楊思勗|唐玄宗が最も信頼した残虐な宦官名将

唐の宦官 楊思勗 035.宦官

楊思勗は、代の宦官でありながら軍事指揮官として異例の大出世を遂げ、
南方反乱の鎮圧で無敗の戦績を残した人物である。 一方で、

 ・捕虜の顔を生きたまま剥ぐ
 ・頭皮を削ぎ落とす
 ・数万人を虐殺し京観(死体の塚)を築く

など、極端な残虐行為が史書に記録されており、評価は二分する。

また、宦官が大軍を率いて外征する」という前例を作った人物であり、
後世の宦官権力(例:末の田令孜代の童貫代の宦官軍権)にまで影響を与えた。

出自

羅州石城県の出身。楊氏という宦官の養子となり、去勢を行い、内侍省に勤めた。

宮廷クーデターで頭角を現す

李重俊の挙兵を鎮圧(707年)

中宗の太子・李重俊が、武三思・上官婉児らの討伐を名目に挙兵し、中宗に迫った際、
楊思勗は宮闈令として奮戦し、反乱軍の先鋒・野呼利を斬殺して鎮圧に貢献した。

この功績で内常侍に昇進。

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玄宗(李隆基)に接近し、韋后・太平公主討伐に参加

710年の韋后討伐、713年の太平公主粛清にも参加し、
玄宗の信頼を得て軍事宦官としての地位を固める。

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南方反乱の鎮圧:無敗の宦官武将

楊思勗の名声を決定づけたのは、
玄宗治世に相次いだ南方(嶺南)の大規模反乱をすべて鎮圧したことである。

この地域では
 ・少数民族の反乱
 ・地方豪族の反抗
 ・の支配への抵抗

が繰り返されており、楊思勗はこれらの反乱を鎮圧するために派遣され、
多くの戦いで勝利を収めた。

安南の梅叔鸞(梅玄成)討伐(722年)

梅叔鸞は“黒帝”を称し、林邑・真臘と連携して安南府を陥落させた。

楊思勗は嶺南に着くと、十数万の兵を募って進軍。

奇襲をかけて梅叔鸞を捕らえ、斬殺。
その党類は全員処刑し、死体を積み上げ、京観を作った。

五渓蛮の覃行璋の反乱(724年)

五渓の首領である覃行璋が反乱を起こした。

楊思勗は、覃行璋を捕らえ、その党類3万人を殺害。

この軍功により輔国大将軍へ昇進。

邕州の梁大海の反乱(726年)

邕州の首領である梁大海が、数州とともに反乱を起こした。

楊思勗は梁大海ら3000人を捕らえ、2万人以上を殺害し、死体で京観を築いた。

瀧州の陳行範・何遊魯・馮璘の反乱(728年)

瀧州の首領である陳行範・何遊魯・馮璘らが反乱を起こし、四十余城を落とした。
陳行範は帝を称し、何遊魯は定国大将軍を名乗り、馮璘は南越王を称し、嶺南地方を割拠した。

楊思勗は十万の兵を率いて侵攻して破り、何遊魯と馮璘を殺した。
陳行範は深州に逃げかくれ、洞にいた部族に投じたが、楊思勗に攻められ捕らえられた。

6万人を殺し、奪った財は莫大なものであった。

楊思勗の残虐性:史書が記す“恐怖の宦官将軍”

史書では楊思勗の戦い方について、非常に残酷だったと伝えられている。

 ・捕虜の顔や頭の皮を生きたまま剥ぎ、人に見せる
 ・討伐のたびに死体を積み上げて京観を作る
 ・「二十万斬首」の伝説
   ※この数字は誇張の可能性が高く、実際の人数は不明

宦官が大軍を率いる先例を作る

楊思勗は、宦官が正式に大軍を率いて外征する先例を作った人物として、
 
 ・末の田令孜
 ・代の童貫
 ・代の宦官軍権(王振劉瑾・魏忠賢)

など、後世の“軍事宦官”の台頭を正当化する前例となった。

田令孜|皇帝を連れ回して政治を混乱させた宦官
田令孜(でんれいし)は唐末の軍事宦官で、幼帝・僖宗を操り神策軍を独占した権臣。黄巣の乱で長安を放棄し、皇帝を二度逃亡させ、藩鎮との対立を激化させた。唐末崩壊の象徴とされ、最終的に成都で王建に殺害された“最後の巨大宦官”である。
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晩年と死

740年、長安の私邸で死去。 享年80余歳とされる。

楊思勗の晩年については詳細な記録は多くないが、
の宮廷で一定の地位を保ったまま生涯を終えたとされている。

多くの宦官が政治闘争で失脚する中で、
軍人として名を残した数少ない宦官であった。

玄宗はその功績を称え、龍門石窟に楊思勗の像を刻ませた。

歴史的評価:軍功は絶大、しかし残虐性が強すぎる

楊思勗の評価は大きく分かれる。

  • 肯定的評価
    • 南方の反乱を次々と鎮圧
    • の嶺南支配を安定させた
    • 軍事的才能は非常に高く、戦場で無敗
  • 否定的評価
    • 捕虜拷問・大量虐殺・京観など残虐行為が突出
    • 恐怖政治による支配
    • 宦官軍権の悪しき前例を作った

総じて、「軍功は絶大だが、残虐さが強調されるため評価は二分する」
というのが歴史家の一致した見方である。

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