年氏は、清の雍正帝が皇子だった時代から側福晋として仕え、
即位後には貴妃、死の直前には皇貴妃へ進んだ后妃である。
父は湖広巡撫などを務めた年遐齢、
兄には雍正初年に撫遠大将軍として青海を平定し、
一時は絶大な権勢を振るった年羹堯がいる。
年氏自身が政治に関与したことを示す記録はほとんど残っていない。
しかし、雍正帝が年氏の病状悪化に際して出した上諭には、藩邸時代の振る舞い、
皇后との関係、使用人への接し方、病弱だったことなどが比較的詳しく記されている。
また年氏は雍正帝との間に三男一女をもうけたが、四人はいずれも幼くして死亡した。
年氏自身も雍正3年(1725年)に病没し、
「敦粛皇貴妃」の諡号を受け、乾隆初年には雍正帝の泰陵に従葬されている。
年氏の出自と雍親王府への輿入れ
年氏の出自
年氏の生年と本名は、主要な史料からは確認できない。
『清史稿』は「敦粛皇貴妃、年氏、巡撫遐齢女」と記し、父が年遐齢であったことを伝えている。
年遐齢は漢軍鑲黄旗に属する官僚で、工部侍郎や湖広巡撫などを務めた。
年氏の兄弟にも官界で活動した者が多く、とりわけ知られるのが年羹堯である。
年羹堯は康熙39年(1700年)に進士となり、翰林院を経て四川巡撫、川陝総督へ進み、
のちに雍正帝のもとで撫遠大将軍として青海の反乱を鎮圧した。
もう一人の兄・年希堯も官僚として内務府や工部に関わっている。
つまり年氏は、後宮に入ったことで初めて身分を得た女性ではなく、
清朝に仕える漢軍旗人官僚の家に生まれた女性だった。
↓↓兄・年羹堯についての個別記事は、こちら

雍親王胤禛の側福晋となる
年氏は、胤禛がまだ皇帝に即位する以前、その藩邸に入り側福晋となった。
『清史稿』にも「世宗の潜邸に事え、側福晋となる」と記されている。
側福晋は、皇子の正室である嫡福晋に次ぐ正式な地位を持つ妻であった。
胤禛の嫡福晋はウラナラ氏で、後の孝敬憲皇后である。
年氏は単なる侍妾として仕えたのではなく、雍親王府内でも早くから高い位置にあった。
年氏が側福晋となった事情については、後に雍正帝自身がかなり具体的な説明を残している。
雍正3年(1725年)、病状が悪化した年氏を皇貴妃へ昇格させる際、
雍正帝は、父の康熙帝が年氏の「端庄貴重」な人柄を評価して親王側妃としたと述べている。
その上諭によれば、年氏は藩邸時代から胤禛に対して敬慎を尽くし、
嫡福晋の前では慎み深く振る舞い、使用人にも寛大で穏やかに接していたという。
死を目前にした后妃を称賛する文書という性格は考慮する必要があるものの、
年氏の性格や藩邸内での位置を知ることのできる重要な記録である。
藩邸時代に産んだ三人の子
年氏は雍親王胤禛の側福晋となった後、藩邸時代に皇四女、福宜、福恵の三人の子を産んだ。
『清皇室四譜』によれば、最初の子である皇四女は康熙54年(1715年)に生まれたが、
康熙56年(1717年)に幼くして亡くなり、
正式な封号を受けることもなく名も史料には残されていない。
康熙59年(1720年)5月25日には皇七子の福宜を出産したが、
福宜も翌康熙60年(1721年)正月13日に数え年2歳で夭折した。
その同じ年の10月9日には皇八子の福恵が生まれている。
福恵は年氏の子のなかでは最も長く生き、母の死後も雍正6年(1728年)まで成長したが、
やはり成人には至らなかった。
年氏は康熙54年から60年までの間に三人の子をもうけ、そのうち二人を藩邸時代に失っている。
雍正帝即位と貴妃冊封
康熙61年(1722年)11月、康熙帝が死去すると、胤禛が皇位を継いで雍正帝となった。
これに伴い、藩邸にいた妻妾たちの身分も皇帝の后妃として再編されることになった。
雍正元年(1723年)2月、皇太后の懿旨を受け、側妃年氏を貴妃、側妃李氏を斉妃、
格格鈕祜禄氏を熹妃、耿氏を裕嬪とする方針が礼部に伝えられた。
年氏に与えられた貴妃は皇后に次ぐ高位であり、
雍正朝成立時点から後宮の最上位に近い位置に置かれていた。
その年12月、年氏は正式に貴妃へ冊封された。
冊文では「温良」「端粛」と評され、勤倹を守り、后妃としての規範にかなう女性と称えられている。
冊封文には儀礼的な表現が多く含まれるものの、
朝廷が公式に年氏をどのような后妃として位置づけたかを知ることはできる。
福沛の誕生
貴妃冊封に先立つ雍正元年5月10日、年氏は三人目の男子となる福沛を産んだ。
皇九子として記録されるが、福沛は出生後ほどなく亡くなっている。
『清皇室四譜』では「旋殤」とされており、誕生からほとんど間を置かずに死亡した。
これによって年氏が雍正帝との間にもうけた子は、皇四女、福宜、福恵、福沛の三男一女となった。
この時点までに皇四女、福宜、福沛はすでに亡くなっており、生存していたのは福恵のみだった。
後世には、年氏の病弱さや福沛の死を、服喪中の儀礼や相次ぐ出産と結びつける説もある。
しかし、病気や早世の直接的な原因を示す確かな史料はないため、
推測と史実は分けて考える必要がある。
雍正帝即位後の年氏
雍正帝が後に出した上諭によれば、
年氏は即位後、康熙帝および雍正帝の生母である孝恭仁皇后に関する大礼に際して、
病身でありながら礼を尽くしたという。
雍正帝は年氏について「実能贊襄内政」とも述べている。
ここでいう「内政」は朝廷の政治を意味するものではなく、
后妃として宮中の内向きの務めを補佐したという意味で理解するのが妥当である。
年氏自身が朝廷政治に介入したことや、
兄・年羹堯のために雍正帝へ働きかけたことを示す確かな史料は確認できない。
年羹堯が雍正初年に急速に権勢を拡大したことから、
兄妹を結びつけた物語が後世に生まれやすかったが、
年氏自身の政治活動については慎重に扱う必要がある。
病弱だった年氏と皇貴妃への昇格
雍正3年(1725年)に残された上諭には、年氏が以前から病弱だったことが明記されている。
雍正帝は年氏について「体素病羸」と述べ、以前から病弱だったことを明記している。
また即位後の三年間は十分に薬餌に意を配る余裕がなく、その間に病状が次第に重くなったとして、
「朕心深為軫念」と強い懸念を示した。具体的な病名については記録されていない。
皇帝が自らの多忙によって治療への配慮が足りなかったとまで述べている点は珍しい。
ただし、年氏が具体的にどのような病気を患っていたのかは記録されていない。
兄・年羹堯が失脚
年氏の病状が悪化した雍正3年は、兄・年羹堯が失脚した年でもあった。
青海平定によって大功を立てた年羹堯は、雍正帝即位直後には絶大な信任を受けていた。
しかし次第に驕慢な振る舞いや人事への介入などが問題視され、
雍正3年には川陝総督から杭州将軍へ転じ、その後も次々と官爵を剥奪された。
重要なのは、年羹堯が失脚していく過程でも、妹である年氏が処分された形跡がないことである。
むしろ年氏の病状が深刻になると、雍正帝は彼女を貴妃から皇貴妃へ昇格させた。
年羹堯の政治的立場と年氏の後宮における待遇は、
少なくともこの時点では別個に扱われていたことが分かる。
病状悪化と皇貴妃への昇格
雍正3年11月、年氏の病状がさらに悪化すると、
雍正帝は礼部に上諭を下し、年氏を皇貴妃へ昇格させた。
この上諭は年氏について残された史料のなかでも特に重要である。
雍正帝は年氏を「秉性柔嘉、持躬淑慎」と評し、
藩邸時代には自分に敬慎を尽くし、皇后に対しては恭謹で、使用人には寛厚平和だったと述べた。
また康熙帝がその「端庄貴重」を評価して側福晋としたこと、
即位後には皇室の大礼に尽力し、後宮の内政を助けたことも昇格の理由として挙げている。
皇貴妃は皇后に次ぐ后宮最高位である。
病状が重くなった年氏をこの地位へ進めたことから、
雍正帝が最晩年まで年氏を高く遇していたことが分かる。
病状がすでに危篤に近かったため、生前の昇格だけでなく、
死後の待遇まであらかじめ定めた措置だった。
この時点で年羹堯はすでに失脚している。
そのため、年氏が高い地位を得た理由を兄の権勢だけに求めることは難しい。
少なくとも皇貴妃への最終的な昇格は、年羹堯の政治的影響力が失われた後に行われている。
年氏の死
年氏は皇貴妃への昇格後まもなく、雍正3年(1725年)11月23日に亡くなった。
『清世宗憲皇帝実録』によれば、皇貴妃年氏が亡くなると、
雍正帝は五日間にわたって朝政を停止した。
翌12月には「敦粛皇貴妃」の諡号が贈られ、
金棺は阜成門外の十里庄へ移されて冊諡の礼が執り行われた。
敦粛皇貴妃の葬礼は、後の清朝でも皇貴妃の喪礼の先例となった。
乾隆10年(1745年)に慧賢皇貴妃が亡くなった際には、
敦粛皇貴妃の冊諡・葬礼を前例として儀礼が定められている。
年氏の金棺は、そのまま十里庄に安置され、
雍正帝の死後、乾隆2年(1737年)3月に泰陵へ移された。
『清皇室四譜』は「乾隆二年三月、従葬泰陵」と記しており、
年氏は雍正帝、孝敬憲皇后とともに泰陵に葬られた。
こうした死後の処遇が行われた一方、この時期には兄・年羹堯の失脚が進んでいた。
『清史稿』は年氏が皇貴妃に進んだのち亡くなったことを記し、
その直後に「逾月、羹堯得罪死」と続けている。
年氏の死から一か月余り後に、年羹堯も罪を得て死んだという記述である。
この時系列から、年氏は年羹堯が最終的に自尽を命じられる前に亡くなったことが分かる。
また、年羹堯が罪人として死亡した後も年氏の諡号や埋葬上の待遇は変更されず、
最終的に泰陵へ従葬された。
そのため、兄の処刑を悲観して年氏が死亡したとする説明や、
年羹堯の失脚によって年氏の死後の待遇まで引き下げられたとする見方は、
史料から確認できる経過とは一致しない。
年羹堯が処分される
年氏の死から一か月余り後、年羹堯に対する処分は最終段階に入った。
年羹堯は多数の罪状を挙げられ、最終的に雍正帝から自尽を命じられた。
処分は年家にも及び、父・年遐齢も官職を革されたが、年遐齢自身は罪を免じられ、
雍正5年(1727年)の死後には特恩によって原職を戻したうえで祭祀が行われている。
一方、年氏の身分や諡号が兄の処分によって取り消された形跡はない。
「敦粛皇貴妃」の称号はそのまま維持され、後には雍正帝の陵墓へ従葬された。
雍正帝は年羹堯を臣下として処罰する一方、
年氏については皇帝の后妃として与えた地位を死後も維持している。
福恵の死と懐親王への追封
年氏が亡くなった時点で、三男一女のうち生存していたのは福恵だけだった。
しかし福恵も雍正6年(1728年)9月9日に8歳で亡くなり、
これによって年氏が産んだ子はすべて夭折したことになる。
『清皇室四譜』によれば、雍正帝は幼くして亡くなった福恵を親王の例によって葬らせた。
母の年氏がすでに亡くなり、外伯父の年羹堯も罪を問われて自尽した後でありながら、
福恵への待遇が引き下げられることはなかった。
さらに雍正13年(1735年)、雍正帝の死後に即位した乾隆帝は福恵を親王に追封し、
「懐」の諡号を与えた。以後、福恵は懐親王と称される。
生前の葬礼から乾隆帝による追封まで一貫して高い待遇を受けたことは、
年羹堯の失脚後も年氏の子までその罪に連なる存在として扱われなかったことを示している。
年氏の人物像
年氏本人の言葉や行動を直接伝える史料は少なく、政治的な活動を記した記録もほとんどない。
そのため、彼女の人物像を復元するうえで中心となるのは、雍正帝が病状悪化の際に出した上諭と、
冊封・葬礼・子女に関する公式記録である。
そのなかで雍正帝は、年氏を穏やかで慎み深く、皇后に対して恭謹で、
下の者には寛厚に接する女性と評価している。
また、藩邸時代から長く自分に仕え、即位後には皇室の大礼に力を尽くしたことも明記した。
もちろん、死の間際にある后妃を称賛する公式文書である以上、
その評価を無条件に実像そのものと見ることはできないが、
年氏を横暴な権勢家として描く同時代史料も確認できない。
年氏と兄・年羹堯の関係についても、両者を一体として扱うことには注意が必要である。
年氏は年羹堯が雍正朝の権力者となる以前から胤禛の側福晋であり、
兄が失脚した後に皇貴妃へ昇格している。
さらに死後も諡号を保ち、泰陵に従葬され、息子の福恵も厚く遇された。
少なくとも公式な処遇を見る限り、
雍正帝は年羹堯への処分を年氏本人やその子にそのまま及ぼしてはいない。
一方、年氏の生涯には幼い子を相次いで失ったという特徴がある。
三男一女を産みながら、皇四女、福宜、福沛は年氏の生前に死亡し、
唯一残った福恵も母の死から三年後に8歳で亡くなった。
年氏自身も長く病弱で、雍正帝即位から三年ほどで死去しているため、
皇貴妃として長期間後宮に君臨した女性ではなかった。
まとめ
年氏は、年羹堯の妹である以前に、雍正帝が皇子だった時代から側福晋として仕えた后妃だった。
三男一女を産み、雍正帝即位後には貴妃となり、兄・年羹堯が失脚した後も処分されることなく、
病状悪化に際して皇貴妃へ昇格している。
史料から確認できる年氏の姿は多くないが、
雍正帝が残した上諭には、長年にわたる年氏への評価が比較的具体的に記されている。
年羹堯の罪によってその地位が否定されることもなく、
死後は敦粛皇貴妃と諡され、最終的には雍正帝の泰陵に従葬された。
兄の栄枯盛衰だけからではなく、
雍正帝の藩邸時代から続いた后妃としての経歴と、
死後まで維持された待遇を通して見る必要のある人物である。
史書・参考文献
『清史稿』巻214「后妃伝」
『清世宗憲皇帝実録』
『雍正朝漢文諭旨』
『皇朝通典』
『皇朝文献通考』
『国朝宮史』
唐邦治『清皇室四譜』巻二「后妃」・巻三「皇子」・巻四「皇女」
関連リンク
中国史の皇族・王族一覧|皇子・親王・諸侯王など歴代王朝の人物を紹介 | 趣味の中国
中国史の軍師・策士一覧|知略で天下を動かした有名な軍師たち | 趣味の中国
中国史の政治家・文官一覧|宰相・名臣・奸臣など歴代王朝の人物 | 趣味の中国
中国史の権臣一覧|皇帝を凌ぐ権力を握った有名な実力者たち | 趣味の中国
中国史の皇后一覧|中国王朝を動かした有名な皇后たち | 趣味の中国
中国史の妃嬪一覧|歴代皇帝の有名な妃・貴妃・皇貴妃を時代別に紹介 | 趣味の中国
中国史の公主一覧|歴史に名を残した王女たちをわかりやすく紹介 | 趣味の中国
中国史の美女一覧|時代別まとめ(四大美女・傾国・亡国・悲劇の美人) | 趣味の中国
中国史の美男一覧|中国四大美男と歴史に残るイケメン人物 | 趣味の中国
中国史の武将一覧|歴史に名を残した猛将・知将・名将たち | 趣味の中国
中国史の女傑一覧|戦場・反乱で活躍した女性たちを時代別に紹介 | 趣味の中国
中国史の文人・学者一覧|有名な詩人・思想家・歴史家・書家 | 趣味の中国
中国史の才女一覧|才や徳で有名な女性たちの生涯と特徴を解説 | 趣味の中国
中国の宦官とは?有名な宦官、王朝ごとの役職・階級、宦官による機関など | 趣味の中国

