【唐】上官婉児|罪人の孫娘から「女宰相」へ、武則天と中宗に仕えた才女

上官婉児(唐の官僚) 05.才女

上官婉児(じょうかん・えんじ、664―710)は、
武則天から中宗の時代に宮廷の詔勅を担い、政治と文学の双方で大きな影響力を持った女性である。

祖父の上官儀は高宗の宰相であったが、
武則天の廃后を企てたとして処刑され、父の上官庭芝も連座して命を失った。
まだ乳児だった婉児は母とともに掖庭へ送られたが、
成長すると卓越した文才を武則天に認められ、やがて皇帝の詔勅や百官の奏議を扱うまでになった。

中宗の復位後には昭容となり、宮廷文壇を主導する一方、
武三思らとの関係を通じて政争の中心にも立った。

従来の正史では韋皇后や武氏に近い人物として描かれてきたが、
2013年に発見された墓誌には、晩年の婉児が韋皇后安楽公主に激しく反対し、
辞官、出家、さらには服毒まで試みたことが記されている。

武則天の側近、中宗の后妃、詔勅の起草者、政治家、詩人、文芸の審査者という複数の顔を持ち、
最後は李隆基の政変によって斬られた上官婉児。
その生涯は、武周から王朝復興へと続く宮廷政治の変転そのものと重なっている。

出自と掖庭での少女時代

出自

上官婉児は664年頃、名門上官氏の家に生まれた。名は婉児。本貫は隴西郡上邽県とされる。

死後に作られた『大唐故婕妤上官氏墓誌銘并序』は、上官氏を古代楚の上官大夫に始まる家系とし、
さらにの昭帝の皇后となった上官氏にも連なる名門として描いている。
ただし、墓誌の系譜は故人の家柄を顕彰する性格を持つため、
そのすべてを厳密な実系譜と見る必要はない。

曾祖父の上官弘はに仕え、
滕王府記室参軍、華州長史、尚書比部郎中などを歴任したと墓誌に記される。

祖父の上官儀はさらに著名で、太宗・高宗に仕えた文人官僚であった。
晋王府参軍、弘文館学士、中書舎人などを経て、
高宗の時代には西台侍郎、同東西台三品に至り、宰相として政務に参与した。
詩人としても名高く、華麗で技巧的な詩風は「上官体」と呼ばれた。

父の上官庭芝は左千牛、周王府属を務めた。
母の鄭氏は太常少卿鄭休遠の姉で、婉児が中宗の寵遇を受けたのちには沛国夫人に封じられている。

文学者の家系に生まれた婉児であったが、その出生直後、上官氏を破滅させる事件が起こった。

祖父・上官儀の処刑

麟徳元年(664)、高宗と皇后武氏、のちの武則天との間で深刻な対立が生じた。

『新唐書』によれば、
高宗は武后が宮中で道士の郭行真を用いて呪術を行ったとの報告を受けて怒り、
西台侍郎であった上官儀に相談した。

上官儀は、「皇后は専横であり、天下の人望を失っている。宗廟を奉ずるにふさわしくない」
という趣旨を述べ、廃后を勧めた。
高宗もこれに同意し、上官儀に武后を廃する詔書を書かせた。

ところが、この動きはすぐに武后の知るところとなった。
武后は高宗のもとへ赴いて自ら弁明し、高宗はその勢いに押されて態度を翻したばかりか、
「これはすべて上官儀が私に教えたことだ」と責任を上官儀に転嫁したという。

武后は許敬宗らを使って上官儀を追及させた。
上官儀は、以前に廃太子となった李忠の謀反に加担したとの罪を着せられ、同年十二月に処刑された。父の上官庭芝も連座して殺された。
上官婉児が生まれたのは、まさにこの年とされる。

『旧唐書』は、父と祖父が処刑された時の婉児を「襁褓」、
すなわちまだ産着に包まれた乳児であったと記している。
母の鄭氏と婉児は罪人の家族として宮中の掖庭へ配された。

掖庭で育った少女

掖庭は後宮に属する施設で、宮女の居所であると同時に、
罪を受けた官僚の女性家族などが収容される場所でもあった。

上官氏の男性たちを失った婉児は、母の鄭氏とともにこの掖庭で成長した。
『旧唐書』は婉児について、「長ずるに及び、文詞あり、吏事に明習す」と記す。
文章を書くことに秀でていただけではない。
「吏事」、すなわち官僚行政の実務にも通じていたのである。

母の鄭氏がどのような教育を施したかは史書に詳しく記されていない。
しかし、祖父が当代屈指の文人であり、母方も官僚家系であったことを考えれば、
掖庭に置かれながらも相当な教育を受けていたと考えられる。

後世には、この才能を予告する出生伝説も生まれた。

『旧唐書』によれば、鄭氏が婉児を妊娠していた時、何者かから大きな秤を与えられる夢を見た。
占者に尋ねると、「貴い男子を産み、国家の権衡を握るであろう」と告げられた。
ところが生まれたのは女児だったため、周囲は占いが外れたと笑った。
しかし婉児が後に宮中の政務を扱うようになると、予言は結果として成就したとされた。

さらに後世の説話では、鄭氏が赤子の婉児に「お前が天下の文士を秤量するのか」と尋ねると、
婉児が答えるかのような声を発したともいう。

これは史実というより、
後に婉児が文人たちの詩を審査する立場となったことから形成された伝説と見るべきである。

十三歳で「才人」となる

2013年に出土した墓誌には、従来の正史にはなかった重要な一文がある。

「年十三為才人」すなわち、婉児は十三歳で「才人」になったという。

の後宮制度では、才人は皇帝の内命婦の一つで、九人が置かれる正五品の地位であった。
『新唐書』も、夫人、九嬪、婕妤、美人、才人などからなるの後宮制度を記している。

婉児が十三歳で才人となった時、高宗はまだ存命だったため、
この記録を文字どおり受け取れば高宗の才人であったことになる。

ただし、これを直ちに「高宗の寵妃となった」と理解するのは慎重であるべきだろう。
宮廷女性に与えられた身分としての意味合いも考える必要があり、
具体的に高宗との男女関係を示す史料は存在しない。

それでも、罪人の家族として掖庭に入れられた少女が、
十三歳で正式な内命婦に取り立てられていたという墓誌の記録は、
婉児が非常に早い時期から宮廷で才能を認められていたことを示している。

武則天に仕える

武則天に才能を見いだされる

『新唐書』は、婉児が十四歳になると武后が召し出し、その場で文章を書かせたと伝えている。

突然課題を与えられたにもかかわらず、
婉児はあたかも以前から準備していたかのように文章を完成させた。
「有所制作、若素構」と評されるほどの出来であり、武后はその才能を高く評価した。

自分の祖父と父を死に追いやった女性によって、婉児は宮廷政治の世界へ引き上げられたことになる。

武后が彼女を用いた理由は文才だけではなかった。
『新唐書』は「天性韶警」、すなわち生来聡明で機敏であったとし、
『旧唐書』は行政実務に習熟していたことを明記している。

やがて婉児は単なる文章係ではなく、皇帝権力に直結する文書を扱う存在へと成長していった。

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武則天に逆らい黥刑を受ける

武則天に重用された婉児であったが、一度、その怒りに触れて死刑を命じられたという。

『旧唐書』は、「婉児、旨に忤い、当に誅せらるべきも、則天その才を惜しみて殺さず、ただその面に黥するのみ」と記す。本来なら処刑されるところであったが、
武則天は婉児の才能を惜しみ、顔に入れ墨を施す黥刑だけにとどめたという。

何をして武則天の意向に逆らったのかは、正史には記されていない。

この事件から後世に生まれたのが、婉児の額の化粧にまつわる逸話である。
顔に残った傷を隠すため、婉児が額に花の形の化粧を施したところ、
それが宮廷女性の間で美しいと評判になり、梅花妝や花鈿として流行したという話である。

ただし、花鈿そのものは上官婉児以前にも確認される装飾であり、
「婉児が黥刑の跡を隠すために始めた」という話は正史にはない。
武則天による黥刑は史書に見えるが、
それと代の花鈿文化を直接結びつけるのは後世の説話として扱うべきである。

武則天の詔命を掌握する

婉児の権限が大きくなった時期について、『旧唐書』と『新唐書』には多少の違いがある。

『新唐書』は通天年間、すなわち696年頃から内廷で詔命を掌ったとし、
『旧唐書』は聖暦年間、698年以降、百官の上奏を多く婉児に参決させたとしている。

いずれにせよ、武則天が皇帝として君臨した時代の後半には、
婉児が国家文書と政務の中枢に位置していた。

百官から皇帝へ提出される奏議を読み、内容を検討し、詔勅を起草する。政治上の判断にも関与した。
正式な宰相職に就いたわけではないが、
後世に「女宰相」「巾幗宰相」と呼ばれるようになった背景には、この特殊な立場がある。

代の政治において詔勅の文案を作成することは単なる代筆ではない。
政策をどのような言葉で皇帝の意思として示すかを決める仕事であり、
しかも婉児は奏議の処理にも加わった。

掖庭で育った罪人の孫娘は、
三十代になる頃には武則天の宮廷において国家の意思決定を支える人物になっていた。

中宗復位と政治への関与

神龍政変と中宗の復位

神龍元年(705)、武則天政権は終焉を迎えた。

張柬之、崔玄暐、桓彦範、敬暉、袁恕己らが禁軍を動かし、
武則天の寵臣であった張易之・張昌宗兄弟を殺害した。
武則天は退位し、かつて彼女によって廃位されていた中宗李顕が復位した。

これほど大きな政権交代が起これば、武則天の側近であった婉児も失脚して不思議ではなかったが、
中宗は婉児を排除せず、むしろ彼女の政治能力を高く評価し、引き続き詔勅の起草を担当させた。

墓誌によれば、神龍元年に婉児は「昭容」に冊立された。
昭容は昭儀・昭媛などとともに九嬪を構成する高位の后妃で、正二品に相当する。
中宗は母の鄭氏にも沛国夫人の称号を与えた。

祖父を武則天に殺されながら武則天に仕え、その武則天が倒れると、
今度は王朝を復活させた中宗の側近となる。
婉児は王朝の交代を越えて、その文才と行政能力を必要とされたのである。

武三思との関係

中宗朝に入った婉児は、武則天の一族である武三思と深い関係を持つようになった。

『旧唐書』『新唐書』はともに、婉児が武三思と私通したと記している。
『資治通鑑』ではさらに、婉児が武三思を韋皇后に紹介し、
武三思が宮中に出入りするようになったとする。

中宗は武三思と政治を論じるようになり、
神龍政変によって武則天を退位させた張柬之らは次第に権力を奪われていった。

正史は、婉児が武三思と通じていたため、
彼女が起草する詔勅にも武氏を尊重して李皇族を抑える傾向が現れたと批判している。

もっとも、『旧唐書』『新唐書』が成立したのは王朝の正統性を前提とする後世であり、
「武氏を尊び李氏を抑えた」という叙述には評価的な色彩も含まれる。

婉児が武三思と政治的に密接であったこと自体は複数史料から確認できるが、
彼女の政治姿勢が生涯一貫して武氏寄りだったわけではないことは、後年の行動から明らかになる。

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李重俊のクーデター

武三思と婉児への反発を強めた人物の一人が、中宗の皇太子李重俊であった。

李重俊は韋皇后の実子ではなかった。
一方、中宗と韋皇后の娘である安楽公主は父母から寵愛され、武三思の子・武崇訓と結婚していた。
安楽公主と武崇訓は李重俊を軽侮し、しばしば彼を「奴」と呼んで辱めたと史書は伝えている。

景龍元年(707)、李重俊は左羽林大将軍李多祚らとともに兵を挙げた。
反乱軍はまず武三思と武崇訓の邸宅を襲い、父子を殺害した。
その後、宮城へ進んで粛章門から侵入し、上官婉児の身柄を要求した。

婉児は中宗と韋皇后のもとへ走り、
「彼らの意図を見るに、まず私を求めています。
 私を殺した後には皇后を求め、さらに陛下にまで及ぶでしょう」と訴えた。

これを聞いた中宗と韋皇后は激怒し、婉児らを伴って玄武門楼へ上がり、反乱軍に備えた。
やがて政府軍側が形勢を立て直すと、李重俊軍の兵士たちは離反し、反乱は失敗した。
李重俊は逃亡中に殺された。

この事件は、
婉児が当時、武三思や韋皇后に近い宮廷政治の有力者として認識されていたことを示している。

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宮廷文壇を主導する

宮廷文壇を支配した上官婉児

中宗朝における婉児のもう一つの大きな役割が、文学活動であった。

婉児は中宗に勧めて文学館を充実させ、昭文学士の人数を増やし、
当代の名臣・文人を積極的に宮廷へ招いた。

中宗はたびたび遊宴を催し、臣下に詩を作らせた。
婉児自身もその場で詩を作り、中宗だけでなく韋皇后、長寧公主、安楽公主らの詩まで代作した。
『旧唐書』は、一度に数首を作っても文章は華麗で、当時の人々が競って誦したと記している。

さらに婉児には、群臣の作品を審査する権限が与えられていた。
『新唐書』によれば、群臣が詠んだ詩に順位をつけ、優れた作品には金爵などの賞を与えた。

同書は、中宗朝の文章には華美に流れすぎた傾向があったと批判しながらも、
「所得皆有可観、婉児力也」すなわち見るべき作品が生まれたのは婉児の力であったと評価している。

昆明池で詩を選んだ逸話

婉児が文壇の審査者であったことを象徴する逸話が、後世の『唐詩紀事』などに伝わっている。

景龍三年(709)正月、中宗が昆明池へ行幸し、百官に詩を作らせ、
婉児は彩楼に上がり、提出された詩を審査したという。
落選した作品は楼上から一枚ずつ投げ落とされ、最後まで残ったのが沈佺期と宋之問の二作だった。

やがて沈佺期の作品も落とされた。
婉児は、二人の力量はほぼ互角だが、沈佺期の結句ではすでに「詞気が尽きている」のに対し、
宋之問の詩には最後までなお力強い余勢があると評価したという。
沈佺期もこの判定に服したとされる。

彩楼から詩を投げ落としたという細部まで史実であったかは確認できないが、
婉児が実際に宮廷詩壇で群臣の作品を評価する立場にあったことは『新唐書』にも記されており、
この説話には史実上の背景が存在する。

母が妊娠中に見たという「天下を秤量する大秤」の夢も、この文学的権威と結びつけられた。
かつて「国家の権衡を握る男子が生まれる」と占われた少女は、
文字どおり天下の文士を「秤量」する女性となったのである。

上官婉児自身の詩

婉児は他人の作品を評価するだけでなく、自らも詩人であった。
作品の大半は散逸したが、『全唐詩』などに三十首余りが伝えられている。
代表的なものに「遊長寧公主流杯池」連作がある。

長寧公主の邸宅に設けられた池や山石、楼閣、草木を詠んだ作品で、
宮廷詩らしい華麗な語彙を持ちながら、山水の景観を細かく捉える点に特徴がある。

祖父上官儀の「上官体」に始まる宮廷詩の伝統を受け継ぐ一方、
婉児の時代には沈佺期、宋之問らによって律詩の形式が整えられつつあった。
そのため婉児は、の宮廷文学から盛詩へ移行する時期の重要な存在とも評価されている。

中宗晩年の上官婉児

崔湜との関係

政治の世界では、婉児は吏部侍郎の崔湜とも深い関係を結んだ。
『旧唐書』は婉児が崔湜と「通じ」、彼を引き立てて政事に参与させたと記している。

崔湜は若くして文才を知られた官僚であったが、
政治的には武三思に接近し、その後は婉児との関係を背景に昇進した。

崔湜が商山を越える新道の開削を担当した際、工事が完成しないうちに中宗が死去したが、
婉児は中宗の遺制の中で崔湜の功績を詳しく取り上げ、褒賞を与えたと『旧唐書』は記す。

中宗時代には后妃や公主が宮外に邸宅を持ち、官僚や文士を出入りさせることも珍しくなくなった。
婉児もこうした人脈を通じて宮廷と官僚社会を結び、人事にまで影響力を及ぼしていた。
正史が彼女を批判的に描く理由の一つも、この私的な人間関係と官僚登用の結びつきにあった。

母・鄭氏の死

中宗朝の途中、母の鄭氏が死去した。
『新唐書』によれば、鄭氏には「節義夫人」の諡が贈られた。
婉児は母の喪に際し、自らの身分を下げることを願い、一時婕妤となったとされる。
その後、再び昭容に戻った。

母とともに掖庭へ送られ、幼少期を支えてきた鄭氏の死は、
婉児にとって大きな出来事だったはずだが、史書にはその感情を直接示す記録は残っていない。

韋皇后・安楽公主との決裂

従来、上官婉児は武三思や韋皇后と結びつき、
その権力拡大を助けた女性として理解されることが多かった。
ところが2013年に出土した墓誌は、中宗朝後半の婉児についてまったく異なる姿を伝えている。

問題となったのは、韋皇后とその娘・安楽公主の勢力拡大であった。

安楽公主は中宗からことのほか寵愛され、
皇位継承者である「皇太女」となることを望んだと史書に記される。
墓誌は、韋氏が「国権を侮弄し、皇極を揺動」させ、
安楽公主を皇位継承者にしようとしたと非難している。

そして婉児はこれに強く反対したという。
かつて武三思と結びついていた婉児が、
武三思の死後もそのまま韋皇后陣営にとどまったわけではなかったことになる。

辞官、出家、そして服毒による諫言

墓誌によれば、中宗朝末期の婉児は、韋皇后安楽公主らの動きを強く警戒し、
中宗に対してその企てを摘発し、処罰するよう求めた。
しかし中宗が聞き入れなかったため、婉児は官位を捨てて退くことを願い、
それも許されないと今度は髪を落として出家することを求めたという。

それでも認められなかった婉児は、ついに毒を飲んで死をもって諫めようとした。
墓誌には「請飲鴆而死」とあり、鴆毒を飲んだことが記されている。
婉児は生命の危機に陥ったが、中宗はその才能を惜しんで医師を集めて治療させ、
辛うじて一命を取り留めた。回復までには数か月を要したという。

その後も婉児は昭容の地位にとどまることを望まず、改めて辞退を申し出た。
再三の願いによってようやく認められ、昭容から婕妤へ降格したと墓誌は伝えている。

この一連の出来事は『旧唐書』『新唐書』には見えず、
墓誌の発見によって初めて知られるようになった。
ただし墓誌は故人を顕彰するための文章でもあるため、
婉児を忠節の人物として美化している可能性には注意が必要である。

それでも、中宗朝末期の婉児を一貫して「韋皇后一党」に属した人物とみなす従来の理解に、
再検討を迫る史料であることは間違いない

中宗の死と唐隆の変

中宗の急死と遺詔

景龍四年(710)六月、中宗が突然死去した。
『旧唐書』『新唐書』『資治通鑑』などは、韋皇后安楽公主が中宗を毒殺したと伝える。
しかし毒殺の経緯には後世の政治的叙述が含まれている可能性があり、
現在では中宗が実際に毒殺されたと断定することには慎重さが必要である。

中宗の死後、上官婉児は太平公主と協力して遺詔の作成に関わった。
内容は、温王李重茂を皇太子とし、韋皇后を皇太后として臨朝させる一方、
中宗の弟である相王李旦に政務へ参与させるというものであった。
韋皇后だけに権力を集中させず、李皇族の重鎮である李旦を加える構想だった。

ところが韋氏側の宗楚客・韋温らは李旦が政務に関与することを嫌い、その部分を実質的に排除した。

中宗末年の婉児が太平公主・相王李旦の側へ接近していたことは、この遺詔からもうかがえる。
墓誌に記された韋皇后安楽公主への諫言とも整合する。


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唐隆の変

中宗の死後、李重茂が即位し、韋皇后は皇太后として臨朝した。

韋氏一族やその党派が政府と禁軍の要職を占め、
宮廷には武則天の時代が再現されるのではないかという緊張が高まった。

これに対し、相王李旦の三男で臨淄王であった李隆基は、太平公主と結んでクーデターを準備した。
景龍四年六月、李隆基は禁軍を率いて宮中へ侵入した。
韋皇后は逃走中に殺され、安楽公主、武延秀、韋氏一族やその党派も次々に討たれた。
後に「唐隆の変」と呼ばれる政変である。

灯火を掲げて李隆基を迎える

『資治通鑑』によれば、李隆基が兵を率いて宮中へ入ると、
婉児は宮女たちを率いて灯火を掲げて迎え、中宗の遺詔の草稿を劉幽求に示した。

そこには相王李旦を政務に参与させる条項が記されており、
婉児はこれを示すことで、自分が韋皇后の専権に加担したのではなく、
皇族を支える立場にあったことを訴えようとしたと考えられる。

遺詔を確認した劉幽求は婉児を救おうとし、その内容を根拠に李隆基へ助命を願った。
しかし李隆基はこれを認めず、婉児を旗下で斬らせた。
『資治通鑑』はこの場面を
「幽求、これがために言う。隆基許さず、旗下に斬る」と簡潔に記している。

墓誌もまた、婉児が「銛鋒」、すなわち鋭い刃に遭い、「倉卒の際」に命を失ったと記している。
享年四十七とされ、満年齢では四十六歳前後であった。

なぜ李隆基は婉児を殺したのか

婉児が遺詔によって相王李旦の政務参加を図っていたのであれば、
本来は李隆基と完全な敵対関係にあったとは考えにくい。
実際、劉幽求は婉児を救おうとしている。

それにもかかわらず李隆基は処刑を命じた。
その理由を明確に説明する同時代史料は残っていない。

婉児が武則天時代から長年にわたって宮廷政治の中枢にあり、武三思や崔湜らとも結びつき、
独自の官僚・文人人脈を形成していたことは一つの背景として考えられる。

また、中宗末期には太平公主との結びつきを強めていた。
李隆基と太平公主はこの時点では協力関係にあったものの、のちには激しく権力を争うことになる。
婉児ほど宮廷政治に通じた人物が太平公主側に残れば、
李隆基にとって潜在的な脅威になった可能性も指摘される。

ただし、これは政治状況からの推測であり、李隆基本人がその理由を語った記録はない。

太平公主と上官婉児

婉児の晩年を考えるうえで重要なのが太平公主との関係である。
二人はほぼ同世代で、ともに武則天の宮廷で長く暮らした。
中宗の死後には共同で遺詔の作成に関わっており、政治的にも協調していたことが確認できる。

婉児が処刑された後、太平公主はその死を深く悼んだ。
墓誌によれば、太平公主は絹五百匹を賻贈し、使者を送って弔祭を行った。
五百匹という量は単なる儀礼的な贈与とは言い難く、両者の関係が相当に深かったことを示している。

死後の上官婉児

死後の礼葬と名誉回復

唐隆の変の後、相王李旦が即位し、睿宗となった。

婉児は政変の際に李隆基によって斬られたものの、
韋皇后らと同じ反逆者として処理され続けたわけではなかった。

景雲元年(710)八月二十四日、雍州咸陽県茂道郷洪瀆原に葬られた。
墓誌は、皇帝がその死を悼み、制命を下して礼をもって葬り、官位を贈ったと記す。
墓誌本文は彼女を「故婕妤上官氏」とする一方、墓誌蓋には「大唐故昭容上官氏銘」と刻まれている。

晩年に自ら求めて婕妤へ降格したことと、
死後に昭容として顕彰されたことを反映したものと考えられる。

その後、昭容の位を追復され、「恵文」の諡を贈られたと伝えられ、
「恵文昭容」とも呼ばれるようになった。

『上官昭容集』二十巻

婉児の名誉は文学の面でも回復された。

『旧唐書』によれば、玄宗となった李隆基は婉児の詩文を集めさせ、二十巻の文集を編纂させた。
そして宰相・文人として名高い張説に序文を書かせた。
自ら処刑を命じた女性の文学作品を、後になって皇帝として編纂させたことになる。

この文集は『上官昭容集』などと呼ばれたが、後世に散逸した。
現在知られる婉児の作品は、『全唐詩』など別の文献に残されたものが中心である。

張説も婉児の文学的才能を高く評価しており、政治的には政変で排除された婉児が、
死後には朝を代表する女性文人として再評価されたことが分かる。

上官婉児の墓と墓誌

約1300年後に発見された上官婉児の墓

2013年、陝西省咸陽市渭城区北杜鎮付近で代墓が発見された。

出土した墓誌によって、墓の主が上官婉児であることが判明した。
墓誌は青石製で、高さ約75センチ、幅約73センチ。
本文は楷書で32行、計982字が刻まれていた。

墓誌蓋には篆書で、「大唐故昭容上官氏銘」と記され、
本文の題は、「大唐故婕妤上官氏墓誌銘并序」となっていた。

この墓誌の発見によって、十三歳で才人となったこと、晩年に韋皇后安楽公主と対立したこと、
辞官・出家を願ったこと、毒を飲んで中宗を諫めたこと、婕妤への降格を願ったこと、
太平公主が死後に多額の弔慰を行ったことなど、
正史には記されていなかった多くの事実が明らかになった。

意図的に破壊されていた墓

発掘された墓には、もう一つ大きな謎があった。

墓室や甬道などが古代に大きく破壊されていたのである。
単純な盗掘では説明しにくい破壊状況から、政治的な「毀墓」が行われた可能性が指摘されている。

婉児を厚く弔った太平公主は、
先天二年(713)、李隆基との権力闘争に敗れて自害を命じられた。
そのため、太平公主の失脚に伴って、
彼女と密接な関係にあった婉児の墓も破壊されたのではないかという説がある。

ただし、墓を誰が、いつ、どのような命令によって破壊したのかを直接示す史料は見つかっておらず、
李隆基による公式な毀墓だったと断定することはできない。

また、墓から婉児本人と確認できる人骨は発見されていない。
墓の破壊時に遺骨が失われたのか、別の事情で移されたのかも不明である。

正史と墓誌で異なる上官婉児像

上官婉児を理解するうえで避けられないのが、『旧唐書』『新唐書』と墓誌の人物像の違いである。

正史の婉児は、武則天に才能を認められた優秀な女性である一方、
中宗時代には武三思と私通し、武氏を尊んで李皇族を抑えた人物として描かれる。
崔湜とも関係を持ち、私的な人脈を使って政治に影響を与えたとされる。
李重俊が反乱を起こした際にも、武三思に続く標的として婉児の身柄を要求しており、
中宗朝前半に彼女が武氏勢力の重要人物だったことは否定しにくい。

一方、墓誌では晩年の婉児は韋皇后安楽公主の専横に抵抗する忠臣として描かれる。
中宗への諫言が容れられないと、辞官、出家、服毒まで試みたとされる。
さらに中宗の死後には太平公主とともに遺詔を作り、相王李旦を政務へ参加させようとした。

両者は必ずしも完全に矛盾しているわけではない。
婉児の政治的立場そのものが、中宗朝の前半と後半で変化したと考えればよい。

武則天時代には武則天に仕え、中宗復位後には武三思と結び、
武三思の死後には次第に韋皇后安楽公主と距離を取り、最後には太平公主・相王李旦側へ接近した。

半世紀近く宮廷で生きた政治家を、一生涯を通じて
「武氏派」「韋后派」「李唐派」のいずれか一つに固定すること自体が難しいのである。

また、正史には王朝の正統性を強調する立場があり、墓誌には故人を称揚する目的がある。
どちらか一方だけを絶対視せず、複数の史料を照合する必要がある。

「女宰相」上官婉児の実像

「女宰相」と呼ばれた理由

上官婉児はしばしば「女宰相」と呼ばれる。
ただし、朝の正式な宰相官職に任命された事実はない。
それでもこの呼称が生まれた理由は明確である。

武則天時代には百官の奏議を参決し、中宗時代には皇帝の制命を専ら掌った。
皇帝や皇后、公主の文章を代作し、官僚人事にも影響し、
文学者を選抜し、その作品を評価する権限まで持った。

中国王朝の後宮女性で、
これほど長期間にわたって皇帝の公式文書と政治実務に関与した人物はきわめて少ない。
「女宰相」は正式な官名ではなく、
その実質的な政治的影響力を表した後世の呼称と考えるのが適切である。

後世に広がった上官婉児伝説

婉児の劇的な生涯は、後世に多くの説話を生み出した。

もっとも有名なのが、武則天から受けた黥刑の傷を隠すため額に梅花を描き、
それが宮廷女性の間で流行したという話である。

ほかにも、婉児の恋愛関係を誇張し、
多数の男性と関係を持った妖艶な宮廷女性として描く小説や説話が作られた。

武三思や崔湜との関係には正史上の根拠があるものの、
後世の物語ではそこから大幅に脚色されたものも少なくない。

昆明池の詩会で彩楼から落選作を次々に投げ落としたという逸話も、
史実を核としながら文学的に整えられた可能性がある。

一方で「天下の文士を秤量する女性」という像は、単なる伝説だけではない。
婉児が実際に群臣の詩を審査し、代宮廷文学の方向を左右する立場にあったことは
正史にも明記されている。

人物評・評価

上官婉児の生涯には、単純な忠奸の評価では捉えにくい複雑さがある。

乳児の時に祖父と父を処刑され、罪人の家族として掖庭へ送られながら、
祖父を死に追いやった武則天に才能を見いだされた。
武則天のもとでは詔命を掌り、百官の奏議にまで関与した。

武則天が倒れると中宗に仕え、昭容として後宮の高位に上りながら、引き続き国家文書を扱った。
その過程で武三思と結び、李皇族を抑えたと正史から批判され、
李重俊の反乱では殺害対象にまでなった。

しかし中宗朝後半には政治的位置を変え、
墓誌によれば韋皇后安楽公主の皇位継承計画を阻止しようとし、服毒による諫言にまで及んだ。

中宗が死ぬと太平公主と共同で遺詔を作り、韋皇后の独走を抑える仕組みを設けようとしたが、
最後はその遺詔を手に自らの立場を説明しながら李隆基によって斬られた。

政治家としての婉児は、一つの勢力に終始忠誠を尽くした人物ではない。

武則天、武三思、中宗、太平公主と、
その時々の権力の中心に接近しながら宮廷の中で地位を維持した。
その姿には権力への適応という側面が確かにある。

その一方で、彼女が単に権力者に追従しただけなら、
中宗末年に韋皇后安楽公主へ抵抗したことや、
中宗の死後に相王李旦を政務へ参加させる遺詔を作ったことは説明しにくい。

文学者としての評価はより明確である。

祖父上官儀以来の宮廷文学を継承し、自ら詩を作るだけでなく、
沈佺期・宋之問らを含む文人を評価する側に立った。
中宗朝の宮廷に詩宴と唱和の文化を広め、後世の正史もその功績を認めている。

罪人の家族として掖庭に入った女性が、帝国の詔勅を書き、天下の文士を評価するまでになった。
その異例の経歴こそ、上官婉児が中国史上でも特異な存在となった最大の理由である。

まとめ

上官婉児は664年頃、高宗の宰相上官儀の孫として生まれた。
祖父と父が武則天によって処刑されたため、乳児のまま母とともに掖庭へ送られたが、
卓越した文章力と行政能力を身につけ、十三歳で才人となり、やがて武則天に抜擢された。

武則天時代には詔命を掌り、百官の奏議や政務にも参与した。
中宗復位後には昭容となって引き続き制命を担当し、
武三思や崔湜らと結んで政治に影響を与える一方、
宮廷文壇では詩人たちの作品を審査するほどの権威を持った。

中宗朝前半には武三思側の人物として李重俊から敵視されたが、晩年には政治姿勢を変えた。
墓誌によれば、韋皇后安楽公主の専横を止めるため中宗に繰り返し諫言し、
辞官や出家を願い、最後には毒を飲んで死をもって諫めようとした。

710年に中宗が死ぬと、太平公主とともに遺詔を起草し、
相王李旦を政務に参加させて韋皇后を牽制しようとした。
しかし李隆基が唐隆の変を起こすと、遺詔を示して自らの立場を訴えたにもかかわらず助命されず、
四十七歳で斬られた。

死後はまもなく礼葬され、太平公主から多額の弔慰を受け、昭容として名誉を回復した。
李隆基自身も後にその詩文を集めさせ、二十巻の文集を編纂させている。

そして約1300年後に発見された墓誌によって、
正史だけでは分からなかった晩年の姿が明らかになった。

武則天の腹心、武三思の協力者、中宗の昭容、太平公主の盟友という異なる立場を渡り歩きながら、
半世紀近い激動の宮廷を生きた上官婉児は、単なる「女宰相」でも「韋后の党人」でもない。

政治権力の中心で皇帝の言葉を作り、同時代の文学を選び、評価する権限まで手にした、
代でも例を見ない女性官僚・文人であった。

史書・参考文献

『旧唐書』巻51「后妃上・中宗上官昭容」
『新唐書』巻76「后妃上・上官昭容」
『資治通鑑』巻205~209
『大唐故婕妤上官氏墓誌銘并序』
『唐詩紀事』
『全唐詩』
張説「唐昭容上官氏文集序」

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