【北周】宇文護|二帝を死に追いやり北周三代を支配した権臣

宇文護(北周) 032.権臣

宇文護は、北周建国前後から約15年にわたって朝廷の実権を握った権臣である。
宇文泰の甥として西魏の軍事・政治に携わり、
宇文泰の死に際して幼い子供たちと政権を託されたことから、その権力は始まった。

宇文護は西魏から北周への禅譲を主導して宇文覚を孝閔帝として即位させたが、
やがて皇帝との対立を深め、孝閔帝を廃位・殺害した。
続いて明帝・宇文毓を擁立したものの、その能力を恐れて毒殺し、さらに武帝・宇文邕を即位させる。

三代の皇帝にまたがって軍事・人事・政務を掌握し、その邸宅には宮城を上回るほどの兵が置かれ、
軍の動員も宇文護の命令なしには行えないほどの権力を築いた。

しかし、宇文護は単なる簒奪者ではない。
宇文泰死後の不安定な政権をまとめ、北周建国を実現し、
宇文泰以来の国家体制を維持した功績もあった。

一方で長期政権のなかで一族や側近の腐敗が進み、北斉への大規模遠征でも敗北する。
表面上は従順に振る舞っていた武帝・宇文邕はその間も宇文護排除の機会を待ち続け、
572年、ついに宮中で宇文護を殺害した。

『周書』『北史』『資治通鑑』を中心に、
宇文護がなぜ北周最大の権臣となり、二人の皇帝を死に追いやりながら自ら皇帝にはならず、
最後には武帝・宇文邕に討たれたのか、その生涯と権力構造を見ていく。

出自と前半生|宇文泰に「自分に似ている」と評された甥

宇文護、字は薩保。父は宇文泰の兄・邵恵公宇文顥であり、宇文泰の甥にあたる。
幼い頃から品行が正しく志と度量があり
、祖父の宇文肱から兄弟のなかでも特に可愛がられたという。

11歳のとき父を失い、六鎮の乱をはじめとする北魏末の混乱のなかで一族とともに各地を転々とした。
宇文泰が関中へ入った際には年少だったため同行せず、
17歳ごろになって晋陽から平涼へ赴き、宇文泰と合流している。

このころ宇文泰の子供たちはまだ幼かったため、宇文護は一族の家政を任された。
『周書』は、厳しく取り締まらなくても家中が粛然としていたといい、
その様子を見た宇文泰は宇文護について「この子の志と度量は私に似ている」と評価した。

宇文護は単なる一族の家政担当者にとどまらず、やがて宇文泰の軍事行動にも参加する。
賀抜岳が侯莫陳悦に殺害された後には都督となって討伐に従い、
北魏孝武帝を関中へ迎えた功績で水池県伯に封じられた。

その後も東魏との戦争で竇泰を破る戦い、弘農奪回、沙苑の戦い、河橋の戦いなどに参加した。
邙山の戦いでは先鋒を務めたものの敵軍に包囲され、侯伏侯龍恩の奮戦によって辛くも脱出し、
この敗戦によって一時免官されている。

しかし失脚は長く続かず復帰し、中山公、大将軍へと昇進した。
さらに于謹による南朝梁の江陵攻略では軽騎兵を率いて先行し、昼夜兼行で江陵へ迫り、
長江の渡河地点を遮断して船舶を確保するなど、攻略に重要な役割を果たした。
帰還後には襄陽周辺で抵抗していた向天保らの勢力も平定している。

したがって宇文護は、宇文泰の甥という血縁だけによって最高権力者になった人物ではない。
西魏時代から軍事・家政の双方で経験を積み、宇文泰政権の中核へ上昇していた。

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【西魏】宇文泰|西魏を支配し隋唐の基礎を築いた軍事政治家
宇文泰(うぶんたい)は、北魏末の混乱から台頭し、孝武帝を長安へ迎えて高歓と対峙、西魏三代の実権を握った軍事政治家。沙苑で東魏軍を破り、蘇綽を登用して国家再建を進め、府兵制につながる軍制、八柱国・十二大将軍、六官制を整えた。蜀・江陵への領土拡大、関隴集団の形成、宇文護への政権継承まで、北周を経て隋唐へつながった宇文泰の生涯と政治・軍事改革を史書から詳しく解説する。

宇文泰の遺命|補佐役から北周建国の主導者へ

556年、宇文泰は西巡中に病に倒れ、宇文護を急ぎ呼び寄せた。
病状が重くなると、
「私の子供たちは幼く、敵もまだ平定されていない。天下のことをお前に託す」と後事を委ねた。

宇文泰が雲陽で死去すると、宇文護はその死を一時秘して長安へ戻ってから喪を発した。
後継者の宇文覚はまだ若く、東には北斉という強敵が存在していたため、
宇文泰の突然の死が明らかになれば政権が動揺する危険があったからである。

宇文護は朝廷内外を統制して文武の官僚を慰撫し、動揺を抑えた。
宇文泰の葬儀が終わると柱国となり、やがて西魏恭帝に禅譲を迫る。
557年、宇文覚が天王として即位し、北周が成立した。

孝閔帝即位後、宇文護は大司馬・晋国公となり、一万戸を与えられた。
さらに大冢宰となり、北周の軍政を統括する地位に立つ。

宇文護の出発点はあくまで宇文泰から後事を託された補佐者だった。
当時は嗣子が若く、強敵も近く、人心も不安定であったため、
于謹ら重臣も軍国の大事を宇文護に委ねることを認めていた。

しかし、宇文護の権力が急速に拡大すると、宇文泰時代からの有力者との対立が表面化する。

趙貴・独孤信の排除

北周建国直後、八柱国の一人である趙貴と独孤信らが宇文護の排除を企てた。

宇文護はこれを察知すると、趙貴が入朝したところを捕らえ、関係者を処刑した。
独孤信も連座し、自害を命じられる。
宇文泰とともに西魏を支えた有力軍人が排除されたことで、
宇文護に対抗できる旧来の重臣勢力は大きく弱体化した。

この事件以後、宇文護の権威はさらに強まり、
謀臣・宿将が競って彼のもとへ集まり、大小の政務が宇文護によって決裁される状態になっていく。

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三代の皇帝と宇文護|孝閔帝・明帝・武帝

孝閔帝の廃位と殺害

孝閔帝・宇文覚は、宇文護の権力が増大するにつれてその専横を嫌うようになった。

宇文泰時代から要職にあった李植・孫恒らも宇文護に警戒を抱き、
乙弗鳳ら宮中の側近と結んで孝閔帝に宇文護排除を勧めた。
孝閔帝はこれを受け入れ、後園で武士に捕縛の訓練をさせるなど、
実際に宇文護を捕らえる準備を進めている。

宇文護は陰謀の気配を察知し、李植と孫恒を地方へ転出させた。
それでも計画は続けられたが、張光洛がその内容を宇文護へ密告する。

宇文護は禁軍を掌握する尉遅綱らを動かし、乙弗鳳らを捕らえ、孝閔帝を旧邸へ幽閉した。
公卿を集めると、孝閔帝が側近を重用して宗室や大臣を排斥しようとしているとして、
「略陽公に背いても国家には背かない」と廃位を正当化した。

孝閔帝は廃位され、ほどなく殺害された。
宇文護はさらに李植・孫恒らも処刑し、
宇文泰の長男である宇文毓を岐州から迎えて皇帝とした。これが明帝である。

明帝への帰政と毒殺

明帝は聡明で識見に優れた人物だった。

宇文護は明帝即位後も強大な権力を握ったが、559年には政務を皇帝へ返すことを申し出た。
明帝はこれを認め、一般政務については親政を開始した。
ただし軍事と国家の重要事項は引き続き宇文護に委ねられたため、完全な権力返還ではなかった。

明帝が自ら政務を処理するにつれて、その能力は明らかになっていった。
『周書』は宇文護が明帝の聡明さと識見を深く恐れたと記している。

560年、宇文護は膳部下大夫の李安に命じ、明帝の食事に毒を入れさせた。
明帝は病に倒れ、自らの死が近いことを悟ると、
弟の宇文邕へ皇位を継がせるよう遺詔を残して死去した。

宇文護はその宇文邕を皇帝に立てた。これが武帝である。

したがって宇文護は「三人の皇帝を殺害した」わけではない。
孝閔帝を廃位・殺害し、明帝を毒殺したと史書に記され、
武帝を擁立してその治世前半を支配した人物である。

武帝の忍従と宇文護の絶頂

武帝が即位しても、実権は宇文護の手に残った。

宇文泰が丞相だった時代に編成した左右十二軍は、宇文泰の死後すべて宇文護の指揮を受け、
兵の徴発には宇文護の文書が必要だった。
宇文護の邸宅を守る兵は宮城の禁衛より多く、政務は大小を問わず宇文護が先に決定し、
その後に皇帝へ報告する「先断後聞」の状態だった。

561年には都督中外諸軍事となり、軍権をさらに集中させた。
563年には、詔勅や官庁文書で宇文護の名を直接記してはならない
という特別待遇まで与えられている。

一方の武帝は、宇文護に正面から対抗しなかった。
宮中で宇文護と会う際には皇帝と臣下ではなく一族の年長者に対する礼を取り、
太后の前では宇文護が座り、武帝が傍らに立って仕えることさえあった。

しかし、これは宇文護への全面的な服従を意味しなかった。
武帝は自らの意図を隠し、十年以上にわたって宇文護を警戒させないよう振る舞いながら、
排除の機会を待つことになる。

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宇文護の統治|北周を支えた権臣と専権政治

宇文護は宇文泰が作り上げた国家体制を基本的に継承した。

府兵制を中心とする軍事体制、六官制を軸とする官僚機構など、
宇文泰時代に整えられた制度そのものを全面的に破壊したわけではない。
西魏末から北周初期の不安定な時期に政権をまとめ、王朝を存続させた点は、
宇文護の政治的役割として無視できない。

一方、その統治は皇帝を中心とする通常の君主制とは大きく異なっていた。

軍事・人事・政務の最終的な判断が宇文護へ集中し、
皇帝の意思より宇文護の決定が優先されることがあった。
『資治通鑑』も、軍の徴発は宇文護の文書がなければ行われず、
その邸宅の護衛が宮城より盛大だったと記している。

長期政権のなかでは弊害も拡大した。
『周書』は宇文護自身について、性格は「甚だ寛和」であった一方、「大体に暗し」と評する。
本人が常に残虐だったというより、国家全体を見通す政治判断に欠け、
登用した人物にも問題が多かったという評価である。

さらに息子たちは貪欲で残忍、側近たちは宇文護の威勢を頼んで放縦に振る舞い、
政治を害し民衆を苦しめたとされる。
572年に武帝が宇文護を誅殺した際の詔書でも、
朋党、賄賂、重い徴税や労役などが宇文護政権の弊害として列挙された。

ただし、この詔書は宇文護を殺害した武帝側が政変を正当化するために発した文書でもあるため、
その評価をそのまま事実として受け取るのではなく、
『周書』自身が記す一族・僚属の腐敗と合わせて見る必要がある。

母・閻姫との35年ぶりの再会

宇文護の人物像を考えるうえで重要なのが、母・閻姫との関係である。

北魏末の戦乱によって宇文護と母は離れ離れとなり、閻姫はやがて北斉領内に取り残された。
宇文護が北周最高の権力者となった後も、母の消息は長く分からなかった。
『資治通鑑』にも、宇文護が北斉へ人を送り続けて母を探したことが記されている。

563年ごろ、宇文護は北斉との外交交渉を利用し、北斉領に残されていた母・閻姫の返還を求めた。

閻姫から宇文護へ送られた書簡には、
幼少期の出来事など母子にしか分からないような記憶が記され、証拠として衣服も添えられた。
宇文護は手紙を読むと激しく泣き、返書では母と離れてから35年が経過したこと、
王公として富貴を極めながら母を異国に残している苦しみを綴った。

なお、『資治通鑑』では閻姫の書簡は北斉側の人物が代作したものとされており、
全文をそのまま閻姫自身の筆による文章とみなすことはできない。

北斉は母の返還を外交材料として交渉を引き延ばしたが、564年に閻姫は北周へ帰国した。
宇文護は長年離れていた母と再会し、衣食や住居を極めて豪華に整えて孝養を尽くした。
四季の節日には武帝をはじめ宇文氏の親族も集まり、家族として閻姫の長寿を祝った。

権力闘争では二人の皇帝を死に追いやった宇文護だが、史書は同時に「性至孝」と記している。
専権的な政治家という一面だけでは捉えられない人物像が、この母子の逸話には残されている。

北斉との対抗|大軍を率いながら敗れた洛陽遠征

北周にとって最大の敵は東方の北斉だった。

宇文泰の時代から北周側は突厥と連携して北斉を挟撃する構想を持っており、
宇文護もこの方針を引き継いだ。
563年には楊忠と突厥軍が北斉領へ侵攻し、長城を突破して晋陽方面へ迫った。

翌564年には再び大規模な東征が行われる。
宇文護自身が総指揮を執り、北周各地と属国から約20万の兵を集め、
尉遅迥に精兵10万を率いさせて洛陽を包囲した。宇文憲や達奚武らも邙山に布陣する。

しかし『周書』は、宇文護について「性、戎略無し」と厳しく評価している。

宇文護は河陽方面を遮断して北斉の援軍を防いだうえで洛陽を攻める構想を立てていたが、
前線の諸将は北斉軍が積極的に出撃しないと判断し、警戒が緩んだ。
濃霧のなか北斉軍が接近すると洛陽包囲軍は崩れ、
尉遅迥や宇文憲らが防戦してようやく全軍を撤退させることができた。

この戦いでは斛律光や高長恭ら北斉側の名将が活躍し、北周軍は洛陽攻略に失敗した。
宇文護は帰還後、諸将とともに武帝へ謝罪したが、武帝は処罰しなかった。

宇文護は北周の軍権を長期間掌握した人物ではあったが、
自らが卓越した野戦指揮官だったわけではない。
国家の軍事機構を統括する政治的能力と、戦場での軍略は分けて評価する必要がある。

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最期|武帝が仕掛けた宮中暗殺

宇文護の権力が長期化する一方、武帝は密かに排除の準備を進めていた。

衛王宇文直はもともと宇文護と親しかったが、
沌口での敗戦によって官職を解かれたことから宇文護を恨むようになり、武帝に誅殺を勧めた。
武帝は宇文直のほか、王軌、宇文神挙、宇文孝伯らと密かに計画を進める。

572年3月18日、宇文護が同州から長安へ戻ると、武帝は文安殿で彼と会い、
その後、含仁殿にいる皇太后への挨拶に同行させた。

武帝は宇文護に
「太后は高齢になって酒を好むようになり、自分が何度諫めても聞き入れてもらえない。
 兄からも諫めてほしい」と頼み、『尚書』の「酒誥」を渡した。

宇文護は疑うことなく太后の前で『酒誥』を読み始めた。

読み終わらないうちに、武帝は背後から玉珽で宇文護を殴りつけた。
宇文護が地面へ倒れると、武帝は宦官の何泉に御刀で斬るよう命じたが、
何泉は恐怖で手元が定まらず、傷を負わせることができなかった。

そこであらかじめ室内に隠れていた宇文直が飛び出し、宇文護を斬殺した。

宇文護の暗殺を知っていた者はごく少数だった。
王軌ら計画に関与した者さえ当日は外におり、
宇文護が殺された後に初めて宮中の官僚へ事実が伝えられた。

武帝は直ちに宇文護の息子たちや主要な側近を拘束した。
譚国公宇文会、莒国公宇文至、崇業公宇文静ら一族だけでなく、
侯伏侯龍恩ら有力者も宮中で処刑された。
突厥へ使者として赴いていた息子の宇文深にも追手が送られ、
蒲州刺史だった世子の宇文訓も呼び戻されて死を賜った。

こうして宇文泰の死から約16年間にわたって続いた宇文護の権力は、一日で崩壊した。

武帝はここで初めて北周の実権を完全に掌握する。
その後、軍制・財政・宗教政策を含む改革を進め、
577年には宿敵だった北斉を滅ぼして華北統一をほぼ実現することになる。

ただし宇文護一族への処分が永久に続いたわけではない。
574年、武帝は宇文護とその子供たちの旧封爵を回復し、宇文護に「蕩」の諡を与えて改葬させた。
政敵として殺害した後も、宇文氏宗族の一員としての地位そのものを
完全に抹消したわけではなかった。

宇文護の人物像と評価|簒奪者にならなかった最高権力者

宇文護は、単純に「皇帝を殺した悪臣」として片づけると実像を見失う人物である。

宇文泰の死後、まだ若い後継者と北斉という強敵を抱えた西魏政権をまとめ、
北周建国を実現したのは宇文護だった。
宇文泰が死の直前に天下のことを託した事実からも、
少なくとも当初は宇文氏政権を守る後見者として期待されていたことが分かる。

一方、その後見体制は長期化した。
趙貴・独孤信を排除し、孝閔帝を殺害し、明帝も毒殺したと『周書』は明記する。
武帝の時代には兵権・人事・政務をほぼ掌握し、
皇帝が宇文護に家人の礼を取るほど立場が逆転していた。

それでも宇文護は自ら皇帝にはならなかった。
孝閔帝を排除した後には明帝を、明帝の死後には武帝を立てており、
皇位そのものは一貫して宇文泰の子供たちへ継承させている。
孝閔帝排除の際にも、宇文護は自らを宇文泰から後事を託された者として位置づけ、
宇文氏政権を守ることを行動の正当化に用いた。

だからといって二帝の殺害が「宇文泰の血統を守るためだった」と断定することもできない。
孝閔帝も明帝も宇文泰の実子であり、両者の排除は宇文護自身の権力維持と不可分だった。

宇文護は、宇文泰の遺命によって正統性を得た補佐者が、
皇帝を凌ぐ権力者へ変化していった人物だった。
そして、その権力があまりにも大きくなったため、
宇文護自身が作り上げた北周皇帝の一人である武帝によって排除されることになる。

まとめ

宇文護の権力の原点は、宇文泰の遺命だった。
若い頃から宇文泰のもとで軍事・家政の実務を経験し、
宇文泰の死後には不安定な政権をまとめ、西魏から北周への王朝交代を実現した。

しかし、北周建国後には趙貴・独孤信ら有力者を排除し、
孝閔帝を廃位・殺害、明帝を毒殺して武帝を擁立した。
軍の徴発から朝廷の政務まで宇文護の決裁を必要とするほど権力を集中させ、
北周三代にわたる事実上の最高権力者となった。

その一方で、宇文泰以来の国家体制を維持して北周を存続させた政治的役割や、
35年ぶりに帰還した母へ孝養を尽くした人物像も史書には残されている。
宇文護自身は比較的寛和な性格と評されながら、一族や側近の腐敗を抑えられず、
軍事面でも564年の洛陽遠征に失敗した。

572年、長年忍従していた武帝は「酒誥」を利用して宇文護を宮中へ誘い込み、
自ら玉珽で打ち倒して殺害した。
宇文護の死によって約16年間の権臣支配は終わり、武帝の親政が始まる。

宇文護は北周を簒奪しようとした単純な野心家でも、王朝を破壊しただけの奸臣でもない。
宇文泰亡き後の北周を成立させて支えながら、その後見権力を手放さず、
ついには皇帝を凌ぐ存在となった。
北周初期の安定と皇帝権力の空洞化という相反する二つの側面を、最も強く体現した人物だった。

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史書・参考文献

・『周書』巻十一「列伝第三 晋蕩公護」
・『周書』巻三「帝紀第三 孝閔帝」
・『周書』巻四「帝紀第四 明帝」
・『周書』巻五「帝紀第五 武帝上」
・『北史』巻五十七「列伝第四十五 周宗室」
・『北史』巻九「周本紀上」
・司馬光『資治通鑑』巻167~171
・宮崎市定『中国史』
・岡崎文夫『魏晋南北朝史』

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