【唐】王守澄|憲宗末から文宗期に神策軍と枢密を握った宦官

唐の宦官 王守澄 037.宦官

王守澄(おうしゅちょう、生年不詳~835年)は、
の憲宗・穆宗・敬宗・文宗の四代に仕えた宦官である。

徐州の監軍から中央へ戻り、憲宗末年には宮廷政治に深く関与するようになった。
憲宗の死後には穆宗の擁立に加わり、枢密使として皇帝と外廷を結ぶ重要な位置を占めた。
敬宗が宦官の劉克明らに殺害された際には神策軍を動かして劉克明一派を討ち、
江王李涵を文宗として即位させている。

文宗の即位後は右神策軍中尉となり、枢密と禁軍に築いた人脈を背景に大きな権力を持った。
文宗が宦官勢力を排除しようとして宋申錫と結ぶと、王守澄は鄭注らを使って宋申錫を失脚させた。

しかし、その後に自ら引き立てた鄭注と李訓が文宗と結び、王守澄を排除する側へ転じる。
大和9年(835)、王守澄は神策軍の実権を奪われたのち毒を賜って死亡した。

王守澄については、憲宗殺害への関与を『新唐書』が明記する一方、
『旧唐書』などでは記述が異なる。
史料間で扱いの異なる事件については、その違いを区別して見る必要がある人物でもある。

出自不明の宦官から徐州監軍へ

生年・出身地は伝わっていない

王守澄の出生について、正史にはほとんど記録がない。
『新唐書』は冒頭から「史にその来るところを亡う」と記しており、
生年、出身地、家族、宦官となった経緯はいずれも不明である。

確認できる最初期の経歴は憲宗の元和年間で、この頃には徐州軍の監軍となっていた。
監軍は皇帝から軍へ派遣され、節度使や将軍の行動を監督する宦官である。

徐州では、のちに王守澄の側近となり、その失脚にも関わる鄭注と出会った。

鄭注を追放しようとして、かえって気に入る

当時の徐州節度使は李愬だった。
淮西の呉元済を平定したことで知られる李愬の幕下には、医術を得意とする鄭注がいた。

鄭注は絳州翼城の出身で、医術だけでなく人の心理を読むことにも長けていた。
李愬から重用され、しだいに軍政にも口を出すようになったため、軍府では鄭注への不満が強まった。

監軍だった王守澄はこの状況を李愬へ伝え、鄭注を追放するよう求めた。
しかし李愬は、鄭注には問題もあるが非常に才能のある人物だから、
一度話してみてから判断してはどうかと勧めた。

王守澄は当初、鄭注との面会を嫌がった。
それでも実際に会って話してみると、鄭注は王守澄の意向を巧みに読み取りながら議論を進めたため、
王守澄はたちまち態度を変えた。
鄭注を奥へ招いて夜通し語り合い、翌日には李愬に対して
「まことにあなたの言うとおりの人物だった」という趣旨のことを述べたという。

李愬は鄭注を巡官に任じ、王守澄も鄭注を親しく出入りさせるようになった。
王守澄が後に中央へ戻ると鄭注も長安へ伴い、住居を用意して生活を援助した。

鄭注は王守澄の邸宅へ昼夜出入りし、政治について相談を受けるようになった。
やがて王守澄との関係を利用しようとする官人が鄭注のもとへ集まり、
賄賂や人事の依頼も集中するようになった。

憲宗の死と穆宗擁立

方士を重用した憲宗が体調を崩す

元和末年、憲宗は不老長生の術に関心を深め、
柳泌らの方士を宮廷へ入れて丹薬を服用するようになった。

『新唐書』によれば、金石を原料とする薬を服用した憲宗はしだいに精神が不安定となり、
突然激怒して側近を処罰することが増えた。
元和15年(820)には体調が悪化し、正月の元会も取りやめられた。

この年、憲宗は中和殿で死去した。

その死については史料が一致していない。
『旧唐書』憲宗本紀は基本的に急死として記し、宦官の陳弘志による殺害説があったことを伝える。
一方、『新唐書』王守澄伝は、王守澄と内常侍の陳弘志が中和殿で憲宗を殺害し、
丹薬による急死として発表したと明記している。

したがって、「王守澄が憲宗を殺した」と断定するより、
『新唐書』は王守澄を殺害実行者の一人として記すが、
史料によって記述が異なるとするのが適切である。

梁守謙らと穆宗を擁立する

憲宗が死去すると、王守澄は梁守謙・韋元素らと協議して皇太子李恒を皇帝に立てた。穆宗である。

王守澄はまもなく枢密使となった。
後期の枢密使は宦官が任じられ、宮中で皇帝の命令を受けて外廷へ伝え、
外廷からの奏上を皇帝へ取り次ぐ役割を担った。
軍事情報や人事にも関与できたため、皇帝の側近として大きな影響力を持つ職となっていた。

王守澄は穆宗の即位に直接関与したことで、宮廷内に確固とした地位を築いた。

鄭注を穆宗にも近づける

王守澄は徐州から連れてきた鄭注を穆宗にも推薦した。

鄭注は医術によって皇帝へ接近し、王守澄とは夜通し政治や人事について話し合った。
『資治通鑑』によれば、王守澄の権勢が強まると、
はじめは身分の低い者や巧みに取り入ろうとする者が鄭注を頼ったが、
数年のうちに高官までその門前へ集まるようになった。

工部尚書の鄭権も、生活が苦しかったことから鄭注を通して王守澄へ働きかけ、
節度使の地位を求めた。鄭権は実際に嶺南節度使へ任命されている。

王守澄のもとでは、皇帝への接近、人事の仲介、地方官職の獲得が結びつくようになっていた。

敬宗暗殺と文宗擁立

劉克明らが敬宗を殺害する

穆宗が死去すると、その子の敬宗が即位した。

敬宗は撃毬や角觝などを好み、宮中へ武芸に優れた者を多数集めた。
近侍の宦官たちとも親しく遊んだ一方、わずかな過失でも叱責することがあり、
側近の間には不満も蓄積していった。

宝暦2年(826)12月、敬宗は夜の遊猟から帰った後、
宦官の劉克明、田務澄、許文端らや撃毬将軍の蘇佐明・石定寛らと酒宴を開いた。
その途中で燭火が消え、劉克明らは敬宗を殺害した。

劉克明らは皇帝の死後、絳王李悟に軍国の政務を執らせる偽詔を作り、
自分たちの勢力で宮廷を掌握しようとした。

神策軍を動かして劉克明を討つ

この政変に対して動いたのが、枢密使の王守澄と楊承和、神策軍中尉の梁守謙・魏従簡らだった。

王守澄らは敬宗の弟である江王李涵を迎えることを決め、
左右神策軍、六軍、飛龍兵を動員して劉克明一派を攻撃した。

劉克明は逃げ場を失って井戸へ身を投げ、その遺体は引き上げられて斬られた。
田務澄らも処刑され、絳王李悟も殺害された。

江王李涵は文宗として即位した。

王守澄は敬宗暗殺後の政変を制して文宗擁立に大きく貢献したため、
驃騎大将軍へ進み、やがて右神策軍中尉となった。

神策軍中尉は皇帝直属の禁軍を統率する役職であり、
枢密使として宮廷政治に関わってきた王守澄は、さらに禁軍の実権にも深く関与することになった。

文宗との対立と宋申錫事件

文宗は宦官勢力の排除を考える

文宗は自らを即位させた宦官たちに依存しながらも、
宦官が皇帝の擁立や廃立にまで関与する状況を嫌っていた。

とりわけ憲宗の死に関係したとされる宦官たちが宮中に残り続けていることに強い不満を抱いていた。

文宗は翰林学士の宋申錫と密かに相談し、宦官勢力を徐々に排除しようと考えた。
宋申錫は文宗から信頼されて宰相となり、計画を実行するため王璠を京兆尹に任じて協力を求めた。

ところが王璠が計画を漏らしたため、鄭注と王守澄の知るところとなった。

鄭注に宋申錫を陥れさせる

当時、文宗の弟である漳王李湊は人望があった。
鄭注はこの李湊を利用し、神策軍都虞候の豆盧著に、
宋申錫が文宗を廃して漳王を皇帝に立てようとしていると告発させた。

王守澄はこの告発を文宗へ奏上した。
文宗は李湊に対して以前から警戒心を抱いていたため、告発を信じて激怒した。

王守澄はただちに騎兵二百人を出して宋申錫の家を襲い、一族を殺そうとした。
しかし飛龍使の馬存亮が、
「そのようなことをすれば長安そのものが乱れる。他の宰相とも協議すべきだ」と強く反対したため、
王守澄は思いとどまった。

この逸話は、王守澄が単に告発を皇帝へ取り次いだだけではなく、
禁軍を直接動かして宋申錫を処断しようとするほどの力を持っていたことを示している。

宮中で取り調べを行う

文宗は王守澄に命じ、豆盧著が告発した者たちを宮中へ連行して取り調べさせた。
宋申錫の側近だった王師文は逃亡し、関係者は厳しい追及を受けた。
晏敬則らは宋申錫が漳王と結んでいたと自白したが、その供述は強要されたものだった。

朝廷では崔琯・王正雅・崔玄亮・李固言・裴休らが、
宰相に対する重大事件を宮中だけで処理せず、外廷へ移して改めて審理するよう求めた。

牛僧孺も、宋申錫はすでに宰相なのだから、
わざわざ皇帝を廃して漳王を立てる理由がないと指摘した。

再審が行われれば虚偽の告発が露見することを恐れた鄭注は、
王守澄に処刑を避けて左遷だけで決着させるよう勧めた。

宋申錫は開州司馬へ、漳王李湊は巣県公へ落とされた。
事件に連座して死刑や流刑となった者は多数に及び、宋申錫は復帰できないまま配所で死去した。

鄭注・李訓を引き立て、自らの敵を育てる

鄭注を通じて李訓を文宗へ推薦する

李訓はもとの名を李仲言といい、かつて李逢吉の一派として政争に関わり、
流刑となった経歴を持っていた。
その後、李逢吉が政界復帰を望むようになると、李訓は金品を携えて鄭注に接近した。

鄭注は李訓と意気投合し、やがて王守澄に引き合わせた。
王守澄も李訓を気に入り、『周易』に通じた人物として文宗へ推薦した。
当時、李訓は母の喪に服していたため正式な官人の姿で宮中へ入りにくく、
「王山人」と称して私服のまま文宗に謁見した。

文宗は李訓の弁舌や学識を高く評価し、しだいに側近として重用するようになった。
こうして李訓は、鄭注から王守澄へ、さらに王守澄から文宗へという経路で宮廷に入り込んだ。

しかし、李訓と鄭注は王守澄への忠誠を貫いたわけではない。
文宗が宦官勢力の排除を望んでいることを知ると、その意向に同調し、
やがて自分たちを引き上げた王守澄を排除する側へ回っていった。

王守澄の政敵を先に排除する

文宗の宮廷には、王守澄以外にも枢密使の楊承和・王践言、
左神策軍中尉の韋元素ら有力な宦官がいた。
彼らは王守澄と権力を争っており、関係は良好ではなかった。

李訓と鄭注はまず王守澄を安心させるため、その政敵を地方へ追い出した。
楊承和を西川、韋元素を淮南、王践言を河東の監軍として長安から離し、
王守澄の宮廷内での立場を一時的に強めた。

さらに文宗は、憲宗の死に関与したとみなしていた宦官たちの処分を進めた。
楊承和や韋元素もその後に流刑・死を命じられている。

王守澄から見れば、長年競争してきた宦官たちが排除され、自分の勢力が強まったように見えた。

仇士良が左神策軍中尉となる

しかし李訓と鄭注の目的は王守澄を強化することではなかった。
王守澄の政敵を排除した後、その権力が一人に集中しすぎることを避けるため、
二人は王守澄と以前から仲の悪かった仇士良を利用した。

大和9年(835)5月、仇士良が左神策軍中尉に任命された。
仇士良は文宗の即位にも功績があったが、王守澄に抑えられてそれまで十分な地位を得られず、
両者の間には以前から確執があった。

仇士良が左神策軍を掌握すると、右神策軍を基盤としていた王守澄の軍事的優位は崩れた。
王守澄はこの人事を不快に思ったという。

王守澄が引き立てた李訓と鄭注は、
王守澄と仇士良の対立を利用しながら、徐々にその権力を削っていった。


↓↓仇士良についての個別記事は、こちら

【唐】仇士良|甘露の変から武宗擁立まで神策軍を握った宦官
仇士良(きゅうしりょう)は唐後期の軍事宦官で、甘露の変を制して文宗を拘束し、宰相を大量処刑した権臣。神策軍を掌握して皇位継承にも介入し、武宗を擁立するなど皇帝以上の権力をふるった。唐後期宦官専権の象徴とされる人物である。

神策軍の実権を失い毒殺される

観軍容使に移されて禁軍から切り離される

大和9年、李訓は宰相にまで昇った。
李訓と鄭注は文宗と密議し、王守澄を排除することを決めた。

まず王守澄は六軍十二衛観軍容使に移された。
名称だけを見ると軍全体を監督する高官に見えるが、
王守澄が実際に握っていた神策軍中尉の職から外すことが目的だった。
これによって、王守澄は長年の権力の基盤だった禁軍の直接指揮権を失った。

王守澄は邸宅へ退くことになった。

李好古によって毒を賜る

大和9年(835)10月、文宗は李訓・鄭注の進言を受け、
内養の李好古を王守澄の邸宅へ派遣して毒を賜った。


王守澄はこれによって死亡したが、
その死は当初伏せられ、表向きには通常の死として扱われたうえ、揚州大都督を追贈された。

自分が徐州時代に見いだして長安へ連れてきた鄭注と、
その鄭注を通して文宗へ推薦した李訓によって、最後には自らが排除されたことになる。

『旧唐書』はこの結末について、王守澄が李訓・鄭注を引き立てながら、
かえって二人によって災いを受けたと記している。

当時の人々は、王守澄が佞人を重用した報いを受けたことについては快く思った一方、
その王守澄を利用して最後には死へ追いやった李訓・鄭注の陰険さについても憎んだという。

弟・王守涓も殺される

王守澄の弟の王守涓も宦官で、兄と同じく軍の監軍となり、この時は徐州監軍を務めていた。

王守澄の死後、朝廷は王守涓を徐州から召還した。
しかし王守涓は長安へ到着することなく、中牟まで来たところで殺害された。

これは王守澄個人だけではなく、その近親者まで宮廷から排除しようとする措置だった。

王守澄の死後と甘露の変

王守澄が死亡したことで、文宗・李訓・鄭注による宦官排除計画が完了したわけではなかった。
王守澄を取り除いた李訓と鄭注は、さらに宮廷の宦官勢力全体を一挙に排除しようとした。

王守澄が死去してから約一か月後の大和9年11月21日、
李訓らは左金吾衛の庁舎に「甘露」が降ったと偽り、
仇士良宦官を誘い出して武装兵で殺害しようとした。

しかし仇士良らが異変を察知して文宗を宮中へ連れ戻したため、計画は失敗した。
神策軍が出動し、李訓をはじめ王涯・賈餗・舒元輿ら多数の官人が殺害された。
いわゆる甘露の変である。

王守澄を排除するために登用された仇士良は、
この事件を機に神策軍を背景としてさらに大きな権力を握った。

一方、王守澄を倒した李訓と鄭注はいずれも殺され、
文宗が目指した宦官勢力の排除も失敗に終わった。

王守澄自身に対して、死後に官爵を剥奪した、名誉を回復した、
墓を破壊したといった記事は主要史料には見えない。
揚州大都督を追贈されたところまでが、正史に確認できる死後の処置である。

まとめ

王守澄は、徐州監軍から枢密使・神策軍中尉へ進み、
穆宗と文宗という二人の皇帝の擁立に関与した後期の有力宦官だった。

とりわけ敬宗暗殺後には神策軍を動かして劉克明一派を討ち、文宗を即位させたことで、
皇位継承そのものに影響を与える立場となった。

一方、文宗が宦官勢力の排除を図ると宋申錫を失脚させて対抗したものの、
自ら重用した鄭注と李訓が文宗側へ転じたことで形勢を逆転され、835年に毒殺された。

王守澄の死後も宦官の軍事的基盤そのものは崩れず、翌月の甘露の変を経て、
今度は仇士良らが神策軍を背景に宮廷政治を支配することになった。

史書・参考文献

・『旧唐書』巻17下「文宗本紀」
・『旧唐書』巻169「李訓伝・鄭注伝」
・『旧唐書』巻184「宦官伝・王守澄」
・『新唐書』巻208「宦者伝・王守澄」
・司馬光『資治通鑑』巻241~245

史書・参考文献

妹尾達彦『長安の都市計画』
『旧唐書』
『新唐書』
『資治通鑑』
『唐会要』
『冊府元亀』
布目潮渢『中国宦官史』
氣賀澤保規『絢爛たる世界帝国 隋唐時代』

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