曹吉祥|奪門の変で英宗を復位させ、曹欽の乱で一族とともに滅んだ宦官

曹吉祥(明の宦官) 037.宦官

曹吉祥(そうきっしょう、生年不詳〜1461年)は、
明の正統帝・景泰帝・天順帝の時代に活動した宦官である。

王振の配下から軍事監督として台頭し、麓川征討や兀良哈遠征、鄧茂七の乱の鎮圧に従事した。
1457年には石亨・徐有貞らと結んで奪門の変を起こし、
南宮に幽閉されていた英宗・朱祁鎮を復位させた。

その功績によって司礼監の重臣となり、京軍の指揮権を握ったが、
石亨の失脚後は英宗の警戒を受け、1461年に養子の曹欽とともに反乱を計画した。
計画の発覚によって曹欽は挙兵を余儀なくされ、宮城の攻略に失敗して自殺し、
曹吉祥も市中で磔刑に処された。

奪門の変によって皇帝を復位させた功臣が、
わずか4年後には皇帝に反旗を翻して滅亡するまでの経緯は、
『明史』曹吉祥伝に詳しく記録されている。

出自と台頭|王振の配下から軍事監督へ

灤州出身の宦官と王振との関係

曹吉祥は北直隷の灤州出身で、生年や家族の詳しい経歴は伝わっていない。
『明史』曹吉祥伝には、早くから王振に依附していたと記されている。

王振は正統帝(朱祁鎮)の信任を背景に、司礼監を通じて朝廷に強い影響力を及ぼした宦官である。
曹吉祥も王振のもとで地位を高めたが、その活動は宮廷内の事務に限られていなかった。
正統年間には軍事遠征に監軍として参加し、武将とともに軍を率いる経験を積んでいる。

明朝では宦官が皇帝の命令を受けて軍事行動を監督する制度があり、曹吉祥もその一人だった。
監軍は皇帝の代理として将軍の行動を監視するだけでなく、軍事上の判断や兵士の統制にも関与した。

↓↓正統帝の信任を背景に朝廷で強大な権力を握った王振についての個別記事は、こちら

王振|正統帝の信任を背景に権力を握り、土木の変で命を落とした明の宦官
王振(おうしん)は明の正統帝に仕えた宦官で、皇太子時代の教育係から司礼監の重臣となり、皇帝の信任を背景に朝廷で強大な権力を握った人物。張太皇太后と三楊の死後、錦衣衛を利用して李時勉ら官僚を弾圧し、人事にも介入した。1449年にはオイラトのエセンに対する正統帝の親征を後押ししたが、撤退経路の変更や土木堡での滞陣が明軍の壊滅を招いた。皇帝が捕虜となる大敗の中で王振も死亡し、その一族は敗戦の責任を問われて処罰された。

麓川征討と兀良哈遠征

正統年間の初め、曹吉祥は雲南方面の麓川征討に監軍として参加した。
麓川では思任発らが明朝の支配に抵抗し、朝廷は王驥や蔣貴らに軍を率いさせて討伐を進めていた。

1441年(正統6年)の遠征では、
兵部尚書の王驥が軍務を統括し、定西侯の蔣貴が征蛮将軍となり、曹吉祥が監軍を務めた。
『明史紀事本末』は、このとき曹吉祥が都督と称され、
多くの降伏兵や騎射に優れた兵士を選んで従わせたと記している。

その後、曹吉祥は北方の兀良哈遠征にも参加した。
成国公の朱勇、太監の劉永誠らと軍を分けて進軍し、モンゴル系諸部に対する軍事行動に従事した。
劉永誠も永楽年間以来、北方遠征に参加していた軍事経験の豊富な宦官であり、
曹吉祥はこうした人物とともに軍務を担当した。

『明史』によれば、
曹吉祥は遠征のたびに帰順した兵士や精鋭を選んで自分の配下に加え、帰還後も家に抱え込んだ。
そのため曹家には大量の武器や甲冑が蓄えられるようになった。

鄧茂七の乱の鎮圧

1448年から1449年にかけて、福建では鄧茂七らによる大規模な反乱が起きた。
朝廷は寧陽侯の陳懋らを派遣して鎮圧を進め、曹吉祥も監軍として参加した。

1449年(正統14年)正月、曹吉祥は陳懋の軍を監督して鄧茂七の残党討伐に従事した。
反乱の鎮圧によって軍事上の経験を重ねるとともに、配下の兵士をさらに増やした。

曹吉祥が抱えた兵士のなかには、明朝に帰順したモンゴル系などの軍人が含まれていた。
史書ではこうした兵士を「達官」と呼んでおり、曹吉祥は彼らに金銭や物資を与えて厚遇した。
朝廷の正規軍に属しながら、曹吉祥個人への忠誠心も強い兵士たちが形成されていったのである。

この時期の曹吉祥は、王振に依附する宮廷宦官であると同時に、
実戦経験と独自の軍事的な人脈を持つ人物となっていた。

土木の変と景泰年間|王振の死から奪門の変へ

土木の変による政局の転換

1449年、オイラトのエセンが明朝の北辺に侵攻すると、
正統帝は自ら軍を率いて討伐することを決めた。

王振は親征を後押ししたが、遠征は補給と指揮の混乱によって失敗し、
明軍は土木堡で壊滅的な敗北を喫した。

正統帝は捕虜となり、王振も戦死した。
曹吉祥が長年依附していた権力者が失われたことで、朝廷の政治状況は大きく変化した。

北京では正統帝の弟である景泰帝(朱祁鈺)が即位し、
兵部尚書の于謙らが中心となってオイラト軍の侵攻を退けた。

王振の一族や関係者は敗戦の責任を問われ、
王振のもとで台頭した宦官たちも従来と同じ立場を保つことは難しくなった。

曹吉祥も王振という後ろ盾を失ったが、官界から完全に排除されたわけではなかった。
『明史』には、景泰年間に曹吉祥が京営の軍務を分掌したことが記されている。


↓↓景泰帝(朱祁鈺)についての個別記事は、こちら

朱祁鈺(景泰帝)|土木の変後の北京防衛と奪門の変で失脚した明朝第7代皇帝
朱祁鈺(しゅきぎょく/景泰帝)は明の第7代皇帝で、土木の変で兄の正統帝が捕虜となった後、皇位に就いた人物。于謙を重用してオイラト軍から北京を守り、壊滅した明軍の再建を進めた。しかし帰国した兄を南宮に幽閉し、甥の朱見深を廃して実子を皇太子に立てたことで皇位継承をめぐる対立が深まった。実子の夭折と自身の病を経て奪門の変で廃位され、死後には皇帝の称号まで奪われた。

景泰年間の京軍と曹吉祥

土木の変によって主力軍を失った明朝は、北京の軍事体制を再建する必要に迫られた。
于謙は京軍を再編して団営を設け、諸軍を統一的に訓練・運用する制度を整えた。

曹吉祥は景泰年間にも京軍の指揮に関与していた。
『明史紀事本末』によれば、1450年には曹吉祥と劉永誠が諸軍を節制する立場に置かれている。

一方、捕虜となっていた正統帝は1450年に帰国したが、
景泰帝によって南宮に住まわされ、外部との接触を制限された。
景泰帝は当初、正統帝の子である朱見深を皇太子として認めていたものの、
1452年には実子の朱見済を皇太子に立てた。

しかし朱見済は翌年に死去し、景泰帝には後継者の問題が残された。
1457年に景泰帝が重病に陥ると、朝廷では皇位継承をめぐる動きが活発になった。

この状況で曹吉祥は、北京防衛で功績を挙げた武将の石亨や、
以前から于謙と対立していた徐有貞らと結び、南宮の英宗を復位させる計画に加わった。

↓↓正統帝と、その子・朱見深(成化帝)についての個別記事は、こちら

朱祁鎮(英宗)|土木の変と奪門の変を経験した明朝皇帝
朱祁鎮(しゅきちん/明英宗)は明朝で二度皇帝となった人物。9歳で即位し、宦官・王振を重用したが、1449年の土木の変でオイラト軍の捕虜となった。帰国後は弟の景泰帝によって南宮に幽閉され、1457年の奪門の変で復位。北京防衛の功臣・于謙を処刑し、石亨・徐有貞ら復位功臣も相次いで失脚した。晩年の朱文圭釈放や宮妃の殉葬廃止まで、その治世をたどる。
朱見深(成化帝)|土木の変と奪門の変という大混乱の中で成長した皇帝
成化帝(朱見深/しゅけんしん)は、明朝第8代皇帝として23年間在位した。土木の変で父の英宗が捕虜となり、皇太子の地位を奪われた幼少期を経て即位。于謙の名誉を回復し、荊襄流民の反乱や北方の女真勢力への対応を進めた。一方、年上の万貴妃を寵愛し、宦官・汪直に西廠を監督させて官僚への監視を強め、道士の李孜省らも重用した。紀氏が産んだ朱祐樘の出生と養育、弘治帝への皇位継承まで、その治世をたどる。

奪門の変|英宗復位と曹吉祥の権力掌握

石亨・徐有貞らとの結託

1457年(景泰8年)正月、景泰帝の病状が悪化すると、石亨は張軏・張輗らと相談し、
南宮に幽閉されている英宗を復位させる計画を立てた。

この計画には徐有貞、曹吉祥らが加わった。
石亨は京軍に強い影響力を持ち、曹吉祥は宮廷内の事情と軍の動向を把握していた。
徐有貞は官僚として政変を正当化する役割を担い、宮廷内外の関係者が協力することで、
英宗を迎え出す準備が進められた。

『明史紀事本末』には、石亨らが皇太后への働きかけを進める一方、
于謙と王文が襄王の子を皇太子に立てようとしているという噂を流したことも記されている。
こうした動きは、景泰帝政権の重臣を排除し、英宗の復位を正当化するために利用された。

南宮の門を開いた政変

1457年正月16日、石亨・徐有貞・曹吉祥らは兵を率いて南宮へ向かい、英宗を迎え出した。
夜間に行われた行動は、景泰帝が病床にある間に宮廷の主導権を奪うものだった。

政変の一行は英宗を奉天門へ導き、翌朝、集まった官僚たちに復位を宣言した。
宮廷内で大規模な戦闘が起きることなく政変が成功したのは、
軍を掌握する石亨と、宮中の警備や出入りに通じた曹吉祥らが協力したためだった。

英宗は再び皇帝となり、元号を天順に改めた。
景泰帝は廃位されて郕王に戻され、ほどなく死去した。

政変の成功後、兵部尚書の于謙と大学士の王文は逮捕され、謀反の罪を着せられて処刑された。
于謙は土木の変後に北京を守り、景泰年間の軍政を担った人物だったが、
英宗復位によって政治的立場を失った。

曹吉祥らは、景泰帝政権の中心人物を排除するとともに、
復位した英宗のもとで大きな権力を獲得した。


↓↓政変後、謀反の罪で処刑された于謙についての個別記事は、こちら

于謙|土木の変で明朝を救った北京防衛の功臣と奪門の変による悲劇
于謙(うけん)は明の政治家で、土木の変によって正統帝が捕虜となった際、北京の放棄に反対して防衛を指揮した人物。河南・山西での善政、景泰帝の擁立、オイラト軍との戦い、軍制改革、英宗の帰還、石亨・徐有貞らとの対立、奪門の変による処刑、成化帝による名誉回復まで、その生涯と功績を詳しく紹介する。

司礼監と京軍を掌握する

奪門の変の功績によって、曹吉祥は司礼監の重臣に昇進し、三大営の軍務を総督する地位を得た。
宮廷の命令伝達に関わる司礼監と、北京を守る京軍の双方に影響力を及ぼすようになったのである。

曹吉祥の養子である曹欽は都督同知に昇進し、さらに昭武伯に封じられた。
曹鉉・曹䥧ら一族の者も都督となり、
曹吉祥の家に仕える者のなかには、正式な功績がないまま官職を得る者が数多く現れた。

『明史』は、曹吉祥の門下で官職を不正に得た者が千人単位に及び、
昇進を求める朝廷の官僚まで曹吉祥に依附したと記している。

石亨も奪門の変の第一の功臣として忠国公に封じられ、一族や家臣を次々と官職に就けた。
曹吉祥と石亨は並ぶ者のない権勢を誇り、当時の人々から「曹・石」と並び称された。

しかし、曹吉祥の権力は、英宗個人の信任だけでなく、軍事力と一族・配下の人事に支えられていた。
曹欽らが軍の要職に就き、曹家の私的な武装集団が拡大したことは、
後に英宗から警戒される原因となった。

専権の時代|言官の弾圧と石亨との対立

曹吉祥と石亨による人事介入

英宗の復位後、曹吉祥と石亨は自分たちを批判する官僚の排除を進めた。
とりわけ言官は、皇帝や重臣の政治を監察し、不正を弾劾する役割を持っていたため、
両者にとって厄介な存在だった。

『明史』曹吉祥伝によれば、
曹吉祥と石亨は言官を嫌い、英宗に働きかけて人事の見直しを行わせた。
吏部尚書の王翱に命じ、35歳以上の者を留任させ、
それより若い者を地方へ転出させる措置が取られた。

この結果、給事中の何玘ら13人が州判官に、御史の呉禎ら23人が知県に転任させられた。
朝廷の不正を監察する官僚たちが、年齢を理由として中央から追われたのである。

しかし、その後に風雨や落雷、雹などの異常気象が起こると、
英宗は自らの処置を見直し、転任させた言官たちを元の職務に復帰させた。

この事件では、曹吉祥と石亨が人事に介入して批判者を排除したことだけでなく、
英宗が両者の要求を必ずしも最後まで認め続けたわけではなかったことも確認できる。

徐有貞・李賢・岳正への攻撃

曹吉祥と石亨は当初、奪門の変を成功させた協力者だったが、
権力が拡大すると互いに皇帝の寵愛を争うようになった。

両者の対立を利用して、御史の楊瑄や張鵬らがその専横を弾劾した。
すると曹吉祥は石亨と再び手を結び、英宗に讒言して弾劾者を処罰させた。

『明史』には、楊瑄らが詔獄に送られ、
さらに内閣の徐有貞や李賢らまで逮捕・取り調べの対象になったことが記されている。
徐有貞は奪門の変をともに成功させた人物だったが、
政変後の権力争いによって曹吉祥・石亨の敵となった。

また、承天門で火災が起こった際、英宗は内閣の岳正に罪己詔を起草させた。
罪己詔は皇帝が災異などに際して自らの政治を反省する詔書であり、
岳正は厳しい言葉を用いて文章をまとめた。

曹吉祥と石亨は、岳正が詔書を利用して皇帝を誹謗したと訴え、英宗は岳正を左遷した。
曹吉祥らは自分たちへの批判だけでなく、
皇帝の政治に対して厳しい意見を述べる官僚にも圧力を加えていた。

こうした行動によって、曹吉祥と石亨に対する朝廷内の反感は強まっていった。

英宗の警戒と石亨の失脚

曹吉祥と石亨は、英宗を復位させた功臣という立場を利用して権勢を拡大した。
しかし、皇帝の側近や軍人が官職を独占し、朝廷の人事を左右する状況は、
英宗自身にとっても看過できないものとなった。

大学士の李賢は、奪門の変そのものについて英宗に率直な意見を述べた。
景泰帝が病に倒れた後、皇位継承を正式な手続きによって処理する余地があったにもかかわらず、
石亨らが武力による復位を実行したことが、
かえって功臣たちに大きな権力を与える結果となったのである。

『明史』によれば、英宗は李賢の意見を聞いて初めて事態を悟り、曹吉祥を遠ざけるようになった。

その後、石亨は一族や配下の不正な昇進、権力の濫用などを追及され、
1460年(天順4年)に失脚して獄死した。
かつて曹吉祥と並び称された有力者が処罰されたことで、曹吉祥の立場も危うくなった。

曹吉祥は石亨と同じ奪門の変の功臣であり、軍人や家臣を大量に昇進させた点でも共通していた。
石亨の失脚後、曹吉祥は自分も同じように処罰されることを恐れ、
配下の軍人たちとの結びつきを一段と強めていった。

曹欽の乱|皇帝に反旗を翻した1461年の政変

曹吉祥の軍事基盤と曹欽の野心

石亨の失脚後、
曹吉祥は帰順兵の有力者たちに金銭や穀物、絹布などを与え、忠誠を確保しようとした。

彼らの多くは曹吉祥の後援によって官職を得ており、
曹吉祥が失脚すれば自分たちも処罰される可能性があった。
そのため、曹吉祥と配下の軍人たちは利害を共有する関係にあった。

曹吉祥の養子である曹欽も、こうした軍事的な勢力を背景に権力を握っていた。
『明史』には、曹欽が客人の馮益に対し、
昔から宦官の子弟が皇帝になった例はあるのかと尋ねた逸話が記録されている。

馮益は曹操の家を例に挙げて答えた。
曹操の祖父である曹騰は宦官であり、
その家系から魏の皇帝が現れたことを引き合いに出したのである。

この返答を聞いた曹欽は大いに喜び、妻に命じて馮益へ酒を勧めさせたという。

この逸話は、曹欽が単に処罰を恐れていたのではなく、
皇位そのものに野心を抱いていたことを伝える記録である。
ただし、曹欽が具体的にどのような皇位継承構想を持っていたのかについて、
史書には詳しい計画が残されていない。

曹福来事件と反乱の決断

1461年(天順5年)7月、
曹欽が自家の使用人である曹福来を不当に拘束し、暴行を加えた事件が発生した。

曹福来は錦衣衛の百戸で、以前から曹欽の家に出入りしていた人物だった。
曹欽は曹福来が自分の不正を外部に漏らすことを恐れ、
その妻を使って曹福来が発狂して逃亡したと届け出させたうえで、
家人に追跡させて捕らえ、激しく殴打した。

この事件が言官によって弾劾されると、
英宗は錦衣衛指揮の逯杲に調査を命じ、曹欽の行為を戒める勅諭を発した。

曹欽はこれを見て、以前も皇帝の勅諭が出された後に石亨が逮捕されたことを思い出し、
次は自分が処罰されると恐れた。
『明史』は、この事件を契機として反乱の決意が固まったと記している。

曹吉祥も反乱の準備に加わり、宮廷内の兵と曹欽の軍を連携させる計画を立てた。

宮廷内外からの挙兵計画

当時、甘粛方面の甘州・涼州で軍事的緊張が高まっており、英宗は懐寧侯の孫鏜に西征を命じていた。しかし、孫鏜の軍はまだ北京を出発していなかった。

曹吉祥らは、この状況を利用して挙兵することにした。
曹吉祥の一派で、欽天監に関係する官職を持っていた湯序に日取りを選ばせ、
曹欽が夜明け前に兵を率いて宮城へ進み、曹吉祥が宮中の禁軍を使ってこれに呼応する計画を定めた。

曹欽は決行前夜、配下の達官たちを集めて酒宴を開いた。
ところが、そのなかにいた馬亮が反乱の失敗を恐れて逃げ出し、恭順侯の呉瑾に計画を密告した。

呉瑾は孫鏜に急報し、孫鏜は長安右門の隙間から宮中へ上奏文を差し入れた。

英宗は報告を受けると、ただちに宮中にいた曹吉祥を拘束し、
皇城と北京城の九門を閉鎖するよう命じた。

曹吉祥は宮中から反乱軍を迎え入れることができなくなり、
曹欽も予定していた行動を変更せざるを得なくなった。
反乱軍は宮城の外から門を突破しなければならなくなったのである。

逯杲・寇深の殺害と李賢への襲撃

馬亮が逃亡したことを知った曹欽は、計画が露見したと判断し、夜中に兵を動かした。

まず錦衣衛指揮の逯杲の邸宅を襲撃し、逯杲を殺害した。
逯杲は曹福来事件の調査を命じられていた人物であり、
曹欽にとって自分の処罰につながる存在だった。

続いて曹欽は東朝房にいた李賢を襲い、刀で斬りつけて負傷させた。
曹欽は逯杲の首を李賢に見せ、逯杲が自分を追い詰めたのだと訴えたという。

さらに西朝房では都御史の寇深を殺害した。

この段階で曹欽の行動は、宮城への侵入だけでなく、
自分たちを取り締まろうとした官僚への報復にも及んでいた。

東西長安門の攻防

曹欽の軍は東長安門と西長安門を攻撃したが、門は閉ざされており、突破できなかった。
反乱軍が火を放つと、守備側は河岸の石や煉瓦を運んで門を補強し、侵入を防いだ。

曹欽の兵は宮城の外を行き来しながら叫び声を上げたが、
内部から曹吉祥の兵が呼応することはなかった。

一方、孫鏜は西征のために集められていた軍を動員し、
息子たちに命じて兵を率いさせ、東長安門で曹欽の軍を攻撃させた。

曹欽は東安門方面へ移動し、その途中で恭順侯の呉瑾を殺害した。
呉瑾は反乱計画を通報し、英宗側の対応を可能にした人物だった。

反乱軍は東安門にも火を放ち、門を破壊したが、
守備側は門の内側に薪を積み上げて燃やし、炎によって敵の侵入を阻止した。

夜が明けるころには曹欽の配下から離脱する者が現れ、反乱軍の勢力は次第に弱まっていった。

曹欽の敗走と井戸への投身

孫鏜は軍を率いて反乱軍を追撃し、曹欽の一族である曹鉉・曹䥧らを討ち取った。
孫鏜の子も戦闘に加わり、曹欽の肩から腕にかけて斬りつけ、負傷させた。

曹欽は安定門などから脱出しようとしたが、各門はすでに閉鎖されていた。
逃げ道を失った曹欽は自邸に戻り、残った兵とともに抵抗を続けた。

このとき激しい雨が降り始めた。孫鏜は諸軍を督励して曹欽の邸宅へ攻め込み、反乱軍を制圧した。

追い詰められた曹欽は井戸に身を投げて自殺した。

『明史』は、曹欽の死後、曹鐸も殺害され、曹家の一族がことごとく処刑されたと記している。
曹吉祥が長年にわたって築いてきた軍事的な勢力は、この一日の戦闘によって壊滅した。

曹吉祥の最期|磔刑と一族の滅亡

市中での処刑

曹欽の反乱が鎮圧されると、宮中で拘束されていた曹吉祥にも厳しい処罰が下された。

『明史』によれば、
曹欽が井戸に身を投げて死亡してから3日後、曹吉祥は北京の市中で凌遅刑に処された
。

曹吉祥は皇帝への反逆を企てた首謀者として処刑された。
曹欽が実際に軍を率いて戦ったのに対し、曹吉祥は計画が発覚した段階で拘束されており、
宮中から反乱に呼応することはできなかった。

それでも曹吉祥が極刑に処されたのは、
曹欽の挙兵が曹吉祥の宮廷内での協力を前提とする計画だったためである。

反乱に関与した湯序や馮益、曹吉祥の姻戚や配下にも処刑が及んだ。
一方、計画を密告した馬亮は反乱鎮圧への功績を認められ、都督の官職を与えられた。

曹家の勢力が崩壊した理由

曹吉祥は王振の配下として台頭した後、軍事遠征を通じて帰順兵や精鋭を抱え込み、
京軍にも影響力を持つようになった。
奪門の変では石亨らと協力して英宗を復位させ、その功績によって一族を軍の要職に就けた。

しかし、曹吉祥と石亨による人事介入や言官の弾圧は、英宗と朝廷の官僚たちの反発を招いた。
石亨が失脚すると、曹吉祥は配下の軍人たちに金銭や物資を与えて結束を固め、
曹欽とともに反乱を準備した。

計画が失敗した直接の原因は、
馬亮の密告によって英宗が事前に曹吉祥を拘束し、宮城の門を閉鎖できたことだった。

宮中の曹吉祥と城外の曹欽が連携できなくなったため、
曹欽は守備の整った宮城を外側から攻撃するしかなかった。

また、孫鏜が西征のために軍を集めていたことも、反乱鎮圧に大きく影響した。
英宗側は短時間で兵力を動員でき、曹欽の軍が宮城を突破する前に反撃を開始できたのである。

曹吉祥の私的な軍事勢力は、平時には権力を支える基盤だったが、
反乱が失敗すると一族と配下がまとめて処罰される原因となった。

まとめ

曹吉祥は、正統年間の麓川征討や兀良哈遠征、鄧茂七の乱の鎮圧に参加し、
軍事経験を積んだ宦官だった。
王振の死後も景泰年間の京軍に関与し、1457年には石亨・徐有貞らと結んで奪門の変を成功させた。

英宗復位後は司礼監と京軍に強い影響力を持ち、
養子の曹欽を昭武伯に封じさせるなど、一族と配下の昇進を進めた。
しかし石亨とともに言官を弾圧し、徐有貞・李賢・岳正らを攻撃したことで、
英宗からも警戒されるようになった。

1460年に石亨が失脚すると、曹吉祥は自らの処罰を恐れ、曹欽とともに反乱を計画した。
ところが馬亮の密告によって計画は発覚し、曹吉祥は宮中で拘束された。
曹欽は逯杲・寇深・呉瑾を殺害し、李賢にも負傷を負わせたが、孫鏜の軍に敗れて井戸に身を投げた。
曹吉祥も3日後に磔刑となり、一族と配下は処刑された。

『明史』は、英宗が初めに王振を重用して土木の変を招き、
後には曹吉祥を重用して再び禍乱を生じさせたと批判している。
曹吉祥が軍事監督として築いた人脈は奪門の変を成功させる力となったが、
英宗復位後には皇帝の統制を脅かす勢力へと変わり、最終的に反乱と一族の滅亡につながった。

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史書・参考文献

・『明史』巻三〇四「列伝第一九二 宦官一 曹吉祥」
・『明実録』「英宗睿皇帝実録」
・『明史紀事本末』巻三六「曹石之変」

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