【南朝陳】陳叔宝|井戸に隠れて捕らえられた南朝最後の皇帝

陳叔宝(南朝陳・皇帝) 031.皇帝

陳叔宝(ちん しゅくほう、553年-604年)は、
南朝陳の第5代にして最後の皇帝である。廟号はなく、一般には「陳後主」と呼ばれる。

父は宣帝陳頊、母は柳敬言。
幼少期に西魏による江陵陥落を経験し、父と離れたまま穣城に残された。
その後、建康へ戻って皇太子となり、582年に宣帝が死去すると、
異母弟の陳叔陵による襲撃で重傷を負いながらも生き延びて即位した。

治世初期には農業振興や租税免除、人材登用などを命じる詔も出しているが、
次第に施文慶・沈客卿ら側近へ実務を委ね、
張麗華ら妃嬪や江総・孔範ら文人と宴飲や詩作にふける宮廷生活が目立つようになる。
豪華な宮殿を造営し、皇太子陳胤を廃して張麗華の子・陳深を皇太子とするなど、
宮廷内部の政治も大きく揺れた。

588年にの文帝楊堅が大規模な南征を開始すると、
南朝陳は十分な防衛体制を整えられないまま翌589年に首都建康を失った。
陳叔宝は宮中の井戸へ逃げ込み、寵愛していた張麗華・孔貴人とともに隋軍に捕らえられた。

しかし陳叔宝自身は処刑されず、のもとでさらに15年ほど生きた。
酒を好み、文帝楊堅の宴にも出席し、604年に洛陽で死去している。

政治的には亡国の皇帝として厳しい評価を受ける一方、
陳叔宝は南朝宮廷文学を代表する詩人の一人でもあった。
「玉樹後庭花」は後世、「亡国の音」を象徴する作品として知られるようになる。

出自と皇太子時代

江陵で生まれ、父と引き離される

陳叔宝は梁の承聖2年(553年)、江陵で生まれた。字は元秀、小名は黄奴。
父は後の陳宣帝陳頊であり、『陳書』は陳叔宝を宣帝の嫡長子と記している。

翌554年、西魏軍が江陵を攻略した。
父の陳頊は関中へ連行されたが、幼い陳叔宝は穣城に残された。
南北朝末期の皇族として、陳叔宝の幼少期は決して安定したものではなかった。

陳霸先が557年に南朝陳を建国し、その後に文帝陳蒨が即位すると、陳頊も北周から帰国する。
陳叔宝は天嘉3年(562年)に建康へ戻り、安成王だった父の世子となった。

天康元年(566年)には寧遠将軍、
光大2年(568年)には太子中庶子となり、まもなく侍中へ昇進する。
父の陳頊が皇帝となると、太建元年(569年)に皇太子へ立てられた。

異母弟・陳叔陵に襲撃される

太建14年(582年)正月、宣帝が病に倒れた。
このとき陳叔宝の異母弟である始興王陳叔陵は、すでに密かに刃物を準備していた。

宣帝が崩御すると、陳叔宝は遺体の前で哀哭した。
その最中、陳叔陵は薬を切るための刀を取り出し、突然陳叔宝へ襲いかかった。


陳叔宝は首を斬られて地面に倒れた。
母の柳敬言が駆け寄って陳叔陵を押さえようとしたが、さらに攻撃を受けた。
乳母の呉氏が陳叔宝を助けたため、陳叔陵はその場でとどめを刺すことができなかった。

陳叔陵は宮中から逃げ出して東府へ入り、兵を集めて抵抗しようとしたが、
蕭摩訶らによって鎮圧されて殺害された。

陳叔宝は重傷を負ったものの生き延び、
襲撃から二日後に太極前殿で皇帝に即位した。即位時は29歳だった。

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治世|初期の政治から側近政治へ

即位直後は農業振興や人材登用を命じる

陳叔宝の治世は後世、宮廷の奢侈と政治の弛緩によって語られることが多い。
しかし、即位直後から何も政治を行わなかったとするのは正確ではない。

582年3月には、新たに開墾された田地について租税を免除し、
荒廃した私有地や公田の耕作を奨励する詔を出した。
農業を督励して成果を挙げた地方官については昇進させる方針も示している。

同じ月には九品以上の官僚にそれぞれ一人の人材を推薦させ、
政治に通じた者には率直に意見を述べるよう求めた。
さらに翌4月には奢侈品の製造や不正な宗教活動などを禁じている。

至徳2年(584年)には太建14年以来の未納租税を免除し、
下級官吏が貧富を問わず苛酷な徴収を行うことを戒めた。

こうした詔を見る限り、陳叔宝の治世全体を最初から「政務放棄」と一括りにすることはできない。
しかし、実際の政務では次第に側近の影響力が拡大していった。

施文慶・沈客卿らが政治を握る

陳叔宝の治世後半に大きな影響力を持ったのが施文慶と沈客卿だった。

南朝以来の貴族社会では、名門出身の高官が文学や儀礼を重視する一方、
日常的な行政実務を下級官僚へ委ねる傾向があった。
『陳書』の史臣論も、この慣行が陳代まで続いた結果、
施文慶・沈客卿のような人物が軍事・行政の重要事項を掌握するようになったと論じている。

彼らは財政収入を増やすことによって陳叔宝の信任を得たが、その負担は民衆へ及んだ。
『南史』は、宮殿造営が絶えず、江上や市場にさまざまな税を課し、
刑罰も苛酷になって獄舎が常に満員だったと記している。

陳叔宝自身がすべての政治判断を放棄していたわけではないが、
実務を特定の側近へ依存したことで、
皇帝に届く情報そのものが彼らによって左右される体制が生まれていた。

この問題は、後の軍侵攻時に決定的な結果をもたらすことになる。

張麗華と「狎客」に囲まれた宮廷

陳叔宝は文学を好み、尚書令江総、陳暄、孔範ら文人を身近に置いた。
『南史』では、彼らを「狎客」と呼んでいる。

宮廷では張麗華や孔貴人ら八人の妃嬪が皇帝の左右に座り、
江総・孔範ら十人ほどの文人が宴席に加わった。
まず妃嬪たちに彩箋を用意させ、陳叔宝が五言詩を作ると、
文人たちが次々に唱和し、遅れた者には酒を飲ませたという。

宴は夕方から明け方まで続くこともあり、こうした宮廷生活が繰り返された。

陳叔宝は詩文そのものに高い関心を持ち、南朝の華麗な宮廷文学を受け継いだ人物だった。

その代表作として後世に知られるのが「玉樹後庭花」である。
宮廷女性の美を華麗な表現で詠んだ作品だが、
陳の滅亡後には亡国直前の宮廷文化と結びつけられ、
「亡国の音」を象徴する作品として語られるようになった。

皇太子廃立と宮廷内部の対立

陳胤を廃し、張麗華の子・陳深を皇太子とする

陳叔宝の長男・陳胤は、即位した582年に皇太子へ立てられた。

陳胤の実母は孫姫だったが、孫姫が早くに死去したため、沈皇后が養育した。
成長すると学問を好み、徳望のある人物と交流するようになった。

しかし陳叔宝の寵愛は張麗華へ傾いていた。
張麗華の子である始安王陳深もまた聡明で、陳叔宝から愛されるようになる。

禎明2年(588年)6月、陳叔宝は皇太子陳胤を廃して呉興王とし、陳深を新しい皇太子に立てた。

現行の伝承では「讒言を受けて長男を廃した」と説明されることが多いが、
単純に一度の讒言だけで起きた廃立と見るより、
張麗華の寵愛、陳深への期待、陳胤を取り巻く人間関係などが重なった
宮廷政治上の事件として捉える方がよい。

皇太子の交代そのものが直ちに南朝陳滅亡を招いたわけではない。
しかし、との緊張が高まりつつある時期に皇位継承者を交代させたことは、
宮廷内部の政治的不安定さを示す出来事だった。

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隋の侵攻と南朝陳の滅亡

隋による南北統一が目前に迫る

陳叔宝が即位した時点で、南朝陳を取り巻く国際情勢は父・宣帝の時代から大きく変わっていた。

577年に北周北斉を滅ぼし、華北は北周によって統一された。
581年には楊堅北周から帝位を譲り受けてを建国する。

さらに587年にはが江陵の後梁を廃し、南朝陳は巨大な北方王朝と直接向き合うことになった。

の文帝楊堅はすぐに全面戦争を始めたわけではない。
高熲の献策を採用し、南朝陳が収穫期を迎えるたびに軍事行動を装って兵を集めさせ、
南朝陳側が防衛のため農作業を中断すると軍を引くことを繰り返した。
また、江南では食糧などが地上の倉庫に保管されることが多い点を利用し、
密かに火を放って備蓄を焼く策も用いた。

こうして南朝陳の国力を消耗させたうえで、
開皇8年(588年)、楊堅は本格的な南朝陳討伐を開始した。

晋王楊広、後の煬帝を行軍元帥とし、高熲を元帥長史として、
賀若弼・韓擒虎・楊素らが各方面から領へ侵攻した。
兵力は『隋書』などで総勢51万8千とされる大規模なものだった。


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隋軍侵攻の急報を施文慶らが握り潰す

軍は巴蜀・漢水方面から長江下流まで多数の経路から進軍し、
南朝陳の長江沿岸の守備拠点からは相次いで急報が建康へ送られた。

ところが、この情報を握っていた施文慶と沈客卿は、報告を陳叔宝へ伝えなかった。
『陳書』は、二人が機密を掌握して権力を振るい、軍侵攻の報告を「抑而不言」したため、
南朝陳が防備を整えることができなかったと明記している。

これは陳叔宝の治世に形成された側近政治の弱点が、軍事危機のなかで表面化したものだった。

禎明3年(589年)正月、賀若弼は広陵から長江を渡って京口へ進み、
韓擒虎も横江から採石へ渡河した。

ようやく採石の守将徐子建から急報が届くと、陳叔宝は公卿を集めて軍議を開き、戒厳を命じた。
蕭摩訶・樊毅・魯広達らを都督として各地に配置したが、すでに軍は長江を突破していた。

白土岡の敗戦と建康陥落

賀若弼は南徐州を攻略し、韓擒虎も南豫州を落とした。
陳叔宝は蕭摩訶、樊毅、魯広達、孔範らを建康周辺へ配置して迎撃した。

軍が鍾山へ進出すると、陳軍は白土岡周辺で賀若弼軍と戦った。

南朝陳軍は敗れたものの、すべての部隊がただちに崩壊したわけではない。
魯広達は敗走する兵をまとめながら最後まで抵抗を続けた。
しかし戦局を覆すことはできず、賀若弼は楽遊苑から宮城へ進み、北掖門を焼いた。

一方、韓擒虎が石子岡へ進むと、鎮東大将軍任忠が降伏した。
任忠はそのまま韓擒虎軍を朱雀航から宮城へ導き、軍は南掖門から建康へ入った。

こうして589年、南朝陳の首都建康は陥落した

南朝陳の滅亡を「ほとんど抵抗せず崩壊した」とするのも正確ではない。
魯広達ら最後まで戦った将軍もいた。
しかし、軍の侵攻情報を十分に共有できず、
統一した防衛戦略を構築できないまま首都周辺で決戦を迎えたことが致命的だった。

井戸に隠れて捕らえられる

袁憲の進言を拒んで景陽殿へ逃げる

軍が宮城へ突入すると、陳の官僚たちは次々に逃亡した。
尚書僕射袁憲は陳叔宝のそばに残り、正殿に座って堂々と敵軍を迎えるよう進言した。
『南史』では、袁憲が「梁武帝侯景を引見したときのように、正殿で厳然として待つべきだ」
という趣旨で諫めたとされる。

しかし陳叔宝はこれを拒否した。
刃の前に出ることはできない、自分には考えがあるという趣旨を述べ、
十数人の宮人を連れて後堂の景陽殿へ逃げた。

そこで陳叔宝が選んだのが井戸だった。
袁憲は必死に止め、後閤舎人の夏侯公韻は自ら井戸を塞いで入らせまいとした。
しかし陳叔宝は聞き入れず、争った末に井戸へ入った。

『南史』によれば、沈皇后は混乱のなかでも普段と変わらず居所にとどまり、
新皇太子の陳深も部屋を閉じて座ったまま兵を迎えた。
皇帝本人だけが井戸へ逃げたことが、後世に強烈な印象を残すことになる。

張麗華・孔貴人と同じ井戸から引き上げられる

兵が井戸をのぞき込み、陳叔宝に出てくるよう呼びかけたが、返事はなかった。

そこで石を落とそうとすると、井戸の中から叫び声が聞こえた。
兵士たちが縄を下ろして引き上げようとすると、予想以上に重かった。

引き上げてみると、陳叔宝一人ではなかった。
寵愛していた張麗華と孔貴人も一緒に縄につかまり、三人が同時に井戸から引き上げられたのである。

この出来事によって、
陳叔宝は「井戸に隠れて捕らえられた亡国の皇帝」として後世に記憶されることになった。

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張麗華の最期と陳叔宝の助命

張麗華は高熲によって処刑される

陳叔宝とともに井戸から引き上げられた張麗華は、陳叔宝と同じ運命をたどらなかった。

『隋書』巻四十一「高熲伝」によれば、建康平定後、晋王楊広は張麗華を自分のもとへ置こうとした。
しかし元帥長史の高熲は、周の武王が殷を滅ぼした際に妲己を殺した故事を挙げ、
陳を平定した以上、張麗華を受け入れるべきではないと主張し、高熲は張麗華を斬らせた。

楊広はこれを不快に思ったという。
後世には張麗華自身が南朝陳を滅ぼした「傾国の美女」として描かれるようになった。
しかし南朝陳の滅亡は、との圧倒的な国力差、陳朝内部の政治構造、軍事情報の遮断、
指揮系統の問題など複数の要因によるものであり、一人の寵妃だけに原因を求めることはできない。

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陳叔宝は長安へ送られる

陳叔宝自身は処刑されなかった。
589年3月、陳叔宝は王公・百官らとともに建康を出発し、の首都長安へ送られた。
これによって南朝陳は完全に滅亡し、西晋滅亡以来およそ270年にわたって続いた南北分裂の時代も、
による統一へ向かった。

文帝楊堅は陳叔宝を厚く待遇した。
『南史』によれば、しばしば宮廷へ呼び、朝会では三品官と同じ班に置いた。
宴席へ出席させる際には、亡国を思い出して傷つくことを心配し、
江南の音楽を演奏させないほど配慮したという。

ところが陳叔宝の方は、亡国後も官号を欲しがった。

監視役から、陳叔宝が「官位がないので朝会へ出るのに都合が悪い。官号を一つ欲しい」
と希望していると聞いた文帝楊堅は、
「叔宝はまったく心肝がない」と呆れたと『南史』は伝えている。

ただし、陳叔宝自身の内心まで史料から断定することはできない。
確認できるのは、文帝楊堅から厚遇され、
政治的に処刑されることなく生活を続けたという事実である。

隋で過ごした15年間

酒に溺れる亡国の皇帝

のもとで暮らすようになった陳叔宝は、非常に酒を好んだ。

監視役が文帝楊堅へ報告したところによれば、陳叔宝は常に酔っており、
醒めていることがほとんどなかった。
文帝楊堅は一度は酒量を制限させようとしたが、
後には「好きにさせよ。そうでなければ、どうやって日々を過ごすのか」という趣旨を語ったという。

また陳叔宝は驢馬の肉を好み、子弟と一日に一石もの酒を飲んだと伝えられ、文帝楊堅を驚かせた。

文帝楊堅の東巡にも同行し、
邙山での宴席では詩を作って文帝楊堅の徳を称え、封禅を行うよう上表したこともあった。

これに対し文帝楊堅は、陳叔宝が詩作に費やした時間を政治へ向けていれば
亡国には至らなかっただろうという趣旨の批判をしている。

さらに賀若弼が京口を渡った際、急報が届いていたにもかかわらず陳叔宝が酒を飲んで確認せず、
高熲が宮中へ入った後にも未開封の急報が床の下に残っていたという逸話を挙げた。

この逸話には亡国の皇帝を批判する後世の視点も含まれるが、陳叔宝の飲酒と文学への傾倒が、
代にまで彼の人物像を特徴づけるものとして認識されていたことは確かである。

洛陽で死去し「煬」と諡される

陳叔宝はの仁寿4年(604年)11月、洛陽で死去した。52歳だった。
陳滅亡から約15年後のことである。


死後、大将軍を追贈され、長城県公に封じられ、「煬」と諡された。遺体は洛陽の邙山に葬られた。
「煬」は美諡ではない。
『逸周書』の諡法では、礼を失い、人々を遠ざけた者などに与えられる悪諡として説明される。

そして陳叔宝が死去した604年、文帝楊堅も死去し、晋王楊広が皇帝となった。
その楊広も後にが滅亡すると「煬帝」と呼ばれることになる。

南朝陳を滅ぼした軍の総大将だった楊広と、滅ぼされた陳叔宝が、
後世ともに「煬」の諡で呼ばれることになった
のである。

亡国の君と詩人という二つの評価

陳叔宝は、政治史では南朝陳を滅亡させた最後の皇帝として厳しく評価されてきた。

施文慶・沈客卿らに実務を依存し、張麗華ら妃嬪や江総・孔範ら文人と宴飲や詩作を繰り返した。
宮殿造営や課税も進み、軍侵攻の重大な情報さえ皇帝へ十分に伝わらない政治構造が生まれた。
軍が長江を突破してからの対応も遅れ、白土岡で敗れると建康は短期間で陥落した。

その一方、南朝陳の滅亡を陳叔宝一人の「暗君ぶり」だけで説明するのも単純すぎる。
南朝陳はもともと南朝の歴代王朝と比較して領域が小さく、
宣帝晩年には北周との戦争によって淮南方面の領土も失っていた。
陳叔宝が即位した時点で、北方では北周、続いてが華北を統一し、
南北の国力差は大きくなっていた。

高熲らによって長期的に南朝陳の国力を削り、大規模な軍を複数方面から投入している。
したがって、陳叔宝の政治上・軍事上の失策が滅亡を早めたことと、
南朝陳が置かれていた構造的な不利は分けて考える必要がある。

また、文学史における陳叔宝は政治史とは異なる顔を持つ。
南朝後期の宮廷文学を代表する詩人の一人であり、
華麗な語彙と技巧を用いて宮廷女性や宴楽を詠んだ。

「玉樹後庭花」はその代表的な作品として知られ、
南朝陳の滅亡後には「後庭花」という言葉そのものが亡国の享楽を想起させるものとなった。

ただし、作品が華麗であることと、政治家としての評価は別問題である。
皇帝としての陳叔宝は、即位初期には農政や人材登用にも取り組みながら、
次第に側近政治と宮廷享楽へ傾き、という巨大な外敵への対応に失敗した。

一方、詩人としては南朝末期の宮廷文化を体現し、
その作品は王朝が滅亡したからこそ、かえって後世まで強烈な印象を残した。

まとめ

陳叔宝の生涯は、単純な「酒と女に溺れて国を滅ぼした皇帝」という説明だけでは捉えきれない。

553年に江陵で生まれ、幼少期には西魏の江陵攻略によって父と引き離された。
建康へ帰還した後は皇太子となり、582年には宣帝の死の直後に
異母弟陳叔陵から襲撃されながらも生き延び、南朝陳第5代皇帝となった。

即位初期には農地開墾の奨励、租税免除、人材推薦、諫言の奨励なども行っている。
しかし治世が進むにつれて施文慶・沈客卿ら側近への依存が強まり、
張麗華ら妃嬪と江総・孔範ら文人に囲まれた宮廷生活が政治と密接に結びつくようになった。
588年には皇太子陳胤を廃し、張麗華の子・陳深を新たな皇太子としている。

その頃、北方ではが華北を統一し、南朝陳との国力差は決定的なものになっていた。
588年に始まったの大規模な南征に対し、
南朝陳では侵攻情報そのものが施文慶らによって握り潰され、防衛準備が遅れた。
翌589年、白土岡で陳軍が敗れ、任忠が降伏すると軍は建康へ突入した。

陳叔宝は袁憲らの諫言を聞かず、張麗華・孔貴人とともに宮中の井戸へ隠れ、
兵によって引き上げられた。
この場面が「亡国の皇帝」陳叔宝を象徴する逸話として後世まで語り継がれることになる。

しかし、その人生は井戸の中で終わったわけではない。
長安へ連行された後も文帝楊堅から厚遇され、
宴席に参加し、酒を飲み、詩を作りながら約15年間を生きた。
604年に洛陽で52歳で死去し、大将軍・長城県公を追贈され、「煬」と諡された。

政治的失敗によって王朝最後の皇帝となりながら、文学では南朝宮廷文化の最後を飾る詩人となった。
陳叔宝は、南朝文化の華やかさと、それを支えた政治秩序の終焉を同時に体現した人物だった。

史書・参考文献

・『陳書』巻六「後主紀」
・『陳書』巻七「皇后伝」
・『南史』巻十「陳本紀下」
・『隋書』巻一「高祖紀上」
・『隋書』巻四十一「高熲伝」
・『資治通鑑』巻一七五
・『資治通鑑』巻一七六
・『資治通鑑』巻一七七

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