、
後主は陳胤が不満を抱いているのではないかと疑った。

『陳書』巻28によれば、張麗華と孔貴嬪は日夜、沈皇后と陳胤の短所を後主陳叔宝に吹き込み、
外廷では孔範らがそれに呼応した。

皇太子陳胤の廃位と陳深の立太子

禎明2年(588年)、後主陳叔宝は陳胤を皇太子から廃し、呉興王に降格した。
そのうえで張麗華の子・始安王陳深を新たな皇太子に立てた。

沈皇后も廃して張麗華を皇后に立てる意向であったが、翌年にが滅亡したため実現しなかった。

陳深は幼い頃から聡明で志操があり、
立ち居振る舞いは厳然として、側近にも喜怒を見せなかったと伝わる。
後主は張麗華の子であることから陳深をとくに愛した。

一方、張麗華のもう一人の子である第八子・陳荘は、
幼少時から厳酷で、気に入らないことがあると側近の顔を刃物で刺し、火で焼くこともあったという。
それでも母が寵愛されていたため後主陳叔宝に愛され、
至徳4年(586年)に会稽王となり、揚州刺史などの官を与えられた。

皇太子の交代は、張麗華の権勢が頂点に達した出来事であった。
ただし、廃立の最終的な決定者は皇帝である。
張麗華の働きかけは無視できないが、
後主自身の疑念や、孔範ら外廷の側近政治と切り離して考えることはできない。

隋の侵攻と南朝陳の滅亡

開戦後も続いた側近政治

禎明2年(588年)秋、の文帝楊堅の討伐を命じ、
翌589年正月、賀若弼や韓擒虎らの軍が長江を渡った。

では施文慶や沈客卿らが権力を握り、軍事上の急報を後主陳叔宝に十分伝えず、
建康の防備も統一を欠いていた。
正史は後主の怠政、側近の壟断、重税、軍令の混乱などを亡国の要因として挙げる。

張麗華が軍への防衛方針を立てた、あるいは開戦を直接妨げたという記録はない。

彼女の請託や政治関与は朝廷の腐敗を構成する一部ではあったが、
の統一政策、の国力と領土の劣勢、後主陳叔宝の統治、外廷の側近政治、
軍事指揮の失敗が重なって滅亡に至ったのであり、張麗華だけが陳を滅ぼしたわけではない。

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景陽殿の井戸に隠れる

禎明3年(589年)正月、韓擒虎の軍が建康の南掖門から台城へ侵入した。
官僚や守備兵が逃げ去るなか、後主陳叔宝は逃亡を勧められても決断できず、
ついに張麗華、孔貴嬪とともに景陽殿近くの井戸へ身を隠した。

兵が井戸に向かって呼びかけても返事がなかったため、
石を落とすと告げたところ、中から声がした。
兵士が縄を下ろして引き上げると非常に重く、
後主陳叔宝だけでなく張麗華と孔貴嬪も一緒につかまっていた。

『資治通鑑』は、後主が救い上げられた際、
兵を恐れて震えていたことや、韓擒虎が慰めたことも記している。

後世にはこの井戸が「胭脂井」「辱井」などと呼ばれ、亡国の象徴として語られた。
ただし、その名称や井戸にまつわる細部のすべてが滅亡時の記録に見えるわけではなく、
後世の伝承と区別する必要がある。

青渓で処刑される

井戸から連れ出された張麗華は、建康を出ることなく青渓で斬られた。
『陳書』と『南史』は、の晋王楊広が張麗華を斬るよう命じ、
遺体または首を青渓中橋に掲げたと記している。

一方、『資治通鑑』巻177は異なる経緯を載せる。
先に建康へ入ったの重臣・高熲のもとへ、晋王楊広が高熲の子・高徳弘を送り、
張麗華を生かしておくよう命じた。

高熲は、周の武王が殷を滅ぼした際に妲己を斬った故事を引き、
「いま張麗華を残しておくことができようか」と拒み、青渓で処刑した。
楊広はそれを知って顔色を変え、いつか高熲に報復すると語ったという。

両史料は、張麗華が青渓で斬られた点では一致するが、
楊広が処刑を命じたのか、助命しようとしたのに高熲が斬ったのかでは食い違う。
高熲の処刑が後年の楊広との対立につながったという話は『資治通鑑』の叙述であり、
確定した事実として一方だけを採用することはできない。

張麗華はの滅亡と同じ589年に没した。
生年を559年とする説に従えば数え年31歳前後となるが、
生年自体が推定であるため、没年齢も確定しない。

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張麗華の死後

二人の子のその後

張麗華の死後、皇太子陳深と会稽王陳荘は殺されず、陳氏一族とともにの都・長安へ送られた。

陳深は兵が東宮へ押し入った際にも部屋を閉ざして端然と座り、
兵士に道中の労苦をねぎらう言葉をかけたため、兵から敬意を払われたという。
のちにに仕え、大業年間には枹罕太守となった。

陳荘もに入り、大業年間に昌隆県令となった。
二人の没年や子孫について、正史は詳しく記していない。

張麗華自身には追贈や改葬、祭祀などの確実な記録は見えず、
その後は歴史上の人物というより、亡国を象徴する女性として記憶されていった。

「玉樹後庭花」と亡国の記憶

「玉樹後庭花」は後世、「亡国の音」として知られるようになった。
『隋書』楽志は、後主陳叔宝が「黄鸝留」「玉樹後庭花」「金釵両鬢垂」などの曲を作り、
寵臣らと華美な歌詞を競い、男女が唱和したその音は哀調を帯びていたと記す。

後主陳叔宝の享楽との滅亡が近接していたため、
曲そのものが国の滅びを予告したかのように解釈されたのである。

代には杜牧が「泊秦淮」で、
秦淮河畔の歌女が亡国の恨みを知らず、川向こうでなお「後庭花」を歌っていると詠んだ。

この詩によって「後庭花」は亡国の歌としていっそう定着し、
その歌が美をたたえたとされる張麗華も、の滅亡と分かちがたく結びつけられた。

妲己になぞらえられた評価

『陳書』や『南史』は、張麗華の才能を認めながらも、
呪術、請託、讒言、縁故登用と政治腐敗を結びつけて記した。
『南史』の史論は、後主陳叔宝の治世が後宮によって敗れたと論じている。

さらに『資治通鑑』に見える高熲の発言は、張麗華を殷の紂王の妃・妲己と同列に置いた。
これにより張麗華は、君主を惑わせて王朝を滅ぼす「傾国」の典型として扱われるようになった。

しかし、現存史料から確認できる張麗華の政治的行為は、後宮関係者の請託を取り次いだこと、
反対する大臣を讒言したこと、宦官とともに奏聞の処理に関わったこと、
沈皇后と陳胤の失脚に影響したことなどである。

との戦争を決定したのも、防衛に失敗したのも張麗華ではない。
後主は皇帝として彼女を重用し、その言葉を採用し、官僚機構を空洞化させた責任を負う。

張麗華の伝記には、貧しい家の少女が記憶力と人心掌握によって後宮の頂点へ達した経緯と、
女性の政治関与を「妖術」や「傾国」に結びつける伝統的な歴史叙述の双方が表れている。

彼女を無実の被害者とすることも、を一人で滅ぼした元凶とすることも、
史料の範囲を越える評価となる。

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まとめ

張麗華は軍籍に属する貧しい家に生まれ、十歳で龔良娣の侍女として東宮に入り、
陳叔宝の寵愛を受けて陳深と陳荘を産んだ。

後主陳叔宝の即位後は貴妃となり、後宮を統括するとともに、
優れた記憶力を生かして奏聞の処理にも加わった。
宮女を推薦して支持を集める一方、請託や讒言を通じて政治に影響し、
一族や近臣の登用にも関与したと正史は伝える。

後主陳叔宝は三楼閣を築き、張麗華らの美貌をたたえる詩曲を作らせた。
張麗華の子・陳深は、従来の皇太子陳胤が廃された後に皇太子となり、
後主は沈皇后を廃して張麗華を皇后に立てることも考えた。
しかし禎明3年(589年)、軍が建康を攻略し、
張麗華は後主、孔貴嬪とともに井戸へ隠れたところを捕らえられ、青渓で処刑された。

『陳書』『南史』では楊広が斬刑を命じたとされ、
『資治通鑑』では楊広が助命を求めたものの高熲が拒んで斬ったとされる。

死後、張麗華は「玉樹後庭花」や妲己との比較を通じて傾国の美女の代表とされたが、
の滅亡は後主の統治、側近政治、軍事的劣勢と指揮の混乱などが重なった結果であり、
一人の寵妃だけに原因を求めることはできない。

史書・参考文献

・『陳書』巻6「後主紀」
・『陳書』巻7「後主沈皇后・貴妃張麗華伝」
・『陳書』巻28「後主諸子伝」
・『南史』巻10「陳本紀下」
・『南史』巻12「後主沈皇后・張貴妃麗華伝」
・『隋書』巻13「音楽志上」
・『資治通鑑』巻175-177
・郭茂倩編『楽府詩集』巻47「清商曲辞」

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