孫堅(そんけん、字は文台)は後漢末期を代表する武将の一人であり、
後に三国時代の呉を建国する孫氏政権の礎を築いた人物である。
皇帝となったのは次男の孫権であるが、孫堅こそが孫家の勢力拡大を実現し、
江東における基盤形成の出発点となった。
勇猛果敢な戦いぶりによって「江東の虎」と称され、
黄巾の乱、涼州反乱、区星の乱、そして反董卓戦争など後漢末期の主要な戦乱のほとんどに参加した。
特に董卓討伐戦では諸侯の中で最も積極的に戦い、
董卓軍を破って洛陽へ入城した数少ない将軍として知られる。
一方で大胆すぎる性格はしばしば危険を招き、その豪勇は後の孫策にも受け継がれた。
本記事では出自から反董卓連合参戦直前までの生涯を史実に基づいて詳しく解説する。
出自と若き日の活躍
孫堅は揚州呉郡富春県の出身である。
後世の『四庫全書』などでは春秋時代の兵法家として名高い孫武の子孫とされているが、
この系譜については後世の付会と見る意見もあり、確実なことは分かっていない。
ただし孫氏が呉郡において一定の勢力を持つ豪族であったことは間違いなく、
孫堅もその家に生まれた。
若い頃から人並み外れた胆力を備えており、後の英雄的な生涯を予感させる逸話が残されている。
172年、十七歳の時に銭唐県を訪れた際、海賊たちが海辺で略奪を行っている現場に遭遇した。
普通であれば避難する場面であったが、孫堅は丘の上へ登り、
あたかも大軍を指揮しているかのように手を振りながら部隊へ命令を出す真似をした。
海賊たちは官軍の大軍が押し寄せてきたと勘違いし、狼狽して逃走を始めた。
孫堅はその隙を突いて追撃し、首級を挙げたという。
この機転と勇気によって周囲から一躍注目され、役所に召し出されて仮尉に任命された。
後に数万の兵を率いる将軍となる孫堅の人生は、この海賊退治から始まったのである。
許昌の乱鎮圧と地方官としての経験
その後の孫堅は軍事官としての道を歩み始める。
当時の会稽郡では許昌という人物が宗教結社を背景に反乱を起こしており、
揚州一帯を不安定化させていた。
孫堅は揚州刺史臧旻の指揮下でこの反乱鎮圧に参加し、司馬として実戦経験を積んだ。
戦場では勇敢な働きを見せ、反乱平定後には臧旻によってその功績が朝廷へ報告された。
これによって塩瀆県丞に任命され、その後は盱眙県丞や下邳県丞などを歴任している。
この時代の孫堅はまだ地方官の一人に過ぎなかったが、
反乱鎮圧を通じて軍の統率方法や地方統治の実務を学び、後の軍閥指導者としての基礎を築いていた。
後漢末期の群雄の多くは黄巾の乱以降に頭角を現したが、
孫堅はそれ以前から豊富な軍歴を持っていた点が大きな特徴である。
黄巾の乱で名声を高める
184年、張角が率いる太平道によって黄巾の乱が勃発すると、後漢王朝は未曾有の危機に陥った。
全国各地で数十万の信徒が蜂起し、多くの州郡が反乱軍の支配下に置かれた。
朝廷は皇甫嵩や朱儁らを総司令官として派遣し鎮圧に乗り出したが、
その中で孫堅も朱儁配下の将として出征している。
家族は九江郡寿春県に残し、自らは最前線へ赴いた。
豫州方面で行われた波才討伐では重要な役割を果たし、
朱儁が汝南郡や潁川郡へ転戦すると常にその先鋒として戦った。
特に宛城攻略戦では城壁へ真っ先に取り付き、自ら兵を率いて登城したという。
激しい矢戦の中でもひるむことなく指揮を執り続けた結果、官軍は大勝利を収めた。
この戦功によって孫堅は別部司馬へ昇進する。
後に董卓や呂布と渡り合うことになる名将としての評価は、この黄巾の乱で確立されたのである。
涼州反乱と董卓との因縁
186年頃、涼州では辺章や韓遂らが大規模な反乱を起こしていた。
朝廷は司空張温を総司令官として派遣し、董卓や周慎らを従わせた。
孫堅も参軍として従軍している。
当時の董卓は後漢朝廷の有力将軍ではあったが、既に独断専行が目立ち、
しばしば軍規違反を犯していた。
孫堅はこれを看過できず、張温に対して軍法に従い董卓を処刑すべきだと進言した。
しかし張温は涼州平定のためには董卓の軍事力が必要だとして採用しなかった。
結果的に董卓は処罰を免れたが、この話を後に知った董卓は孫堅を深く恨むようになったという。
やがて後漢軍の大軍が迫ると辺章・韓遂軍は瓦解し、反乱は収束へ向かった。
孫堅はその功績によって議郎へ昇進したが、
この時に生まれた董卓との確執は数年後の反董卓戦争へと繋がっていく。
長沙太守として荊州を平定する
涼州反乱の後、孫堅は荊州南部で発生した区星の反乱鎮圧を命じられ、長沙太守として赴任した。
区星は数万の兵を集めて長沙郡一帯を脅かしていたが、
孫堅は巧みな軍事行動と計略によって短期間で鎮圧に成功した。
さらに区星を支援していた零陵郡や桂陽郡方面へも軍を進め、各地の反乱勢力を平定している。
この頃になると孫堅は単なる地方官ではなく、一地方の軍事と行政を統括する実力者へ成長していた。
また、この時期の逸話として有名なのが宜春救援である。
廬江太守陸康の親族が宜春長を務めていたが、賊軍の攻撃を受けて救援を求めてきた。
主簿は郡境を越えて出兵することは職務を逸脱すると反対したが、
孫堅は
「私は文徳によって名を得た人物ではなく、戦いによって身を立ててきた。
人を救うために罪を得たとしても天下に恥じることはない」と答えた。
そして直ちに出兵し、賊軍を撃退している。
この行動によって孫堅の名声はさらに高まり、その功績によって烏程侯に封じられた。
後に孫呉皇室の基礎となる爵位であった。
軍閥としての基盤形成
長沙太守時代の孫堅は各地を転戦する中で優秀な部下を数多く集めていった。
程普、黄蓋、韓当ら後に孫策や孫権を支える宿将たちはこの頃には既に孫堅軍の中核となっていた。
また長年にわたる反乱鎮圧によって兵士たちも実戦経験を積み重ね、
地方官軍を超える精鋭軍団へ成長していた。
後漢王朝の権威が衰退する中、多くの有力将軍が独自の軍事集団を形成して軍閥化していったが、
孫堅軍もまたその一つであった。
やがて洛陽では董卓が実権を掌握し、少帝を廃して献帝を擁立するという暴挙に出る。
さらにかつて孫堅の上官だった張温を処刑するなど専横を極めたため、
全国の諸侯は董卓討伐のために立ち上がることになる。
そして孫堅もまた、後漢王朝への忠義と董卓への私怨の双方を胸に、反董卓連合へ参加するのである。
反董卓連合への参加
189年、董卓は洛陽へ入ると少帝劉弁を廃し、献帝劉協を擁立して朝廷の実権を掌握した。
さらに反対派の官僚や名士を次々と粛清し、専横を極めるようになる。
これに対し190年、袁紹を盟主として各地の諸侯が挙兵し、いわゆる反董卓連合軍が結成された。
孫堅も長沙から兵を率いて参戦したが、その道中でまず荊州刺史王叡を殺害している。
王叡は董卓への反感を表明していたものの、以前から孫堅を軽視し侮辱的な態度を取っていたため、
孫堅は将来の障害になると判断したのである。
さらに北上すると南陽太守張咨も討ち取った。
これらの行動は反董卓戦争という大義名分の裏で、
孫堅が自らの勢力拡大も同時に進めていたことを示している。
その後、魯陽にいた袁術と合流すると、袁術は孫堅を高く評価し、
破虜将軍代理および豫州刺史に任じた。
以後、孫堅は袁術軍の主力として反董卓戦争を戦うことになる。
反董卓連合軍は華々しく結成されたものの、
多くの諸侯は自軍の損耗を恐れ、本格的な戦闘を避けていた。
実際に董卓軍と正面から戦っていたのは曹操や孫堅などごく一部であった。
曹操は徐栄に敗れて戦線を離脱し、孫堅もまた一度は徐栄に敗北している。
しかし曹操が兵力補充のため後退したのに対し、
孫堅は袁術の支援を受けて即座に再起し、再び董卓軍へ挑み続けた。
この執拗さこそが他の諸侯との大きな違いであった。
董卓軍との激戦
191年、孫堅は敗残兵をまとめて陽人へ駐屯した。
董卓は大督護胡軫と騎督呂布を派遣し、孫堅軍を撃破しようとした。
しかし胡軫と呂布は互いに仲が悪く、作戦行動も統一されていなかった。
孫堅はその隙を見逃さなかった。
董卓軍が混乱すると即座に反撃へ転じ、陽人の戦いで董卓軍を大破する。
呂布と胡軫は敗走し、多数の兵士が討ち取られた。
董卓は大いに恐れ、李傕を使者として派遣し、孫堅を懐柔しようと試みた。
娘を孫家へ嫁がせることまで提案したとされるが、孫堅はこれを拒絶した。
かつて張温に董卓処刑を進言した人物が、その誘いに応じるはずもなかったのである。
その後も孫堅は進軍を続け、董卓軍の将兵を撃破した。
『三国志』では華雄を討ち取ったとする記録が見え、
『演義』で有名な関羽による華雄討伐とは異なる。
実際の華雄は孫堅軍との戦いで戦死した可能性が高いと考えられている。
董卓はもはや洛陽を維持できないと判断し、都を長安へ移すことを決定した。
董卓軍は洛陽の住民を強制移住させ、宮殿や市街地を焼き払って西へ去った。
後漢王朝の首都として栄えた洛陽は焦土と化したのである。
洛陽入城と陵墓修復
董卓撤退後、孫堅は諸侯軍の中で最も早く洛陽へ入城した。
そこには焼け落ちた宮殿、荒らされた陵墓、放置された遺体が広がっていた。
董卓は洛陽を離れる際、歴代皇帝の陵墓を暴き、副葬品を略奪していた。
多くの諸侯が戦果や利権を求める中、孫堅はまず陵墓の修復を命じた。
暴かれた墳墓を塞ぎ、祭祀の再建を行ったという。
この行動は後世の史家から高く評価されている。
陳寿も「忠義と勇壮を兼ね備えた烈士」と評し、
裴松之もまた「同時代で最も忠烈の志を持っていた人物の一人」と称賛している。
反董卓戦争において実際に董卓軍を撃破し、洛陽へ入り、
皇室の陵墓を修復した人物は孫堅以外ほとんど存在しなかったのである。
一方で、この洛陽入城には有名な伝説が存在する。
『三国志演義』では孫堅が宮中の古井戸から伝国の玉璽を発見したことになっている。
井戸には宮女の遺体が沈んでおり、その傍らから玉璽が見つかったという筋書きである。
さらに孫堅は玉璽を隠し持ったため袁紹と対立し、反董卓連合瓦解の一因となったと描かれる。
しかし正史『三国志』にはこの話は存在しない。
玉璽に関する記録は裴松之注など後世の資料に見られるものの、史実として断定できるものではない。少なくとも洛陽で玉璽を発見したことが孫堅の行動原理であったとする証拠はない。
袁紹・袁術対立と反董卓連合の崩壊
董卓が長安へ逃亡したことで、本来なら諸侯軍は勝利を収めたはずであった。
しかし連合軍内部では袁紹と袁術の対立が深刻化していた。
袁紹は周喁を豫州刺史として派遣し、袁術派である孫堅の影響力を削ごうとした。
これに対し孫堅と袁術は周喁・周昂・周昕らと戦い、これを撃退している。
この戦いによって袁紹と袁術の対立は決定的となり、反董卓連合は事実上崩壊した。
董卓討伐という大義は失われ、天下は完全な群雄割拠の時代へ突入することになる。
孫堅は引き続き袁術陣営の主力として活動した。
董卓という共通の敵を失った以上、次に問題となるのは荊州の劉表であった。
劉表は袁紹と結び、袁術に対抗していたためである。
袁術は孫堅に劉表討伐を命じる。
ここに後漢末を代表する名将の一人であった孫堅の最後の戦いが始まるのである。
劉表との戦いと戦死
192年、孫堅は大軍を率いて荊州へ侵攻した。
まず劉表配下の黄祖と戦い、これを撃破する。
黄祖は襄陽へ逃れ、孫堅はそのまま襄陽を包囲した。
戦局は完全に孫堅優位であり、多くの者が勝利を疑わなかった。
しかしこの戦いの最中、孫堅は突然命を落とす。
正史『三国志』によれば、孫堅は峴山付近を単独で偵察していた際、
黄祖配下の兵士によって射殺されたという。享年三十七歳であった。
裴松之注『典略』では、敗走する黄祖軍を追撃した際に茂みに潜んでいた兵士の矢を受けたとされる。
一方、『英雄記』では193年正月七日に戦死したと記され、
呂公の伏兵によって落石を受け死亡したとしている。この説は後に『三国志演義』へ採用された。
さらに裴松之は孫策の年齢などから本伝の年代に誤りがある可能性を指摘している。
つまり孫堅の没年と死因については古くから諸説が存在し、完全な一致は見られない。
しかし少なくとも劉表軍との戦いの最中に戦死したこと、
そしてその死が孫家に大きな打撃を与えたことだけは確かである。
孫堅の遺体は当初劉表側にあったが、桓階の仲介によって取り戻された。
軍勢は孫賁がまとめ、棺は曲阿へ送られた。
その後、孫策が父の遺志を継ぎ、さらに孫権がそれを受け継ぐことになる。
後の呉帝国は、この時点ではまだ存在していなかったのである。
↓↓若くして父の遺志を継いだ孫策についての個別記事は、こちら

人物評価と後世への影響
孫堅は容貌が立派で性格は闊達、人の真似を嫌う豪胆な人物だったと伝えられる。
陳寿は『三国志』で「勇敢剛毅にして、自らの力によって身を立てた人物」と評し、
張温に董卓処刑を進言したことや洛陽の陵墓修復を高く評価している。
一方で「軽率で結果を急ぎすぎる性格が自らの死を招いた」とも述べている。
実際、黄祖軍追撃中の単独行動が戦死の原因となった可能性は高く、
この評価は的を射ていると言える。
裴松之はさらに踏み込み、「義をもって立った同時代人の中で最も忠烈の志があった」と称賛した。
公孫瓚もまた、董卓を打ち破り陵墓を修復した功績は計り知れないと評価している。
後に孫権が229年に皇帝へ即位すると、父孫堅は武烈皇帝と追尊された。
長沙には孫堅廟が建立され、孫呉政権の始祖として祭られることになる。
実際に呉を建国したのは孫権であり、江東を統一したのは孫策であったが、
その土台を築いたのは孫堅であった。
もし孫堅が黄巾の乱や反董卓戦争で名声を築かなければ、
孫策や孫権が後に飛躍することもなかっただろう。
『三国志演義』の孫堅
『三国志演義』における孫堅は、正史以上に豪勇無双の英雄として描かれている。
黄巾討伐では自ら敵将趙弘を討ち取り、
反董卓戦争では祖茂、程普、黄蓋、韓当らを率いる「江東猛虎」として登場する。
華雄との戦いでは袁術の兵糧支援が途絶えたため苦戦し、祖茂を失う場面が描かれる。
また最も有名なのは洛陽の古井戸で伝国の玉璽を発見する逸話である。
これによって袁紹との対立が激化し、反董卓連合崩壊へ繋がるとされる。
さらに最期も蒯良の計略による伏兵に遭い、矢と落石によって死亡する形へ脚色されている。
これらは史実ではないが、豪胆で野心的な英雄としての孫堅像を強く印象付ける要素となっている。
まとめ
孫堅は後漢末期の動乱を生き抜いた名将であり、海賊退治から身を起こして黄巾の乱、
涼州反乱、区星の乱、反董卓戦争で武功を重ねた人物である。
特に董卓軍との戦いでは諸侯の中でも最も果敢に戦い、
陽人の戦いで勝利し、洛陽へ最初に入城したことで名声を高めた。
しかし大胆な性格は時として危険を招き、劉表軍との戦いの最中に三十七歳で戦死した。
生涯は短かったものの、その軍団と名声は孫策へ受け継がれ、
さらに孫権による呉建国へと繋がっていく。
孫堅はまさに孫呉政権の原点であり、「江東の虎」の異名にふさわしい英雄であった。
史書・参考文献
・『三国志』巻四十六 呉書 孫破虜討逆伝
・『後漢書』巻七十四下 袁紹劉表列伝
・『資治通鑑』巻五十八~六十
・『典略』
・『英雄記』
・『呉録』
・『漢紀』
・陳寿『三国志』
・裴松之注『三国志』
・司馬光『資治通鑑』
・渡邉義浩『三国志人物事典』
・宮城谷昌光『三国志名臣列伝』
・吉川忠夫『三国志実像と虚像』
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