【後漢】陰麗華|光武帝が「娶妻当得陰麗華」と語った皇后

陰麗華(後漢・光武帝の皇后) 01.皇后

陰麗華(いんれいか)は、
後漢を建国した光武帝・劉秀の皇后であり、二代皇帝・明帝劉荘の母である。

南陽郡新野県の豪族・陰氏に生まれ、
若き日の劉秀が「仕官するなら執金吾、妻を娶るなら陰麗華」と語ったことで知られる。
美貌によって劉秀の心を引いた女性として有名だが、
陰麗華の生涯を特徴づけるのは、それだけではない。

劉秀と結婚した直後に戦乱によって別れ、
光武帝即位後には皇后に推されながら辞退し、郭聖通が皇后となった。
やがて郭皇后が廃されると皇后に立ち、光武帝の死後は皇太后として明帝を支えた。

『後漢書』は陰麗華を「恭倹」「仁孝」「矜慈」と記す。
後世には理想的な妻・皇后として語られるようになり、
代の『百美新詠図伝』にも歴代の美女の一人として収められた。

ただし、陰麗華を単純に「争わず、譲り続けた完璧な皇后」として描くだけでは、
その実像を十分に捉えることはできない。
彼女が生きたのは後漢建国の戦乱期であり、郭聖通との皇后問題や皇太子の交代、
陰氏と郭氏という二つの外戚の存在とも無関係ではなかった。

ここでは『後漢書』を中心に、陰麗華の生涯と後世に形成された「理想の皇后」像を見ていく。

陰麗華の出自――南陽の豪族・陰氏

陰麗華は南陽郡新野県の出身である。

陰氏は南陽に勢力を持つ豪族で、『後漢書』「陰識伝」によれば、
祖先は斉の管仲にさかのぼるとされた。
管仲の子孫が楚へ移り、陰大夫となったことから陰氏を称し、秦漢の交替期に新野へ移住したという。もちろん、このような遠祖の系譜には後世的な家系伝承が含まれる可能性があるが、
少なくとも後漢初期の陰氏が新野を本拠とする有力豪族であったことは確かである。

父は陰陸とされるが、『後漢書』の注では「陸」を「睦」とする系統の史料も紹介されている。
母は鄧氏であった。
兄弟には、異母兄の陰識、同母弟の陰興・陰訢・陰就らがいる。
元記事で「陰欣」としていた弟は、『後漢書』本文では「陰訢」と記され、
注に「音欣」とある人物である。

陰麗華は幼くして父を失った
『後漢書』によれば七歳のときであり、数十年が過ぎても父のことを語るたびに涙を流したという。
後に皇后となった陰麗華の「仁孝」という評価には、こうした父への思慕も含まれている。

「仕宦当作執金吾、娶妻当得陰麗華」

陰麗華の名を後世に残した最も有名な言葉が、
「仕宦当作執金吾、娶妻当得陰麗華」である。
「仕官するなら執金吾となり、妻を娶るなら陰麗華を得たい」という意味である。

若いころの劉秀が新野を訪れた際、陰麗華の美貌について聞いて心を引かれた。
その後、長安へ行った劉秀は、皇帝の警護や都の治安を担当する執金吾の華やかな車騎を目にし、
この言葉を口にしたと『後漢書』は伝えている。

つまり、この逸話では若き劉秀にとって「執金吾」と「陰麗華」が、
仕事と結婚それぞれの憧れとして並べられている。

陰氏が地方豪族として一定の地位を持っていたことを考えれば、
陰麗華は美貌だけでなく、家柄の面でも劉秀にとって望ましい結婚相手だったと考えられる。
ただし、『後漢書』が明記しているのは、劉秀が彼女の「美」を聞いて心を寄せたという点である。

劉秀との結婚

更始元年(23年)6月、劉秀は宛の当成里で陰麗華を妻とした。
『後漢書』によれば、このとき陰麗華は十九歳であった。
後漢王朝の皇帝となる以前、劉秀がまだ戦乱の中で勢力を築こうとしていた時期の結婚である。

王莽の新が崩壊へ向かう一方、各地では群雄が割拠していた。
劉秀も兄の劉縯らとともに挙兵し、更始帝の政権に加わっていたものの、
その将来が保証されていたわけではない。

後世から見れば「後漢皇帝と皇后の結婚」だが、
当時の二人にとっては、天下の行方すら定まらない時期の結婚だった。

結婚後、劉秀が司隷校尉となって洛陽へ向かうと、陰麗華はいったん新野へ帰された。
その後、鄧奉が挙兵すると、兄の陰識がその配下となり、陰麗華も家族とともに淯陽へ移っている。

光武帝即位――洛陽へ迎えられ貴人となる

建武元年(25年)、劉秀は皇帝に即位した。後漢の光武帝である。

すると光武帝は侍中の傅俊を遣わし、新野にいた陰麗華を迎えさせた。
陰麗華は他の女性たちとともに洛陽へ入り、「貴人」となった。

ここで注意したいのは、陰麗華が光武帝と早くから結婚していたからといって、
そのまま自動的に皇后になったわけではないということである。

光武帝には河北で勢力を拡大する過程で迎えた郭聖通もいた。
郭聖通は真定の有力一族の出身で、母方を通じて真定王家につながる女性だった。
光武帝が王郎と戦っていた時期に妻となり、建武元年には皇子劉彊を産んでいる。

陰麗華と郭聖通という二人の女性が、後漢建国直後の後宮に並ぶことになった。

皇后を辞退した陰麗華

光武帝は陰麗華を皇后に立てようとした。
『後漢書』は、その理由として陰麗華の性格を「雅性寛仁」と記す。
光武帝は彼女を高い地位に置こうとしたが、陰麗華は固辞した。

陰麗華は郭氏に男子がいることを理由に皇后になることを受けず、最終的に郭聖通が皇后となった。
建武2年(26年)、郭聖通が皇后となり、その子劉彊も皇太子に立てられた。

後世には、この出来事が陰麗華の「義譲」、すなわち自ら譲った徳として高く評価されることになる。

建武4年、劉荘を出産

建武4年(28年)、陰麗華は光武帝の遠征に同行していた。
この年、光武帝は彭寵を討つため河北方面へ出兵しており、陰麗華は元氏で皇子劉陽を産んだ。

陰麗華が単に洛陽の後宮にとどまっていたわけではなく、
光武帝の遠征に同行したことが史書に記されている点は重要である。

その後、陰麗華は劉荘のほか、東平憲王劉蒼、広陵思王劉荊、臨淮懐公劉衡、琅邪孝王劉京を産んだ。
このうち劉荘が後に皇太子となって帝位を継ぐが、
陰麗華が劉荘を産んだ時点で、皇太子はすでに郭聖通の長男・劉彊であった。
したがって、劉荘の誕生と同時に後継者問題が動いたわけではない。

『後漢書』「光武十王列伝」によれば、光武帝には十一人の皇子がおり、
郭皇后が五人、許美人が一人、陰麗華が五人を産んでいる。

母と弟を盗賊に殺される

建武9年(33年)、陰麗華の母・鄧氏と弟の陰訢が盗賊に殺された。

光武帝はこの事件を深く悲しみ、詔を出した。
その中で、かつて自分がまだ身分の低い時期に陰麗華と結婚し、戦乱によって離れ離れになったこと、二人とも危険を逃れて生き延びたこと、
陰麗華を皇后にしようとしたものの本人が固辞したことを回想している。

光武帝は陰麗華の亡父を「宣恩哀侯」、殺害された弟・陰訢を「宣義恭侯」として追封した。
弟の陰就には父の爵位を継がせた。

陰麗華が皇后となる以前から、光武帝が陰氏一族に相応の待遇を与えていたことが分かる。

陰氏一族――外戚となっても慎重だった兄弟

陰麗華の兄弟たちは、光武帝政権で官職や爵位を与えられた。
なかでも重要なのが異母兄・陰識である。
陰識は劉秀の兄・劉縯が挙兵した際、長安での遊学をやめ、宗族や賓客千余人を率いて参加した。
後に光武帝が陰麗華を迎えると、陰識も召され、騎都尉などを歴任した。

光武帝が軍功を理由に封邑を増やそうとすると、陰識は
「天下が定まったばかりで功臣が多い中、外戚である自分だけが厚遇されるべきではない」
と辞退した。

同母弟の陰興もまた光武帝に近侍したが、関内侯に封じられようとした際には辞退している。

こうした記録から、陰氏一族には少なくとも光武帝の時代、
外戚としての恩恵を無制限に受けようとせず、慎重に振る舞う人物がいたことが分かる。

郭聖通の廃后と陰麗華の立后

建武17年(41年)、光武帝は郭聖通を皇后から廃し、陰麗華を皇后に立てた。

『後漢書』によれば、郭皇后は寵愛が衰えるにつれて怨みを抱くことが多くなったとされる。
廃后の詔では、郭皇后が怨恨を抱き、教令にたびたび背き、
他の女性が産んだ子どもを慈しむことができないなど、非常に厳しい言葉が並べられている。

ただし、これは郭聖通を廃する側が示した公式理由でもあるため、
郭聖通の人物像をそのまま「専横な皇后」と断定するのは適切ではない。

陰麗華は郭聖通の廃后を受けて皇后となった。
光武帝は陰麗華について、かつて自分が低い身分だった時代から妻であった女性であり、
皇后となるにふさわしいとしている。

郭聖通とその一族は粛清されなかった

郭聖通が廃されたからといって、郭氏一族がただちに粛清されたわけではない。

郭聖通は中山王太后となり、その後は沛太后となった。
光武帝は郭氏一族にも引き続き恩遇を与え、郭聖通の母が死去すると自ら弔問している。

郭氏と陰氏の双方を厚遇する姿勢は、明帝の時代にも続いた。
『後漢書』は、明帝が陰氏と郭氏を礼遇し、「毎事必均」、何事にも待遇を等しくしたと記している。

したがって、陰麗華の立后を単純な「陰氏の勝利、郭氏の没落」とみることはできない。

劉彊が皇太子を退く

郭聖通が廃された後も、その長男・劉彊はすぐには皇太子を廃されなかった。

しかし母が皇后を廃されたことで、劉彊は自らの立場に不安を抱くようになった。
『後漢書』「光武十王列伝」によれば、劉彊は何度も皇太子を辞して諸侯王となることを願った。
光武帝はすぐには認めず、数年間ためらった末、建武19年(43年)にようやくこれを許した。

劉彊は東海王となり、陰麗華の子・劉荘が皇太子に立てられた。

重要なのは、劉彊が罪によって廃されたわけではないことである。
光武帝もその点を認め、劉彊には非常に大きな封国を与えている。
郭聖通の廃后後も劉彊と郭氏一族が粛清されなかったことは、
後漢初期の皇位継承が大規模な流血を伴わずに処理されたという点で重要である。

皇后となった陰麗華

陰麗華は建武17年から光武帝が崩御する建武中元2年(57年)まで皇后の地位にあった。

『後漢書』が皇后時代の陰麗華について記す言葉は簡潔である。
「恭倹にして、玩を嗜むこと少なく、笑謔を喜ばず。性は仁孝にして、多く矜慈す」
すなわち、慎み深く質素で、遊興をあまり好まず、軽々しい冗談を好まず、
思いやりと孝心を備えた人物だったとされる。

実際の『後漢書』は、より簡潔に「恭倹」「仁孝」「矜慈」と評価している。

七歳で失った父を忘れなかった

陰麗華の人物像を伝える具体的な逸話として、
『後漢書』は幼くして亡くした父について記している。

陰麗華は七歳で父を失った。
それから数十年を経た後も、父の話になると必ず涙を流したという。
光武帝もその姿を見るたびに嘆息した。

范曄がこの逸話を皇后紀に残したことは、
陰麗華を「孝」の徳を体現する女性として描こうとしたことを示している。

光武帝の死――皇太后となる

建武中元2年(57年)、光武帝が崩御した。
皇太子劉荘が即位して明帝となり、陰麗華は皇太后となった。

陰麗華は、劉秀がまだ皇帝になる以前に結婚した妻から、後漢皇帝の皇后
さらに後漢第二代皇帝の母にまで地位を変えたことになる。

戦乱の中で離れ離れになった若い夫婦の一方が王朝を創始し、
もう一方が皇太后となったという生涯は、
「娶妻当得陰麗華」という逸話が後世に強く印象づけられた理由の一つでもある。

明帝とともに故郷・章陵へ

永平3年(60年)冬、明帝は皇太后となった陰麗華を伴い、章陵を訪れた。
そこで旧宅に酒宴を設け、陰氏・鄧氏をはじめ、旧知の家々の子孫を集めて賞賜を与えた。

陰麗華の皇太后時代について史書が伝える具体的な出来事の一つである。

永平7年、陰麗華の死

永平7年(64年)、陰麗華は死去した。『後漢書』は享年六十と記す。

光武帝の原陵に合葬され、諡は「光烈皇后」とされた。
『後漢書』の注は『諡法』を引き、「執徳遵業を烈という」と説明している。
「光烈」という諡号は陰麗華自身に与えられた皇后諡として理解するのが適切である。

母を偲び続けた明帝

陰麗華の死後、明帝は母を強く追慕した。

永平17年(74年)、明帝が原陵を参拝しようとしていた前夜、
亡き光武帝と陰麗華が生前と同じように楽しげにしている夢を見たという。
目覚めた明帝は悲しみのため眠ることができなかった。

翌日、百官を率いて原陵を参拝し、
その後、陰麗華が生前使用していた鏡箱の中の品々を見ると涙を流した。
周囲の者たちも泣き、顔を上げることができなかったと『後漢書』は伝えている。

また別の記事では、明帝が陰麗華の衣服を見て感傷し、
一部を弟たちに分け与えたことも記録されている。

陰麗華が息子の明帝から深く敬愛された母であったことは、史書にも具体的な形で残されている。

陰麗華はなぜ「理想の皇后」とされたのか

陰麗華は後世、理想的な妻・皇后として語られることが多い。

その背景には、まず「娶妻当得陰麗華」という光武帝の言葉がある。
また『後漢書』には、皇后への冊立を一度辞退したこと、
皇后となった後は「恭倹」「仁孝」だったこと、明帝から深く敬愛されたことなど、
好意的な記録が多く残されている。

ただし、陰麗華の政治的活動については記録が多いわけではない。

「争わずに皇后の座を得た」「外戚の専横を抑えた」といった後世的な評価を、
そのまま本人の政治方針として断定することはできない。

郭聖通の廃后や皇太子交代には光武帝自身の判断が大きく関わっており、
陰麗華が具体的にどのような役割を果たしたのかは史料からは分からない。

まとめ

陰麗華は、後漢の光武帝劉秀の皇后であり、明帝劉荘の母である。

南陽郡新野の豪族・陰氏に生まれ、若き日の劉秀が「娶妻当得陰麗華」と語ったことで知られる。
更始元年(23年)に劉秀と結婚した後、戦乱によっていったん離れ、
光武帝即位後に洛陽へ迎えられて貴人となった。

最初の皇后冊立では郭聖通に皇子がいることを理由に辞退し、
建武17年(41年)、郭聖通の廃后後に皇后となった。
光武帝の死後は皇太后となり、永平7年(64年)に六十歳で崩御した。

『後漢書』は陰麗華を「恭倹」「仁孝」と評している。
一方、本人が政治や後宮でどのような働きをしたのかについては詳しく記していない。

そのため、後世に形成された「争わない皇后」「完璧な皇后」という像と、
史書から確認できる陰麗華の生涯は分けて見る必要がある。

それでも、皇后を一度辞退したこと、皇后となった後の人物評、
明帝からの敬愛はいずれも史書に残る。
こうした記録と「娶妻当得陰麗華」の逸話が結びつき、
陰麗華は後世まで理想的な皇后として知られることになった。

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中国ドラマ『秀麗伝~美しき賢后と帝の紡ぐ愛~』のあらすじ、キャスト、作品情報、史実との違いを紹介。後漢を建国した光武帝・劉秀と陰麗華を中心に、郭聖通や劉縯、鄧禹、馮異ら実在人物とドラマ独自の創作を比較して解説します。

史書・参考文献

・范曄『後漢書』巻10上「皇后紀上・光烈陰皇后」
・范曄『後漢書』巻32「樊宏陰識列伝」
・范曄『後漢書』巻42「光武十王列伝」
・『東観漢記』逸文
・司馬光『資治通鑑』漢紀
・顔希源編・王翽画『百美新詠図伝』

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