孫魯班(そんろはん、生没年不詳)は、三国時代の呉の公主であり、
孫権の長女として知られる人物である。字は大虎。母は歩練師、同母妹は孫魯育である。
最初は周瑜の長男周循に嫁ぎ、その死後は全琮へ再嫁したため全公主とも呼ばれた。
後年には呉王朝最大の後継者争いである二宮事件に深く関与し、皇太子孫和の失脚、王夫人の悲劇、
さらには妹孫魯育の死にも関係したとされる。
正史『三国志』においても極めて政治色の強い女性として描かれており、
呉後期の宮廷政治を語る上で欠かすことのできない存在である。
孫権と歩練師の娘として生まれる
孫魯班は呉の皇帝孫権と歩練師の間に生まれた。
母の歩練師は生前こそ皇后になれなかったものの、
後宮では事実上の皇后として扱われた女性であり、孫権から最も深い寵愛を受けていた。
そのため孫魯班もまた幼少期から特別な立場にあったと考えられる。
孫権には数多くの子女がいたが、歩氏の娘である孫魯班と孫魯育は
母の影響力もあって高い地位を有していた。
また母方には歩騭をはじめとする有力な歩氏一族がおり、
父方には呉王朝そのものを支配する孫氏宗室があった。
後に孫魯班が宮廷内で大きな発言力を持つことになる背景には、
この強力な血縁関係が存在していた。
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周循との結婚
孫魯班は若くして周循へ嫁いだ。
周循は赤壁の戦いで名高い周瑜の長男である。
周瑜は孫策の代から孫氏を支えた最大級の功臣であり、
その家格は呉国内でも極めて高かった。
孫氏と周氏の婚姻は単なる縁談ではなく、
建国功臣一族と皇族との結び付きという重要な政治的意味を持っていた。
しかし周循は若くして死去する。
正史はその詳細を伝えていないが、この死によって孫魯班は未亡人となった。
もっとも、この出来事によって彼女の政治的価値が失われたわけではなかった。
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全琮への再嫁と全氏一族との結合
229年、孫権が皇帝へ即位すると、孫魯班は全琮へ再嫁した。
全琮は呉を代表する将軍の一人であり、この時すでに衛将軍の地位にあった有力者である。
以後、孫魯班は全公主と呼ばれるようになる。
全琮はすでに壮年の将軍で、長男の全緒は孫魯班とほぼ同年代であったと伝えられるが、
両者の間には全懌や全呉らの子が生まれ、孫氏と全氏の結び付きはさらに強固なものとなった。
この婚姻は後の呉政治に極めて大きな影響を与えた。
なぜなら全氏一族は、二宮事件や孫亮政権において巨大な政治勢力へ成長するからである。
この再婚によって孫魯班は全氏一族の中心的人物となり、後の政治活動の基盤を手に入れたのである。
歩練師と孫登の死
238年、母の歩練師が死去した。
歩練師は孫権が最も愛した女性であり、後宮の実質的な中心であった。
その死は孫魯班にとって大きな打撃だったと考えられる。
さらに241年には皇太子孫登が死去する。
孫登は孫権の後継者として期待されていた人物であり、人望・能力ともに高く評価されていた。
そのため彼の死は呉王朝の後継体制を大きく揺るがした。
歩練師と孫登という二人の重要人物が相次いで世を去ったことで、
宮廷内の勢力図は大きく変化することになる。
孫和と王夫人への敵意
242年、孫登に代わって孫和が皇太子に立てられた。
孫和は聡明で徳望があり、多くの重臣から支持されていた。
しかし孫魯班は孫和とその母である王夫人を嫌っていた。
史書はその具体的理由を明記していないが、
歩練師の死後に王夫人が後宮で大きな影響力を持つようになったことが
背景にあったと考えられている。
孫和が皇太子となったことで王夫人の立場も上昇し、
それは歩氏一族や全氏一族にとって好ましい状況ではなかった。
やがて孫魯班は皇太子孫和に対抗する勢力へ接近していく。
二宮事件の始まり
孫和が皇太子となったことで後継者問題は決着したかに見えた。
しかし孫権はなお魯王孫覇を厚遇し続けた。
孫覇は孫和の異母弟であり、本来であれば皇太子を支える立場にあったが、
孫権は彼にも皇太子に匹敵する待遇を与えたため、朝廷では将来の後継者をめぐる憶測が広がった。
孫権に本当に皇太子を交代させる意思があったかは不明であるが、
その曖昧な態度は結果として政争の火種となった。
やがて陸遜・顧譚・張休らは皇太子孫和を支持し、
全琮・歩騭らは孫覇を支持するようになる。
夫の全琮と母方の歩氏一族を持つ孫魯班もまた孫覇派の中心人物となり、
以後は単なる皇女ではなく、後継者争いを動かす政治的存在として活動することになる。
こうして呉朝廷は皇太子派と魯王派に分裂し、
後に「二宮事件」と呼ばれる深刻な政争へ発展していった。
孫和失脚工作と王夫人への讒言
二宮事件が激化する中、孫魯班は孫和とその母である王夫人を排除するため積極的に動き始めた。
ある時、病に伏した孫権の回復を願い、孫和は宗廟で祈祷を行うよう命じられた。
しかし孫和はその途中で妃の叔父のもとへ立ち寄ったという。
これを聞いた孫魯班は、
「太子は宗廟で祈ることよりも妃の実家と相談することを優先しております。
王夫人も陛下の病を喜んでいるようです」と孫権へ告げた。
実際に王夫人がそのような言動を取った証拠はなく、
史書も孫魯班による誣告として伝えている。
だが晩年の孫権は猜疑心を強めており、この言葉を信じてしまった。
その結果、王夫人は深く悲しみ、失意のうちに病死した。
さらに孫和も父の信頼を失い始めることになる。
この一件は二宮事件の流れを決定的に変えた出来事であり、
それまで優勢だった孫和派を大きく後退させる契機となった。
張休・陸遜らへの攻撃
孫和を支持する重臣たちは依然として少なくなかった。
その中心にいたのが陸遜である。
夷陵の戦いで蜀を破った名将であり、呉国内で絶大な人望を誇っていた。
また張休や顧譚らも皇太子派の代表的人物であった。
これに対し孫魯班は夫の全琮や歩氏一族と結び付きながら孫覇派を支援し、
讒言によって皇太子派への攻撃を続けた。
その結果、張休や顧譚らは失脚し、陸遜も激しい政治的圧力を受けることになる。
陸遜は再三にわたり孫和を支持する上奏を行ったが、
孫権はこれを快く思わず、叱責の使者を送り続けた。
老齢の陸遜は憂憤のうちに病に倒れ、まもなく世を去った。
もちろん陸遜の死を孫魯班一人の責任に帰することはできないが、
彼女が二宮事件を激化させた中心人物の一人だったことは否定できない。
孫和廃嫡と孫覇の死
二宮事件は長年にわたって呉朝廷を混乱させた。
孫和派も孫覇派も互いに譲らず、重臣たちの対立も深刻化していった。
250年、孫権はついに決断を下し、
皇太子孫和を廃するとともに孫覇へ自害を命じ、
新たな後継者として幼い孫亮を皇太子に立てた。
つまり両陣営とも敗北という形で二宮事件そのものは終結したが、
その過程で陸遜・顧譚・張休ら多くの有力者が失脚し、
呉朝廷は大きな打撃を受けることになった。
一方、孫魯班は孫覇派の中心人物でありながら処罰を受けず、
彼女は新たな皇太子となった孫亮の周辺へ接近し、
さらに大きな影響力を得ようと動き始める。
潘淑・孫亮への接近と全皇后の誕生
孫魯班は自らが過去に行った数々の讒言が後に問題視されることを恐れていた。
そのため新たな権力者となる可能性の高い孫亮陣営へ接近する。
孫亮の母は孫権の寵妃であった潘淑、後の潘皇后である。
孫魯班は潘氏や孫亮との関係を強めるため、
夫の一族である全尚の娘を孫亮へ嫁がせるよう孫権へ勧めた。
この女性は後に孫亮の皇后となる人物である。
この婚姻は成功し、全氏一族は将来の皇帝家と結び付くことになった。
さらに孫亮が即位すると全尚の娘は皇后となり、全氏一族は外戚として大きな権勢を握る。
孫魯班にとっても、自らが属する全氏一族の地位を飛躍的に高めることに成功した出来事であった。
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孫亮即位後の権勢
251年に孫権が死去すると孫亮が即位した。
幼帝であったため実権は重臣たちが握ることになったが、
全皇后の誕生によって全氏一族は大きな影響力を持つようになる。
孫魯班もまた皇帝の姉として高い地位を維持した。
当時の実力者は孫峻であった。孫峻は全氏一族とも縁戚関係にあり、姉は全尚の妻であった。
さらにその娘は孫亮の皇后となっていたため、孫峻と全氏一族の結び付きは極めて強かった。
史書はさらに孫魯班と孫峻が私通していたとも伝えている。
真偽の判断は難しいものの、少なくとも両者が政治的同盟関係にあったことは確かである。
妹・孫魯育の死
孫魯育は孫権と歩練師の娘であり、
孫魯班の同母妹であったが、姉妹の関係は良好ではなかったとされる。
孫魯育はかつて孫和廃嫡に反対しており、孫魯班はこれを長く恨んでいたとされる。
255年、呉朝廷では実力者の孫峻に対する不満が高まり、将軍孫儀らによる暗殺計画が発覚した。
すると孫魯班は、この事件に孫魯育も関与していると孫峻へ告げた。
孫魯育が実際に計画へ加わっていたことを示す確かな証拠は見当たらず、
史書も孫魯班による誣告として伝えている。
しかし孫峻はこの訴えを受け入れ、孫魯育を処刑した。
こうして孫魯班は実の妹を死へ追いやった人物として後世に記憶されることになる。
この事件は彼女の評価を決定付けた出来事であり、
権力維持のためには肉親すら排除した冷酷な人物として語られる最大の理由となっている。
孫亮との対立と失脚
その後、孫亮は孫峻の後継者である孫綝の専横に不満を抱くようになる。
258年、孫亮は全尚や孫魯班、劉承らとともに孫綝を討つ計画を立てた。
しかし計画は事前に発覚してしまう。
孫綝は先手を打ってクーデターを起こし、孫亮を廃位した。
この政変によって全氏一族は没落し、孫魯班も豫章へ流されたと伝えられる。
以後の消息は史書に見えない。
没年も死没地も不明であり、二宮事件以後の宮廷政治で大きな影響を及ぼした女性は、
歴史の表舞台から静かに姿を消したのである。
まとめ
孫魯班は孫権と歩練師の長女として生まれ、
周瑜の子周循に嫁いだ後、全琮へ再嫁して全公主と呼ばれるようになった。
父や母の威光だけでなく、自らも宮廷政治へ深く関与し、
二宮事件では孫覇派の中心人物として活動した。
王夫人への讒言によって孫和失脚の流れを加速させ、
さらに同母妹・孫魯育誅殺にも関与したことで、その評価は決して高くない。
しかし一方で、全氏一族と結び付きながら権力の推移を見極め、
孫亮擁立後も影響力を維持し続けたことから、
呉後期の宮廷政治に大きな足跡を残した人物であったことも事実である。
最終的には孫亮廃位事件によって失脚し、その後の消息は史書に見えないが、
二宮事件をはじめとする呉後期最大級の政争を語る上で欠かすことのできない公主である。
史書・参考文献
・『三国志』巻五十 呉書 妃嬪伝
・『三国志』巻五十九 呉書 孫権伝
・『三国志』巻六十 呉書 全琮伝
・『三国志』巻六十四 呉書 孫魯育伝注
・裴松之注『三国志』
・『資治通鑑』巻七十五~七十七
・陳寿『三国志』
・司馬光『資治通鑑』
・渡邉義浩『三国志人物事典』
・宮城谷昌光『三国志名臣列伝』
・吉川忠夫『三国志とその時代』
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