【北宋】欧陽母|欧陽脩を育てた「画荻教子」と鄭氏の生涯

欧陽母(欧陽脩の母) 05.才女

欧陽母は、北宋を代表する文人・政治家である欧陽脩の母、鄭氏である。
個人名は史料に残っていない。
後世には孟母陶母などと並ぶ「賢母」として知られ、
とくに荻の茎で地面に文字を書いて幼い欧陽脩を教えた「画荻教子」の逸話が広く伝わった。

しかし、欧陽脩自身が晩年に記した「瀧岡阡表」を読むと、
鄭氏の教育は文字を教えることだけにとどまらない。

夫の欧陽観がどのような官吏であったかを繰り返し息子へ語り、
孝行、仁愛、清廉を重んじるよう教えた。
欧陽脩が政治的な理由で左遷されたときにも動揺せず、
むしろ貧しい生活には慣れていると息子を励ましている。

欧陽脩が四歳で父を失ってから成人するまで、その生活と教育を支えたのが鄭氏だった。
晩年には息子の昇進に伴って封号を受け、皇祐五年(1053年)、七十二歳で死去した。
死後も欧陽脩の官位上昇にともなって追封が重ねられ、最終的には魏国太夫人とされた。

欧陽母・鄭氏の出自と夫・欧陽観

江南の名族・鄭氏に生まれる

鄭氏の生年や出生地について、欧陽脩は詳しい記録を残していない。
「瀧岡阡表」によれば、父は鄭徳儀といい、その家は代々「江南の名族」だった。
鄭氏自身については「恭倹仁愛にして礼あり」、
すなわち慎み深く倹約を守り、仁愛があって礼節をわきまえた人物だったと欧陽脩は記している。

鄭氏は欧陽観に嫁いだ。
欧陽観は字を仲賓といい、咸平三年(1000年)に進士となり、
道州判官、泗州・綿州推官、泰州判官などを歴任した人物である。

欧陽観の母は鄭氏が嫁ぐ以前にすでに亡くなっていたため、鄭氏自身は姑に仕えることがなかった。
後に夫の母への思いを知るのも、欧陽観の日常の言動を通じてだった。

景徳四年(1007年)、欧陽観と鄭氏の間に欧陽脩が生まれた。

↓↓北宋を代表する文人・政治家となる息子・欧陽脩についての個別記事は、こちら

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夫・欧陽観の清廉と仁愛を間近で見る

鄭氏が後年、息子に最も詳しく語ったのは、
欧陽観が官吏として、また家庭の中でどのように振る舞っていたかということだった。

欧陽観は俸禄が多くなかったにもかかわらず、人への施しを好み、客人を迎えることも多かった。
そのため家に財産を残そうとはせず、自分のために財物をため込むことを嫌った。
欧陽脩が父を失ったとき、家には暮らしを支える家屋や田畑さえ残されていなかったという。

鄭氏が夫の人柄を知ったもう一つの出来事が、亡母を思って涙を流す姿だった。

鄭氏が嫁いだ時点で欧陽観は母の喪を終えて一年あまり経っていたが、祭祀のたびに涙を流し、
「死後の祭りを豊かにするより、生きているうちにわずかでも十分に養う方がよい」
という趣旨のことを語った。
普段より豊かな酒食を口にしたときにも、かつて母を十分に養えなかったことを思い出して泣いた。

鄭氏は、初めのうちは喪が明けて間もないからだと思っていた。
しかし欧陽観はその後も生涯にわたって同じように母を思い続けたため、
鄭氏はそこから夫の孝行の深さを知ったという。

死刑事件を前に何度もため息をついた夫

欧陽観が官吏として死刑事件の文書を調べていた夜のことも、鄭氏は詳しく記憶していた。

灯火のもとで書類を読んでいた欧陽観が何度も手を止めてため息をつくため、鄭氏が理由を尋ねると、
死刑にかかわる事件を調べているが、被告を生かす方法を探しても見つからないのだと答えた。

鄭氏が「生かす方法を探すことができるのですか」と尋ねると、
欧陽観は、助ける道を十分に探した末に見つからず死刑となるなら、死ぬ者も自分も悔いを残さない。
しかし生かす道が見つかることもある以上、
それを探さないまま死なせてしまえば、その者には恨みが残る、と説明した。

そして世間では、生かそうとしても誤って死なせることがあるのに、
初めから死刑にしようとして事件を扱う者が少なくない、と嘆いたという。

その場には乳母に抱かれた幼い欧陽脩もいた。
欧陽観は息子を振り返り、自分は長く生きられないかもしれないので、
もしこの子の成長を見ることができなければ、いつか今の話を伝えてほしいと鄭氏に頼んだ。

鄭氏によれば、欧陽観は普段から家の若者たちにも同じ考えを説いていた。
そのため彼女は夫の言葉をよく覚えており、欧陽脩が成長した後に詳しく語ることができた。

夫の死と欧陽脩の教育

欧陽脩が四歳のとき夫を失う

大中祥符三年(1010年)ごろ、欧陽観が死去した。欧陽脩は四歳だった。

夫が亡くなると、鄭氏は再婚せずに息子を育てることを決めた。
「瀧岡阡表」は、鄭氏が自ら衣食を工面しながら欧陽脩を養育したと記している。
欧陽観が財産を残していなかったため、その生活は容易ではなかった。

欧陽家では叔父の欧陽曄が幼い欧陽脩を支えた。
欧陽氏の家譜によれば、欧陽曄は兄の子である欧陽脩が幼くして父を失うと、
自分の子と同じように教育した
人物だった。

欧陽脩は母とともに随州で成長し、鄭氏による家庭教育と叔父の援助を受けることになる。

荻の茎で地面に字を書く「画荻教子」

鄭氏について最もよく知られているのが「画荻教子」である。

『宋史』「欧陽脩伝」は、
欧陽脩が四歳で父を失うと、母の鄭氏が自ら学問を教え、
家が貧しかったため「荻をもって地に画して」文字を学ばせたと記している。
紙や筆を十分に用意できないなか、
荻の茎を筆の代わりとして地面に文字を書かせた
という意味である。

欧陽脩の子らがまとめた「先公事迹」では、幼年期の様子がさらに詳しい。
鄭氏は荻で文字を書かせるだけでなく、古人の文章を数多く暗誦させ、詩を作ることも教えたという。

欧陽脩が少し成長すると、家には読むべき本が十分になかったため、
近隣の読書人から本を借りて読んだり書き写したりした。
書き写し終わる前に内容を暗誦してしまうこともあり、
やがて昼夜を忘れて読書に没頭するようになった。
幼い頃に書いた詩や文章も、すでに成人の作品のようだったと子孫は伝えている。

この様子を見た叔父の欧陽曄は鄭氏に、家が貧しく子が幼いことを心配する必要はない、
この子はいずれ家を興すだけでなく、世に名を知られるようになるだろう、と語ったという。

亡夫の生き方を息子へ教える

鄭氏の教育で重視されたのは、学問だけではなかった。

欧陽脩が成長すると、鄭氏は亡夫について自分が見聞きしたことを息子へ詳しく語った。
夫が母を思って涙を流したこと、死刑事件で可能な限り被告を救おうとしていたこと、
人への施しを惜しまなかったことなどである。

そのうえで鄭氏は、親を養うには食事の豊かさより孝心が重要であり、
広く人々へ利益を与えることができなくても、仁愛の心を厚く持つことが大切だと教えた。

そして「これは私が教えているのではなく、お前の父の志なのだ」という趣旨の言葉を添えた。
欧陽脩は「瀧岡阡表」で、この母の言葉を泣きながら心に刻み、忘れなかったと記している。

欧陽脩は父を四歳で失っているため、
成人後に知った父の人物像の多くは鄭氏の記憶によるものだった。
鄭氏は単に亡夫を称賛するのではなく、自分が家庭内で直接見た行動を具体的に伝えており、
それが後に欧陽脩自身によって文章として残された。

欧陽脩の成長と母・鄭氏

欧陽脩が進士となり、ようやく母を養えるようになる

天聖八年(1030年)、欧陽脩は進士に及第し、官吏としての道を歩み始めた。

「瀧岡阡表」によれば、欧陽観が亡くなってから約二十年後、
欧陽脩は初めて俸禄を得て母を養えるようになった。
それまで鄭氏は、夫の死後長く自ら家計を支えながら息子を育ててきたことになる。

欧陽脩の昇進にともない、鄭氏も官僚の母として封号を受けるようになった。
最初は福昌県太君に封じられ、その後、楽安郡太君、安康郡太君、彭城郡太君へと封号が進んだ。

息子が出世しても暮らしを贅沢にしなかった

欧陽脩が官僚として地位を上げてからも、鄭氏は家計を倹約するよう求めた。

「瀧岡阡表」によれば、鄭氏は家がまだ貧しかった頃から倹約して暮らし、
後に生活が豊かになってからも、その程度を超えて贅沢することを許さなかった。

その理由について鄭氏は、欧陽脩は世間とうまく妥協して自分の身を守るような人物ではないので、
いつ災難に遭うか分からない、普段から質素に暮らしておけば困難な境遇になっても耐えられる、
と考えていた。

これは単なる節約ではなかった。
官界で自分の意見を曲げない息子の性格を理解したうえで、
いつ左遷や失脚があっても生活を変えずに済むよう備えていた
ことになる。

欧陽脩が夷陵へ左遷されても動じない

鄭氏の考えは、やがて現実のものとなった。

景祐三年(1036年)、欧陽脩は范仲淹をめぐる政治問題に関わり、
司諫の高若訥を厳しく批判したため、夷陵県令へ左遷された。
中央での将来を期待されていた欧陽脩にとって大きな挫折だった。

ところが鄭氏は、息子が左遷されても普段と変わらず談笑していた。
そして欧陽脩に、自分たちの家はもともと貧しい家であり、私はその暮らしに以前から慣れている、
お前が平然としていられるなら私も平気だ、と語った。

欧陽脩は別の「先君墓表」で、この母の態度を長く見ていたからこそ、
自分も後に朝廷で立場を曲げて時勢に迎合せずにいられたという趣旨のことを書いている。

晩年と死

夫の死から三十年以上を経て封号を受ける

欧陽観の死から約二十年で欧陽脩が官禄を得るようになり、
さらに十二年ほど経つと、欧陽脩は朝廷で一定の地位に達した。

それにともなって、父には死後の官位が贈られ、母の鄭氏にも封号が与えられるようになった。
「瀧岡阡表」は、長い困窮の時代を経た後に、
欧陽脩の官歴によって両親への恩典が実現した経過を年数まで記している。

鄭氏自身は、生活が変わってからも若い頃の倹約を崩さなかった。
欧陽脩が後に母の性格を「恭倹仁愛而有礼」と表現したのも、
幼少期の貧困だけではなく、
息子が官僚として成功した後にも一貫していた態度を踏まえたものだった。

南京の官舎で病死する

皇祐年間、欧陽脩は龍図閣直学士・尚書吏部郎中となり、南京留守を務めた。
鄭氏も息子の任地で生活していたが、
皇祐五年(1053年)、官舎で病により死去した。享年七十二だった。

同年六月、欧陽脩は母を納める石槨を作らせた。
「母鄭夫人石槨銘」には皇祐五年六月に制作を始め、七月に完成したことが記されている。
簡潔な銘文の中で、欧陽脩は母の棺を守る石槨が末永く堅固で安らかであることを願った。

鄭氏は夫の欧陽観が葬られていた吉州吉水の沙溪・瀧岡に合葬された。
欧陽氏の家譜にも、鄭氏が七十二歳で亡くなり、瀧岡に夫とともに葬られたことが記録されている。

死後、越国太夫人から魏国太夫人へ追封される

鄭氏の死後も、欧陽脩の昇進にともなって封号は上がった。

欧陽脩はその後、枢密副使、参知政事にまで昇り、
朝廷が高官の祖先や両親へ恩典を与えるたびに、亡父母にも追贈が加えられた。
鄭氏は最終的に越国太夫人に累封され、宋神宗の即位後には魏国太夫人へ進められた。

夫の欧陽観も太師・中書令兼尚書令を追贈され、崇国公に追封された。
こうした高位の称号は生前の実際の官位を示すものではなく、
欧陽脩の功績に基づいて死後に両親へ与えられた栄典である。

欧陽脩が後世に残した母の姿

欧陽脩が「瀧岡阡表」に母の言葉を残す

鄭氏が亡くなって十七年後の熙寧三年(1070年)、
六十代になっていた欧陽脩は、父の墓所である瀧岡に「瀧岡阡表」を建てた。

父が葬られてから約六十年が経過していたが、
欧陽脩はそこで父の官歴だけを記すことはしなかった。
四歳で父を失った自分には父について直接覚えていることがほとんどなく、
父の人柄を知ることができたのは母が語り残してくれたからだった。

そのため「瀧岡阡表」の大部分には、
鄭氏から聞いた欧陽観の言葉や行動と、鄭氏自身がどのように欧陽脩を育てたかが記された。
結果としてこの碑文は、欧陽観の墓表であると同時に、
鄭氏の人物像を知る最も重要な史料となっている。

欧陽脩は文末で、自分が官界で大節を失わず、
祖先を辱めずに生きてこられたことには由来があるとして、
父の遺志と「太夫人の所以教」、すなわち母が自分をどのように教えたかを墓碑に残した。

「画荻教子」はどこまで史実なのか

「画荻教子」は後世に脚色された民間説話だけではなく、『宋史』「欧陽脩伝」に明記されている。
欧陽脩が四歳で父を失い、鄭氏が自ら教育し、
家が貧しかったため荻で地面に文字を書かせたという基本部分には史料的な根拠がある。

さらに欧陽脩の子孫がまとめた「先公事迹」にも、
鄭氏が荻で地面に文字を書き、古人の文章を暗誦させ、詩を教えたという内容が残る。
したがって、鄭氏が幼い欧陽脩の初期教育を直接担ったこと自体は確かとみてよい。

一方、「池のほとりで荻を見て思いついた」「砂盤を作った」「毎日何度も同じ字を書かせた」
といった細部は、『宋史』や「瀧岡阡表」にはない。
現在広く紹介されている物語には、後世に具体化された部分が含まれているため、
人物伝では正史に確認できる範囲と民間伝承を分けた方がよい。

欧陽母の人物像

鄭氏を「画荻教子の母」だけで説明すると、史料に残る人物像のかなりの部分が抜け落ちる。

夫を失った後、財産のない状態から欧陽脩を成人させたことは確かだが、
「瀧岡阡表」で欧陽脩がとくに多くの文字を割いたのは、母が亡夫について語った内容だった。
鄭氏は欧陽観の清廉さだけでなく、亡母を思って涙を流したことや、
死刑事件で可能な限り命を救おうとしたことまで覚えており、それを息子へ伝えた。

また、息子の昇進後も暮らしを急に豊かにせず、欧陽脩が世間に迎合しない人物だからこそ、
困難に備えて質素な生活を続けるべきだと考えていた。
実際に欧陽脩が夷陵へ左遷されると、鄭氏は貧困には慣れているとして平然と受け止めている。

欧陽脩にとって鄭氏は、文字を教えた最初の教師であるだけでなく、
幼くして失った父の価値観を伝える唯一の身近な証人でもあった。

「画荻」が後世に最も知られる逸話となった一方、
欧陽脩自身が晩年まで残そうとした母の教えは、
孝、仁、倹約、そして境遇が変わっても態度を変えないことにあった。

まとめ

欧陽母鄭氏は、夫・欧陽観の死後、幼い欧陽脩を育て、その初期教育を担った女性だった。
「画荻教子」は史料に確認できる逸話だが、鄭氏の教育は読み書きだけではなく、
亡夫の孝行や仁愛、官吏としての姿勢を息子へ伝えることにも重きが置かれていた。

欧陽脩が出世してからも倹約を続け、息子が左遷された際にも動揺しなかった。
皇祐五年(1053年)に七十二歳で死去し、のちに魏国太夫人まで追封された。
欧陽脩は晩年の「瀧岡阡表」に母から聞いた言葉を詳しく刻み、
自己の生き方が父の遺志と母の教育に由来することを後世に残した。

史書・参考文献

・『宋史』巻319「欧陽脩伝」
・『欧陽文忠公集』(「瀧岡阡表」ほか)

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