歩練師(ほれんし、没年238年)は、
三国時代の呉の皇帝孫権に最も深く愛された女性として知られる人物である。
正史では歩夫人とも記される。
生前は皇后に冊立されなかったにもかかわらず、宮中では事実上の皇后として扱われ、
臣下や親族の中には彼女を中宮と呼ぶ者さえいた。
しかし礼法や政治上の事情から正式な皇后にはなれず、その地位は最後まで曖昧なまま終わった。
死後になってようやく皇后を追贈されるが、その待遇は完全な正統皇后とは言い難いものであった。
それでも孫権が長年にわたり最も寵愛した女性であり、
呉の後宮を語る上で欠かせない存在であることに変わりはない。
また彼女は後に呉後期の政治へ大きな影響を及ぼす孫魯班と孫魯育の母でもあった。
本記事では歩練師の出自から孫権との出会い、
そして呉後宮の中心人物となるまでの歩みを史実に基づいて詳しく解説する。
↓↓二宮事件等に深く関与した娘・孫魯班についての個別記事は、こちら

出自と江東への移住
歩練師は徐州臨淮郡淮陰県の出身である。
歩氏は後漢以来の名族として知られ、後に呉の重臣となる歩騭、その子の歩協、
さらに西晋成立直前に名を残す歩闡らも同族にあたる。
『三国志』によれば、その祖先は春秋時代の晋の公族である羊舌氏に遡るとされる。
羊舌氏から楊氏を経て歩氏となったという伝承があり、
少なくとも当時の人々は歩氏を由緒ある家柄と認識していた。
もっとも歩練師が生きた後漢末は王朝そのものが崩壊へ向かう混乱期であり、
名門の出自が安定した生活を保証する時代ではなかった。
各地で戦乱が続き、多くの豪族や名家が居住地を離れて避難を余儀なくされていた。
歩練師もまたその一人である。
後漢末、彼女は母に連れられて徐州から廬江へ移住した。しかし廬江も安全な土地ではなかった。
199年、孫策が廬江を攻略すると、歩練師は再び母とともに長江以南へ移住することになる。
この移住によって彼女は孫氏勢力圏へ入り、やがて孫権と出会うことになった。
歴史を振り返れば、この移住こそが歩練師の人生を決定づけた出来事だったと言える。
孫権との出会いと寵愛
歩練師がいつ孫権の後宮へ入ったのかについては史料に明確な記録がない。
しかし江東へ移った後、まだ若い時期に孫権の目に留まり、その側室となったことは確実である。
当時の孫権は若き君主として江東支配を進めていたが、
女性を好む性格でも知られており、後宮には多くの夫人や側室が存在していた。
その中で歩練師は急速に特別な存在となっていく。
『三国志』は彼女の容貌が極めて美しかったと伝えている。
もちろん美貌も理由の一つだっただろう。
しかし彼女が長年にわたり寵愛を失わなかった理由は、それだけでは説明できない。
歩練師は穏やかで柔和な性格の持ち主であり、他人を妬まないことで知られていたのである。
当時の孫権には徐夫人という正室がいた。
徐氏は名門出身であり、制度上は孫家の正式な妻であった。
しかし孫権の愛情は次第に歩練師へ移っていった。
やがて歩練師は後宮における第一の女性となり、徐夫人は失寵する。
正史では徐夫人が嫉妬を理由に遠ざけられたと記されているが、
歩練師自身が徐夫人を排斥したという記録は存在しない。
むしろ後宮内で対立を激化させるよりも、全体の調和を重視する人物として描かれている。
実際、後宮で権力を握った女性には他の妃嬪を排除しようとする者も少なくなかったが、
歩練師はそうした行動を取らなかった。
後宮の中心人物となる
『三国志』には、彼女が他の女性たちを孫権へ推薦することさえあったと記されている。
後に王夫人が入内した際にも、歩練師は対立するのではなく共存を選んでいる。
王夫人は後に孫和を生む重要人物であり、一般的な後宮であれば激しい競争相手となるはずだった。
しかし歩練師は後宮争いへ積極的に加わろうとせず、後宮全体の安定を優先したのである。
こうした人格は孫権にも高く評価され、長年にわたり孫権の信頼を獲得し続けた。
やがて宮中では彼女を事実上の皇后として扱う風潮が生まれる。
制度上の地位はあくまで夫人でしかなかったが、実際の権威はそれを大きく上回っていた。
親族が上奏文を書く際には歩氏を中宮と呼び、宮中の人々もまた皇后同然に接したという。
後宮の実質的な中心人物は誰かと問われれば、多くの人が歩練師の名を挙げたであろう。
しかしその一方で、彼女には決して越えられない壁も存在していた。それが皇后位の問題である。
孫権は彼女を深く愛していたが、国家の礼法や政治的事情は単純な愛情だけでは動かなかった。
そしてこの問題は、やがて呉王朝全体を巻き込む政治問題へ発展していくことになる。
皇后冊立問題と群臣の反対
歩練師が後宮の中心人物となった頃、孫権は既に江東の支配者として確固たる地位を築いていた。
制度上の正妻であった徐夫人は失寵し、実際には歩練師が最も高い権威を持つ女性となっていたが、
正式な王后には冊立されなかった。
孫権は長年この問題を放置した。
その理由は、歩氏を立てれば礼法を重視する群臣の反発を招き、
逆に徐夫人を立てれば自らが最も寵愛する歩氏を遠ざけることになるからであった。
やがて229年に孫権が皇帝へ即位すると、皇后冊立は避けて通れない問題となる。
孫権自身は歩練師を皇后にしたいと考えていたとされるが、
皇太子孫登や群臣の多くは正妻である徐夫人を立てるべきだと主張した。
特に孫登は呉国内で高い人望を持つ皇太子であり、その意見を無視することは容易ではなかった。
そのため孫権は決断を先送りし続けることになる。
胡綜は『請立諸王表』において「皇后無号、公主無邑、臣下嘆息、遠近失望」と上奏し、
皇后不在の状態が朝廷内外の不満となっていることを指摘した。
これは「皇后は定まらず、公主にも正式な封邑がなく、臣下は嘆き、遠近の人々は失望している」
という意味である。
しかし孫権は最後まで立后を実行せず、歩練師は実質的には皇后でありながら、
正式には皇后ではないという極めて特殊な立場のまま生涯を送ることになった。
孫魯班・孫魯育の母として
歩練師は孫権との間に二人の娘をもうけている。長女の孫魯班と次女の孫魯育である。
後に全公主と呼ばれた孫魯班は呉後期の政治に大きな影響を与えた人物であり、
強い政治的野心を持っていたことで知られる。
一方の孫魯育は比較的穏やかな性格だったとされるが、
最終的には姉との対立や宮廷内の権力闘争に巻き込まれ悲劇的な運命を辿った。
歩練師自身は238年に死去しているため、
後年の二宮事件や孫魯班と孫魯育の対立を見ることはなかった。
しかし後世から見ると、彼女の血統は呉後期政治の重要な一角を占めていたことになる。
もし歩練師が正式な皇后となっていたら、娘たちの政治的立場も大きく変わっていた可能性がある。
晩年と死後の待遇
238年、歩練師は死去した。『三国志』によれば赤烏元年二月のことである。
長年にわたり孫権の最愛の女性として後宮を支え続けたが、
生前に皇后となることはついになかった。
しかし孫権は彼女の死後、皇后を追贈した。
これは生前に果たせなかった願いを実現したものとも考えられる。
もっとも、その待遇は完全な正統皇后のものとは異なっていた。
閏十月の策命によって歩練師は宗廟へ配享されたが、
その対象は夫である孫権の宗廟ではなく、姑にあたる武烈皇后の宗廟であった。
つまり皇后の称号は与えられたものの、祭祀上の扱いには一定の制限が残されたのである。
墓所は蔣陵にある歩夫人塚と伝えられている。
後に正式な皇后となった潘皇后と比べると、死後の待遇はやはり一段劣るものであった。
しかし孫権が追贈という形で歩練師への思いを示したこともまた事実である。
↓↓後に正式な皇后となった潘皇后についての個別記事は、こちら

人物評価とまとめ
歩練師は孫権の後宮で最も寵愛を受けた女性として知られる。
『三国志』では美貌だけでなく、嫉妬をせず他の妃嬪とも協調した人格が高く評価されている。
後宮の女性を排斥するどころか孫権へ薦めることさえあったとされ、
こうした寛容さによって長年にわたり孫権の信頼を得た。
宮中では中宮と呼ばれ、事実上の皇后として扱われたが、
徐夫人との関係や礼法上の問題から生前の冊立は実現しなかった。
それでも孫権が最も愛した女性であったことは疑いなく、死後には皇后を追贈されている。
『三国志演義』には登場しないため知名度は高くないものの、
正史においては呉前期の後宮を代表する女性であり、
「皇后になれなかった皇后」と評されることも多い。
史書・参考文献
・『三国志』巻五十 呉書 妃嬪伝
・『三国志』巻五十九 呉書 孫権伝
・『資治通鑑』巻七十一~七十四
・裴松之注『三国志』
・陳寿『三国志』
・司馬光『資治通鑑』
・渡邉義浩『三国志人物事典』
・宮城谷昌光『三国志名臣列伝』
・吉川忠夫『三国志実像と虚像』
・小南一郎『中国の歴史 三国志の時代』
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