甘夫人は、劉備の側室であり、蜀漢第2代皇帝・劉禅の生母として知られる人物である。
正史『三国志』では「甘夫人」あるいは「甘皇后」と記される。
劉備がまだ各地を流転していた時代から長く付き従い、
何度も危機を共にしながら、後宮を実質的に取り仕切っていたとされる。
また、長坂の戦いでは幼い劉禅と共に曹操軍の追撃に巻き込まれ、
趙雲によって救出された逸話でも有名である。
一方、『拾遺記』には白玉のような肌を持つ絶世の美女として描かれ、
「神智婦人」と称賛された逸話まで伝わっている。
しかし、現在広く語られる甘夫人像には後世創作も少なくない。
本記事では、正史『三国志』を中心に、甘夫人の生涯、劉備との関係、劉禅出産、長坂の戦い、
追号問題、そして後世文学や『三国志演義』との違いまで詳しく解説していく。
甘夫人の出自と実名
甘夫人は、豫州沛国の出身である。
沛国は前漢の高祖・劉邦ゆかりの地でもあり、
後漢末には多くの群雄や名士を輩出した地域だった。
もっとも、甘夫人の家柄について詳しい記録はほとんど存在しない。
正史『三国志』では、「身分が低かったため正室になれなかった」と記されており、
名門豪族出身ではなかったと考えられている。
また、現在では「甘梅(かんめい)」という名が知られることもあるが、
これは後世資料に見えるものであり、正史に明確な記録があるわけではない。
そのため、史実として確実に確認できるのは、「甘氏」「甘夫人」という呼称に限られる。
劉備との出会い
194年、劉備が豫州刺史として小沛へ移った頃、甘夫人は劉備の側室となった。
当時の劉備は、まだ一地方軍閥に過ぎず、安定した基盤を持たない流浪の武将だった。
呂布、袁術、曹操など有力諸侯に翻弄され、勢力は何度も崩壊している。
甘夫人は、そうした不安定極まりない時代から劉備に付き従っていた女性だった。
しかも、劉備は幾度も妻を失っている。
戦乱による離別や死別が続いた結果、正室不在の時期も少なくなかった。
その中で甘夫人は正式な正室にはなれなかったものの、
最も長く劉備に付き従った女性として、実質的に奥向きを取り仕切る立場になっていた。
これは単なる寵愛だけでなく、長年にわたり劉備陣営を支え続けた信頼の結果だったとも考えられる。
劉備流浪時代を支えた甘夫人
甘夫人が劉備と共に過ごした時代は、蜀漢建国以前の最も苦しい時期だった。
劉備は徐州を失い、曹操に敗れ、袁紹のもとへ身を寄せ、
さらに荊州へ逃れるなど、長く不安定な立場に置かれていた。
つまり甘夫人は、「皇帝劉備」の妻ではなく、
「敗走を繰り返す流浪の武将・劉備」の側にいた女性だったのである。
この点は後の呉夫人とも大きく異なる。
呉夫人は蜀漢建国後に皇后となったが、甘夫人は最も苦しい時代を共に過ごした存在だった。
そのため、後に劉禅が即位すると、甘夫人へ特別な追尊が行われることになる。
劉禅の誕生
207年、甘夫人は荊州で劉禅を生んだ。
劉禅は後に蜀漢第2代皇帝となる人物であり、甘夫人は蜀漢皇帝の生母となる。
もっとも、この頃の劉備勢力は依然として不安定だった。
劉備は劉表の庇護下にあり、独立国家を築くには程遠い状態だったのである。
そのため、後に劉禅が皇帝となったことを考えると、
甘夫人の存在は蜀漢王朝の血統形成という意味でも非常に重要だった。
なお、劉禅の幼名である「阿斗」は、『三国志演義』や民間伝承で極めて有名になった。
そのため甘夫人も、「阿斗の母」として後世文化に強く結び付けられている。
長坂の戦いと趙雲の救出
曹操軍の南下
208年、曹操は大軍を率いて南下し、荊州攻略を進めた。
劉表が病死すると荊州は混乱し、劉備は南方への撤退を余儀なくされる。
しかし曹操軍の進撃速度は極めて速く、当陽の長坂で劉備軍へ追いついた。
これが有名な「長坂の戦い」である。
甘夫人と劉禅の危機
混乱の中、劉備は民衆を連れて逃亡していたため、機動力を大きく失っていた。
そして曹操軍の急襲によって陣形は崩壊し、甘夫人と幼い劉禅は取り残されてしまう。
この時、趙雲が単騎で敵中へ突入し、甘夫人と劉禅を救出した。
『三国志』では、趙雲が劉禅を保護したことが記録されている。
後世の『三国志演義』ではさらに劇的に脚色され、
「趙子龍、長坂坡にて七進七出す」という名場面へ発展した。
演義では趙雲が数十万の曹操軍を突破しながら阿斗を守り抜き、
青釭剣を奪うなど英雄譚として描かれる。
ただし正史では、そこまで派手な描写はない。
それでも、趙雲が劉禅母子を救ったこと自体は史実であり、
甘夫人にとっても最大級の危機だったことは間違いない。
甘夫人の死
甘夫人は、その後いつ頃死去したのか、正確な年代が分かっていない。
ただし、劉備が蜀漢皇帝として即位する以前には既に亡くなっていたと考えられている。
『三国志』によれば、甘夫人は南郡に埋葬された。
つまり、蜀入り以前、あるいは蜀漢建国以前に死去した可能性が高い。
そのため、甘夫人は「皇帝劉備の皇后」として生前を過ごしたわけではない。
あくまで「流浪時代の側室」として生涯を終えたのである。
しかし後に、劉禅が即位すると、その立場は大きく変化することになる。
甘夫人への追号
222年、劉備は甘夫人へ「皇思夫人」という諡号を贈り、益州へ改葬しようとした。
しかし、その途中で劉備自身が崩御してしまう。
その後、劉禅が即位すると、諸葛亮や頼恭らは改めて諡号を検討し、
甘夫人へ「昭烈皇后」の号を贈った。
そして劉備の陵墓である恵陵へ合葬されることになる。
もっとも、ここには少し複雑な事情がある。
「昭烈」は本来、劉備自身の諡号である。
つまり、「昭烈皇后」とは厳密には「昭烈帝の皇后」という意味合いであり、
甘夫人自身に独立した諡が与えられたわけではない。
そのため、『蜀書』では呉夫人が「穆皇后」と表記される一方、
甘夫人は単に「甘皇后」と記されている。
これは三国時代の追号制度を理解する上でも興味深い点である。
甘夫人は正室だったのか
甘夫人は、劉備の最古参側室であり、奥向きを取り仕切っていた人物だった。
しかし、正史では一貫して「妾」「側室」として扱われている。
これは彼女の家柄が高くなかったためとされる。
後漢末から三国時代にかけて、政治的婚姻では名門豪族との結び付きが非常に重要だった。
そのため、甘夫人ほど長く劉備を支えた女性であっても、正式な正室にはなれなかったのである。
しかし結果的には、彼女の子である劉禅が皇帝となった。
つまり、甘夫人は後世から見れば「蜀漢皇統の母」となった。
このため、生前以上に高い評価を受けることになる。
『拾遺記』に見る甘夫人の美貌
甘夫人の美貌について有名なのが、『拾遺記』の逸話である。
そこでは、甘夫人は「白玉のように白い肌」を持つ絶世の美女として描かれている。
また、18歳の時に劉備の妾になったとも記されている。
ただし、『拾遺記』は志怪・逸話的性格の強い書物であり、史実性には注意が必要である。
それでも、後世に甘夫人が「蜀漢屈指の美女」として語られる大きな理由となった。
さらに、『百美新詠図伝』では、中国歴代美女百人の一人として数えられている。
もちろんこれは後世評価だが、甘夫人の美貌伝説が長く語り継がれてきたことを示している。
『百美新詠図伝(百美図)』
先史〜明代までの美女100名(実際は103名)を収録した美人画+略伝+漢詩の総合作品。
清の乾隆57年(1792年)に成立し、顔希源(編)・王翽(絵)・袁枚(詩)による合作として知られる。美人画の典拠として後世に大きな影響を与え、魯迅も愛読したとされる。
美人研究・中国文化史では欠かせない資料のひとつ。
「美人=貞淑・節婦」という儒教的枠を超え、傾国の美女・名妓・伝説上の女性まで含む“多様な女性像の図鑑”になっている点が特徴。
玉人形の逸話
劉備が愛玩した玉人
『拾遺記』には、さらに有名な「玉人形」の逸話が見える。
ある時、河南の人物が劉備へ高さ三尺の玉人形を献上した。
劉備はその玉人を非常に気に入り、甘夫人の側へ置いたという。
昼は配下と軍略を論じ、夜になると甘夫人を抱きながら玉人を眺めていたとされる。
しかも甘夫人と玉人形は姿がよく似ていたため、人々は区別がつかなかったという。
この描写はかなり文学的・幻想的であり、史実というより逸話文学の色彩が強い。
甘夫人の諫言
さらにこの逸話には続きがある。
甘夫人は、玉人形への執着を快く思っていなかった。
そして劉備へ向かい、次のように諫めたという。
「昔、子罕は玉を宝としなかったため称賛されました。
今なお魏や呉との戦いが続いているのに、このような玩具へ心を奪われるべきではありません」
さらに、「淫猥は疑いを生じさせる」と戒めた。
これを聞いた劉備は玉人形を撤去したという。
そして当時の人々は、甘夫人を「神智婦人」と呼んで称賛した。
この逸話は、単なる美女ではなく、
「知性と節度を備えた女性」として甘夫人を描こうとする後世文学の傾向をよく表している。
三国志演義における甘夫人
『三国志演義』では、甘夫人は比較的重要な女性として描かれている。
特に関羽との関係が有名である。
曹操が徐州で劉備を破った際、関羽は甘夫人らの安全保障を条件に曹操へ降伏した。
これは「義」を重んじる関羽像を強調する有名な場面である。
さらに、関羽が顔良・文醜を討って恩義を返した後、
甘夫人たちを連れて劉備のもとへ向かう途中、山賊・杜遠に襲われる展開も描かれる。
この時、廖化が関羽へ協力して甘夫人たちを救出した。
ただし、これらの詳細は演義による創作が多い。
また、長坂の戦いでは演義版の甘夫人は無事脱出しており、
正史のような「趙雲による直接救出」の印象はやや弱まっている。
さらに、赤壁の戦い後に周瑜が「甘夫人が既に死去している」と知り、
孫夫人との婚姻を提案する流れも演義で有名である。


甘夫人と呉夫人
甘夫人と並び、劉備の妻として重要なのが呉夫人である。
甘夫人が「流浪時代を支えた女性」だったのに対し、呉夫人は蜀漢建国期を支えた皇后だった。
そのため、後世史書では両者が並列的に扱われることが多い。
ただし、劉禅の生母という点では、甘夫人の存在は極めて重要だった。
結果的に、蜀漢皇統は甘夫人の血筋によって継承されることになるからである。
後世文化における甘夫人
甘夫人は、後世には「薄幸の美女」「流浪の時代を支えた女性」として人気を集めた。
特に長坂の戦いの逸話は、趙雲伝説と結び付くことで非常に有名になった。
また、『拾遺記』の影響により、
「白玉のような美女」「知性ある女性」というイメージも定着していく。
近年のゲームや漫画では、優雅で穏やかな女性として描かれることが多い。
一方で、史実の甘夫人は、
戦乱と逃亡の連続だった劉備初期勢力を支え続けた現実的な女性でもあった。
まとめ
甘夫人は、蜀漢初代皇帝・劉備の側室であり、第2代皇帝・劉禅の生母となった人物である。
身分は高くなかったが、劉備が流浪していた最も苦しい時代から長く付き従い、
実質的に後宮を取り仕切っていた。
また、長坂の戦いでは曹操軍の追撃に巻き込まれながらも、
趙雲によって劉禅と共に救出されるという三国志屈指の有名場面にも関わっている。
さらに『拾遺記』では、白玉のような美貌を持つ女性として描かれ、
玉人形を巡る諫言によって「神智婦人」と称賛された。
現在広く知られる甘夫人像には後世文学の脚色も多いが、その根底には、流浪の英雄・劉備を支え、
蜀漢皇統を生み出した重要な女性の姿が確かに存在していたのである。
史書・参考文献
- 陳寿『三国志』
- 裴松之注『三国志注』
- 王嘉『拾遺記』
- 羅貫中『三国志演義』
- 『百美新詠図伝』
- 宮崎市定『三国志』
- 渡邉義浩『三国志人物事典』
- 吉川英治『三国志』
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