【東魏】高歓|北魏を掌握し東魏・北斉へと繋がる基礎を築いた実力者

高歓(東魏の武将) 032.権臣

高歓(こうかん、496~547)は、北魏末の混乱から台頭し、爾朱氏を滅ぼして北魏の実権を握り、
東魏を事実上支配した軍事・政治指導者である。字は賀六渾(がろくこん)。
生前に皇帝となることはなかったが、北斉成立後に神武皇帝と追尊され、廟号を高祖とされた。

高歓の生涯を単に「北斉の基礎を築いた人物」とまとめるだけでは、その実像は見えてこない。
北魏北辺の懐朔鎮で育った高歓は、六鎮の乱では杜洛周、葛栄、爾朱栄と主君を替えながら生き残り、
やがて爾朱氏から大量の六鎮兵を引き離して自らの軍団へ変えた。

韓陵の戦いで爾朱氏を壊滅させると孝武帝を擁立して北魏の実権を握ったが、
孝武帝は高歓の支配を拒み、宇文泰を頼って長安へ逃亡する。
高歓は新たに孝静帝を立てて都を鄴へ移し、北魏は東魏と西魏に分裂した。

その後の高歓は晋陽を軍事的本拠として巨大な軍事政権を築き、宇文泰と華北の覇権を争った。
沙苑では大敗し、邙山では宇文泰を破り、晩年には玉壁を50日間攻め続けながら落とせず、
病を得て撤退した。

一方で六鎮系の鮮卑・勅勒武人、河北の漢人豪族、北魏以来の官僚を一つの政権へ組み込み、
柔然など北方勢力とも外交関係を築いた。
死の直前には侯景の離反まで予測し、
それに対抗できる人物として慕容紹宗の名を息子の高澄に残している。

高歓自身は王朝を建てなかった。
しかし高歓が軍隊・領土・官僚機構・人脈・後継体制を作り上げていなければ、
次男の高洋が550年に北斉を建国することもなかった。
北斉の歴史を理解するうえで、高歓は事実上の創業者と呼ぶべき存在である。

懐朔鎮で育った高歓|貧しい青年から六鎮の武人へ

高歓は496年に生まれた。
『北斉書』『北史』は高氏の本貫を渤海郡蓨県とし、六世祖の高隠は西晋の玄菟太守、
その後の高慶・高泰・高湖は慕容氏に仕え、高湖の代に北魏へ帰順したとする。

転機となったのが祖父の高謐で、高謐は北魏で侍御史まで昇ったものの、
罪を得て北辺の懐朔鎮へ移された。これ以後、高氏は北辺社会に定着する。

父の高樹生は家業を顧みない豪放な人物だったとされ、母の韓氏は高歓を産んでまもなく死去した。
そのため高歓は姉と、その夫である尉景の家で育てられた。

『北史』は高氏について、代々北辺に暮らしたためその風俗に馴染み、
「遂に鮮卑に同じ」ようになったと記している。
つまり高歓は系譜上は渤海高氏という漢人系の家に属しながら、
実際の言語・生活・人的関係では鮮卑化した北辺社会の人間だった。


この二重性は、後に鮮卑・勅勒系武人と河北の漢人豪族の双方を取り込んだ
高歓政権の性格にもつながっていく。

婁昭君との結婚と懐朔鎮の隊主

若い高歓は裕福ではなく、『北斉書』は「家貧」と明記している。
後に妻となる婁昭君は裕福な家の娘だったが、高歓を見て「この人こそ私の夫だ」と考え、
侍女を通じて意思を伝えたという。
高歓は婁氏との結婚によって初めて馬を得ることができ、それをきっかけに懐朔鎮の隊主となった。

鎮将の段長は高歓の容貌を見て、世を救う才能があり、
ただ者では終わらないと評し、子孫を託したという。
後に高歓が権力を握ると段長を追贈し、その子を登用している。

北斉成立後の史書には、高歓の若年期を帝王の父にふさわしく飾る
瑞兆や予言も数多く収録されているため、そのまま史実とはできないが、
後世の高氏政権が高歓の若年期をどのように語ろうとしたのかを示す逸話ではある。

↓↓複数の皇帝を生んだ婁昭君についての個別記事は、こちら

【北斉】婁昭君|高歓を支え北斉皇室の母となった武明皇后の生涯
婁昭君(ろうしょうくん)とは、北斉の基礎を築いた神武帝・高歓の妻で、文宣帝高洋・孝昭帝高演・武成帝高湛らの母。無名時代の高歓を自ら夫に選び、その密謀に加わって台頭を支えた。柔然との政略結婚、侯景への進言、高殷の廃位などにも関与した北斉の「国母」の生涯と政治的影響を史実から解説する。

函使として洛陽を往復し、北魏の崩壊を目撃

高歓は隊主から函使となり、およそ6年間にわたって懐朔と洛陽を往復した。
この頃には、建興を通過すると昼間から雲霧に覆われて雷鳴が高歓についてきた、
星々を踏んで歩く夢を見たといった瑞兆も伝えられる。

一方で、後世の英雄像とは対照的な記録もある。
洛陽へ来るたびに高歓を使っていた令史・麻祥が肉を与えた際、
高歓が座って食べたことを無礼とみなし、四十回も鞭打ったという。
後に北魏の皇帝を選ぶほどの権力者となる高歓も、この時点では下級の使者にすぎなかった。

高歓に大きな影響を与えたのが、洛陽で目撃した羽林軍の暴動だった。
羽林・虎賁の兵士たちは武人の官僚登用を制限しようとした張彝の邸宅を襲撃して焼き払い、
張彝を死に至らしめたが、朝廷は軍人たちを恐れて十分に処罰できなかった。

懐朔へ戻った高歓は、それまでの財産を惜しげもなく人との交際に使い始めた。
理由を尋ねられると、軍人が大臣の家を焼いても朝廷が処罰できないほど政治が崩れている以上、
財産などいつまでも守れるものではないという趣旨を語ったとされる。

この頃、高歓は司馬子如・劉貴・賈顕智・孫騰・侯景らと交友を結んだ。
史書には、彼らと狩りをした際に盲目の老婆と二人の男が現れ、
高歓らの将来を予言したという怪異譚まで残る。

伝説的要素を除いても、この時期に形成された人脈が
後の高歓政権を支える基盤となったことは重要である。

六鎮の乱から爾朱栄の幕下へ|流転の末に頭角を現す

523年、北魏北辺で六鎮の乱が始まった。
六鎮とは沃野・懐朔・武川・撫冥・柔玄・懐荒の軍事拠点で、
かつては柔然などに備える北魏の重要な防衛線だった。

しかし孝文帝の洛陽遷都以後、北辺軍人の政治的・社会的地位は低下し、不満が蓄積していた。
高歓のいた懐朔鎮も反乱に巻き込まれ、
525年には高歓も尉景・段栄・蔡儁らとともに杜洛周の反乱軍へ加わった。

しかし高歓は杜洛周を見限り、仲間とともに殺害を計画した。
計画は失敗し、高歓一行は追撃を受けながら逃亡する。


このとき妻の婁昭君は幼い高澄らを牛に乗せて逃げたが、
高澄が何度も落ちたため、高歓は追手から逃げ切るために我が子を弓で射ようとしたという。
婁昭君が段栄に助けを求め、段栄が高澄を拾い上げたことで助かったと伝えられる。

高歓一行は葛栄のもとへ逃れたが、そこにも長く留まらなかった。
次に向かったのが、秀容を本拠とする爾朱栄だった。

荒馬を扱い、爾朱栄に認められる

高歓を以前から知る劉貴は、その才能を爾朱栄に何度も推薦していた。
しかし逃亡生活で憔悴していた高歓を見ても、当初の爾朱栄は特別な人物とは思わなかったという。
劉貴は高歓の身なりを整え、再び爾朱栄に会わせた。

このとき爾朱栄の厩舎には人を蹴ったり噛んだりする荒馬がいた。
高歓は馬を縛りつけることもなく毛を刈り終え、
「悪人を御するのもこの馬と同じだ」という趣旨の言葉を述べた。

これを見た爾朱栄は初めて高歓に興味を持ち、周囲を退けて天下の情勢について意見を求めた。

高歓は、皇帝は弱く、胡太后や寵臣によって政治が乱れているため、
爾朱栄ほどの軍事力があれば朝廷を正して覇業を成し遂げられると説いた。
二人の会話は昼から夜半まで続いたという。
以後、高歓は爾朱栄の軍事計画に参加する側近となった。

↓↓北魏末期に急速に勢力を伸ばした軍閥・爾朱栄についての個別記事は、こちら

【北魏】爾朱栄|河陰の変と北魏崩壊を導いた軍閥の実像
北魏末期の権臣・爾朱栄(じしゅえい)の生涯を詳説。河陰の変、孝荘帝擁立、六鎮の乱平定などの戦功と専横、そして暗殺までを史実に基づき解説。軍事力による政権掌握の実態と東西魏体制への影響を読み解く。

河陰の変と爾朱栄の皇帝即位を阻止

528年、孝明帝が急死すると、爾朱栄は軍を率いて洛陽へ向かい、高歓も先鋒として参加した。
爾朱栄は孝荘帝を擁立した後、
河陰で北魏の皇族・高官を大量に殺害する「河陰の変」を引き起こした。

さらに爾朱栄は自ら皇帝になることまで考えた。
高歓はこれを諫め、さらに爾朱栄の銅像を鋳造して天意を占うことを提案したが、
像が完成しなかったため爾朱栄は即位を断念したという。
高歓はその後、葛栄軍にいた七人の「王」を説得して降伏させ、羊侃・邢杲らとの戦いにも参加した。

爾朱栄は高歓の軍事能力を高く評価するようになり、
自分の死後に誰が大軍を率いられるかと周囲に尋ねた際、
爾朱兆については三千騎程度しか率いられず、
自分に代わって大軍を統率できるのは「賀六渾」だけだという趣旨を語ったとされる。
高歓は晋州刺史となり、爾朱氏政権の有力武将へ成長した。

爾朱氏を倒して北魏の実権を握る

530年、孝荘帝は宮中で爾朱栄を殺害した。
しかし爾朱氏の軍事力は健在で、爾朱兆は洛陽へ攻め込み、
孝荘帝を捕らえて晋陽へ連行したうえで殺害した。

高歓はこの時点で爾朱兆を「君主に反逆した大賊」とみなし、離反する機会を探り始める。

爾朱兆が北方勢力の紇豆陵歩藩と戦うと、高歓はすぐには救援せず、
両者が消耗したところで参戦して歩藩を破った。

爾朱兆は高歓に深く感謝し、二人は兄弟の盟約まで結んだが、
高歓はすでに爾朱兆から独立する機会を狙っていた。

二十万人を超える六鎮系流民を掌握

当時、葛栄軍の残党など二十万人を超える人々が并州・肆州方面へ移されていた。
彼らは契胡系軍人から虐待され、反乱を繰り返していたため、爾朱兆は処置に困って高歓へ相談した。

高歓は彼らを皆殺しにするのではなく、信頼できる人物に統率させるべきだと提案した。
その場にいた賀抜允が高歓を推薦すると、高歓は突然賀抜允を殴り、歯を一本折った。
自分から兵権を欲しがっているように見せないための芝居だったという。

爾朱兆は高歓を信用し、六鎮系の兵を任せた。
高歓はさらに、飢饉の続く并州・肆州では兵を養えないとして、
食糧の豊かな山東へ移す許可を求める。

ここで慕容紹宗だけは危険を見抜き、高歓ほどの人物に大軍を与えれば、
いずれ制御できなくなると爾朱兆へ警告した。

しかし爾朱兆は、高歓とは兄弟の誓いを交わしているとして聞き入れなかった。

高歓はこうして爾朱氏の軍隊だった六鎮系兵士を自分の勢力圏へ移すことに成功した。
途中で爾朱兆が疑って追いかけてくると、
高歓は涙を流して忠誠を誓い、白馬を殺して再び盟約を結んだ。

尉景はこの機会に爾朱兆を捕らえようとしたが、高歓は止めた。
今殺せば爾朱氏の残党が結集するが、
爾朱兆は勇猛でも策略に乏しいため後から倒せる、という判断だった。

↓↓北魏末から東魏にかけて活躍した知将・慕容紹宗についての個別記事は、こちら

【東魏】慕容紹宗|侯景を破った東魏の知将
慕容紹宗(ぼようしょうそう)は、爾朱栄に仕えたのち高歓へ帰順し、東魏の軍事を支えた名将。河陰の変を諫め、侯景の離反を早くから警戒した先見性を持ち、渦陽では侯景軍を撃破した。西魏との潁川攻防では王思政を追い詰めるが、増水した潁水で溺死。東魏屈指の知将の戦歴と人物像、悲劇的な最期を史書から詳しく解説する。

「漢児を欺くな」――六鎮兵を直属軍へ変える

高歓は山東へ向かう途中、麦畑を通ると自ら馬を下りて手綱を引き、
農作物を踏み荒らさないようにしたという。
信都に入ると、高乾・封隆之ら河北の有力者が高歓を迎えた。

ここで高歓は六鎮兵に対し、
爾朱兆が彼らを契胡の部曲にしようとしているという情報を流し、不安を煽った。
さらに兵を分散させるような命令を演出すると、兵士たちは泣き叫び、
高歓に反乱するしかないと訴えた。

高歓はそこで、自分を主君とするなら守るべき軍令を示した。
葛栄の軍は百万人いても規律がなかったから滅びたとして、
「漢児を欺いてはならない」「軍令を犯してはならない」と命じ、
生死を自分に委ねるよう求めたのである。六鎮兵はこれを受け入れた。

北辺の六鎮兵を軍事的中核としながら、河北の漢人社会を敵に回さない。
この二つを同時に成立させることが、高歓政権の出発点となった。

信都挙兵から韓陵の決戦へ

531年、高歓は信都を拠点として爾朱氏に反旗を翻した。
爾朱氏側が元曄を廃して節閔帝を立て、高歓を渤海王に封じて洛陽へ呼び寄せても応じず、
やがて章武王元融の子・元朗を皇帝として擁立した。

高歓はまず広阿で爾朱兆を破り、続いて鄴を包囲した。
鄴の守りが堅いと見ると土山を築き、地下道を掘って柱で支え、その柱を一斉に焼いて城壁を崩し、532年正月に鄴を攻略した。

かつて高歓を四十回鞭打った麻祥はこの頃湯陰県令となっていたが、
高歓が昔の呼び名で声をかけると、恥じて逃げたという。

同年、爾朱天光・爾朱兆・爾朱度律・爾朱仲遠らが高歓討伐のため集結した。
史書ではその兵力を二十万と号したのに対し、
高歓軍は騎兵二千に満たず、歩兵も三万に届かなかったとされる。

高歓は韓陵で円陣を組み、牛や驢馬をつないで退路を塞いだ。
戦いの前、爾朱兆が高歓の裏切りを責めると、
高歓は、かつて共に王室を助けるはずだったのに孝荘帝を殺したのは誰かと反論し、
「今日、義は絶えた」と宣言した。

激戦の末、高歓軍は爾朱氏連合軍を撃破した。
爾朱兆は逃亡し、爾朱天光・爾朱度律は捕らえられ、洛陽にいた爾朱世隆らも殺された。
敗走した爾朱兆は、かつて高歓を警戒するよう進言した慕容紹宗に対し、
胸を叩いて「お前の言葉を聞かなかったためにこうなった」と悔やんだという。

翌533年、高歓は秀容へ逃れた爾朱兆を追撃し、爾朱兆は敗れて自殺した。
高歓は敵となった爾朱兆の遺体を手厚く葬り、
慕容紹宗が降伏すると、かつての関係を理由に厚遇した。

孝武帝との決裂と東魏成立|皇帝を立てる側へ

爾朱氏を倒した高歓は洛陽へ入ったが、自ら擁立した元朗をそのまま皇帝にはしなかった。
元朗は皇統から遠かったため、より正統性の高い皇帝を探したのである。
節閔帝・元恭をそのまま立てる案もあったが、人物が優れていて将来制御しにくいと判断され、
孝文帝の子・元悦も候補となったものの、言動に問題があるとして断念された。
最終的に選ばれたのが元脩、すなわち孝武帝だった。

高歓は孝武帝を擁立すると大丞相・太師などの地位を得た一方、元朗と節閔帝は廃された。
高歓の権力は、皇帝を支える段階から「誰を皇帝にするか」を決める段階へ達したのである。
しかし孝武帝は、爾朱氏時代の皇帝のように軍閥の傀儡となるつもりはなかった。

高乾の死と賀抜岳暗殺

高歓は晋陽に大丞相府を置いて軍事力を掌握し、
洛陽の孝武帝は斛斯椿らを重用して高歓から独立しようとした。


両者の亀裂を深めた事件の一つが高乾の死である。

高乾は孝武帝が高歓に敵意を持っていることを密かに知らせたが、
高歓がその文書を孝武帝へ示したため、高乾は殺された。
高歓はその死を知ると、「天子は罪もない司空を殺した」と泣いたと史書は記す。

孝武帝は関中の賀抜岳らと結び、高歓を牽制しようとした。
高歓側は侯莫陳悦を利用して賀抜岳を殺害させたが、ここで高歓にとって大きな誤算が生じる。
賀抜岳の部下たちが新たな指導者として宇文泰を選んだのである。

高歓は侯景を派遣して賀抜岳の軍勢を取り込もうとしたが失敗した。
こうして、高歓にとって最大の敵となる宇文泰が関中で台頭した。

↓↓孝武帝の西遷を受け入れて高歓と対立した宇文泰についての個別記事は、こちら

【西魏】宇文泰|西魏を支配し隋唐の基礎を築いた軍事政治家
宇文泰(うぶんたい)は、北魏末の混乱から台頭し、孝武帝を長安へ迎えて高歓と対峙、西魏三代の実権を握った軍事政治家。沙苑で東魏軍を破り、蘇綽を登用して国家再建を進め、府兵制につながる軍制、八柱国・十二大将軍、六官制を整えた。蜀・江陵への領土拡大、関隴集団の形成、宇文護への政権継承まで、北周を経て隋唐へつながった宇文泰の生涯と政治・軍事改革を史書から詳しく解説する。

孝武帝の西奔と四十万戸の鄴遷都

534年、孝武帝は軍を集め、高歓との武力対決に備えた。
表向きには宇文泰や南朝梁への備えを名目としたが、高歓も皇帝の意図を察知して大軍を動かした。
両者は書簡を交わし、高歓は自らの忠誠を訴えたものの、対立は収まらなかった。

高歓が黄河を渡って洛陽へ迫ると、孝武帝は洛陽を捨て、関中の宇文泰のもとへ逃れた。
高歓は洛陽へ入り、皇帝に従って長安へ逃げなかった官僚のうち、
叱列延慶・辛雄・崔孝芬らを「臣節を失った」として処刑した。
さらに潼関方面まで孝武帝を追ったが、連れ戻すことはできなかった。

そこで高歓は清河王元亶の子・元善見を孝静帝として擁立し、都を洛陽から鄴へ移した。
史書によれば遷都命令からわずか三日で移動が始まり、四十万戸が鄴へ向かったという。
人々は狼狽しながら故郷を離れた。

一方、関中では宇文泰が孝武帝を掌握し、孝武帝の死後に元宝炬を文帝として擁立した。
こうして北魏は、高歓の孝静帝を戴く東魏と、宇文泰の文帝を戴く西魏に完全に分裂した。

『北史』は東魏について、軍国の政務がすべて高歓の相府に帰したと記している。
皇帝は孝静帝だったが、実際の最高権力者は晋陽にいる高歓だった。

東魏を支えた統治と人材|軍閥から国家権力へ

東魏成立後、高歓は晋陽を軍事的本拠とし、鄴の朝廷を通じて東魏を統治した。
晋陽は高氏の軍事中枢、鄴は皇帝と中央官僚機構の置かれた政治中枢となり、
この二重構造は後の北斉にも受け継がれる。

高歓政権は単一の民族や階層だけで構成されていたわけではない。
斛律金・庫狄干・段韶ら北辺系の武人が軍事を支え、
孫騰・司馬子如・封隆之らが政権運営に関わった。

高歓は出自より実務能力を重視した人物として史書に描かれるが、
門閥貴族を排除して完全な実力主義を作ったわけではない。
北辺武人を軍事的中核としながら、
河北の漢人豪族や北魏以来の官僚も利用したところに政権の特徴があった。


↓↓高歓政権の創設期から北斉最盛期に至るまで支え続けた段韶についての個別記事は、こちら

【北斉】段韶|国家を支え続けた名臣 忠武王の生涯
段韶(だんしょう)は高歓の甥として東魏創業期から軍事中枢を担い、韓陵の戦い、玉壁攻撃、侯景の乱後の晋陽防衛、南朝梁との戦いで活躍した北斉屈指の名将。高歓から軍国の大事を託され、563~564年には突厥・北周軍から晋陽を守り、洛陽救援では高長恭・斛律光とともに宇文護の大軍を撃破した。晩年も柏谷・姚襄・定陽で北周軍を破り、病を押して最後まで軍略を授けた段韶の生涯、戦歴、統率力、忠武の諡号を得た最期まで『北斉書』『北史』『資治通鑑』から詳しく解説する。

劉蠡升討伐・夏州奇襲・度量衡の統一

高歓は西魏との戦争だけを行っていたわけではない。

山胡の劉蠡升は北魏末の混乱に乗じて天子を称し、神嘉という年号まで立てていた。
535年、高歓は劉蠡升を攻撃し、さらに娘を劉蠡升の太子へ嫁がせると見せかけて警戒を解かせた。
劉蠡升は部下に殺され、その首が高歓へ送られた。
残党は劉蠡升の子を立てて抵抗したが、高歓はこれも破り、
皇后・公卿以下四百人余りと胡・漢合わせて五万戸を掌握した。

536年には西魏の夏州を騎兵一万で奇襲した。
高歓軍は火を使って食事をすることさえ避け、わずか四日で到達し、
槊を縛って梯子を作って夜間に城内へ侵入し、刺史を捕らえたという。

同年には斗や尺の規格を統一するよう求めており、
軍事政権の維持だけでなく行政制度の統一にも関与していた。

飢饉救済・官吏監察・北方外交

537年、并州・肆州など九州で霜害と旱魃が起こり、人々が飢えて流亡すると、
高歓は各地の倉を開いて食糧を支給するよう求めた。
地方官の違法行為も問題視し、使者を派遣して民衆の苦しみを調査させている。

542年には百官が毎月政治上の問題を直接述べること、埋もれた人材を登用すること、
諫言を受け入れること、訴訟を直接審理すること、地方官の勤務を評価することなどを求めた。
544年にも旱魃を理由に負担を免除し、貧民を救済し、死刑以下の罪を赦免するよう求めている。

史書が北斉王朝の祖として高歓を美化している可能性は考慮しなければならないが、
軍事だけでなく行政・司法・救済政策に関与していたことは確認できる。

北方では柔然とも関係を結んだ。
541年には北境を巡察し、使者を送って柔然と和睦している。
吐谷渾や阿至羅など周辺勢力も取り込み、必要に応じて西魏との戦争に利用した。

545年には幽州・安州・定州が奚や柔然に接しているとして要害に城塞を築くことを提案し、
自ら現地を確認した。
西魏との戦争に兵力を集中するためにも、北方の安定は欠かせなかった。

高歓の人物像と高澄への継承

『北史』は高歓を「深密高岸」と評し、
一日中厳然としていて、周囲には何を考えているのか分からなかったとする。
軍国の大計は自分の胸中で決め、文官・武官にも容易には知らせなかった。
軍紀は厳しく、状況に応じて作戦を変える一方、人材を見ることを好み、古くからの功臣を保護した。
名声だけあって実務能力のない人物をほとんど用いず、
能力があれば低い身分からでも登用したという。

質素な人物としても描かれ、刀剣や馬具に金銀・宝玉を飾らず、
若い頃には大酒を飲めたものの、大任を担ってからは三杯以上飲まなかったとされる。

敵対者にも一律に苛酷だったわけではなく、
経学で知られた盧景裕や書に優れた韓毅は反乱事件に関わって捕らえられたが殺さず、
自邸で子供たちの教師にした。
敵方に忠節を尽くした人物でも、その忠誠心自体を評価して許した例があった。

ただし、こうした人物評は北斉王朝の祖としての高歓像を形成する史書に記されたものであり、
その点を差し引いて読む必要がある。

高歓は長男の高澄を早くから後継者として育てた。
高澄は幼少期から聡明とされ、十二歳頃には高歓が時事について質問すると筋道立てて答えたため、
軍国の計画にも参加するようになった。

高歓が晋陽で軍事を掌握する一方、高澄は鄴で朝廷政治を担当し、
人事制度の改革や官僚統制を進めた。

崔暹を御史中尉として権貴を摘発させたのも高澄である。
一方、高澄が巨大な邸宅を建てると、高歓はその奢侈を叱責して中止させたという。

↓↓長男の高澄についての個別記事は、こちら

【東魏】高澄|東魏を支配した若き実力者・孝静帝との対立と侯景離反、北斉建国直前の暗殺
高澄(こうちょう)は高歓の長男として若くから東魏の政治に参加し、人事改革や綱紀粛正を進めた実力者である。父の死後に政権を継承すると、侯景の離反を慕容紹宗らによって退け、孝静帝の高氏排除計画を封じて権力を掌握。さらに西魏の王思政が守る潁川を攻略し、北斉建国を目前にしながら29歳で蘭京に暗殺されるまでの生涯を詳しく解説する。

宇文泰との死闘|沙苑の惨敗から玉壁攻防戦まで

東魏成立後、高歓最大の敵となったのが宇文泰だった。

高歓は人口と経済力に優れる河北・河南を握り、
宇文泰の西魏は関中を中心とする比較的小さな政権だったため、
単純な国力では東魏が有利だった。

しかし宇文泰は関中の地形と精鋭軍を利用し、高歓の大軍に対抗した。

竇泰の敗死と沙苑の大敗

537年、高歓は西魏へ大攻勢を開始したが、先鋒の竇泰が敗れて自殺した。
高歓自身も蒲津まで進んでいたものの、黄河の氷が薄く救援できずに撤退する。
同年11月、高歓は再び二十万の大軍を率いて黄河を渡った。

宇文泰は沙苑でこれを迎撃した。
高歓軍は兵力で圧倒的に優勢だったが、狭い地形で西魏軍の攻撃を受けて大混乱に陥り、
史書によれば十八万もの武器・甲冑を捨てて敗走した。
高歓自身も駱駝に乗って渡河地点へ逃げたという。

沙苑の戦いは、高歓の生涯でも最大級の敗北だった。

翌538年、西魏軍は洛陽方面へ進出し、侯景と高昂が金墉城の独孤信を包囲すると、
宇文泰と西魏皇帝が救援に現れた。
高歓も晋陽から急行し、河陰で東魏軍が西魏軍を破って数万人を捕虜としたが、
高昂ら有力武将も失った。

沙苑の惨敗から短期間で大軍を再編して反撃できたことは、高歓政権の動員力の大きさを示している。

↓↓金墉城に籠って十日余り抵抗した独孤信についての個別記事は、こちら

【西魏】独孤信|三王朝の皇后の祖で八柱国の一人
独孤信(どっこしん)は北魏末から西魏にかけて活躍し、宇文泰を支えた八柱国の一人である。騎射に優れ「独孤郎」と呼ばれ、隴右統治でも実績を残したが、宇文護との政争の中で自害を命じられた。一方、娘たちは北周明帝の皇后、隋文帝楊堅の皇后・独孤伽羅、唐高祖李淵の母となり、北周・隋・唐三王朝の皇室へつながった。その生涯と「三皇后の父」と呼ばれる家系、側帽の逸話まで詳しく解説する。

玉壁と邙山|勝利と敗北を繰り返す

542年、高歓は西魏の重要拠点・玉壁を包囲した。
当時の守将は王思政で、高歓は玉壁を攻めることで宇文泰の主力を誘い出そうとしたが、
西魏軍は決戦に応じなかった。
やがて大雪となり、東魏軍に多数の死者が出たため撤退する。

543年には東魏の高慎が武牢で西魏へ寝返り、宇文泰が救援のため東進した。
高歓が迎撃し、両軍は邙山で激突する。
東魏軍は西魏軍を大破し、史書では六万人を捕虜・斬首したとするが、
高歓自身は戦闘中に死の寸前まで追い詰められた。

直前に軍中で驢馬を盗み殺した兵士がおり、
本来なら死刑だったが、高歓はすぐには処刑せず晋陽へ連れて帰って裁くことにした。
翌日、その兵士は西魏へ逃亡して高歓の居場所を敵に教えたため、
西魏軍は高歓を狙って集中攻撃を仕掛けた。

高歓軍は崩れ、高歓は馬まで失ったが、
赫連陽順が自分の馬を差し出し、尉興慶が追撃する敵を一人で食い止めた。
尉興慶は矢が尽きるまで戦って死んだ。

さらに西魏の猛将・賀抜勝が十三騎で高歓を追い、槊を突き出した。
間一髪で段孝先が賀抜勝の馬を射倒し、高歓は逃げ切った。
邙山は東魏の勝利だったが、高歓自身はあと一歩で討ち取られるところだった。

第二次玉壁攻防戦|50日間攻め続けても落とせず

546年、高歓は再び西魏征服を目指し、大軍を率いて玉壁を包囲した。
このときの守将は韋孝寛である。

東魏軍は土山を築き、地下道を掘り、城内の水源を断つため汾水の流れまで変えた。
北側に十本、東側に二十一本の坑道を掘ったと史書は記している。

これに対して韋孝寛も、高歓が土山を築けば対抗施設を設け、
坑道を掘れば封鎖するなど徹底して抗戦した。

攻囲は50日間に及んだが、玉壁は落ちなかった。
『北史』では東魏軍の死者を七万人とし、その遺体を集めて一つの巨大な塚を作ったと記している。
数字には誇張の可能性を考慮する必要があるものの、東魏軍が甚大な損害を受けたことは確かである。

高歓自身も病に倒れ、11月には輿に乗せられた状態で撤退した。
長い軍歴における最後の大遠征は、玉壁を落とせないまま終わった。

『勅勒歌』と高歓の最期|死後まで見据えた後継体制

高歓が玉壁で病に倒れると、西魏では「高歓は韋孝寛の強弩に射られて死んだ」という噂が流れた。
高歓はその噂を打ち消すため、病身を押して諸将の前に姿を現した。

そして勅勒出身の老将・斛律金に『勅勒歌』を歌わせ、自らも唱和して涙を流したという。
後世に知られる「天は蒼蒼、野は茫茫。風吹き草低れて牛羊を見る」
という草原の歌が高歓の最期と結びついて伝わるのはこのためである。


高歓自身が『勅勒歌』を作ったわけではなく、史書に記されているのは、
斛律金に歌わせ、北辺社会で育った高歓自身が唱和して涙を流したということである。

侯景の離反を予見した遺言

高歓が死を前にして最も警戒した人物の一人が侯景だった。
侯景は河南方面を長年支配した有力武将で、高歓には従っていたものの、息子の高澄を軽視していた。
侯景はかつて司馬子如に、高歓がいる間は異心を抱かないが、
高歓がいなくなれば若い高澄と一緒に仕事はできないという趣旨のことを語ったとされる。

高歓が病に倒れると、高澄は侯景の反乱を心配した。
高歓は息子の表情からそれを見抜き、「侯景のことを心配しているのか」と尋ね、
自分の死後に頼るべき将軍たちを一人ずつ評価した。

庫狄干と斛律金は裏切らない。
可朱渾道元と劉豊生も遠方から自分を頼って来たため異心はない。
賀抜焉過児は素朴で、高澄兄弟の力になる。
韓軌には寛大に接するべきである。
彭楽は得難い人物だが警戒も必要である
――そして最後に、侯景に対抗できる者は慕容紹宗しかいないと告げた。

高歓は慕容紹宗を能力がないから重用しなかったのではなく、
自分の死後に侯景へ対抗させるため、あえて高い地位を与えず残しておいたという。
高歓の死後、その予測は現実となった。
侯景は河南で反乱を起こしたが、高澄は父の遺言に従って慕容紹宗を起用し、侯景を撃破した。

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547年、晋陽で死去

547年正月、日食が起きた。
高歓は「日食は私のためだろうか。死んでも何の恨みがあろう」という趣旨の言葉を残したという。
その月、高歓は晋陽で死去した。享年52。

高歓の死はすぐには公表されなかった。
侯景をはじめ、高歓個人の威信によって服従している有力武将が存在したためである。
高澄が政権を掌握した後、ようやく喪が公表された。

東魏朝廷は高歓を献武王と諡し、後に高洋が北斉を建国すると献武帝と追尊した。
さらに天統元年(565)には神武皇帝と改諡され、廟号も高祖とされた。

高歓とは何者だったのか|北斉を建国する前に作った人物

高歓の生涯を振り返ると、その最大の特徴は単純な戦争の強さではない。

若い頃には馬すら持たず、函使として洛陽へ通い、下級官吏から四十回も鞭打たれた。
六鎮の乱が起こると杜洛周に従い、見限って葛栄へ逃げ、さらに爾朱栄へ移った。
爾朱栄のもとでは才能を認められながら、その死後には爾朱兆を利用して六鎮兵を手に入れ、
最後には爾朱氏そのものを滅ぼした。

元朗を皇帝に立てながら廃し、孝武帝を擁立した。
孝武帝が自立しようとすると対立し、皇帝が長安へ逃げれば新たに孝静帝を立てた。
その行動だけを並べれば、主君や皇帝を次々と替えた軍閥にも見える。
しかし高歓には一貫したものがあった。
皇帝の称号そのものではなく、軍隊と政治の実権を誰が握るかを重視したことである。

爾朱栄が皇帝になろうとしたときには止め、自分自身も皇帝にはならなかった。
北魏皇室の権威を残したまま、軍事・人事・外交・行政の実権を自らの相府へ集中させる方が、
高歓にとっては有効だった。

さらに高歓は、六鎮兵だけで国家を支配できないことも理解していた。
六鎮兵には「漢児を欺くな」と命じ、河北の豪族を味方につけ、北魏以来の官僚を利用した。
鮮卑・勅勒系の武人、河北の漢人豪族、北魏官僚という異なる集団を、
高歓を中心とする一つの政権へ組み込んだのである。

一方、軍事的には無敵ではなかった。
沙苑では宇文泰に壊滅的な敗北を喫し、
邙山では勝利しながら自身が賀抜勝に討ち取られる寸前まで追い詰められ、
玉壁は二度攻めても落とせなかった。
高歓は宇文泰を倒せず、北魏を再統一することもできなかった。

それでも東魏は崩壊しなかった。
沙苑の大敗後にも軍を再建し、河陰で反撃し、邙山では西魏を破った。
内政では飢饉救済、地方官監察、度量衡整備、北方防衛を進め、柔然など周辺勢力との外交も行った。

そして高歓最大の成果は、自分が死んでも存続できる権力を作ったことである。
長男の高澄を早くから政治へ参加させ、諸将の性格と能力を見極め、
死の直前には侯景の離反とその対処法まで息子に残した。

高歓の死後、侯景は予想どおり反乱した。
それでも高澄は政権を維持し、高澄が暗殺された後には弟の高洋がただちに実権を掌握した。
そして550年、高洋が孝静帝から禅譲を受け、北斉を建国する。

北斉の初代皇帝は高洋である。
しかし高洋が受け取った軍隊も、領土も、晋陽と鄴を結ぶ支配体制も、
北辺武人と漢人官僚からなる政権も、その大部分は父・高歓が作ったものだった。

高歓は王朝を建てなかったのではない。
皇帝の座に就く最後の一段階だけを残し、北斉という王朝の実体をほぼ作り終えていたのである。

まとめ

高歓は、六鎮の乱が生み出した単なる軍閥ではない。
北魏末の崩壊した秩序の中で、六鎮兵という巨大だが扱いにくい軍事集団を自らの直属軍へ変え、
河北の漢人豪族を取り込み、爾朱氏を滅ぼし、皇帝を擁立して北魏の実権を奪った。

孝武帝との決裂によって北魏が東西に分裂すると、
孝静帝を擁立して東魏を成立させ、晋陽を軍事中枢、鄴を政治中枢とする高氏政権を作り上げた。

宇文泰との戦争では勝利と敗北を繰り返し、最後まで西魏を滅ぼせなかった。
沙苑の敗北や二度にわたる玉壁攻略の失敗は、
高歓の軍事力にも明確な限界があったことを示している。

一方で、大敗しても軍事力を再建し、北方勢力と外交を結び、異なる出自を持つ人材を使い分け、
息子へ権力を継承できるところまで政権を作り上げた。

貧しい懐朔鎮の隊主から、
皇帝を選び、華北を二分する一方の政権を支配する人物へと上り詰めた高歓の生涯は、
北魏が崩壊して東魏・西魏へ分裂し、
さらに北斉・北周へ移行していく南北朝後期の政治変動そのものと重なっている。

高歓自身が皇帝の冠をかぶることはなかった。
それでも550年に高洋が北斉皇帝となったとき、王朝を支える骨格はすでに完成していた。
その骨格を作った人物こそ、高歓だったのである。

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・『北斉書』巻一「帝紀第一 神武上」
・『北斉書』巻二「帝紀第二 神武下」
・『北史』巻六「斉本紀上」
・『資治通鑑』巻百五十~百五十九
・『魏書』
・『周書』巻一「文帝紀上」
・『周書』巻二「文帝紀下」

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